波紋

 クワイエットハルディアンの片隅――。捨てられた住戸の一つを神門とゼクスルク、そして桃李の三人は仮宿としていた。触れが出ていたという話は真実らしく、今や風の鳴く聲以外には街に音は無い。これ幸いと神門はドレスを脱ぎ捨てた――桃李は何故か仄かに残念そうな表情を浮かべていたが――のだが、もはや神門を注視する者もない以上、妥当な考えではあった。


 その神門だが、ちょうどルードが久遠を起こしていた頃に、住戸から抜け出し、クワイエットハルディアンの街を出ていた。近場に隠しておいたMBを取りに行っていたのだ。小烏丸は主が隠していたときよりも荒野の砂を浴びていたが、動作には支障ない。そのまま街に戻っても、やはりMBの姿を見咎める者もなく、ゼクスルクと桃李の待つ、廃屋と呼ぶには新しすぎる住居へと戻った。


 まるで彼らのために触れが出されたようにさえ感じるが、勿論そんな都合のいい話などあるわけがない。今日、〝勇者〟と呼ばれる人像柱の一行が、この都市の樋嘴の安寧をかき乱すのだから。


「〝魔石貴族〟……?」

「ええ。私の直下にいた特別な樋嘴のことです。〝眼馬ザルディロス〟と同じ――。彼らの持つ〝ウィータ〟を私同様、彼奴らも狙っています」


 どうやら、その魔石貴族を狙って〝勇者〟御一行は行動しているらしい。この惑星の事情とは無関係を決め込む神門には興味を引かぬ内容だったこともあり、それ以上は何も聞いていない。ただ、〝ウィータ〟という目的が同じならば、ルードを連れているであろう〝勇者〟と出会うにはゼクスルクと共に行動するしかない。


「…………」


 〝勇者〟と〝魔王〟。まるで幻想の物語ファンタジーの登場人物だが、彼らは大真面目で語っている。この世界――惑星イラストリアス4の住民にとって、二つの単語は特別な意味を持っているらしい。灰色の荒涼とした荒野と曇天が広がる、灰色の惑星。遠くに霞む〝世界柱〟が時代の趨勢を睥睨するように聳え立つ、モノクロームな大地は何も語らない。ただ、天空うちゅうからの異邦人エトランジェを呑み込み、時代を胎動させるのみ。


「では参りましょう」


 神門にそう告げると、青年は眼鏡をかけた。この眼鏡、どうやらフレームにセンサー類が仕掛けられおり、レンズにその精査情報が投影される仕組みらしい。


 そして、桃李。ゼクスルクは人像柱である桃李に対して、冷淡な態度を崩そうともしない。必要がなければ話しかけることもなく、存在をほぼ透明なものとして扱っている。神門の命令が無ければ、それは更に徹底されていたか、桃李を始末していたかのどちらかだったのは想像に難くない。それほどまでに畸嵬像きかいぞうの青年が人像柱に抱く感情は深く、暗い。


「…………」


 いや、この場に置いておいた方が適切だという判断なのかもしれぬ。今から赴くのは戦場だ。姿こそ見目麗しいものの、誕生から数日程度の桃李――喩え、それが神門の膂力を遥かに超える存在だったとしても――を守り抜くことに正直確信が持てぬ。だが……。


「…………」


 小烏丸の操縦席に収まった神門を見上げる無垢な瞳は、彼の心を揺さぶる。置き去りにされる恐怖が、桃李の潤んだ瞳に滲んでいるように視えた神門は我知らず嘆息していた。


「近くまで、だ。安全な場所で息を潜めておくんだ」


 結局妥協案を出して、小烏丸の肩に少女を乗せる。青年はそれに思うところがあったとみえるが、口を挟むことはなかった。ただ、軽い溜息を零しただけだ。


 歩を進めると、〝緑の玉座〟が視えてきた。まずは石畳の隙間から草が覗き、次第に足の長い天鵞絨へと変化していく。ふと、眼を移せば堅牢な石造りの建屋があった。住戸の類ではなさそうだが、かなりの衝撃にも耐えられるとみられた。桃李の安全確保という面では最適だろうと考え、小烏丸は彼女を降ろす。


「ここで待っておくんだ」


 そもそも他人と喋るのが苦手な少年が、少女とはいえ女性に声をかける時にぶっきらぼうな物言いとなるのは、彼の朴訥さと気恥ずかしさに由来しているのだが、桃李は別段気分を害している様子はない。彼女が知る異性――と呼んでいいのかは微妙であるが――が彼とゼクスルクのみであることから、男性という存在はそうであると学習しているのやもしれぬ。


