#88 FALLING SILENT(敢え無く落ちる)

「少し手札の広げ方が乱雑になってしまいましたね。一旦基本に立ち返り、時系列の出会い順で整理していきましょうか…」


 極めて何でもなさそうな語り口の彩乃アヤノさんを指の間から覗き見る。

 遅ればせながら、そもそも。目の前に座る彼女にしたって、妙と言えば妙ではある。


 どうしてを淡々とこなしているんだ?

 これによって一体何の益が彼女自身にあるというのだろう――それとも何か、他に狙いがあるのだろうか?


 つーか、そもそも彼女がここ迄に語って来たのは明かす必要の無い家族の秘密。

 元来、部外者たる僕に対してオープンにするものでは無い筈なのに、この冷静さは何だ? 温度の低さはどうしてだ?


 父親の醜聞については少し崩れたが、一体全体トータルではかなりクレバーに狂言回しの役割を印象。その理由は――?


「では物理的に初めて姉がアラタさんを視界に収めて認識した時のことからですね」

「ああ…、お願いします」


 彼女の目的が何にせよ僕はその麗しく瑞々しい唇から放たれる真実とやらを聞かなければならないのだろう。

 そこから先は自由に行動しろとのことだし、判断はそれからでも遅くないはずだ。


 失恋により退化していた思考体系が程々に調子を取り戻して行くのを感じながら、氷が溶けて薄まりつつあるオレンジジュースに口を付けた。木偶人形は凍った身体で彼女の言葉を待つ。


「二人の馴れ初めは今から十年と少し前――中学三年生の二学期。舞台は貴方の母校である中学校です」

「異議あり! その頃って彼女は女子校所属のはずだろ? おかしくないか?」


 この期に及んで適当な文言で誤魔化したりはしないだろうが、彼女の話した内容は余りにも荒唐無稽で真実味に欠ける。


 大きく溜息を着いた新山ニイヤマ彩乃はカフェインを摂取して、やがて諭す様な語り口で僕に言う。


「貴方が信じないのは勝手ですが、私は姉から伝え聞いたこと。そして私の目で見た事をそれなりに客観的に語るだけです。それと――」

「それと?」


 いいから黙って聞け。


 恫喝の様な言葉に「はい」と項垂れ小さくなる。

 あーもうあれだな、美人女子大生に罵られるってのも、想像や映像作品よりも存外楽しくないし、案外興奮しないものだな。普通にヘコんでシュンとするわ。


「何処まで話しましたか…ああ、全然話していませんね。兎に角、姉は貴方の通う公立中学校に三ヶ月程いたんです。そしてバンドに…当時はユニットですか。音楽活動に熱中する貴方達を目で追いかけていた。クラスが違っていたし、直接言葉を交わしたことは無いとのことです」


 マジかよ。別のクラスにいた運命を見落として狂った様にギターを弾いていたわけだ。

 どっちがいいかは今となっては闇の中だけど、もしその段階で彼女に出会っていれば――きっと今僕が見ている景色は異なったものになったんだろうな…。


 少しばかりのノスタルジアと今更どうしようもないリグレットに傷む左胸の奥。

 彩乃さんは僕の幻想を端にする繊細な出鼻を予め潰す。


「とすると一つ疑問なのは『どうして新山彩夏アヤカが公立にいるのか?』当然そうなりますよね?」

「ああ…だから、信じがたい」


 日本の学校教育統治機構はそんなポンポン所属の変更を認めているのだろうか? 経験が無いから良く知らないが、転校って結構大変な出来事じゃないのか?


 新山家の次女は右手の指を複雑に動かした後握り潰してから、一本ずつ立てていく。マニキュアがテールライトの残滓みたく網膜に残り、瞬く間に何処かへ消えて行った。


「ここで問題になってくるのは『理由』と『手段』ですよね? 後者は簡単。父が大人の力で捩じ込みました。或いは罪滅ぼしのつもりだったのかも知れませんが」

「…あ、彩乃さん。一つ聞いてもいい?」


 質問を許可しましょう。

 尊大な口調で彼女はそう言った。どんなプレイだよと心中の中学二年生が少し騒ぎ立てた。そんな空気詠み人知らずをイメージの中でぶん殴る。


 僕は単純な質問を口にする。


「君は『捩じ込んだ』って簡単に言うけど、その…御父様は一体何のお仕事を?」


 不倫の話とかの後で大変聞きにくいことではあるのだが、そんな非常識を通せる程の影響を持った人物の娘に懸想している身としては…多少なりとも心構えが欲しいのも人情な訳で…。


 しかし、やはり答え難いのか、彼女は額に指を当て数秒思案。やがて口を開く。


「まあ隠す意味も無いですし、正直に言いますが小説家です。本名は『新山一幸イッコウ』、筆名は『旧川幸恵』フルカワユキエ…ご存知ですか?」


 姉同様少し上向きの唇から飛び出したのは驚きの名前。ご存知ですか? ええ、ええ。勿論ご存知ですよ!


「ワールドクラスのビッグネームじゃないか! え…嘘だろマジで? 本気で旧川幸恵? 一昨年位に世界的な文学賞を取った? えぇ…僕も何作か本持ってるよ!」

「アラタさん、声を落として…」


 昨日の彼女宜しくテーブルに手を付いて興奮する僕の耳元で彼女はそう忠告。余りにもウィスパー。限りなくディザイア。ゾクッとしてブルっとした。


 腰砕けの様に居心地の悪いソファに尻を落とした僕は懲りずに頭を抱える。両手で顔を覆い思案する。


 世界的な文豪の娘に忍び寄るショービズ業界の男。

 セクシャルな女性に言い寄る胡散臭い金髪の男。


 それが僕。


 深い溜息と共に崩落した言葉が氾濫する。


「彩乃さん…君が正しいみたいだ」

「え?」


 困惑する彼女に向けた懺悔のような一言。


「どうやら僕こそが、彼女に言い寄るだったらしい」


 君の見立ては正しいよ。

 僕こそが悪い男だよ、完全に。

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