夜宴

 雲のない砂漠の夜空。闇夜の海面を思わせる射干玉ぬばたまにぽっかりと満月が浮かんでいる。表面に巨大なクレーターが穿たれた月は、まるで地上を睥睨する瞳のようだ。


 キルシュタイン王の婚約。顔すら知らぬと言いのけた彼の思惑は別として、着飾った貴族や政治家の面々はめでたい話題に王国の明るい未来を夢想している。


 王宮の最上階に設けられた空中庭園と夜空を遮るものは、庭園の過半を覆う硝子ガラス以外には何もない。都市の光の喧騒はここにはなく、惑星バラージの摩天楼は彼らの視点の下で栄華を誇っている。王宮を超える高度の楼閣が存在しない以上、月明かりを最初に拝戴する栄誉を与えられた空中庭園の人々が、それを舞台装置の一つとしてきらびやかなダンスフロアで舞い踊るのを、オリヴェイラは見つめていた。


 彼はストライプの入った黒いスーツを着たフォーマルな装いだったが、本来は頭に巻いていて然るべきであるズリーバンを腰から下げていた。バラージにおいては、宴の際は王家との垣根をなるべく低くしようと、王家の証とも言えるズリーバンは腰から下げるのが正装なのだ。


 如何なる趣向か、主賓である王の婚約者は未だに発表されていない。それはオリヴェイラにしても同様だ。様々な人々からの質問に充分な答えを持ち合わせていない彼は、愛想笑いで茶を濁しつつダンスフロアを回遊していた。


 彼のキングダムガードたる三人も、この空中庭園のどこかにいる。いや、一人に関して言えばどこかなどと曖昧な表現などしなくとも、つかず離れずでそれとなくこちらを眺めている。金属製アタッシュケースに似た鞘に納めた剣を片手に下げたサダルだ。彼が夜宴に無粋な刀剣を持ち込んでて咎められていないのは、護衛として割り振られている者には武器の携帯が許されているからだ。


 歓談を離れて、空中庭園の硝子ガラスの覆いを出れば、同じ庭園の一部とは思えぬほどに人々の声が遠くなる。硝子ガラスは箱庭の昼と真なる夜を分かつ境界線であり、綺羅綺羅しい中の様子とは打って変わった静謐な暗闇に瞳孔が暫し混乱を起こす。


 日中夜間を問わず、直接外気にさらされる展望は客人には人気はないものの、体の良い人気払いの効果もあって、オリヴェイラはそれなりに気に入っていた。ところどころには外灯が設置され、夜気の静寂しじまを消し去らぬ程度に庭園を照らし、整然と植え付けられた木々はサダルやカウスと、そして淡い痛みを伴う思い出と、ここを走り抜けた過日の児戯を否が応でも思い出させる。


 一段高い丘に真っ白な石造りの四阿ガゼボが見えてきた。


 この四阿ガゼボは元々、旧王宮の庭園にあったものを移設させたものだと聞く。建国の英雄が愛したとされる古い建築様式で建てられた四阿ガゼボは、その真偽はともかくとして、或いは自室よりも心落ち着く領域であった。丘を登っていくと、庭園の淵から次第に眼にも綾な都会の喧騒やけいが姿を現していく。


 瞬き、瞳孔にゆっくりと突き刺さる王都の夜。夜空と庭園がそれぞれ違う暗さを演出し、それを飾り付ける摩天楼の輝きが、やけに心地よい。


 中に入ると、四阿ガゼボと一体化したベンチに腰を下ろす。夜気にさらされた石造りのベンチは、客人の様子から知らず知らずに浮かされた体温をひんやりと心地よく落ち着かせてくれた。ここに来るまでに人の姿も気配も無かったことを確認して一息をつくと、弛緩リラックスした状態で瞳を閉じる。


 思えば、ここに来たのも久しぶりだ。以前は公務がなければ三日と空けずに訪れていたはずなのに……。


 その理由に思い当たる前に、耳朶をゆるく叩いた跫音あしおとが彼の警戒心を喚起させた。


 見られたか――? 今の彼は、四阿のベンチに四肢を放り出して座っている状態だった。別に見られた事自体は仕方ないとしても、これがキルシュタイン王の耳に入れば叱責と無理難題を受ける恰好の口実となる。


