無命

 ――荒獣の血――塵級機械チャータム――権能――


 メルドリッサの声が一秒を刻み分けた脳裏で再生されていく。


 撒き散らされた暴竜の――荒獣の碧い血には塵級機械チャータムが含有されている。碧い血の色は塵級機械チャータムの色――。キルシュタインの権能――『王権・勅命』は塵級機械チャータムを使用する事で発現する――。即ち、そこから導き出される答えは――。


「ぐっ……」


 全身を激痛が支配している。身体の状態を鑑みるのは勇気がいりそうだ。それは後で心を決めてからにすることにしよう。カメラアイも破壊されているようで、網膜投影されたモニターは黒く染まったままだ。用を成さなくなったヘルメットを脱ぎ捨てた。額から血が出ているようで、手に赤いものが付着した。完全に残骸となったMBから這い出る。全身を串刺しにされたオーデルクローネは地に伏せる事も許されず、磔刑に処された罪人か標本にされた蝶の痛ましさで体躯を宙に浮かべていた。周囲は塵埃にまみれて判然としない。砂色のもやが世界を支配している。そこからぼんやりと何かの陰影が浮かび上がっている。


 思考が細切れになっている事実に、自分の現状が楽観視できるものではないと判断する。まだ、キルシュタインは健在なはずだ。腰の秋津刀を抜き払う。秋津刀はこの曖昧な世界観を一と〇に隔てる冷艶れいえんな光で斬り裂く。


 迂闊だった。よくよく考えれば、キルシュタインの権能が失われたと判断できる材料が無かったというのに、権能の存在を失念していた。最後の最後まで鬼札ジョーカーの存在を留意しておくなど、戦術の基本だというのに。


 キルシュタインの『王権・勅命』は塵級機械チャータムから銛矢を形成しているのだろう。大気中のそれだけでは賄いきれぬ塵級機械チャータム碧い宝石チャータムから補填していた――。ならば、塵級機械チャータムの含まれた血液など恰好の道具だろう。何にせよ、『王権・勅命』が大味な権能で助かったといえる。精密な権能であったのなら、完全に生命はなかっただろう。


 足を引きずるようにぎこちなく歩を進める。姿は見えずとも、神門はキルシュタインの存在力を肌で感じていた。色境に映らずとも、声境しょうきょうに聴こえずとも、香境こうきょうに聞けずとも、味境みきょうに届かずとも、触境しょくきょうに伝わらずとも、法境ほうきょうに触れている限りはそこにるのだから。意根が感じるままに、曖昧な砂色の世界を歩く。激痛に意識がかすれた上、息切れに喘ぐ声が聴覚に響き渡り、あやふやな輪郭のぼやけた世界の在り方は、ゆっくりと神門の自意識を奪っていた。


 やがて、天井に頭がつかえそうなほどの身長を誇るキルシュタインの陰が姿を顕した。視覚だけを頼りにしていたならば、その巨大さ故に接近していても却って気が付かなかっただろう。さながら、蟻が象を見上げても全身を認識できぬように。それは靄の向こうから急に姿を見せる嶮峻けんしゅんに似ていた。彼我の距離的にはかなり近くにいたのだが、満身創痍の有り様である神門には長い道程であった。


 神門と同様に自らに接近する存在を感知していたのか、キルシュタインの瞳無き眼光が――いや、なんと左眼が再生し、それで小さな敵を睨む。出血による貧血からか黒い靄に閉ざされそうな視界からでも、彼の全身を碧く彩る塵級機械チャータムの輝きが、判る。双方、既に余裕は無い。


『貴様……何モンだ――』


 自らの荒い吐息が耳元でがなり立てている中でも、キルシュタインの誰何ははっきりと聴こえた。それは、もしかすると、大気を伝播する震動以外の何かで受け取った声だったのかもしれない。


「……さあな」


 錆びた声が喉をつく。それだけの声を絞りだすだけでもかなりの苦労を強いられ、傷んだ肺にむせる。一時的に呼吸困難に陥った神門は仕留めるのに絶好の機会であったはずなのに、キルシュタインは何故か黙して見過ごしていた。


『何だ……それは?』


 狼狽したような声。しかし、こちらにはもはや応える声は、無い。


 視界は闇に覆われても、この腕には確かな秋津刀の感触がある。我ながら頼りない足取りだが、確実に歩を進めていく。


『――クゥオオアッ!』


 キルシュタインがいななきと共に、神門へと爪を突き立てる。右膝を断たれて、先の鞭尾で蟲を叩き潰す事も叶わないキルシュタインは、次に間合いの遠い爪撃を選択したのだろう。隻眼の暴君竜の機を先んじて察知し、奔りだす。結果、動いたのは寸分違わず同時だった。


