闇間
硬い床面を打つ靴音が、さながら王者の凱旋の如くに響く。窓の向こうには真空で浮かぶ星々が冷たく、遥か過去の光を今に届けている。人類の生存を拒む宇宙空間はどこまでも広大であり、それ故に恒星の誕生と死滅というサイクルさえも静謐さで包み込んでいる。そして、恒星はおろか、文明の栄華と必然の滅びについても同じだ。
メルドリッサ・ウォードラン――美しき吸血鬼は宇宙空間を見つめると、不思議と宇宙……そして、世界という存在に思いを馳せざるを得ない。宇宙の涯ては何処にあるのか、そして何があるのか。永遠の疑問は、神域とさえ言えるそこへ辿り着いた者にしか見えぬのだろう。だが、メルドリッサはこうも考えていた。そこに辿り着いた者はそこにあるものを伝えられる術をおそらく持たないのであろう、と。
――何を馬鹿な。
メルドリッサにはそもそも神域など興味はない。すでに久遠の生を享受している彼にとって、わざわざその生を捨て去ってまで深淵を覗き込む好奇心など……たとえあったとしても、彼自身の望みは死と相反するものであるため、律する程度の理性は持ち合わせていた。脳裏によぎった考えを打ち払って、吸血鬼は歩を進める。
グロテスクとさえ言えるほどの、生物的な陰翳を持つ廊下は、燦然と輝く美貌をもつ吸血鬼が歩く場所としてはあまりにそぐわなかった。不均等に配置された柱は、地に根ざした大樹か巨大な手の如き葡萄色の石灰華柱に見えるが、仔細に見やれば、様々な生物の臓腑や骨格などの一部、はては機械部品の類までもが融合し、
足元も、触手や配管が癒着しており、完全な平滑さとは無縁である。山道にも近い凹凸が蔓延る廊下を危なげなく、ランウェイの優雅さで歩くメルドリッサは、なるほど確かに尋常ならざる存在であると言えよう。
そのまま奥まで進めば、人によれば嫌悪感を催す凹凸が貼り付いた壁面が彼を待ち受けていた。構わず歩みを続ければ、壁はナイフの鋭さで切開され、中へとメルドリッサを導いていく。
美鬼が辿り着いたのは、先程までより一層、いっそ神々しいとさえ言える魔の気配が充満した場だった。彼らはそこを胎盤と呼んでいた。周囲は蠕動し、複雑に絡み合った生々しいコードの内側を蛍火が瞬いている。
その微光はを触手の内を走り、周囲を照らしつつ、空間の中央へと集まっていた。そこには発光体を孕んだ石灰華柱が鎮座している。藍色の蛍火に染まった
「メルドリッサか」
胎盤には三人の先客がいた。いや、三柱と呼ぶべきか。メルドリッサが人間ではないという意味では、彼らも人類ではない逸脱者であった。
白いローブに身を包んだ彼らは、相貌を白濁した鬼火に燃やし黒い瞳孔のみを覗かせた小男、碧い宝石の彫刻のような偉丈夫、屍蝋の如き白い肌に緑青色の髪に蛍火を浮かび上がらせた女官だ。
口を開いたのは、宙空に浮かんだ小男――グラウムである。フードを目深にかぶっていようとも白い鬼火は隠しきれず、闇に慣れたメルドリッサの視野の一部を感光せしめ、赤とも青とも言えぬ色を残す。荒い白亜の肌膚は彼の非人間性を顕していた。
「三神官様。此度は麗しゅう……」
「挨拶などいらぬ」
雅やかなメルドリッサの声を切って捨てたのは、武人然とした碧い偉丈夫だ。白い法衣も隆起した肉を誇るように面積が少なく、仁王と呼ばれる者の姿を想起させられる。光を反射する身体は、宝石の輝きを秘めているが、そこに含まれているのは優美ではなく猛々しい武勇の輝き。
「貴公が何故ここにいる?」
「異なことを仰りますな。私がここに馳せ参じたのは、単に我らの大主の召喚に応じただけのこと」
碧き巌の偉丈夫――メルトールと対する吸血鬼はあくまで流麗なままで、迸る武の波動を受け流す柳であった。自らが太陽であるかの如き燦然たる美鬼は、たとえ偉丈夫と事を構える危険な位置取りでさえ、飄々と微笑を浮かべている。あたかも、太陽は地上の嵐に我関せずと輝き続けるようで……。
「おやめなさいな、メルトール。メルドリッサ査察官が理由なくここに来る愚か者とは、貴方も思ってはいないでしょうに」
「リシトル……」
