気配

 オリヴェイラが王都に繰り出した後、サダルメリクはキルシュタイン陛下から召喚賜り、謁見の間で跪いていた。


 敷かれた絨毯が押し殺しているはずの跫音きょうおんがやけに大きく耳に響く。この謁見の間では王からお許しを頂くまで、顔を伏せていなければならない。視界を床面だけに固定されては他の感覚――特に聴覚が異常に冴え渡る。王はこの靴音が跪いた者にとって、決して軽くない重圧を与えるという事実はご存知なのだろう。頭を垂れたままのサダルメリクの周囲を無言で歩かれているのは、そういった意思あっての事は明白だ。既に十分は経過しているのではないかと思うが、実際にはどれだけの時が経っているのかは判然としない。


 やがて、足跡は玉座の方向へと遠ざかっていく。内心安堵するが、ここで完全に気を緩めるのは危険だ。キルシュタイン陛下は、歴代でもおそらく最も苛烈な性質をお持ちの王だ。むしろ新たに気を引き締め、サダルメリクは絨毯の起毛を見つめていた。


「いいぜ。面を上げな」

「はっ」


 お許しを頂き、顔を上げる。今代のバラージ国王陛下は新調なされた玉座にして、こちらを見つめていた。以前のそれと異なり、至るところを宝玉や貴金属で飾り付けられた豪奢に過ぎる玉座は、なるほど確かに悪辣さで知られる現王には似合っている。尤も、このようなことを口にするのは、命知らずな豪傑か浅慮の低い者かどちらかでしかない。


「お前、何歳になった?」

「十九、と三ヶ月になります」

「へえ」


 興味がなさそうに見せかけてはいるが、サダルメリクは瞳の奥に揺らめいた光を見逃さなかった。


「ラミナス家は二〇歳はたちになったら当主の座を継ぐ……。そして、当主代々受け継がれる任務は――わかっているよな?」

「はっ。国王陛下の護衛です」


 ラミナス家は最も古い近衛兵の家系で当主は代々の国王に仕えてきた歴史がある。サダルメリク・ラミナスも言うに及ばず、当主を継ぐと国王の護衛となる未来が決定している。


「なあ。仕事の引き継ぎも必要だ。――今からでも、こっちにつかないか?」


 やはり――か。いずれは来ると思っていた。陛下はラミナス家次期当主を懐柔するおつもりだ。


 元々、サダルメリクがオリヴィーのキングダムガードとして仕えているのは、何も幼なじみの縁からだけではない。それは、次期国王のキングダムガードとして、幼き頃から側仕そばづかえさせるという、半ば慣習だ。先代ラミナス家当主――サダルメリクの父も、幼き頃より先王ヴァレンタイン陛下と友誼ゆうぎを結んでいたという。


 ただ、それはオリヴィーが無権能者と発覚してから変化を遂げた。無権能者が国王になってはいけないという法は存在しないが、それでも世間はそうは見ない可能性は高い。急速に近代化が進んだとはいえ、まだまだ人々は砂漠の民の頑固な性質を残している。未だ、近代化に対する反対運動は行われており、無権能者に対する潜在的意識もそれなりに人々の心に巣食っているだろう。


 それらを考慮した先王陛下は、オリヴィーの王位継承権の順位を一つ下げられた。先王陛下の思惑がどうであれ、これが功を奏したのは今の彼の五体満足な姿からも明らかだ。そして、権能を持たぬ我が子に対して、ラミナス家次期当主であるサダルメリクをそのまま護衛として仕えさせた。約定の期間は――サダルメリクの成人、当主の座に就くまでとして。


「勿体無いお言葉ですが、今の私はオリヴェイラ殿下の護衛です。

 ラミナス家は一度受けた任に対しては、その交わした約定の期間は絶対に厳守する事で、今代に至るまでの信頼をつちかってまいりました。今、陛下の元に仕えますれば、ラミナスの名をけがすだけに留まらず、陛下の義に陰を落とす事に他なりません。

 何卒なにとぞ、もうしばらくお待ちいただきますようお願い申し上げます」


 平身低頭するサダルメリクにキルシュタイン国王陛下はどう思ったのだろう。不意に、世間話でもするかのようなさり気なさで頭を下げるサダルメリクの後ろへ視線を投げかけた。


「……いやはや。元服も済ませていない若造が、国王陛下に一端の口を利くなど――とんだ愚息で面目次第もありません」


 ぞくり――と背筋を粟立つ感覚が駆け上り、反射的に片膝を立てたが、その後襲いかかってきた気配に身体が凝固してしまった。気配を、感じなかった。その事実は、戦士として彼が奉じてきた試練の日々を否定するかのように心に染み入ってきた。相対してならともかく、生き死にの舞台で背後の人物に後ろを取られては、彼が生き残る事は……不可能だろう。


 声の正体は現ラミナス家当主、サダルメリクの父親であった。――振り向けぬ。今や、背後の人物は闘志の気配を色濃く放ち、見えずしても既にこの場における趨勢すうせいを物語っていた。即ち、振り向けば――。


「フン、気概は認めてやろう。だがな、おれの頼みは厳命と同じだ。手に入らぬならば――」


 キルシュタイン陛下がやおら玉座から立ち上がり、悠然と歩み寄る。


「――いらねーよな?」


 背後で膨れ上がる気配に本能が危険信号を発するが、サダルメリクは動けない。何の打算も無く動けば、それこそ自害に等しい行為だ。生命危機の警鐘が鳴り響く中で、必死に脳が回転を早める。


