孤星

 思わぬ邂逅かいこうにオリヴェイラは惚けて思考停止に陥った。同じことを繰り返して訊いているのが良い証拠だ。


「本当にアリアステラなのか?」

「ええ。何度もお尋ねになって……。おかしな王子殿下ですこと」


 慎ましやかに笑うアリアステラは、確かに過日の記憶にある彼女の名残りが色濃く見えた。


 眼の前の少女は整った面貌をしており、かつてのいとけなさを残しつつも育ちつつある妖艶さが同居する、女性の短い花咲く頃そのままを留めていた。華奢な肢体に纏った黒と紅を基調としたドレスはきめ細やかな透かし細工の襞寄せレースフリルが施されており、華美が過ぎるように見せて、落ち着いた容貌の彼女には不思議と似合っていた。


 むき出しになった形のよい肩、折れてしまいかねないと感じるほどにくびれた腰、そしてスリットの入ったスカートから覗く繊繊せんせんたる足のなまめかしさに、オリヴェイラは自分の顔の温度が上がったことを自覚した。ハーフアップにした長い栗色の髪も風に麗しく流れ、月明かりを孕んで涼やかな水のようにきらめいている。


 アリアステラ――。幼き頃、自分の父に手を引かれてここに来た彼女のことを、昨日のことのように憶えている。


 先王と、重工業を営んでいた彼女の父は公務上で関係があった。度々訪れる外惑星からやって来た少女とオリヴェイラは、父たちが会談を行っている間、この空中庭園を舞台に様々な冒険を繰り広げていたのだ。もっとも、先導するのはいつもオリヴェイラであり、アリアステラは後ろからゆっくりと付いて来ていたのだが――。アリアステラが来訪する時に限って言えば、サダルもカウスも呼ばずに二人きりで遊んでいた。


 今思えば、それは幼い独占心だったのだろう。無権能者であるオリヴェイラにとって、同じく権能の無いアリアステラは初めて出来た同類だった。いや、それだけではない、と今の彼は反駁する。あれには小さな恋心があった。確かに胸の内に、本人すら気付かなかった初恋が宿痾となって巣食っていた。


 得心した。先王が崩御したのを契機に、オリヴェイラの身辺は激変した。同時にそれは初恋の頃の終わりを告げていた。アリアステラ親子が王宮に姿を現す回数は眼に見えて減って、やがて完全に途絶えてしまった。それから暫く経って、オリヴェイラはようやく思い当たったのだ。胸の奥から締め付ける甘やかな初恋の痛みに。その痛みから逃れるように、いつしか彼女と過ごした空中庭園という楽園から足を遠のけていったのだ。


 宿痾が今、再び眼を覚ました。むしろ、それはかつてのそれより痛みを伴ってオリヴェイラを苛む。艶めいた白い肌膚きふ、小さな口唇、細い鼻筋はそのままに美しく成長した彼女の相貌は、その首を傾げた様まであの頃を思い出させる。


 ただ――と、彼は違和感を覚えた。はたして、記憶の彼女の瞳は赤かっただろうか……。


 どこか釈然としない想いが脳裏を駆け巡っていく中、四阿に更なる来客が現れた。


「っ……滝峰たきみね?」


 あまりの動揺に神門、と舌にまで出かかった名をすんでの所で呑み込んで、彼のバラージ王国での名前――御笠滝峰みかさたきみねの名を口にした。四阿に現れたのは神門だった。そういえば、外に出た時からサダルメリクの姿が見えなかった。何か用でもあって神門と交代したのだろうか――。


「滝峰? どうした?」


 それほど口数が多い人物ではないにしろ、無言のまま瞠目しながらアリアステラを見つめる姿はどうにも訝しく映った。対するアリアステラは――少しは驚いているようにも見えるが、どこか予想もしていたといった印象も受ける。


