白鵶

 アニマ――秋津語に翻訳すると〝魂〟の意。慇懃な口調――正確には〝声〟でないものに口調と呼ぶのは適切ではないが――だが、詰まるところは眼前の黒騎士に魂を捧げろと告げているのだ。


 項垂れた黒騎士。流麗な描線を描く鳥の如き装甲、 左右二本の脚と尾羽と同化した後脚、鋭い猛禽類の趾の如き五指が握った両刃剣。兦軀なきがらは朽ちてはいても、かつての雄々しき姿を現在に伝えている。


 声の正体と目的は判らぬ。しかし、神門はこの黒騎士がかつて――どれほどの過去なのか、それこそ先進文明がまだこの惑星で栄華を誇っていた頃かもしれぬが、戦闘機体として稼動していたことを匂い立つ気配で察した。それは、若年ながらも数々の機動兵器を駆ってきた彼が持つ、一種の共有感または感覺質と呼ばれるものだったのかもしれぬ。


 小烏丸の脚が湖水を跳ね、膝元を越え大腿部にまで水晶の輝きが湛えられた。足元を湛える鏡写しの湖に波紋が生じる。さざめく上下逆さの景色は、閉塞していた世界に吹く新たな風か。飛沫が煌めく虹を生み、静寂な世界が揺籃し、時代が変革していく。


 次第次第に忘我の域へと駆け上り、自我が曖昧になるも視界は竒妙に鮮やかクリアだ。脳と理性は理解せずとも身体と本能が憶えている。既視感デジャヴュじみた感覺は、不可視の運命という絡繰りが無くしていた歯車を取り戻し、囘り始めたような――または、枯れていた池が水面みなもを取り戻したかのような、あるべき姿への復帰の確信。


 MBの胸部ハッチを開き、神門が初めて惑星イラストリアス4の外気を浴びた。肉眼で直接目の当たりにすると、黎い巨騎士の威容がつぶさに感じられる。艶が褪せた黒と思われた体色は、その実、長年に亘る自然環境との鬩ぎ合いで煤け汚れ、または経年劣化で変色したと思われ、外気との接触が乏しい箇所には真珠に似た乳白の光沢が仄僅かに残っていた。


 かつては白い霊鳥に似た鎧を纏っていたであろう、巨軀は今や過ぎ去った時の流れを沈殿させて黒く染まっている。いつか読んだ寓話の咒いを思わせるその姿は、頽廃の色を殊更に強めているにも関わらず、雄壮でもあった。


 胸部、顎部、股部――前面部のおよそ搭乗口があると思われる箇所に眼を巡らせるも、それらしき隙間もボタンも見当たらない。小烏丸を騎士の脚部へと近づけて、神門はそこへ飛び乗った。拉致されたルードを追跡していたはずの自分の今の行動に何の疑問も抱かぬほどに、彼はまさしく入神の域に達していた。もはや、黎い騎士が再び大地に立つことに、そして自分がそれを成すことに躊躇いはなく、そもそも至極当然の――それこそ呼吸をするが如くに自然な行為だ。


 蹲った騎士の脚を伝い、腹部付近に立つと、頭部――兜の造形がよく見える。庇がせり出した兜、その下には鴉が羽撃くが如き形状に張り出した眼が左右に二つ並んでいる。その瞳は魂を所望するだけあって無機質さうつろに満ちていたが、有機的なものには無い冷然たる輝きが確かに曖昧な木漏れ日を貫いていた。

鶏冠部には外套の残滓と同じく、葡萄茶えびちゃの飾り毛が数本、流れた長い時に抗っている。


 黎い装甲を撫でる――これも、殆ど意識と無意識のしきいを揺蕩いつつだったのだが――と、ざらついた質感と共に、手袋が汚れていた。やはり、彼の予想は正しく、長きに渡る積年の変化と汚濁が、騎士かれを黒く変貌させていたようだ。


 突如震えと共に装甲の間に間にを奔る文様に燐光が灯る。明滅しながら流れる螢火は脈動。蠕動は機巧の心臓が鼓動であり、|俄(にわか)に訪れた再生に不意打たれた不随意の痙攣でもある。低く唸る音色は騎士の鎧の内――にくかまたは骨骼から発せられていることを、震える装甲からライダーは感じ取っていた。


 まさに樹冠を被った孤獨の騎士は、己が魄の薪を燃やすための種火を待っていたのだ。神門も知らぬことではあるが、〝魔の時代〟から幾星霜、まさしく数百数千もの周期を軀として過ごしてきたモノは、今、脈動の時を迎え四肢を奔るアニマに再誕の産声を上げている。屍人よ屍人よ、今ぞ震え。黄泉のヌルが斯様に怖ろしかったのか。


 ぎこちなく錆びた音を鳴らせながら、黑騎士が立ち上がろうとする。緑の傘が折れ砕けて散る儚い絶叫を奏でるも、主たる騎士は頓着せずに自らの脚で湖の底を踏み締めていく。肩部へ蔦が降り、即席の外套となって黑い騎士を飾る。


 動き出した騎士に、ライダーは何はともあれ小烏丸へと飛び降り、そこから様子を見守っていた。胸部装甲を展開させたままの状態ではあったが、それでも即座に行動に移せるよう操縦桿を握っていたのは、無意識レベルで彼が機動兵器の扱いを弁えたライダーである何よりの証しといえた。


 緑の髪を持つように兜にも枝葉を引っ掛けながら、遂に騎士は直立した。見立てた通り、一〇メートル程の巨軀。鎧を着込んだ巨像のようでもあり、ヒト型の鴉のようでもある。


 ――黒き君よ。この魄だけが残された畸嵬像きかいぞうにアニマの福音を授けていただき、感謝いたします……。


 鸚鵡返しのみだった〝声〟が変化し、そして残響さえ残さず潰える。否……。


「黒き君よ、私は畸嵬像きかいぞう、〝穢れた白鵶はくあのゼクスルク〟。樋嘴であり、樋嘴でない魔王グロテスクです」


 語調が少々異なるものの、明快に意味の通る言の葉は眼前の巨鎧から発せられたものだ。穏やかな口調は青年の男性のそれを思わせる。


「グロテスク、だと……?」


 おおしく聳える、〝穢れた白鵶はくあのゼクスルク〟を名乗った巨剣士は神門に向かって膝をつく。膝をついたところで、せいぜい三メートル級の小烏丸から身を乗り出した少年よりも、魔王グロテスクの方が標高は上だったが。


 奇しくも、ルードが久遠と出会った同時刻、惑星イラストリアス4の運命を左右する邂逅が同時多発的に発生した――その意味、未だ当人らすら知らぬ、宵闇の向こう。〝塔〟が睥睨する灰の澱の向こうで黎い鴉たちが踊る、灰と黑と闇に彩られた射干玉ぬばたま英雄譚うたげが幕を上げる。

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