08:あの時の青年

 ……自分の魔法書なら。


 竜は口を大きく開け、こちらに向かってくる。

 シィーラはすぐに片手を向けて叫んだ。


薔薇の茎ローズ・ステーム!」


 すると持っていた魔法書から緑の光が生まれ、大量の茎が伸びる。

 それはすぐさま竜を捉え、縛り付けてしまった。身動きの取れなくなった巨大な生き物は、雄叫びのようなものを上げながら暴れ始める。……すごい力だ。引っ張られているからか、こちらも踏ん張っていないと吹っ飛ばれそうな気がする。シィーラは顔を歪めながら油断しないようにしていた。


 その様子を見た二人の試験官は、ただただ圧倒されている。


「……嘘やろ、魔法使うん初めてやろ。なんで俺達とおんなじくらいに、」

「彼女の場合、本に対する知識はここの司書より優秀です。だから魔法書を使うのは容易いのでしょう。……予想はしていましたが、」


 シィーラの魔法書は「薬草や植物」に関するもの。

 選んだ魔法書の基礎知識は既に身に付けていたため、勢いに任せて魔法を使ってみた。少しでも痛手を受けるように、棘が多い薔薇の茎を選んだのだが、案外上手くいった気がする。


 だが、このままの状態がずっと続くわけじゃない。

 身体の大きさから考えても、少しでも気が緩んだら終わりだ。会話を聞いていると、どうやら二人の守護者ガーディアンは当てにならないらしい。ならば腕の立つ人を呼ぶとか、この状況を察して誰か来ないものか。苛立ちながらそんな事を思っていると、不意に力が抜けた。


(え?)


 否応なしに身体が前に倒れる。


「おいっ!」

「シィーラさん!」


 二人が駆け寄って来た。

 動けない様子を見て、ヨクが手を貸してくれる。


「とにかく逃げるのが先決や。ロンド、お前は皆を誘導しいっ!」

「言われなくても分かっています!」


 ミッドナイトブルーの長い髪を揺らしながら、すぐに司書達に部屋を出るよう指示する。だが彼らの中には指示を待つよりも先に逃げていた者もいた。確かに危険である事は一目瞭然だろう。いつの間にかソレイユも倒れており、ロンドが軽々と肩に担いだ。シィーラもその場から移動しようとするが、まるで石になったかのように身体が重い。苛立ちながら、無意識に言葉を吐き出した。


「私はいいから、先に行ってください」


 するとヨクは目を見開いた。


「なに言っとるんや。あんただけ置いていけるかいっ!」

「早くしないと危険です! 足手まといはいりません!!」

「やけんって、」

蔓の鞭バイン・ウィップ!」


 言い争っている時間さえもったいない。


 どうにか最後の力を振り絞り、シィーラは魔法を使った。すると想いは通じたのか、緑色の蔓がその場にまだ残っていた者達を掴んだ。「なっ、ちょっ、こらぁっ!!」と明らかにヨクは怒りながら叫んだが、シィーラは怯まない。自分のせいで皆が危ない目に遭ってほしくはない。距離が取れた事が確認できると、ほっと息をつく。そしてちらっと自分の方に近づいてきた影を見上げた。


 大きな水晶のような瞳に、長い髭がゆらゆらと揺れている。


 ……さて、どうしようか。この場合、熊が現れた時のように死んだふりでもすればなんとかなるのだろうか。我ながら、こんな時だというのに馬鹿馬鹿しい事が思いつくものだ。自嘲気味に笑ってしまう。


 と、急に後ろから地面を蹴る音が近づいてきた。


 思わず振り返れば、丁度すれ違う。

 目に映ったのは、夜の海を連想させる鮮やかな髪色だった。


 その人物はシィーラの前に立ち、そのまま左手を前に出しながらすぐに肘を曲げた。軽く掴んでいる手は親指を下にしている。何かの合図だろうかと思っていると、一度聞いたあの声が耳に響いた。


聖なる騎士ホーリー・ナイト


 呪文のようなものを口にした直後、彼の左手に光のようなものが集まる。

 それはすぐさま剣の姿に変化した。小ぶりだが長剣だ。


 いきなり現れた青年をどう思ったのか、竜は低い声を上げる。そして再度口を大きく開いたが、動いたのは彼の方が早かった。一瞬のうちに剣を振りおろし、何か切れるような音が部屋中に響く。竜は叫び、その姿は淡い光の粒になった。そしてソレイユの持つ魔法書に吸い込まれるように戻っていく。その蛍にも似た光はあまりにも綺麗で、シィーラを含め、皆が見とれた。


 完全に竜の姿が消えると、青年はゆっくり振り返る。

 真正面の顔を見て、シィーラは声を上げた。


 艶がありさらさらとした髪質に群青色の瞳。

 以前図書館であった青年だ。


 シィーラは思わず立ち上がろうとしたが、自分の身体が動かない事を忘れていた。上半身は動いたが足はもつれ、べちゃ、と蛙が潰れたかのように倒れてしまう。じんじんと痺れる顔に手を当てていると、目の前に手が差し出された。


