奉血
ボブに人籠で飼われている黒い
とある重工業を営む社長の令嬢として生まれた彼女は、この時代において珍しく高等教育を受け、純粋培養で育てられた深窓の令嬢だった。
例えるならば、虫にも喰われた事のない、外界から隔離されて育てられた
彼女の穢れを知らぬ純白の気品を前に、上流階級の男でさえため息をついた。事実、未だ
そんな彼女と玄天街の女衒であるボブ・ホーク。本来出会う筈もない彼女らが出会ったのは、
数ヶ月程前、彼女と父母を乗せた自家用航空機が、近辺で起こった隕石の地表落下による衝撃で操舵不能の憂き目に会い、墜落へと至った。
地表に落下するほどの隕石ならば、本来、戦時中に配備された迎撃衛星が感知し、消滅させるか大気圏にて燃え尽きるサイズにまで破壊するはずなのだが、どういった訳か、それらが作動する事はなかった。
無論、一つの迎撃衛星が不具合があっても、直ちに別の衛星が迎え撃つよう設定されている。
にも関わらず、無数に軌道上に浮かぶ迎撃衛星の悉くが沈黙していたなど、万に一つにもあり得ぬ事態だった。
翌日のエクシオル軍惑星カロウデ基地の長きに渡る発表を要約すると、原因不明の一言に尽きる。実際、その後、十全に役目を果たしている迎撃衛星の姿に、担当スタッフも未だ首を傾げる始末である。
そして、墜落現場が
玄天街の
その
彼女は自家用航空機の墜落にほぼ無傷の状態だったのだが、果たしてそれが僥倖と呼べるものだったのか……。
彼女が見たのは、
後の事は詳しくは覚えていない。
気がつけば、親殺しの獣の慰み者となった自分がいた。
心を絶望に塗られ、それでも、どこかで救いを求める哀れな姿。前者はいつも予想を裏切らず、後者はいつも期待を裏切る。その繰り返しで、短期間で少女の心身は擦り切れ、あとは地の底の闇へと
そのままであれば――。
少女がいつものように身体を開かされ、ボブの感情の捌け口とされていた、ちょうど真っ最中であった。
薄闇に包まれた部屋に光が差した。やおら開かれていく扉の向こうから一つの人影が映り込む。
姿を顕したのは、金髪緋眼の美貌も眩しい、長身の男性。黒地に赤糸の細やかな刺繍の長衫を纏った姿容は――
仄暗い部屋は、開け放たれた扉から差し込む光、或いは美丈夫が放つ気配に恥じ入って闇の深さを増し、対照的に彼はなおも美しく浮かび輝く。
いや、部屋だけではない。自分を虐げる恐ろしい男も、そして、男に穢された少女自身も。
まるで、金光に包まれ融かされるように、彼はただいるだけで場を支配していた。
彼女は――彼に神の姿を見た。少女は後に振り返ってこう思う。人は生涯で何人の人と出会うのだろう。そして、生涯を変える出会いが何度あるのだろう、と。
そう、この日この時この場において、彼女の運命は変わり、人としての生は断末魔を上げるのだ。
燦然と輝く王の姿を目の当たりにし、恥ずかしいと少女は自身を顧みる。望んだ事ではないにせよ、少女の貞操観念上、彼女は穢された自分自身を醜い――と感じていた。
玄天街において、
「久しぶり、だな」
男が発する声は落ち着いた低さの中に玄妙な響きを湛え、耳朶を秋風のように優しく震わせる。もはや、同じ生き物とは思えない、とさえ少女は感じた。
少女は不意に、顔に落ちてきた冷たい雫に目を
――脅えて……る?
にわかには信じられぬが、獣は身体を小刻みに震わせていた。目に見えぬ程のそれに少女が気づいたのは、彼女の肢体が震える獣の身体と接触していたからに他ならない。
この、遍く世界の全てを自分の養分としてしか見做していない傲岸不遜な男が、涼やかな笑みを湛えて佇むだけの貴人を前に震えている姿は、どことなく上位捕食者に睨まれた小動物を思わせた。或いは、彼女の印象は真実であったのかもしれぬ。
「黙ってないで、何とか言ってくれないか? さあ……」
優しげな口調と共にメルドリッサが差し伸べた手に、過剰反応したボブの身体が一跳びで部屋の奥まで飛び退る。常人には到底不可能な膂力をもちながらも、獣は何の
「…………なるほど。少し怖がらせてしまったのかな」
その様を、人に慣れぬ子猫程度の感慨で嘆息したメルドリッサこそ、少女から見れば常識の枠外の存在だった。少女にとって、視界に入れるだに恐ろしく、身体が硬直する程の恐怖の対象であるボブ・ホークに対し、この絶対たる余裕と自信。
ボブが畏れるほどの者であるにも関わらず、少女はメルドリッサに対して恐怖を抱くどころか、彼の姿に全幅の安心すら感じていた。
メルドリッサの燃ゆる紅い双眸が少女へと向く。彼の瞳は妖しい光を湛えながらも優しげだ。あたかも、儚い一瞬に咲く花を見つめるようで――。
可憐な花を摘むかの如くに、彼は少女の頬へと触れる。すらりと美しい指先は冷たかったが、それは氷の冷然さではなく、高熱の子を癒す母の手を思わせた。穏やかに熱を奪う指先は、ボブから打擲された頬から触れた部分の痛みを和らいでく。
「来るかい?」
彼は多くを語らなかった。ただの一言、少女へと投げかけただけだった。にも関わらず、紅い双眸が人籠の少女の心を捉えて離さない。
「はい……」
逡巡などなく、少女は首肯する。
ならば、逡巡する理由などどこにもないのではないか。
得心の微笑みに、メルドリッサは低く柔らかな声で、宣託を授ける聖職者の厳かさで告げる。
「分かった。じゃあ、少しの間、眼を閉じてくれるかな?」
少女はゆっくりと瞳を閉じる。最後に見たメルドリッサの微笑みが、ある意味で今生最期に瞳に焼き付いた景色と言えた。
「少しの間、お眠り。目が醒めた時、君のことを聞かせてくれるかな?」
あくまで優しげな声が聞こえると、不意に首筋の頸動脈辺りに赤い微痛が走った。心臓が血液を血管の隅々まで行き渡らせる鼓動が、いつになく強く感じる。そして、それは痛みを感じた首筋から流れ出しているようにも思え――そして、少女は意識を失った。
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