暴君

「~~~~~~~」

「どわぁあ!」


 咆哮に圧された窓が儚く散り、オリヴェイラとカウスは身を屈めてそれをやり過ごす。一拍の間の後に、吹き荒ぶ嵐が王宮内の沈殿していた大気を攪拌かくはんしていく。


「と、とにかく! 謁見の間まで逃げよう。あそこならおいそれと手出しできないはず……!」


 カウスの叫ぶ声もどこか遠い。無理もなかろう。攪拌された大気が周囲で音という音を発生させて、耳腔に轟音を響かせているのだ。声では届かないと判断して、首肯する。


 王宮内廊下を奔る。外壁から後を尾けてラリオウスが迫っているようで、彼らが奔った後を一歩遅れて硝子が無残に破砕されていく音が追いかけてくる。


「ありえないぜェ~~、っと、おおおおおおおおおォォォッ!」


 叫んだ声はどっちのものだったのだろう。少しでも速力を弱めると追いつかれる。アドレナリンが分泌されているのか、必死の奔走に反して、今は足に重みを感じていない。


 廊下を奔ってしばらくいくとT字路が見えた。謁見の間はここを曲がった先だ。


「た、助かった――」


 安堵に喝采すらしたくなったが、残念ながらそうは問屋がおろさなかった。カウスの声を遮ったのは、T字路の交差する外側の窓――採光のために一際大きく誂えた窓が破砕する断末魔だった。


「~~~~~~~~~」


 大きめとはいえ、暴竜から見ればそれほどの幅があるわけではない窓を、無理矢理に突き破って侵入してくる暴力の権化。巨大な体躯は驚異的な柔軟性も湛えていたようで、王宮内に侵入した暴竜は幅いっぱいの廊下を器用にも身体をくゆらせて追いかけてくる。流石に平地での速力はないにせよ、この走破性は充分に脅威的だ。事実、暴竜の速度は彼らのそれを上回っている。生温い息を背中に浴びせられ、その存在感が次第次第にはっきりと形を成していく恐怖。


「オリヴィィィィィィ!」


 カウスが呼ぶ叫び声が鼓膜を揺らす。カウスと目と目が合い、彼の意図が無言の内に伝わった。彼の瞳は権能に輝いていた。カウスが指を二本立て、続いて一本を折る。そしてもう一本――拳を握った状態に。


 二人が一気に振り返る。カウスが宙空へ平手を掲げ、足を踏ん張る。それは無謀にも象の突進を止めようとする蟻の如くに、不可解極まりない。暴竜は涎の滴る顎門あぎとを開き、彼らを食い千切る腹だ。あのきばが突き刺されば、その時、彼らの魂の緒が肉体諸共引き千切られ、生命の灯火が容易く消え去るのだ。


 だが、ラリオウスの強靭な咬噛こうごう力は彼らに届かなかった。不可視の壁に遮られたように、顎門あぎとは彼らの眼前まで迫ったものの、空を噛むに留まった。訝しげに首を傾げたラリオウスは、今度こそ必殺を期した噛み付きを敢行するも、それもまた僅かに遠い。


 この不可思議な現象はカウスが大気を圧縮した『気泡』を前方――彼らと暴竜の間の空間に配置させているからだ。持ちえる最高の圧縮率で固められた『気泡』は、迫るきばの暴威から完全に彼らの身を守っていた。だが、その突進力までは完全に御する事はできず、次第にずるずると圧され始める。


 更に、ラリオウスは持って生まれた狂暴性故か、癇癪を起こしたように届かぬ噛み付きで獅子舞を始めた。狙い澄ましたそれとは違い、目標を捉えるまで噛みまくるという暴挙。本来ならば隙を見せるだけの、その暴走した出鱈目さとは裏腹に、これは暴竜には最善の奇手だった。何故ならば、このまま圧され続ければ背後に迫った扉と衝突する。現状、顎門あぎとの脅威の埒外にいるとはいえ、畢竟ひっきょうすれば、暴竜と扉に挟まれ圧死サンドイッチとなる運命だ。