「君はッ。何故、ここにいる?」


 神門の声はそれほど大きい声量でもなかったが、四阿に反響してか、思いの外強く耳朶を叩いた。それは、普段感情の起伏の乏しい男が初めて見せた当惑故だろうか。


「言葉を交わすのは初めてですね。お久しぶりです、ミカドさん」


 目の錯覚が生み出した幻か、上品な笑みを浮かべるアリアステラの緋色の瞳が一層色を深めたように見えた。


「『結社エタニティ』が関わっているのか?」


 当惑と詰問が綯い交ぜになった神門の声は、返答を期待してのものだったのだろうか。はたして、アリアステラが口を開き、声を舌に乗せようとしたまさにその瞬間――。


「ここにいたのか」


 他方からの粗野な声が遮った。声の主は確認するまでもない。


 キルシュタイン、現在バラージ王を務める男だ。一昨昨日みっかまえと変わらぬ出で立ちで現れた現王は、四阿の中を舐め回すように瞳を走らせた。


「ぁあ? オリヴェイラ……と、飼い犬か?」


 王にあるまじき……とはいえ、そのあまりもの傲岸不遜さは暴君というカテゴリーにおいては王たるに相応しいのかもしれぬ。


「犬、お前は出てろ。邪魔だ」


 王とはいえ、甥の護衛に対してなんたる口ぶりであろうか。あくまで見下した態度を変える気も隠す気もないらしく、キルシュタインはにやにやと下卑た笑いを貼り付けている。最高権力者たる己に逆らう者などいない。護衛たる神門を控えさせたという事実を今見せつければ、オリヴェイラはどうなるのか――その様が見たいといった表情だ。


 はたして、神門は動かない。ただ、何も耳に入ってはいないとばかりに、涼しい顔で瞑目しているだけだ。オリヴェイラにとっては救われた態度だが、当然それがキルシュタインに面白く映るわけがない。


「……てめぇ」


 怒気を孕み始めたキルシュタインの声に反応して、神門の片瞼が開いて瞳が気配の方向へ向く。大気圧が深海の重みをもち始め、周囲のかそけき音が遠くなっていく。いよいよもって、オリヴェイラがなんとか間に入ろうとした瞬間――。


「――フフ」


 場違いに響いた上品な笑い声は、口を手に当てたアリアステラのものだった。


「いやですわ、陛下。そんな本気になって。御心をお鎮めくださいませ。彼は外の人ですわ。陛下のご威光の程をまだ理解できなくても無理からぬ事です。ここは、王者の寛大さでお赦しになられては如何でしょうか?」

「……フン」


 アリアステラの言葉にほだされてか、信じがたいことにキルシュタインが矛を収めた。瞠目する暇もあらばこそ、今こそ好機とオリヴェイラは神門へ命を下した。


「滝峰、悪いが外に出ていてくれ」


 キルシュタインの言葉を否んでいた神門も、オリヴェイラの命令とあれば素直に従い、四阿の外へと立ち去る。我知らず嘆息したオリヴェイラだったが、やはり不満が残っていたようでキルシュタインが耳に入れよとばかりに舌を打った。


「アリアステラか――だったか? こっちに来い。俺の手を煩わせるな」

「ええ。申し訳ございません、陛下」


 顎で命令するキルシュタインの暴圧的な態度もどこ吹く風か、アリアステラは微笑すら湛えて従った。かつてのアリアステラにこのような豪胆さがあったろうか。オリヴェイラが知っている彼女は三歩引いた奥ゆかしさに相応しい、おとなしい気弱な質だった。このような威圧に対しては泣き出してしまうほどの――。


「無能が一丁前におれモンに手を出そうなど、なかなか新鮮な真似してくれるじゃねーか? な、オリヴェイラ?」


 その言葉に今度こそオリヴェイラは瞠目した。はたしてキルシュタインが告げた言葉は、幼なじみの少女が彼の婚約者であるという証左に他ならなかったからだ。


「いえ。そのようなことは決して――」


 一瞬にて希薄となった意識は、最低限の努めだけはなんとか果たそうと、言の葉を紡ぐ。


 自身の所有物に対してぞんざいな扱いをするくせに、他人の手が触れれば激昂する。そのような癇癪を起こす性質を現王はもっていた。


 ――まずい。


 先ほど、神門に対して引いたこと自体が奇跡に等しかったのだ。このままでは、オリヴェイラはおろか、神門や何よりアリアステラに塁が及ぶ。たとえ、アリアステラがキルシュタインのきさきとなる女性であっても、だ。


