純潔

 無意識の海に沈んでいた意識が浮上し、ぼやけた視界がゆっくりと像を結んでいく。


 意識の回復に反応した脳内チップが視覚情報ツールを立ち上げ、各種情報が拡張現実AR化されていく。義体の自己判断プログラムウィンドウが、危険や異常を知らせる警告で赤く染まっている。

 見るまでもなく酷い状態である事はボブが一番理解していた。


 立ち上がろうとするも、義体からだが異様に重い。深海の水圧に絡みつかれているようだ。


 原因は明白。義体の損傷も然ることながら、義血の多量失血で義体が満足に動かせないのだ。


 現在のボブにとって一番深刻な問題がこれだ。このまま動力を失えば、遠からず死という虚がボブを覆い尽くす。義体もかなり悲惨な状態だが、義血さえ輸血できればまだ駆動は可能だ。


 焦れる緩慢さでしか動きを見せない首を巡らせ、視界の隅で打ち捨てられたMBを捉えた。

 パイソンが乗っていたMBノスフェラトゥだ。

 満足に動かない義体を引きずりながら、ボブは沈黙したMBへとじりじりと這い寄る。義体の下で、ボブは体重に負けた床面の欠片が割れる音を聞いた。


 今の彼の姿は、魔性の本能で仕様スペックを超越した性能を発揮した義体と同じものとは到底思えぬほど弱々しく、それ故に必死だ。

 あのMBに詰まっている義血が吸えれば、ボブの義体は再び立ち上がれる。


 ひたり――。幻聴か。かそけき響きだが、左腕だけを頼りに次第次第にMBの残骸へ近づくボブの、電子強化された聴神経を確かに刺激する大気の震え。まるで、裸足のまま床面を歩くような。


 ひたり、ひたりと、ボブへと歩を進めてくる。

 どこか覚えのあるような、足音――。


 さながら海底に堆積する海中懸濁物マリンスノーの如く、舞い上がった塵埃じんあいや破片が降り積もった床面を、足音の主は躊躇なく歩んでくる。


 ふと歩が停まったかと思うと、ざざりざりざらざらり……と耳障りな擦過音を道連れに、再びボブへと向かってくる。死神が大鎌を片手に迎えに来たのだ。

 

 益体もない考えが一瞬だけ頭をよぎるも、今のボブに構う余裕などない。

 一刻も早く義血を吸血する。ただそれだけの目的に、魔性の本能が生存を最優先に、朦朧とした意識と義体を動かしている。


 なんと無様な姿だろうか。平素の彼ならば想像だにしない、下らぬ冗談と一笑に付した事だろう。歩み来るものの正体すら確かめる余裕もない程に、己がこんな生き汚く惨めな姿を晒しているなど。

 だが、今は是非は問うまい。義血さえ奪えれば、また彼は絶対強者たる魔獣として返り咲けるのだ。


 剥落していく意識を繋ぎ留めながらの、死の匍匐。腕を動かすたびに生命力が床に流出しているのが判る。視界も再び黎い靄がかかり、もはやMBとの距離も測れない。聴覚もいつしか麻痺していた。ただ、いつ果てるとも知れぬ道程を這いずるのみ。永遠にも感じるほど、長く険しい距離。


 やがて、左腕が冷たい鉄の感触を伝えてきた。


 到った。

 遂に、手負いの魔獣は己の糧となる屍へと到達した。渾身の力で爪を突き立てる。殆ど目も見えぬ状態ながらも、無意識が装甲の隙間の脆い箇所を探り当て、弱まったボブでもなんとか義血血管へと至った。

 爪から義血が汲み上げられる。それに応じて、ゆっくりとだがボブの感覚が鋭敏さを取り戻していく。


 生を拾う事ができた。ボブは死神の足音から必死に逃れ、ようやく生への寄る辺義血を手にしたのだ。

 そうだ、もう裸足の死神の足音も、耳に障る擦過音も聞こえない。どうやら、死の淵に立った己が聞いた幻聴で間違いなかったようだ。

 我知らず嘆息する。流石に、立ち上がるまで時間を要するが、もう一安心だ。


 前のめりのまま、義血を一心不乱に貪っていた魔獣が、ふと頭上からの視線を感じた。――まさか、と油の切れた機械のように軋んだ動きで首を上げる。


 最初に眼に入ったのは透けるように白い、すらりとした女性の素足。見覚えがある。いや、忘れようものか。沈鬱な薄闇の中ではより一層、その白さがかそけき光を灯しているが如くに際立たせている。