 四阿は月明かりを遮る屋根があるだけあって、外よりも仄暗い。やって来た者の陰が一際強調されて、その正体を認識できる程に眼孔の感光率が上がるまで幾許か時間を要する。月光と摩天楼の二重奏をかざした輪郭は、おそらく年齢としの近い女性のものだ。補正されていく視界が、細く柔い輪郭を次第に判然とさせていく。


「アリアステ……ラ?」


 はたして、像を結んだ視界が見出した姿に、オリヴェイラは先ほどの空中庭園への足が遠のいていた理由に思い至った。


「はい……。ご無沙汰しておりました、オリヴェイラ王子殿下」




「なあ、ちょっといいか?」


 サダルメリクの声に神門は伏せていた瞼をゆっくりと開いた。


「頼みがあるんだ」


 今日のサダルメリクは結んだコーンロウにスーツを着た、彼なりにフォーマルな服装であったが、どちらかと言えば体格もあってか酒場の用心棒バウンサーにも見える。胸に揺れているキングダムガードの紋章が特にそれに拍車をかけている。バラージでは、ある程度の社会的地位をもつ者はその証を常に示さねばならないらしく、そこに違和感を感じるのは自分が外様とざまの人間である証左だろうか。


「……」


 瞳で続きを促すと、彼は頼み事をする時特有の困ったような笑みを浮かべ、後ろに控えた三人ほどの男を眼で指し示した。


「さっきまでオリヴィーの様子を見ていたんだが、少し外さないといけなくなってな」


 なるほど。確かに、この国で生まれ育ち、キングダムガード就任最年少記録保持者の彼であれば、どうしても断りきれないしがらみが付いて回ることは致し方ないところであろう。


 本来なら三人交代で行うところの護衛を一人で請け負ったサダルメリクとしては、少しの間とはいえ、交代を断った相手にすがるのは心苦しいところがあるようだ。


「悪いが――」

「――分かった。戻ってくるまで見ていればいいんだな?」

「……すまん」


 すぐに心得た神門はみなまで言わさず、了解した。元々、興味のない夜宴に辟易していた神門は、幾度か交代の申し出を出していたのだが、サダルメリクは頑として許さずに断っていたのだ。責任感の強さは感心するが、さりとて時間を持て余して壁の花を決め込んでいた神門にとっては、むしろ幸いだった。


 見れば、ちょうどオリヴェイラが空中庭園の外側を歩いている様子が、硝子ガラス越しに見つかった。場の雰囲気から鑑みるに、急いで後をつけるのは無粋の極みと誹られるだろうかと、あえてゆっくりと彼の後に続く。


 元々、神門のいた位置から離れていたこともあったのでなかなか追いつけないが、外側に出さえすれば人は少ない。そのまま、歩を早めても問題あるまい。そう思って、出入口へと近づいたところ、ちょうど人だかりが塊で移動してきた。


 ――チッ。


 内心で舌を打ちながら、群れなす人々の間に間をすり抜けていく。下手に接触でもすると問題になりかねないかと慎重に躱していくと、予想以上に歩は遅々として進まない。とはいえ、掻き分けることもできず、神門は若干の苛立ちに心を乱されそうになっていた。


 這々の体で出入口に到達すると、外からの夜気が火照った身体の熱を奪っていく。外へ出ると、先ほどのきらびやかさと正反対の静穏さが出迎えてくれた。急激な明度の低下に、一瞬視界が黒い霧に包まれたように曖昧になった。


 眼識げんしきが色境を取り戻すとともに、外灯が照らす庭園を歩く。辺りを見回しても人気はそれほどない。砂漠の夜は寒い。耐え切れぬほどではないが、さりとてわざわざ空調の効いた室内から出ようとも考えないのだろう。


 オリヴェイラの姿は見当たらない。


 ここよりも高い建築物が無い以上、他からの狙撃の心配はないものの――バラージで狙撃による暗殺を行う者がいるとは思えぬが――内部に潜入されれば一巻の終わりだ。持ち物検査は行われているが、そもそも権能者が犇めくバラージでそれがどこまで効果を及ぼすのか、外様とざまの神門には疑問が残る。それに加えて、オリヴェイラは無権能者なのだ。


 奔るのは下策だ。有事の際、対応できぬほど身体機能をすり減らしてしまう。あくまで駆け出さぬよう、神門は歩を速めていく。歩を進めていくと、小高い丘の上の四阿が見えてきた。神門は、オリヴェイラと直に顔を合わせたのは四阿だったな、と思い出し、半ば直感的に四阿に向かった。




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