#79 BRAVE GIRL IN HELL(地獄の聖女)

 悶々とした自己との殴り合いを、辿った時間と供に脱却した僕はとある建物の前に立ち、スマートフォンでとある人物に電話をかける。

 絶望的な時間を過ごしたスリーコール目で相手が応答し、挨拶もそこそこに質問を投げ掛けた。


「ヤバい大変だ。部屋番号が分からない」

『は? はぁ? はぁぁ……あああァ?』


 電波の向こう側で盛大に溜息を付いたのは新山ニイヤマ彩乃アヤノ

 現在僕が立ち竦んでいる建築物が内包したいずれかの部屋にお住まいの想い人、新山彩夏アヤカが血を分けた実の妹だ。


 しかし、それはそれとしてまあ僕としては失望の溜息や見えない軽蔑の眼差しを頂いても電話しなければならかったのだ。退っ引きならない理由があったのだ。


 勇み足で一昨日振りに彼女の住まいに辿り着いた僕は――何やら大層セキュリティ意識の高そうな分厚いガラスの手前に設置されたインターフォンの前に立った。

 後はテンキーを操作して任意の部屋番号を呼び出すだけだったのだが、肝心の彼女の部屋番号を知らないという圧倒的な現実に、この段になって初めて気が付いた。


 リカバリーすべく慌ててポストの方に確認に行ったが、女性向けに配慮されているのかネームプレートを掲示しておらず、冷たい数字が整然と並ぶのみだった。なんとも高い防犯意識が来訪者の男性に牙を剥いた形である。


 早口でそれを年下女性に説明し、助力を惨めに乞う。


『はぁ…本当に締まらない人ですね。姉は二階に住んでいます。二○五号室です』


 二度目の溜息の後に彼女は多少の毒を含んだ言葉で正解を教えてくれた。有能な女性にマジ感謝。


「ありがとう。何だろう、君がいないと僕は駄目かもしれない」

『なかなかにトキメク台詞ですが、口説く相手と場所を間違えていますよ。では…』


 下がったテンションを隠す事も無く冷静に返された。

 なんならディスすら含まれた深い言葉。本当に経験値高いなぁと感心しまくりだわ。


 だが、取り敢えず彼女の部屋が特定出来たので改めて銀色の操作盤の前に向かい、呼び出しにかかる。

 途中ガラスの向こう側から住民であろうスッピンの二十代女子が出てきたので侵入することも考えたが、謝罪に来た身の上である為思い止まる。手段を選んで、正規の手続きで入場しよう。 


 聞いたばかりの部屋番号を入力し数秒。

「はい…」と彼女の声がスピーカーから低音質で響いた。


 それに対抗するわけでもないが、自身のアイデンティティの一つである低い声でそれなりに真剣な色を作ってから言葉を探す。


「あの…夜分遅くにすみません。宮元ミヤモトですけど…」


 今度は十数秒沈黙。やがて低い声で入場の許可が出た。

 頑なに僕を拒んでいた透明な扉が仰々しい音で開門。多分開閉に必要なパーツの油が切れかかってる。


 今から潜る門は果たして夏目なのか芥川なのか…それとも海外組のダンテやピューリッツァーかも知れない。


 緊張のせいか、意味不明で突飛なな妄想が駆け巡った。

 清潔な階段を一歩昇る毎にその分彼女に近付く。その事実が僕を微細に狂わせるのだ。


 それでもやがて僕は彼女に辿り着く。思考と切り離された無情の足は僕を目的地に正確に運んだ。


 青みがかったグレーの金属製のドアーその横に備え付けられた呼び出しボタンをプッシュ。無骨な音が室内でなるのが外からでも分かった。静かな夜だ。


『はい…』

「あの…宮元だけど……」


 数分前に交わしたやり取りを繰り返す。本当に大した防犯意識だ。


『ちょっと待って…』


 それを最後に交信途絶。完全に孤立。

 パタパタとこちらに向かってくる足音。鍵を開ける音。そしてチェーンロックを外したのかもう一度金属音。そして開かれた彼女の私室に繋がる夢の門。

 

「入って…」


 入室の促す新山彩夏は先程僕に訝しみの視線を飛ばしてきた住民Aとは違い――髪型こそ、おさげの様にゴムで括っていたものの、普通に化粧をしていたし。

 その豊かな肢体を隠す装いも如何にもな部屋着っぽい感じでは無く、タイトなブラックジーンズとネイビーの長袖。コートを羽織ればすぐに外出出来そうだ…って、お? 入って? 何処へ…混迷とか迷宮の類かな?


 文脈から察するに彼女の部屋という線が濃厚だが…え? いやマジでか?


 驚愕の事実に思い至った僕は軽く錯乱。新山さんが自身の唇に指を当ててビークワイエット。その可憐さにますます磨きがかかる僕のお花畑。


 しかし、社会通念上の倫理観が勝った。


「いや、そういう訳には! 時間も時間だし、一人暮らし女性のお宅へ上がり込む訳には…」

「でも…共同スペースでする様な話でも無いし…」


 彼女の言う事も尤もだ。それにいつまでも玄関口の廊下に男がいることは彼女の今後の暮らしにも影響するかも知れない。しかしですねぇ…。


「さあ入って…」


 フリーズする僕の手を引き、自室に舞い戻る新山彩夏。状況にも物理的にも引き摺られて流される。相も変わらず主体性の無い姿勢は帆の無いイカダの様な男だ。


「お、おじゃ…お、お、邪魔します……」


 扉が閉まり、彼女の空間一歩足を踏み入れた瞬間、なんとも形容し難い甘い匂いが鼻孔に飛び込んだ。

 それに伴い自分の中のウルフが興奮の雄叫びを上げたのを感じたが、ぶん殴って気絶させた。


 静かになさい。近所迷惑でしょうが!


 分かりやすくパニックになるのは僕の短所だと思い知る。

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