降臨

 同時刻、飛海フェイハイ閉鎖型環境都市アーコロジーから一台のリムジン推力式浮遊車輛スラスターモービルが姿を顕した。


 磨き上げられ、光沢も麗しい黒塗りのリムジン推力式浮遊車輛スラスターモービルは眼下に口を開ている大穴目指して、猛禽類が遊弋するようにゆっくりと降下していく。まさに大穴と形容するのが自然だ。

 灯台のように閉鎖型環境都市アーコロジー上部の発着場から放たれる、航空機や推力式浮遊車輛スラスターモービルを誘導する光の筋、外殻より照らし出されるのは衝突を避ける為の警告を喚起する等間隔の光。自ら光を生み出し放ち続ける姿は不夜城の如く。

 そして――灯台元暗しとはよく言ったものだ。辺りの荒野でさえ飛海フェイハイ城の光に照らされ、日が落ちたとは思えぬ照度があるというのに、眼下だけはぽっかりと暗黒が鎮座している。違法建築物が犇めき合い、人々の営みの光すら封殺された、夜の玄天街――その外からの景色である。


 深淵へ潜るリムジン推力式浮遊車輛スラスターモービルの姿は貴人を乗せるに相応しく、玄天街に用向きがあるような輩が足を落ち着かせるとはとても思えない。


「メルドリッサ様、本当に玄天街にお降りになられるのですか?」

「――ああ」


 運転手の躊躇も已む無しだろう。後部座席に腰を下ろしているのは真の貴人。飛海フェイハイ城の城主、メルドリッサ・ウォードランである。

 美丈夫は頬杖をつきながら窓の向こう、眼下の暗黒を覗き見る。


「心配には及ばない。……だが、その心遣いは有難い。私はいい部下を持った」

「! ――いえ!」


 涼やかな微笑みと共に、時に爽やかに、時に妖しい声が運転手を労う。魔性のカリスマか、たとえ男色の気がない男性であっても、彼の声は甘い蜜の甘やかさで耳朶を打ち、恥じらいと歓喜の感情を刺激し、人心を掌握する。


 この方にこんなにお褒めの言葉を頂戴してよいのだろうか、それに足る自身であるのか。運転手は、後部座席で物憂げに頬杖をつく王に、感謝と気後れを感じた。


 そのようなやり取りの中でさえ、運転手の腕は熟練の技法でリムジン推力式浮遊車輛スラスターモービルを統べ、徐々に高度を落としていく。決して揺れる事なく、安定感に満ちた手練ドライビングテクニックは、気後れする感情に発破をかけられ、今までの生涯においても三指に入る業前で以ってリムジン推力式浮遊車輛スラスターモービルを操作していた。


 やがて、精密機械さながらのテクニックを駆使し、リムジン|は玄天街の入り口へと辿り着いた。余りに慎ましやかな慣性は、景色を眺めていなければいつ制動していたのか判らぬ程だ。


 玄天街の入り口は寄り添いあった楼閣ビルディングの障壁の間、車輛一台がどうにか入れる程度の路地があるだけだった。

 車輛一台分の余白は外からの物資搬入のためだろう。あとは、仄暗い隘路が迷宮のように複雑怪奇に入り組んでいるのだ。


「では、行ってくる」


 魔宮の入り口にいながら、まるで小春日和の散歩へ赴く気軽さで、メルドリッサは気負いもなくリムジン推力式浮遊車輛スラスターモービルを降り立つ。それが外連でない証拠に、匂い立つ超然とした姿は些かも霞む事がない。むしろ玄天街において、なおも光を増したかのように輝き、仄暗い闇は更にその深さを増したように見える。