 笑う足がもつれ一瞬姿勢を崩すと、鼻先を人の身から見れば巨大に過ぎる爪が通過し、床面に刺さった。このまま直進していれば貫かれていたどころか、身体を分断されていたのは疑う余地もない。キルシュタインは神門の動きに対応して狙いを澄ましていたのだ。まさに僥倖ぎょうこうだったが、今はそれに感謝している猶予はない。平素ならば、背筋が凍る思いを味わっていただろうが、むしろこの窮地において、神門の心は湖面の水面のように凪いでいた。


 引きぬかれた爪の後を追うように、爪撃が起こした塵埃の煙を一直線に突っ切る。彼我の距離は爪撃の間合いの内の内側――死角へと近づいていた。ここに来て、暴君竜も疲労と全身に刻まれた裂傷で判断と反応に鈍りが見え、即座に攻撃に移れない。もし、それが叶ったならば神門は仕留められていたに違いない。


 キルシュタインが顎門あぎとを開き、喰らい尽くさんと上空から迫り来るのを、神門は意根で察した。これを躱した先――。神門は走力を限界にまで引き上げ、決死圏へと身を投じる。五感は用を成さないほどに錆び付いている。意識は漂白され、声はかすれ、視界は黒く、感触も曖昧。ただ、目標へと奔る――それだけ。彼はもはや忘我の域に達していた。


 そして――世界がまる。森羅万象の遍く総て、ありとあらゆるものを支配する普遍の理である、時流いのちという概念。その総てが無となり留まっている。神門の意識は拡散していき、今や、舞う塵埃の粒子一つ一つさえも知覚できていた。何もかもを超越して、神門が奔る。この不可思議な万象の中で、限りなく加速された神門は無意識に――むしろ、それがそうとして初めから知っていたように、キルシュタインの『核』を見極めていた。神門の刀はキルシュタインの胸部の塵級機械群チャータムコロニーへと原初から定められていたように吸い込まれていく。はたして、何の抵抗も感じる事なく、キルシュタインの『核』である塵級機械群チャータムコロニーは神門の一刀のもとに斬り裂かれた。




『~~~~~~~~』


 一際凄絶な絶叫にオリヴェイラは意識を取り戻した。周囲を見回すと凄惨そのものといった有り様だ。既に、王宮ならではの洒脱な様式は見る影もなく、砂漠に取り残された廃墟と説明されても納得してしまうだろう。彼を守るように、サダルがうずくまりカウスが倒れていた。ケモノオロシを床面に突き立てて盾にしていたのだろう、サダルはケモノオロシの柄を掴んだまま意識を喪失していた。カウスは『気泡』で『王権・勅命』の脅威からオリヴェイラを庇っていたのだろう。両者共々、身体の至るところに風穴を開けられ、気を失っている。呼吸と脈を確認し、まだ生命までは失っていない事実に胸を撫で下ろす。


 先ほどの絶叫、罅割れた獣の声だった事から、キルシュタインのものに相違あるまい。事の次第を確認するため、オリヴェイラは声の方向へと赴く。やがて、塵埃の彼方から瓦礫のものではない影が見えてきた。近づくほどに陰翳いんえいが浮かび上がり、二人の人影へと収束していく。


 相対したまま動きを止めている二人は――神門とキルシュタインだ。何があったのか、キルシュタインはあの禍々しい姿ではなく、人の姿へと戻っていた。


 キルシュタインは茫然自失といった様子だ。口元はぶつぶつと何事かを呟き、何故か失っていたはずの左眼は虚ろに宙を見つめ、幽鬼さながらに曖昧な存在感で世界に固着している。チャータムの碧玉ごと、真一文字に斬りつけられた胸部からは夥しい碧い鮮血が滴っているが、これは神門が成したのだろうか。


 対して、既に意識は無いのだろう、顔を伏せた神門の表情は見えず、右手に握っている秋津刀の青白く冷たい光だけが唯一の確かなものように、はっきりとした輪郭を灯している。彼も満身創痍の有り様で、衣類は袖や裾を名残りとして残したまま、殆ど用を成さなくなっていた。だが、オリヴェイラは見た。次第次第に近づくほどに判然としてきた神門に存在した、あるものを――。


「神門……何だ、それは?」


 位置の低さから当初は見えていなかったが、はだけたジャケットとシャツの狭間から覗く神門の丹田に赤く篭ったような光を放っている器官があった。それは奇しくも、キルシュタインの胸と融合したチャータムを連想させる。むしろ、縦に開いた瞳じみたそれはキルシュタインのチャータムそれより洗練されているとさえ思えた。