 ――キルシュタイン陛下を人質にする――不可、羽交い絞めにしたところで刺殺される――振り返り反撃――不可、武器がない――ならば、素手で――不可、知る限り総ての技で以ってしても、こちらが一手遅れる――ならば――ならば――


 滴った脂汗が紅い絨毯になお紅いしみを咲かせる。起死回生の糸口を見つけるために高速回転する頭脳の発熱に耐えかねた、生体反応だろうか。


「サダルメリク――当主たる我が言い渡す。貴様はラミナスより破門だ。そして……」


 背後――聞こえる声からの緊張感を読み取ったサダルメリクの聴覚が、言葉の間に間の僅かな隙を読み取った。脊髄反射の速度で、立てた片膝で床を横飛びに蹴った。彼が圏外へと逃れた刹那に奔る銀色の五月雨。それに触れれば風穴を空けられる。勘任せに這うような低姿勢で間断なく繰り出される刺突の群れを避ける。


 銀の刺突の正体は、ラミナス当主のルーペラと呼ばれる刺突剣だ。サダルメリクが扱う刀剣と比べると遥かに細い剣ではあるが、螺旋を描いた独特の形状の剣の穿孔せんこう力は他の追従を許さぬ、一撃必殺性において比類なき武器である。その構造上、貫かれては肉が抉られ血が噴き出し、それだけで出血多量による死の危険がある。


 サダルメリクは奔りだしたと同時に脱いだローブを、目隠しに投げた。どうせ、一瞬で閃く反射神経すら凌駕する刺突だ。こちら側から見えなくなったところで、同じ事。ならば、対手の視界を覆う。同時に、先ほどとは打って変わって跳躍するように窓へ奔る。跳躍により、ローブの下から覗く足元という手がかりを無くした当主ちちは、一瞬とはいえその場に釘付けになった。紗幕ローブから逃れるまでの僅かないとま――。同時に、その一見無駄の多い奔り方は別の効果も生んでいた。


 床を蹴った一瞬後、その絨毯を無数の矢が蹂躙しつく。キルシュタインの『王権・勅命』だ。その絶大なる破壊力に背筋を凍らせながらも、足を止めたら最期と死の疾走を敢行する。サダルメリクの恵まれた膂力りょりょくは後方からの追撃を一歩遅らせたまま、遂に日中の太陽が輝く窓へと到達。躊躇なく飛び込み、ガラスを粉砕しながら宙空へと落下した。




 重くなった空気が支配する中、それまで沈黙を保っていた神門が口を開いた。


「それで、オリヴェイラにどうしろと言いたいんです? 話はこの先にあるんじゃないんですか?」


 いつの間にか最初の珈琲を飲み干していたらしく、神門はカウスから貰った二杯目に口をつけた。


「……あ、ああ。その通りじゃ」


 出し抜けな言葉に虚を突かれたのか、老人は若干口ごもった。


「よし、端的に言おう、オリヴェイラ王子。儂はあんたに国王となってほしい」


 はたして、オリヴェイラ自身想像もしなかったその言葉は、彼の脳内を一時漂白した。


「な、なんだって? 爺さん」


 まるで幽霊にでも触られたように湿った冷気に身震いした。出した声が自分でわかるほどに震えていた。座っているというのに、膝が笑っている。おそらくは、瞳も泳いでいることだろう。額に汗が噴き出ているのがわかった。自分で自分の身体が定かではない。衝撃に打ちのめされた意識は、身体をうまく制御できずに震えを止めることができない。


「い……いやいやいやいや! オリヴィーの王位継承権はもう奪われているんだよ? 王位につくだなんて出来るわけが――」

「そうでもないんじゃ。キルシュタイン王の継承には大きな瑕疵かしがある!」

「瑕疵?」


 呆然とした意識の中で、カウスと爺さんの話し声が大鐘の中で反射しているように響いていく。あまりに衝撃的な事態に、人は思考停止状態に陥るらしい。話は聞こえているが、自意識が緩慢で酩酊めいていしているようだ。胸の辺りに不快な靄が溜まったようで、気持ちが悪い。


「傷や欠陥という意味だ。この場合は、違法性ってところだろうな」


 冷静な神門の声が交じる。それで少し水をかけられたように一拍の余裕ができ、深呼吸をする。空調で冷やされた大気を吸い込むと、さきほどまでの震えが呼吸するごとに鎮まっていく。四肢の震えも次第に落ち着きを取り戻していく。


「左様じゃ。おそらくは、この先はオリヴェイラ王子にとって覚悟のいる話となるが……」


 そう、前置きしながらオリヴェイラの方を向くアラカム翁。もう少し早めに言って欲しかったものだが、今更詮なき事だ。大きく息を吐き出せば、身体の異常は現れた時と同様に速やかに去っていった。


「ああ、よろしく頼む」


 爺さんが何を望んでいるのか、それを聞き出さなくてはならない。心が告げるままにオリヴェイラは続きを促した。或いはそれは神託だったのかもしれぬ。普段なら一笑に付していたであろう事柄に、ここまで気負っている事実を我ながら不思議に思う。


「よかろう。では、これは十年前の出来事じゃ――」




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