 そう、大仙楼に棲まう帝王は足元にじゃれつく玄天街に目線を合わせているだけのような――。


 彼の王たる姿をつぶさに見届けた運転手は、自らの主に万が一など決してないと断言できるほど、本能的に理解した。

 隘路の闇へと歩を進めるメルドリッサの姿が見えなくなるまでの間、運転席に座りながら、彼は無意識にこうべを垂れていた。



 * * *




 獣の息遣いが、暗闇を支配していた。瘴気立ち込める、ここは飛海フェイハイ解放戦線本部――ボブ・ホークの私室である。


 獣の王は、アシミの必死の逃走劇の甲斐あって、砕かれた左の義眼以外には、義体の損傷は認められなかった。だが、彼の心はその限りではない。

 自らの怨敵を前に手も足も出なかった事実、容易く弄ばれ、あまつさえ見逃されたという屈辱――。脳裏に焼き付いた、絶対者たる笑みを浮かべた美貌の王。

 使い物にならなくなった義眼を交換し、左の視界を取り戻したとはいえ、人の誇りは簡単に取り戻せる程、単純なものではない。


 況してや、過去の一切においてボブ・ホークの立場は常に、あの夜のメルドリッサ側――つまり絶対的強者の側に居たのだ。それが、一夜にして自分が蔑み搾取してきた惨めな敗北者と成り果てた。


 彼の苛立ちと屈辱の一切は、今、黒い旗袍チーパオを食い破られた人籠の少女に及ぼうとしていた。噛み締めた屈辱を叩きつけ、淫靡な欲望が鎌首をもたげる。憤怒の感情はボブの本能を刺激し、彼の頭はもはや正常な判断が及ばないのかもしれぬ。


 彼の膨大な容量を誇る本能は、紅い血と白いぎゃくに対する欲求に支配されていた。


 彼の鬼気迫る表情は獲物を生きたまま喰らう肉食獣さながらで、対象となった栗色の髪もつ少女は自らに待ち受ける未来に、愛らしい両眼から滂沱と涙を流し、えやみに罹ったが如くに歯を小刻みに打ち鳴らす。彼女の哀れな姿に若干は気を良くしたか、ボブは舌舐めずりをしながら熱い息を吹き付け、更なる恐怖を煽る。


「……ひぃっ!」


 自らの肢体を抱きしめながら少女は獣の欲動から逃れようとするが、退路は既に断たれて、後退りする事しかできない。健気な生け贄の仕草になおも熱り立ったボブは、壮絶なる喜悦の笑みを浮かべ、彼女の肢体を貪――

 ろうとしたのだが、冷水をかぶるように嗜虐の焔が失せてしまった。


「……っ?」


 回避できない不幸な数秒先を拒むように瞳を固く閉じた少女も、一向にその気配が訪れない事を不思議に思い、瞼を開いた。


 そこに居たのは、数瞬先まで荒ぶる本能に付き従っていた獣とは思えぬほど、茫洋としたボブ・ホークの姿だった。

 彼の本能は今、判然としない何らかの警鐘を鳴らしていた。自らの本能の喚起に従い生きてきたボブにとって、それは絶対の基準であり行動原則でもある。


 ――来るッ!


 強化された聴覚が心地良く響く靴音を、更にそれがボブの元へと近づいている事実を捉えた。


 数を大幅に減らしたとはいえ、ここは飛海フェイハイ解放戦線の本部であり、歩哨の任に当たっている者がいた筈なのだが……。どういう訳か、飛海フェイハイ解放戦線メンバーの鳴らす靴音の音響パターンとは異なる音色が、頭領のボブの寝室へと近づいてくるのだ。


 侵入者か、とも疑ったが、それにしては跫音きょうおんは堂々たる足取りに過ぎた。少なくとも、仮に侵入者が泰然自若と飛海フェイハイ解放戦線本部を徘徊しているのならば、そいつは余程の莫迦か傑物でしかない。


 やがて、扉を隔てた向こう側で靴音が止まった。

 正体不明の相手を透かし見るように、扉を睨みつけるボブ・ホークの背中せなに刻まれた蚊食鳥こうもりの翼が羽撃はばたく。温度感知サーモグラフィーを起動した義眼が、一人の男のシルエットを浮かび上がらせる。


 ゆっくりと、かつては自動扉であった開き戸式の扉が開く。その様はまるで深海の底深くに沈んでいたひつぎが、数百年ぶりの空気に触れたかのようで――。

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