メルトールを制したのは女の声だった。美しい屍蝋の白さを持つ彼女は朱唇を上弦の月に変えて、嫋やかに仁王を声だけで止めたのだ。悩ましい線を描く肢体を包む法衣は、やはり男二人のものとは違って、フード付きのドレスめいていた。肩だけを残して腕全体をすっぽりと隠した袖が、
「メルドリッサ査察官。大主からの召喚ということは……」
「おそらくは、三神官の皆様方にも関係ある話でしょうな」
『左様。三神官、査察官よ、聞け』
空間を満たす、大気の震動のそれとは異なる、異形の聲。途端、神官達は表情を消した。当然である。鼓膜を介せず脳内を直接震わせる威厳に満ちた聲の正体こそが……。
「大主!」
一同は片膝をつく。三神官は即座に、査察官はどこか余裕を持って。何処かしらから響いた聲に対しての敬意の姿勢を感じ取ったのか、〝大主〟はおぞそかな態度はそのままに言葉を紡ぐ。
『まずは、三神官。現状を聞こうか』
「はっ」
逸脱者としての超然たる気配を放っているグラウムでさえも、〝大主〟のそれには叶わぬというのか。色をなくしたグラウムは、明らかに焦燥にかられている。
「まず、
『重篤な……なんだ?』
「はっ。重篤な障害が発生し、休眠状態となりました。そして、黒燿君――
『ほう。問題はない、と? メルドリッサ査察官、卿の意見は?』
神官とは打って変わり、跪いて然るべき〝大主〟に対してさえ、あくまで先ほどと変わらぬ態度であり、そこに彼の超然たる気配があった。
「……ええ。確かに、神化自体は始まってはいます。しかし、氷月教授の邪魔立てにより、その歩みは牛歩の如くといったところです。どちらにせよ、紫天君が覚醒めぬ限りは相克の儀は執り行うことができません。もっとも……」
今や彼の一挙手一投足によって、神官の身の上が変わると断言してもよい状況。それをよく弁えてか、頭を垂れる神官をメルドリッサは横目でそれとなく見やった。
「それでも、遅々としているとはいえ神化が進んでいるのは、三神官の方々の卓越した手練によるものとは考えます。何より、玄天君の神化のみが進めば、紫天君は資格なしで相克の儀に臨まなくてはいけません。いわば、適切な調整と言えましょう。そもそも、此度の神儀、失敗が許されかったとはいえ、あくまで不幸な事故です。〝神の肉叢〟が機械人形へと移るなど、誰の想像の範疇にもありません。……または、それが運命の選んだ結果なのかもしれませんが」
『ふむ。神化を促す方法はあるか?』
自らの失策の言及が終わり、肩をなでおろす神官の気配を感じつつ、メルドリッサはすでに己の内で用意していた回答を声に乗せる。
「機械人形に宿る〝神の肉叢〟を適切な時期に神門卿に接触させられれば、神化の速度をこちらで制御することは可能でしょう。それに、卿自身も我ら結社を追跡しているはず。胎盤に招きつつ、相克の儀の座へと自ら昇っていただくのが、もっとも効率的かと……」
『そうなると、紫天君の覚醒は急務となるな』
「ええ。しばらくは三神官の皆様方には、紫天君のご快復のためにご尽力いただく方が良いでしょう」
『三神官よ。玄天君の神化については、暫しの間メルドリッサ査察官に一任する。卿らは紫天君の快復に専念せよ』
空間を満たす神々しくも禍々しい気配が去った。メルドリッサは用は済んだとばかりに立ち上がった。〝大主〟の聲が響いていた時とまるで変わらぬ、何も気負わぬ出で立ちは吸血鬼以前に彼が、何かを超越している証左であろうか。
「メルドリッサ……礼は言わぬぞ」
メルトールが悔しさを滲ませた唸り声と暴力の気配を放つも、美鬼は何処吹く風といった様子だ。片膝をついたままの碧き偉丈夫を俯瞰しながら、メルドリッサは微笑んだ。
「私は思ったことを言ったまでですよ。さて、私も忙しくなりそうですので、これで失礼させていただきますよ」
言うや否や、吸血鬼は踵を返して颯爽と去る。往きと同様の涼やかな靴音だけを残滓にして、胎盤には三つの白い影法師だけが浮かび上がっていた。
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