章之肆
絡手
「う……ん」
浮上する意識に、自分が無意識の海に沈んでいた事実に気づく。閾値を行き交う自我は、しかしそうと悟らぬ限りは存在しないと同然だ。事実、彼女は実世界へと浮上するまで、今までの自分や最後の記憶を亡くしていたのだから。
「……あれ?」
視界に映ったのは、自分を覗き込む
「え、ええ⁉」
記憶が完全になった途端、久遠は猫科愛玩動物のように飛び退いた。どうやら、気絶していた久遠は寝かされていたらしいが……。
「き、君ねぇ! いくらなんでも寝てるヒトの顔を覗き込むなんて! エッチ!」
「ちょっ……人聞きの悪い。俺はただ単に起きそうだったから……!」
慌てるルードを半眼で睨む久遠。その慌てようからみるに、彼は本当に意識を取り戻しかけた久遠の様子を視ていただけなのだろう。
尤も、彼女自身は気づいていなかったが、丈夫な素材とはいえ戦闘機動に対応していない囚人服は服の機能を半ばほど放棄していた。残った布地だけでは身を包むことは叶わず、彼女の流れる長い脚や繊手を顕わにする。ここが市井ならば劣情を掻き立てられる男の視線の的になっていたことだろう。
「むっ。私、なんか言ってたりしなかった?」
「い、いや。寝言とか歯軋りとかはなかったよ」
「そ、そんなのするわけないでしょ。馬鹿」
そっぽを向く久遠だが、当然あるべき疑問が脳裏で浮き彫りとなる。
「ねえ、私は死んだと思ったんだけど、どうして生きてる? 損傷も無くなってるみたいだし」
そう、最後の記憶によれば、久遠の身体は修復不能なまでに損壊し、その生命も潰える間際にいた。いや、どう考えても致命傷だった筈だ。決定的な〝何か〟が流出し、極寒に震え、自らで悟れるほどに身体からは張力が奪われていた。
周囲を睥睨すると、崩れた石造りの街が伽藍堂の墓標となって佇んでいる。確かに、あの人馬騎士の石像機が暴れ回っていた光景は現実のものだったようだ。枯れた大木の虚ろさで並ぶ崩壊した建物には、虚ろに死に絶えた気配が漂っている。
「覚えてないのか?」
「覚えてないから聞いているんじゃない」
「……それもそっか」
「実は、あの時……」
瞬間、彼女らの周囲に張り詰めた気配。先に気づいたのは久遠。流石に〝白騎士〟と呼ばれただけあり、得も言われぬ戦いの予感には敏感だ。
「……囲まれてるわ」
「まさか、石像機?」
「違う。石像機にしては気配が小さいし数も多い。……〝白騎士〟だ」
感情を隠すためか、彼女らは黒眼鏡や仮面で相貌を覆っている。そこに非人間的な
「……シメール、久遠・マイザー」
最も豪奢な衣裳を、しかし外連にせず着こなしている女性がつぶやく。艶を含んだ長い白髪は、色褪せを表現した白い軍服めいたドレスに不思議とよく映えていた。
あまり詳しくないルードでもわかる、古典的デザインの中に新しきを見出すデザインラインはルペル・カリアが得意としたものだ。華美である装いと質実剛健たる装い、二律相反性が生み出す、いっそ倒錯的とさえ言える瀟洒な衣裳は彼女が特別な立場にあることの証明に思えた。
「〝所長〟」
「〝所長〟はやめなさいと言った筈よ」
顔馴染みなのだろうが、久遠から匂い立つのは親愛と呼ぶにはあまりにも剣呑な気配であり、ルードは余計な口を挟むべきではないと沈黙を貫くことにした。
「りょーかい、〝所長〟。で? これはどういうつもりだ?」
「そうね。喩えば、石像機が覚醒した
しかし、久遠とは裏腹に、白い美女は口調の中で何処か親愛の情を含ませていた。まるで気安い仲間に冗句を言っているような、そんな口振り。
「……ふぅん、そっか。〝所長〟は、何人ものカリアティードが殺されようとも、そしてそれを助けようとした囚人を再び牢に入れるってことか」
氷点下に達しそうな久遠の声色は、先程までの彼女とは明らかに異なっていた。同時に、瞬時に行動に移れるよう肢体を脱力している。場合によれば一戦交える腹か。
「あくまでも私の役目は
久遠の動きに警戒した部下達を手で制しながら、〝所長〟は言葉を連ねる。幾ら久遠が通常のカリアティードより身体能力で勝っていようとも、武器も使い切った彼女相手ならば数の暴力で征圧できる筈なのだが……。
「手荒な真似は好きじゃないの。できれば、穏便に話を進めたいのだけど……」
ここで〝所長〟は
「……卑怯ね」
「手荒なことは好みじゃないの。それ以外に有効な手段があるなら……わかるでしょ?」
要するに、戦闘という形で久遠を征圧すると、少なからず被害を被ると判断した〝所長〟は、ルードを人質とすることで容易に久遠を囚えるつもりなのだ。彼女の性格を知っているからこその搦め手は――或いは、ルードを足枷とするために同じ牢へと入れたのかもしれぬ。
「…………」
久遠が両手を上げる……それを合図に、白い衣裳の女性達がルードと久遠を取り囲み、瞬く間に縛り上げた。
「では、付いてきてくれる?」
「こんな縛り付けて〝付いてきてくれる?〟も、あったものね」
シメールの揶揄の声を聞いているのかいないのか、〝所長〟は涼しい顔を貼り付けていた。
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