恠神

「どうだ? ここまでで何か思い出したか?」


 頭上から降り注ぐ王座の女の声。そう、ルードは憶えている。しかし……。


「久遠……?」


 ファサードの煌めきを胸に宿したカリアティードは、瞠目したまま立ち尽くすばかり。


「…………」


 それもその筈。久遠の聴神経は途中から仕事を放棄していたのだ。彼女の鼓膜は今、自らの呼吸と鼓動以外の音を拾っていない。規則正しく鐘打つ心臓が、その度に彼女の時間を遡行させえていく。巻き戻されていく時間の中、彼女はいつしか〝眼馬ザルディロス〟に不覚を取った瞬間にまで立ち戻っていた。




 意思の制御を離れた四肢、遠のく意識、心から滲み出ていく諦観……。あからさまな〝死〟の気配が全身を包んでいることだけが、知覚できる総てだった。


 いや……常闇に没しそうな時にルードの声が響いた。そして、伝わった温かみに初めて、それに触れられた己の右手の存在に気づく。


 途端、降り注いだのは今までに無かった感触。堕ちた烙印ファサードが疼き、その感触が全身へと駆け巡り、循環して飽和していく。終わりのない絶頂のような、狂おしい感触が肌膚はだえを滑り、沁み込んで骨身にまで行き渡る。存在を塗り替えられるような、理解不能の感覚。いつしか、闇に包まれていた視界は紫に支配された空間を映し出していた。綺羅びやかな紫の光は、自らの胸元で疼く紋章光ファサードと同じ煌めきだ。


 忌まわしいとされる輝きだというのに、久遠の瞳に神々しく映ったのは何故か。彼女は知らない。世界に覇を叫ぶ獅子吼の如き光は柱となり、神域へと手を伸ばして、曇天と地を結んでいたことを。そう、神域を目指して上昇する光が神々しいのは至極当然の話だ。


「ハッ!」


 そして、彼女の意識は完全に過去へと遡った。




 曇天と灰色の大地をつなげた光の柱は、不意に失せた。暴力的な光圧も、迸る閃光も、増大する存在力も、総てが凪となって――いっそ耳が痛むほどの静寂が横たわっている。龍巻を思わせる暴威の化身は、存在自体が嘘だったように消えたのは如何なる理由か。


 人馬騎士の視線の先にはうろとなったくうのみが知らぬ顔を装い、豪たる存在の欠片すら残っていない。あれほどのエネルギーを保有している個体が消失したというのか――否、喩え消え失せたとしても何らかの痕跡は残る筈である。


 卒然と感覚器官に触れる気配に、人馬騎士/樋嘴/石像機/〝魔の時代〟の覇者/〝眼馬ザルディロス〟は反射的に振り返る。同時に、迸る諸刃剣の青白い輝きは〝眼馬ザルディロス〟の判断力の優秀さを物語っていた。この局面で己に触れるものが己に味方するものではないという事実、振り返り目標を認識した途端に振るった剣の軌道を微調整できる手練、相手が何者であろうと頓着せずに斬り伏せる忘我。それらが、人馬騎士の反射的な一手の総てだ。喩え背後を取ったとしても、それが故に生じた仄かな油断に先んじて閃くこの一太刀を前にしては……同存在である樋嘴でさえも呆気なく両断の憂き目にあうだろう。


 刹那、石像機の色境に〝光の柱〟と同じ紫に輝くヒト型が映った。籠もる燐光により輪郭も曖昧となったへと〝眼馬ザルディロス〟は既に剣を横薙ぎにしている。触れれば斬る――単純にして明快な理に則った諸刃剣の剣身は、しかし空間を裂くのみに収まった。振るわれた剣で空漠となった空間へと大気が押し寄せて、不可視の津波と化す。如何なる術理に依るものか、単純な速度域の差なのか、先んじて敵を制すはずだった諸刃剣の脅威の外――宙空へと舞ったはそのまま虚な空間に留まった。