 更に顔を上げていけば、華奢な肢体を包む黎い旗袍チーパオが、否が応にも、ボブの記憶を裏付ける。


 忘れるはずがない。幾度、この肢体を貪り喰らった事か。花散らしてなお、飽き果てぬ極上のおんな

 視線が上を目指すたびに見える、スリットから見え隠れする脚も、形の良い臀部でんぶも、旗袍チーパオに隠されたあの胸の膨らみも、たおやかな腕も、美しさとあどけなさが同居するかおも、その悉くがボブの所有物だったのだ。

 在りし日の記憶のままの姿で少女アリアステラはボブを見下ろしている。だが、唯一見覚えがないものが一つ。かつて碧色だった双眸を今は緋色の光が彩っている。


 アリアステラには、かつて自分を虐げた者が上位捕食者たる気配を喪失し、ただ生を求めてあえぐ暗澹たる姿がどう映ったのだろうか。


 彼女の相貌を認めた瞬間、ボブは今の姿を彼女に晒している事実に強く恥じ入っている自分に気づいた。

 初めての感覚だ。まさかボブがあろう事か、地を這いずって浅ましく義血を喰らい、その姿をちっぽけな被捕食者の少女に見られた程度で、恥など感じるとは……。仮にこんな姿を見られたところで、即殺せばよいだけの事。

 だというのにも関わらず、だ。なのに……何故。


 じっ……と自分を見つめるアリアステラの瞳は、メルドリッサと同じ吸血鬼の赫瞳。繊手が握っている、似つかわしくない鉄塊はメルドリッサの大鎌の片翼。

 そこに込められた意味――既に彼女は魔獣ボブの所有物ではなく、吸血鬼の継嗣という事。


 大鎌を両手で握ると、彼女は大上段に振りかぶった。それが成せるとは到底見えぬ肢体が鉄塊を頭上に掲げる膂力を有しているのは、確かに彼女が人の理を外れたものである証左といえよう。ただ、平衡感覚はどうにもならぬのか、振り上げた大鎌の重みに少しよろけた。

 無理もない。おおよそ、武術というものを身につけたとは思えぬ令嬢が、身の丈に合わぬ膂力でただ大鎌を振り上げたにすぎないのだ。


 大鎌の刃が青ざめた光を放ち、アリアステラの瞳に紅い灯火が揺れる。それは少女の全てを陵辱し支配していたはずのボブがかつて見た事がない、死神の姿だった。ローブ代わりの黎い旗袍チーパオがなんとも艶かしい。


 場違いにもボブは思った。美しい、と。そして、気づいた。なんだ。結局のところ、自分はこの少女に――心底惚れていたのだ。だからこそ、恥なんて自分に不用な感情を抱いてしまったのだ。


 一度気づいてしまったからこそ、得心がいった。自分が魔性の域へと足を踏み入れたきっかけは、彼女を失った復讐心からだった。人として産まれた身体を捨て、人として育った人間性を放棄したはずの自分が、なんとも人がましい事だ。


 考えようによれば、彼女の初めてを――彼女に初めて手をかけられる栄誉を手に入れられるのならば……存外、死も悪くないかもしれない。

 そう、アリアステラは彼を殺害すると同時に、人としての純潔を奪われるのだ。

 アリアステラの純潔おんなを奪った自分が、最期にアリアステラの純潔にんげんせいを奪う。つまるところ、ボブは彼女の純潔を穢しに穢し尽くすのだ。なんとも愉快な話ではないか。


「ああ――そうさ。お前は俺のだ……」


 断罪の刃が振り下ろされる。

 大鎌の切っ先の鋭さと相反して、彼女の手並みは拙かったが、それが却って初々しくてよかった。先ほどまで、あれだけ生にしがみついていたボブだったが、抵抗など脳裏についぞ浮かぶこともなく、彼は彼岸へと旅立った。

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