錦蛇

幾度、骨槌――いや、肉槌を振るった事だろう。拡大していく血色の痺痛が頭に響くばかり。


 どん、と突き飛ばされた。


 後退できぬならば前進したといったところか。バランスが崩れ、数歩後ずさる。突き飛ばされたパイソンの腹部にどっしりとした痛みが沈んだ。


「痛覚ねぇのか、お前は。それともイカレてるだけかァ?」


 顔にかかった鮮血を面倒そうに、ボブは左腕に残った袖で拭う。


「さあ、どうだろうなぁ?」


 パイソンはわざと歯を見せておどけてみせた。


 無論、生身である以上痛覚が無いはずがない。機化ハードブーステッド処置や薬品強化、遺伝子改良すら受けていないパイソンが痛覚を消し去る事などできようものか。

 ただ、立ち上がってくる痛みを意識の外へと追いやっているだけだ。それでも完全に痛覚を遮断する事など不可能だ。

 今も、彼の頭には広がって溢れ出しそうな激痛が存在を誇張している。


 ボブはどう受け取ったのか、訝しげに瞳を細めている。その姿を見て、パイソンの悪戯心が鎌首をもたげる。


「なんだ。……怖いのか、俺が」

「ァ?」


 まさか、こうもあっさり引っかかるとは。パイソンの戯言に、魔獣の殺気が膨張していく。


 このあからまさな反応を見るに、或いは本当に心の何処かで恐怖を認めていたのかもしれぬ。ならば、わざわざ痛みをおしてまで頭突きを繰り返した甲斐もあったというものか。


「なんだなんだ。正解だったのか。すまんすまん、これは悪い事をしたな。謝るよ」

「――殺す」


 かくも禍々しい瘴気は、ボブが既に魔性の域を歩むものだからなのだろう。質量さえ孕んだ殺気が黎い霧のように辺りに立ち込めるのを、隻眼の錦蛇パイソンはそのはだで感じていた。


 頬を覆い尽くす熱い痺れ。腹にうずくまる重み。酸素不足を訴える肺が先程から一呼吸毎に意識をぼやけさせる。視界はブレて、判然としない意識に拍車をかける。その意識を、痛みに軋んだ鼓動が突き刺して、どうにかうつつに引き返す。


 いくら痛みを識閾下へ追いやったところで、身体はいつまでも誤魔化しきれるものではない。


 鏡を見れば今の自分の状態に心が折れるかもな――と、心の何処かでうんざりとしながら、パイソンは気を抜けば即折れるであろう身体を必死に叱咤し、次の一合が最後、決着となると予感していた。

 おそらくボブも本能か何かで察しているのだろう。顔つきが――死を賭した、手負いの獣のそれへと変化している。


 歯を食い縛った。少しずつ、視界がはっきりと像を結んでいく。


 最後の一撃に備え、同時に意識も回復していっているらしく、全身の痛みが更に鮮明にがなり立てる。どうやら、今まで味覚が麻痺していたらしく、パイソンは今更ながらに舌にの味を感じた。

 張力を取り戻した上体がゆっくりと起き上がる。


 眦を決したボブが動いた。

 応じて、パイソンも動く。


 魔獣の王は、右肩の位置で構えた左の鉤爪でパイソンの頭蓋を狙った。

 パイソンが際どいタイミングで首を屈めると、髪をなぶって死の旋風が通過した。髪の数本は犠牲になっただろう。

 ボブの最後の一撃を躱したパイソンが、無防備なボブへと狙いを定めて拳を――。


 そこで、パイソンの膝が一瞬張力を失った。

 がくんと姿勢が流れた刹那に、パイソンは力を失ったボブの右腕が多節棍の如く唸りを上げて眼前をよぎる様を見た。


 九死に一生を得るとはこの事だ。


 ボブは計算か本能か、一つの動作で二つの攻撃手段を講じていたのだ。膝が言う事を聞いていたならば、危うくパイソンはその餌食となっていた。

 だが、偶然とはいえ、それはパイソンが引き当てた運命の一部。


「シャラァァァ……ラァッ!」


 屈した膝が力を取り戻した瞬間、それを発射台にパイソンは宙を舞う。大きく振りかぶった右腕。ボブの首筋目がけ、肘を打ち下ろした。

 狙い通り、義体の神経網が収束している箇所に衝撃を与える事に成功したらしく、ボブはその巨体を床面へと沈めた。


「ッシャアッ!!」


 着地と同時に残心。


 ボブが動く気配はない。

 肺が血を吐きそうな苦痛の声を上げているにも関わらず、身体中が酸素を要求している。今倒れると気を失う、とパイソンは長年の経験から察していた。このまま伏してしまいたい誘惑にかられたが、自分を利用しようとしたのは誰か、それを確かめなければならない。


 誰であろうと、自分を利用する奴は許してはおけない。パイソンの基本理念だ。


 ともすれば、前のめりになりそうな身体を叱咤し、パイソンは真相を求めて、更に大仙楼の高みを目指して歩きはじめた。その、自分を利用したものに半ば予想がついていたとしても。

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