 浮遊するを覆う〝光の柱〟の残滓がほどけて、箔が剥がれ落ちる。石像機とほぼ同規模のが姿を顕す。ただし、石像機が男性的な外見とすると、はひどく女性的だった。


 紫光が剥がれて火の粉のように散り、顕わとなったは漆黒――艶と深みのある黎い色に包まれていた。鮮麗な線を描く陰翳は、バッスルスタイルのコルセットドレスを想起させる。腕部や脚部、腰部に到るまで細く、全体を見やればあまりに華奢で――逞しい〝眼馬ザルディロス〟と比べくもない。胸部にはファサードの烙印が紫の炎に燃え、揺らめく。紫水晶アメジスト色に灯る頭部から流れる、淡く藤色に輝くマリアベールに似たうすぎぬが二つの眼を朧に隠しながら風に揺れている。華麗なその姿は、深い漆黒とも相俟って古式な高級楽器を思わせた。


 石像機が馬脚で跳ね、宙空に坐す敵に豪剣を叩きつけるも、は翻って躱す。翼あるものであるが如き、堂に入った回避。いや、それだけに留まらぬ。


 連なった轟音と共に〝眼馬ザルディロス〟の巨体が蹌踉めく。石像機が携えた楯には複数もの打痕が標されていた。巨体を揺るがす衝撃の正体はこれに相違あるまい。


 翻って後退したの手には機関短銃が握られている。光弾式の機関短銃は、〝眼馬ザルディロス〟の剣戟を袖にした刹那――後退軌道のさなかを縫って発砲されたのだ。石像機の一手に対しての二手――先程、機先を制する筈だった一太刀を無意味たらしめた高速性。そこから導かれる回答は、眼前のが一手に要する速度域に於いて〝眼馬ザルディロス〟を凌駕している事実である。


 が高度を下げて、接地はせずとも、人馬騎士の標高と変わらぬ座標まで降りてくる。流石に、体勢は崩せても、それだけで〝眼馬ザルディロス〟の巨楯と甲冑は貫けぬと悟ったのか。


 樋嘴――〝魔の時代〟の覇者である矜持か、それとも組み込まれた本能プログラムに従ってのことか、追いつけぬという事実から目を背けるように石像機は剣風を撒き散らしながらを追う。だが、巨剣故に要求される一定の軌道とそこにかかる抵抗が、に触れられない。触れれば断ち切る、高速震動の咒いもくうを斬るのみでは扇と変わらぬ。剣風が喚んだつむじかぜが、が被ったうすぎぬを煽るだけ。


 だが、ここに来て、〝眼馬ザルディロス〟が秘めていた一手が開帳される。単純な、しかしながらそれ故に中たれば致命を与えうる一撃――。規模を鑑みればカリアティード相手には使えぬ、しかし同規模の相手ではこの上ない有効打となり得る剣技。突き――点と点を結ぶ最短距離を奔る、刀身の。そう、人馬騎士の巨剣の斬撃は伏線、虚と実を織り交ぜて必殺の座標へと誘いこんでいたのだ。


 たして、座標の匣にが入り込み――これを狙っていた畸嵬像きかいぞうが見逃すわけもなく、途端に滑り込む蒼白き閃光が匣へと迸る。


 最速最短の剣は――だが、最速最短の一撃は、尖端にのみ攻撃の寄る辺をもたない。見切れば軌道を容易く反らせる程に。そして、反れた角度は致命的に定めた座標を外れ……。


 閉じた傘を思わせる槍に刀身を滑らされた剣は、なにものも存在せぬ虚空を刺し貫いた。高速震動する諸刃剣は刀身自体が殺傷能力を帯びた危険物であるのだが、その槍は――傘の布地に偏向シールド処理が施されていたとみえ、過剰な接触に刹那と稲妻が踊る。


 槍は巨剣の刺突を反らすがために差し出されたとみえ、その石突もまた虚空を指していた。一手と一手が干渉した膠着となれば、次なる一手を制するのは両者の純粋な速度域。であるならば、〝眼馬ザルディロス〟より高次の速度で棲息しているに天秤が傾くは自然の摂理だ。


