時凍
青白い顔色の
「……ぐっ!」
神門は自分の額に汗が滴っている感覚を覚えた。喉が乾き、身体は熱いのに背筋はぞっとするほどに冷たい。眼の前が一瞬暗くなり、瞬間瞬間に乱れた映像が見え、都度に頭蓋を揺らす鈍い痛みに苛まれる。
脳裏に浮かぶフラッシュバックに耐えながら、
喩えるなら、ジラの掌中に止まる羽虫だ。今の夜烏はジラの心持ち次第で容易く命を摘まれる、脆弱な鳥にすぎない。
生殺与奪を
「本機は完全に沈黙しています。現在、敵生命体の紡糸により落下は免れていますが、依然として危機的状況は継続中です。脱出を提唱します」
咲夜の声をどこか異世界の出来事のように呆然と聞き流しながら、神門は
額の汗が乾き、彼の熱を瞬間的に奪った。前部座席の咲夜の髪が双子月と光絲に照らされ、清水の飛沫よろしく散らばった。
「父さん!」
風に負けじと張り上げた神門の声に気がついたのか、氷月教授がゆるゆると顔を上げる。疲労しきった表情は無表情に近く、力ない瞳は今にも閉じられそうだ。
「ッ!」
平時の神門からは想像できぬほど、彼は狼狽している。でなければ、敵の前に生身の、しかも、落下が死と同義である高所において、肉体を晒す愚挙など行うはずがない。
彼の姿に、巨獣の顔にブレるように浮かんだジラが喜悦に嘲笑った。彼の嗜虐的嗜好を刺激したのだろう。
『ほら、返してあげるよ』
にんまりとしながら、ジラが繭を
身体を固定するベルトを外し、落ちれば死を免れない高度に身を晒し、神門は養父の元へ趨る。どこかで制止しようとする咲夜の声を聞いたような気がしたが、封殺した。
得体のしれない光絲を踏むと、それは硬く、風に消えそうだが確かに硬質的な音を立てた。
『っと~。SACU-YA、余計な手出しは無用だよ?』
嘲弄する声と共に、一筋の熱線が光絲の壇上を趨り抜けた。狙いは神門の後方、ジラが放った熱線は死の淵にいる二人に駆け寄ろうとしていた咲夜をその場に縫い止めた。
――追いつけ!
バランスを崩しそうになりながらも、神門は氷月教授の落下地点――幸い、光絲の上だ――を見定めて、全力で駆けた。
超高度からの落下という、あまりに
背筋を蟻走感が這いずり回り、足元はしっかりしているのに平衡感覚を失いそうだ。時間の経過が、一秒一秒がやけに遅い。ゆっくりと落下する父の姿が歪む。風圧に眼が潤んでいるようだ。
だが――僅かに遅い。
落下する養父に飛び込んだ神門だが、衝撃を逃しきれず光絲の畳に身体を縫われた。
衝撃に息がもれる。
そのまま転がり光絲の向こう、遥かに下方の大地へと引きずり込まれそうになる。絶望的な浮遊感は同時に極寒の冷気すら
身体を支えらる物のない、
だが、それをとどめたのは右腕を掴む存在だった。神門のものより遥かに皺という年輪を重ねている手、氷月教授の手だ。
蝋人形の顔色からは想像できない力で、彼は神門の身体を宙にとどめている。苦悶に歯を噛み締めている彼の顔は落下の衝撃で切ったのか、二筋ばかりの血が垂れている。加えて、吹き出ている脂汗。
当然だ。いくら神門が痩せているとはいえ人ひとりの体重だ。研究者である氷月教授が支えるには荷が勝ちすぎている。
だが、そんな事を承知の上で、氷月教授はもてる力を絞り出すように、神門を少しずつ光絲の上へと持ち上げていく。
「み……かど。こ、
風圧が耳を苛む中、重みに耐える氷月教授の声は何とか聞こえる程度でしかないが、神門には届いた。そこには、悔恨と懺悔と懇願の色があった。
『あ~、ダメダメ。舞台から降りたならすぐにご退場してもらわないと』
光と熱が宙吊りの神門を照らす。レイサーの充填の光が黄昏の如く、光絲に留まる者とそこにしがみつく者の影を伸ばす。それは、手中で足掻く者たちをじっと見つめる断罪者の視線か。
『
響くジラの声を、死刑執行の合図と見たのか。
声と同時に氷月教授は――それは彼の消えゆく蝋燭の灯の今際の輝きだったのだろう、光絲の壇上に神門を引き上げた。
「
もはや声は聞こえなかった。ただ、口の動きで
二人を隔てる距離が意味するところは、決定的な生死の断絶だ。緩慢な世界で養父へと手を伸ばすが、無情に広がる境界線に離されて到底届かない。
迸る直前のレイサーが熱をパートナーに一際強い光を発する。それが絶望の光と悟ったのか、ここにきて養父の表情は悲痛さと訪れる死の忘却に凍えていた。
絶対的かつ不可避な絶望は顔色すら無くすほどの恐怖に、人はどこまでも無力だ。氷月教授はただただ存在の消失までの秒読みを震えて待つしかない。
「ぁ……」
震える喉が偶然空気を掴んだらしく、氷月教授が小さい声を漏らす。死の淵へと引きずられていく口が
レイサーの無慈悲な閃きは氷月教授の腕を切り裂き、支えを無くした彼は夜の底深くに墜落していく。
一瞬で目視出来ぬほど小さくなった養父の後を追うように、スーツの袖が引っかかった腕が千切れて宙を舞い、
ずっ……と足元を揺らす
先ほどの光線は氷月教授がいた周辺の光絲までも灼き裂いていたのだ。残りの光絲の束は羽をもがれた夜烏の重みに耐えかねた様子で、びんと鳴りながら光絲の一本一本が千切れていく。
そう意識すると、崩壊は速やかだった。光絲の網目は
束となって張っていた時と異なり、接合をなくし緩んだ光絲は風を孕んでゆるやかに宙をはらはらりと舞い落ちる。足がかりを失っては、空を飛ぶ事叶わぬ人の身では万有引力の導きに従うより他ない。
『あらら』
苦笑する声はジラのものだ。あくまで軽い声は、人の命など
養父が生命を賭して助け上げてくれたというのに、結局は大地に叩きつけられるのが運命か。諦観に自嘲の心を宿しながら、それに相反して何かを掴もうとする無意識が神門の顔を左右に巡らせる。
どちらにせよ、この落下の風圧ではほどなく意識を失う。身を打ち付ける風圧に、過去に何の強化――
『神門様!』
風圧の中、鮮明に聞こえた声。或いは声ではなく、ジラと同じような声に似た何かだったのかもしれない。
反射的に首を巡らせた神門の視界に入ってきたのは、風にはためきながらも、桜隠しの意匠も麗しい
声の正体は咲夜だ。彼女の赤紫の、宝石の透明度と深みを湛えた瞳に見つめられた刹那より――。
時が
殴りつける落下の風圧も、はためく咲夜の
ただ、無音となった世界の中で咲夜の声だけが耳朶を震わせる。
「私を――」
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