 ぐらりと傾いだと思った途端、糸の切れた糸繰り人形マリオネット神門が前のめりに倒れた。既にして、完全に意識を喪失していたのだろう。神門が倒れた音を聞いてか、キルシュタインの意思が現世に戻ってきた。


「こいつは――危険だ――殺さねば……殺さねば……殺さねばッ!」

「キルシュタイィィィン!」


 常軌を逸した視線で神門を睨むと、足元の瓦礫を拾って彼に叩きつけようとしたキルシュタインを止める。血走った瞳がオリヴェイラを射る。腰の後ろの拳銃嚢ホルスターに入れていた拳銃を構えた。偶然か必然か――彼の構えた拳銃は、神門に与えられた拳銃だった。三点バースト機構を搭載した、口径九mmミリのマシンピストルだ。暴竜と化していたキルシュタインには通じなかったかもしれないが、今の彼に対しては充分な火力のはずだ。


「オリヴェェェェイラ! 退けェ!」

「いや、どかないね。――どけないね」


 照門から照星を覗き、その延長上へキルシュタインを据える。


「アラカムの爺さんは世捨て人になっていたというのに、この国の行く末のために立ち上がった。サダルとカウスは俺を庇って虫の息だ。神門は、この国の人間ではないというのに、お前を倒すために無理させてこの有り様だ。この場に残してもらった俺がお前を逃す理由なんて、ないに決まってんだろうがッ!」

「ァア? 権能を持たんヘタレが。『結社』なくして、この世界でバラージ王国が生き抜く術はねェェんだよ!」

「民の首を真綿で締め付けて何言ってやがる、このダボがァ! 何、国を言い訳にしてやがる! 俺がヘタレだったらよォ……テメエは力が欲しいだけの――自分を大きく見せたい我儘なガキ未満だろ。

 ――なあ、お前……なんでまだ生きてるんだ? さっさと、そっから跳べよ?」

「ぐぬぅぅぅ……」


 憤怒に染まった顔色は壮絶そのもの。瞳が殺気に濁り、剥き出しの歯は隙間から碧い血が流れ落ちるほどに噛み締められ、鬼のような形相だ。もはや視線で射殺いころし、殺気で重ねて呪殺し、最後に殺意で殺害する。キルシュタインは、しかばねと化しても死の安寧を許さぬ怒りに支配されている。


「オリヴェェェェェェェェイラァアアア!」


 もはや何の策も無い、怒りに任せた突進でキルシュタインはオリヴェイラに襲いかかってきた。暴君竜への変異能力も喪失しているのだろうか。だとしたら、胸部に奔った一文字の傷痕が原因だろう。権能『王権・勅命』は? 既に権能を行使できない状態に陥っているのか。おそらくは、胸のチャータムの欠片は既に沈黙しているのだろう。銃火器を持つオリヴェイラに対し、蛮勇のままにキルシュタインは奔る。


「それに――お前みたいなろくでなしに……初恋の人を委ねるのはごめんでね」


 若干、顔が熱いが、ここで恰好をつけなければ何処でつけるのだ。ここは主人公ヒーローが敵役を斃すシーンなのだ。だから――。


 撃鉄が怒轟が雄々しき雄叫びを上げた。鮮烈な発火炎マズルフラッシュが点滅し、施条ライフリングによるジャイロ効果にエスコートされた弾丸が三発、キルシュタインへと着弾した。着弾位置は――額に一発、胸部に二発。


 脳からの命令が途絶えた事を身体は察していなかったのだろうか、首を撥ねられても気づかぬ鶏のようにキルシュタインはしばらく突進をやめなかったが、やがて均衡を崩して頭から床へと飛び込み、そして沈黙した。額と胸部の風穴から漏れ出た血が床を汚していく。その血は――碧かった。完全に人を無くしたキルシュタインは死してなお、血の色一滴に至るまで赤く戻らないというのか。


 銃の重さに今更気づき、意識した途端に張力を失い、腕が重力に負けた。握力も既に無く、銃が床に落ちて乾いた音を立てた。終焉に今まで身体を支えていた気力も萎えてしまい、膝が折れる。意識に同調して視界も薄れていく。


「オリヴィーくん……」


 床面に激突する寸前、重力を裏切って身体が支えられた感触を感じた。既に、針の穴程度を残して視界は闇に閉ざされていたが、オリヴェイラはこの場にそぐわなぬ栗色の絹糸を見た気がした。瞬間、彼の意識は完全に途絶えた。

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