 若鮎が跳ねるが如き薙ぎの一撃は清々しく、しかし実際は死神の鎌であった。引き戻しを要する諸刃剣、刺突のために引いていた巨楯……いずれも絶望的に


 裂かれた大気があげた聲は、槍を振るったものの規模から見れば慎ましやかに過ぎたが、それは理想的な軌道を描いて、必要最低限にまで不純物を抑えた故の帰結だ。


 そう、当然の帰結と言えた。


 完璧な時機を掴んだ無謬の刺突は、急に動きを止めたそのものの手によって破綻したのだ。束縛された猛獣が暴れるが如き痙攣は、己の意思に従わぬ巨軀を持て余している様子にも視えた。その、痙攣は清流の一撃を術者すらも予想外の軌道を辿る濁流と化し、術者本人すら飲み込んだ。そして、機を見るに敏な機械的反応で〝眼馬ザルディロス〟は必殺の一手を躱し、槍の間合いの外まで距離を取る。


 高速で翻る銀光を放つ尖い穂先も――冷兵器である以上、総ては術者のたなごころだ。すなわち、その術者がしくじれば、当然にして王手となり得る一手も途端に自らを破滅へと追い込む悪手へと転ずる。


 反撃の機会を封じた必中の一手は、しかし、唐突に顕れた存在ヽヽの不調によって無為となったのだ。


 まるで、真新しい機械装置が充分な〝慣らし〟を与えられずに臨界に迫る稼動を要求されたか、或いは仕様性能スペック以上の過負荷を与えられた電算装置が処理落ちしているようでもあり……。


 余計な気位や誇り等に煩わされない〝眼馬ザルディロス〟がそんな絶好の機会を逃すわけもなく、一挙に距離を詰める。人馬騎士は敵対するが十全であるならともかく、現状を鑑みれば、己の最速の一撃に対応する一手が追いつかぬと判断したのだろう。そして、それは正しい。


 呐喊する騎士の構えた巨剣の構え――導かれる一手は刺突。術者から目標までの最短距離を奔る最速の一撃。今度こそ、剣尖はを刺し貫くべく、閃光の如く迸る。その運命は今のには止められぬ……。


 だが、に訪れたのと同様に、未曾有の事態が人馬騎士を襲った。強固であるはずの胸部装甲から生えた右腕……。〝眼馬ザルディロス〟を苗床に伸びた黎い巨腕から迸るのは、巨軀を循環しアニマを行き届かせる義血だ。


『〝眼馬ザルディロス〟……。貴公が冒した罪。その咎は我が血肉となって受けるべし』


 内包していた強烈な存在力が一ツ眼の人馬騎士から、文字通り樋嘴の口のように吐き出され、それを背後の翳が喰らっている。天から降る恵みアニマを受け取りするのが樋嘴ならば、それを飲み込むだけの存在とは如何なるモノなのか。


 樋嘴――石像機であって異なるもの。かつての白い体色を黎い煤に染めた畸嵬像きかいぞう魔王グロテスク――〝穢れた白鵶はくあのゼクスルク〟。


 右腕が引き抜かれ、横薙ぎに――いつしか握りしめていた〝眼馬ザルディロス〟の蒼白き剣身の諸刃剣を振るった。淀みのない無謬の剣技は、巨軀ならではの繊細さの欠けた石像機のそれとは一線を画していた。


 もはや擦過する金属音すら立てずに頸を断たれた〝眼馬ザルディロス〟は、巨大な一ツ眼から光を亡くし、廃墟と成りてた街に仰臥した。樋嘴は再び停止したのだ。一度目は眠りに――そして、今度は完全に。そう、もうこの樋嘴は生命の雨アニマを吐露しない。ただ、自然の成り行きに任せて、この廃墟と共に朽ちるのみ。


 いつしか、〝穢れた白鵶はくあのゼクスルク〟も虹色の飛沫を残して去っていた。

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