「うん」

「……いい子だ」


 素直に頷いた桃李に、自身もMBを降りた少年は頭を撫でる。くすぐったそうに受け入れていた少女は掌が去ると、そのまま建屋へと走り、口を開けたかつては扉があったのであろう昇降口へと入っていった。やけに聞き分けがいいところは僥倖と言えるが、神門はたして己が幼少のみぎりには彼女ほど素直であったか――と思いを馳せたのだが……。


「…………ッ!」


 ぞっとする衝撃は、頭蓋を鐘として内側から叩かれ響いたかの如く轟いた。耳孔が開き、鼓動が頭蓋の鐘の残響となって、だがそれは鏘然しょうぜんたる音色ではなくむしろ生々しい粘質的な――。

 努めて呼吸を意識する。既に荒くなった息は無事が酸素を身体に行き届けているのか不安にかられるが、茫漠と耳朶をがなり立てる不快さを従容と受け入れてしまえば、どうにか高鳴る鼓動と乱れた息も穏やかさを取り戻してくれた。


 己を取り戻してしまえば、神門の声境しょうきょうも正常に戻り、奇妙なざわめきを伴った響きも拭い去られている。無意識に額に手をやると、掌にはいつしか滲んでいたぬめりとした汗がじっとりと濡れていた。


 やはり、だ。過去かつての記憶が曖昧模糊となり、かすみの奥に包み隠されているような感覚……。その彼方の記憶が塗りつぶされ、別の記憶ものへと取って変えられる、存在を否定される幻肢痛――否、幻我痛の感触。身を心を〝裏返らせる〟三人の怪神官の記憶がなければ、そして身を挺して救ってくれた養父の存在がなければ、もう己は――龍神神門という存在は、別個の存在に押し寄せられ力尽きて流され溺れて、違う存在モノへと成っていたのやもしれない。


 盗まれた過去、取り戻せない憧景……記憶喪失と似て非なる、存在を確固とせんがための綱渡りを成立させているのは、復讐の炎だ。消え去られた過去と仇への感情と親友を取り戻す誓いを薪にしてべられた、蒼い焰は彼の胸中で絶えることなく燃え続けている。


 ――そうだ。ルードを救うのは当然だが、俺には〝結社やつら〟の尻尾を掴むなにかを見つけなければいけない。


 砂漠の惑星バラージ。銀河人類が初めて遭遇した未知ちてきせいめい。収斂進化とは思えぬ程に酷似――というよりは同一の遺伝子を持った異性の友に、〝結社〟は関わっていた。他ならぬ〝結社〟の一翼を担う、美鬼メルドリッサ・ウォードランの言葉だ。であるならば、それを紐解いたバラージ人の研究者アラカム・ヒブラ・アットゥーマンの推測がまた正しいものだとすると、惑星イラストリアス4には〝結社〟の足跡が残されていて然るべきだ。特に、塵級機械雲ナノマシン・クラウドに保存されたこの世界には。


「黒き君よ。如何されましたか」

「……なんでもない」


 もし、このゼクスルクの目指す旅が〝結社〟の足跡を辿る巡礼なのだとするならば……神門はこの渦中に飛び込まなければならない。


 頭上を緑樹の冠が覆い、それに伴って草木が背の高い逞しい姿へと変化していく。緑の翳を踏む跫音に反応して、小動物や鳥が足早に去る気配があって然るべきなのだが、街の中心を成す〝緑の玉座〟にはその気配が無い。おそらくは本能で、もうここが平穏を享受できる場所でないと察して、逃げ出した後なのかもしれぬ。


 彼らは知らない。〝勇者シメール〟久遠、ルード、白金。〝魔王グロテスク〟ゼクスルク、神門、桃李。そして〝光却のサウゼンタイル〟をもつ招かれざる悪魔、ジラ。この、魔石貴族〝比翼の魔杖ビルヘイムフル〟が眠る聖櫃に、三者が集結することが如何なる命運を呼び寄せるのか。


 この状況をアリアステラから聞いた美鬼メルドリッサは微笑みを零したという。彼だけは予測しているのだろうか。或いは、これも彼の掌中の出来事なのだろうか。惑星イラストリアス4――〝結社〟が呼ぶところによると〝塔の惑星〟の激動の第二幕が開かれようとしていた。

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