 急いで頭脳を高速回転させる。まず、持ち合わせた銃弾。人に向けるには過剰殺傷オーバーキル極まりない、獰猛な銃弾――該当するものが一種類あった。念の為に用意していた銃弾だが、まさかこんなところで役に立とうとは……。『気泡』に肩をもたれさせて、懐の拳銃嚢から中折れ式の単発拳銃を抜いた。焦るな、冷静に。自分に言い聞かせながら、既に装填していた銃弾を捨てる。続けて、ブルゾンの下で交差させていた弾帯から、特に凶悪に肥大した銃弾を取り出し、慎重に装填する。仕損じれば、それが即ち死。冷徹な重圧の中、なんとか装填を完了、折れていた拳銃を元に戻す。


スリースイッチ!」


 オリヴェイラの行動の意図をカウスも察しているようだ。この辺は長い付き合いならではの阿吽の呼|吸というものだろう。オリヴェイラが拳銃を持った右手に左手を添える。カウスは暴竜を抑えるようにしていた両手から、片手を背後――既にかなり近づいた突き当りの扉へと向ける。


「3、2、1――」


 発火炎マズルフラッシュの猛々しい怒轟が、暴竜の背後から届く砂嵐の音色も、きばが噛み合わされる耳を苛む音色をも遠ざける。それほどまでに強烈な音圧が、獰悪な銃弾と共に大気を蹂躙した。それは狙い能わずにラリオウスの口中へと滑りこむ。そのオリヴェイラの行動と同時に、カウスが背後へ向けた手から新たに高圧縮の『気泡』を形成する。


 ラリオウスの口から侵入した弾丸が着弾、先端部に仕掛けられた指向性を与えられた爆薬が更に体内へと爆裂の矢を埋め込んでいく。ちょうど口蓋部に着弾した銃弾のそれが向かうところは――脳。炎のやじりがラリオウスの脳を灼く。突然の脳機能障害に、ラリオウスはそのまま床面へと転げた。暴竜がその脚力を失おうとも、今までの慣性が失われるわけではない。必定、床面を擦りつけて暴竜の体躯が二人へと滑ってくる。いくら、肉体の動力を失おうと、鋭い牙歯がある以上、接触は危険極まりない。


 再度、カウスがラリオウスとの間に最低限の『気泡』を形成、暴竜のきばを遠ざける。背後の閉ざされた扉が迫る――。


「うおおおおおお!」


 背後の『気泡』が扉と接触し、その圧力と暴竜の突進の慣性力で扉そのものを破砕していく。バリバリと木製の扉が圧力にひしゃげて破壊される断末魔は、自身の全身の骨を砕かれているかのような心持ちにさせられる。


 その先は、謁見の間へ続く、地下墓地を思わせる白塩めいた広間だ。広間の中間までの距離を消費し、暴竜の巨躯はようやく停止した。


「――止まった?」


 カウスの訝しげな声も頷ける。生きた心地のしない激動からの、突然の静寂だ。砂嵐の暴風の絶叫も今は遠い。砕かれた床面や壁、扉が撒き散らした塵埃が辺りに立ち込め、黄泉の国の光景を想像させる。宙空を泳ぐ塵埃と二人の少年以外に動くものはない。暴竜でさえも、口から青白く発光する血液を垂れ流して、沈黙している。


「一応確認しておこうか?」

「あまり近づかない方がいい。こういう時に近づいたら喰われるっていうのはシネマでは常識だからな」


 オリヴェイラはカウスの手を引いて、ゆっくりと暴竜から離れる。既に息も途絶えているようだが、それでもあまり近づきたいものではない。それに、彼らは未だ目的をはたしていないのだ。