「フン、どうだかな」


 珍しく寛大なキルシュタインの態度に、何か裏があるのでは――とオリヴェイラが訝しがったのもうなずけようというものだ。思えば、今日のキルシュタインはどことなく機嫌が良さそうにも見える。


 浮かれている、と言ってもいい。無論、かなりの機嫌屋であるこの男にあっては、突如として青天の霹靂へきれきもかくやと憤怒にかられる事例も多々あるため、決して油断はできぬのだが……。


 更に、この傲慢な王が他人アリアステラの名を呼んだ事にも違和感があった。今代の惑星バラージの実質的最高権力にしたる男は、己が他人の名を憶えるのではなく、卑賤の者が己の名を憶えておればよいと考えている。


 そんな彼が、少なくとも一昨昨日みっかまえには顔すらも頭に入れぬほどに興味が無かった少女の名を呼んでいる。アリアステラの美しさに当てられたか? いや、それにしても――。


 なんにせよオリヴェイラから見れば、これは……異様な光景だった。


「顔合わせは済んだようだが、コレが俺の婚約者だ」そう告げると話は済んだとばかりに後ろを向く。「行くぞ、アリアステラ。詳しい話を聞かせろ」


 傲岸不遜さを隠そうとしない背中のまま、返事を待たずして歩き出した。


「では、オリヴェイラ殿下。これで失礼致します。御機嫌よう……」


 キルシュタインとは正反対の楚々とした所作で頭を下げると、アリアステラは王を追いかけるように四阿から立ち去っていった。




 静寂の中、一人取り残された四阿の薄闇はいつしか心地よいものから重苦しいものへと深度を増していたようだ。そういえば、この四阿には様々な伝説があったが、その中には裏切りや悲恋の伝説もあったな、とオリヴェイラは思い出していた。


 四阿を出ると、柱の一つに寄りかかって神門が待っていた。物思いに耽ったような相貌の視線の先は、円を描いた月へと注がれている。


「なあ、滝峰……。お前、彼女を知っていたのか?」


 オリヴェイラの問いは一言に集約されていたが、そこに幾重もの問いが連なり重なっている事に神門は気づいていたのだろうか。


「……」


 はたして、神門は答えない。ただ、堅く貝のように口を閉ざすのみだ。だが、それに構わずにオリヴェイラの口は問いを吐き出す。


「お前はなんで彼女を見た時、動揺した?」

「…………」


 沈黙。言う気は無い、と無言で告げる神門は、平時の無口さとはまた違ったものを感じた。


「何故……」

「おーい、悪かったな、滝峰!」


 オリヴェイラの発問を遮った声の主は、すぐに姿を現した。駆け寄ってきた彼は、自分の肩と神門の肩を強引に組ませた。


「……ああ」


 返事とともに神門は肩を回して、寄りかかってきた人物を払いのけるが、当人は全く気にした様子はなくカラカラと笑った。


「ちぃーっとばかり長引いてしまったわ。すまんかったな」

「サダル……」

「ん?」


 ある意味では、本人が意図したものではないにせよ、彼の声は幸いだったのかもしれない。このままでは、言えぬ、言う気もない神門に、オリヴェイラは詰問を更に重ねていただろう。


「はあはあはあ……どしたの?」


 息を切らせて後ろから追い付いてきたカウスが、オリヴェイラと神門の間の雰囲気に気づく。


「いや、なんでもない」


 結局、オリヴェイラが折れた。サダルの声で冷静になってみれば、神門が応える気が無いのならば無理に聞き出す必要もない。応えられない理由があるのかもしれない。彼にだって言えぬ何かは心のうちにあるだろう。


「戻ろう」


 オリヴェイラはサダルとカウスの間に入って、両者と肩を組んで室内の方へと歩き始めた。それを数歩下がって神門が追いかける。少し進んで、先ほどキルシュタインに引かずに屹然と自分に従ってくれた友に対する礼を失念していたことに気づき、振り返って礼を言う。


「ありがとう。救われたよ」

「なんの事だ? わからないな」


 後ろを付いてきていた神門は表情を変えないままだった。

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