「いきなりあれだけの魔法を使ったんだ。身体がついていかないのも当然だろう」


 端正でありながら、感情のない表情でこちらを見ている。


 初めて会った時に司書かどうか聞かれたが、まさか彼も司書で守護者ガーディアンだったとは。しかもかなりの実力者だろう。落ち着いて魔法を使う様子はブレがなかった。颯爽としたその姿はまさに「騎士」だ。


 シィーラは黒い革の手袋をしている手を遠慮なく借りた。


「ありがとう、ございます」


 なるほど、魔法を使い過ぎたせいか。確かに初めてで加減も分からず使った。再度やり方を教えてもらわなければならない。手袋越しでもしっかりした手の感触を感じながら、よろよろと立ち上がる。少し休んだら身体も動くようだ。……それにしても、前も思ったが目の前の人物は背が高い。ずっと顔を見るとなると、首が痛くなる。


 青年は視線をシィーラから後ろ側に動かした。


「ロンド、ヨク。これはどういう事だ」


 すると名前を呼ばれた二人は顔を強張らせる。

 ヨクは頭を掻きながら「いやぁ……」と口を開いた。


「まさかこんな事になるなんて予想つくわけが」

「言い訳しか出てこないなら後で聞く」


 ばっさり切り捨てられてしまった。


 するとヨクはがっくりとうな垂れ「すまん」と小声で謝っていた。一方のロンドは、すぐさま頭を下げていた。誠実な彼らしい言葉を述べる。


「甘い考えをしていました。皆を危険な目に遭わせた事、深く反省します。処罰はいくらでも受けるつもりです」

「……この事は後でドッズに報告する。まずは皆を別の部屋に移動させ、試験を再開しろ」


 妥当な指示をしているのを見ながら、この青年は一体誰なのだろうと考える。臨時司書として働いている時に見た事がない。自慢ではないが、シィーラは人の名前と顔を覚えるのが得意だ。しかもこんなに印象が強い司書なら(主に容姿で)、いやでも覚えていそうだが。凝視していると気づいたのか、青年が眉を寄せながらこちらを見てきた。


 シィーラは若干顔を引きつらせながら、失礼のないように視線をずらす。すると様子を見ていたヨクが、いつものへらへらした笑みを浮かべて教えてくれた。


「こいつがさっき言ったギルファイやで。なかなかの美青年やろ?」


 すると最後の単語をどう思ったのか、ギルファイは落ちていた魔法書を拾ってヨクに向かってぶん投げた。「んぎゃっ!」ともろに食らってしまい、痛々しい。ヨクからすれば、ただ褒めただけだろうに。


 移動している女性司書の中には、ギルファイをちらちらと見ている者もいた。無理もない。ロンドとヨクも歩けば皆が振り返るほどの容姿を持つが、それを軽く超えるレベルだろう。……やはりここの司書は美形が多い。


 と、急に後ろからくぐもった声が聞こえてきた。

 見ればようやくソレイユが起きたようだ。ロンドに支えられながら立ち上がる様子を見て、シィーラはすぐに駆け寄る。


「大丈夫?」

「あ……はい。あの、私どうなって」

「とりあえず魔法書は元に戻った」


 口を開こうとしたら、ギルファイに先を越された。

 そのままこちらに近寄り、呆気なくこう告げる。


「ソレイユ・ノイグ。お前は失格だ」


 言葉を聞いた瞬間、彼女は身体を強張らせた。

 これにはシィーラを含め、二人の試験管も息を呑む。


「なっ、ここで結果出さんでもいいやろ!?」

「ギルファイ、それはあまりにも」


 言葉を続けようとしたのだろうが、途中で止まった。

 ギルファイは口は引き結んでいるが、鋭い目つきになっている。まるで氷のごとく冷たく、こちらも無意識のうちに身体が硬直してしまう。


「おそらく竜に会いたいという想いが強くなって、魔力も上がったんだろう。誰の手にも負えないほどに暴走したんだ。失格にしない理由がどこにある?」


 正論、だった。


 彼は間違った事を言っていない。

 …………でも。


 本能のままに足を動かし、ソレイユを隠すように前に立つ。彼女は目を丸くし、ギルファイは少しだけ訝しげな顔をした。


「確かに危険な目には遭ったと思います。でも、彼女の魔法は守護者ガーディアンとして役に立つはずです!」


 シィーラは守護者ガーディアンではない。

 だからそこまで大きな事は言えない。でも、ソレイユの魔法は皆を圧倒させるほどの力があった。試験官でさえ驚いた顔をしたのだ。制御できれば問題ないはず。


 それに、中には地位や権力目当てでここの司書になろうとしている者もいる。司書も立派な職業の一つだ。しかも王立図書館の司書なら、尚更。だがソレイユは、そんな野心など微塵もない。ただ本が好きなだけだ。その気持ちは司書にとっても大切なはず。どうかそれだけは、分かってほしい。


 真っ直ぐ見る瞳をどう思ったのか、ギルファイはゆっくりと口にする。


「試験を行う。後で部屋に来い」

「…………は?」


 思わず変な声が出てしまい、慌てて口を手で押さえる。

 だが目の前の人物はさして気にもせず、そのまま踵を返して部屋を出て行った。

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