「さっさと行こう。まだ見つけてないんだからな」


 オリヴェイラが促した瞬間、まるでこれを待ちかねていたように手を叩く音が響いた。


「誰?」


 カウスの誰何に応えるように、塵埃の遮光幕カーテンに曖昧な人影が落ちる。おもむろにこちらに向かってくる靴音。やがて、人影がはっきりとした輪郭を映し出す。


「まさか、それなりにハンデがあったとはいえ、ラリオウスを二人で止めるとはな。いや、感心したぞ。褒めてやる」


 人影は男の姿へと収束した。彼こそ、オリヴェイラが探していた男――先王を殺害し、自ら王座に就いた簒奪者。


「キルシュタイン――ッ!」


 傲慢な笑みを貼りつかせたキルシュタインだった。




 まさしく瞬く間に迫り、そして捉えたと思った途端に退いている。今、ラミナスは一撃離脱の戦術でサダルメリクを攻め立てていた。権能による加速の加護を与えられたラミナスは、もはや身体ごと現れては消えていく幻と化していた。世界の外に存在する意識が陰に映った身体を都度都度に消し去っているかの如く、この速度域は人のものではない。無機質な殺気から先んじて予測しているサダルメリクだからこそ、なんとか追い抜かれずにいるだけで、余人では気づかぬ間に磔刑にされていることだろう。


 螺旋剣の刺突はいなしていようとも、生半可な刀剣では螺旋の刃に削されて、やがて折れてしまう。ケモノオロシという稀有な巨剣の肉厚な刀身が、螺旋の刃の暴威をしかと受け止めているのだ。だが、サダルメリクの獲物がケモノオロシという巨剣であった事が、彼が攻めに転じれない理由でもあった。


 ――このままでは……あまり面白くない事になるな。


 とはいえ、サダルメリクの身体能力では加速しているラミナスには追いつけないのは自明の理だ。勝負に出るには余りにも分が悪い――というよりも、分がない。


 焦りに急くサダルメリクだったが、やがて、ラミナスの剣速に追いつけぬのは変わらないが、刺突の勢いに陰りが出ている事実に気づいた。思えば、先ほど際どい角度で軌道を逃した時は、ケモノオロシの刀身を削る螺旋の刃の痕が刻まれていたが、今は――。


 殺気を感じ、その方向へと角度を付けたケモノオロシを盾に距離を詰める。見えぬ速度であれば、どのみち距離を詰めたことで相対速度が上がろうが関係ない。そう判断しての事だったが、事実、うまくケモノオロシ刀身の角度に導かれて、ルーペラは際どいながらもサダルメリク本人を傷つける事はなかった。もしも、ラミナスの速度が落ちているのならば、刺突を流された上で、迫るサダルメリクから身を躱すことはできないはず。


 はたして、サダルメリクの予想は証明された。がちりと刀身同士が噛み合う。あまりの速度ではっきりと眼に映らなかったラミナスの顔が、今はよく見える。刀身を噛み合わせた競り合いは一瞬で終わった。仕切り直しに、ラミナスが退いたのだ。だが、これが意味するところは大きい。先ほどまでならば、多少身体が流れようと迫るサダルメリクからは余裕をもって避けていたはずだ。


 サダルメリクの間合いの外にラミナスが姿を顕した。その表情は殺気と同じように無機質そのもので、何の感情も読み取れないのだが、サダルメリクは確信していた。


 ――疲労がある。


 サダルメリクはここで、ようやく勝負に出る材料を見つけた。ここまで耐え抜けたのは、ラミナスの無機質な殺気を読み取れたからこそだ。でなければ、今頃は全身に風穴を開けられていた事だろう。


 再び、総てを置き去りにラミナスが姿を消した。殺気がサダルメリクの喉元を指し示した。ざわめく肌――。殺気に晒されて冷たく鼓動する心臓――。


 先んじた殺気に合わせた巨剣は不可視の刺突をいなしたまま、ルーペラの刀身を滑る。軌道をそらされるがままとなった螺旋剣は、巨剣に抑えられて即座に退くこともかなわない。巨剣の刃が螺旋剣の捻じられた刃を割っていく。散華していく螺旋剣の刃は角度を変えながら光を反射し、刹那の光の芸術へと変わっていく。螺旋剣を滑ったケモノオロシはラミナスの手元で跳ね、そのまま――。


「…………」


 満足そうな父の笑みが瞳に映り――そして、サダルメリクの刃は父の身体を切り上げた。

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