章之伍

曙光

 神門が玄天街に帰還したのは、明くる日の夜に差し掛かろうという黄昏時だった。


 この陽光の恩恵に与れない常闇の街では、朱に染まった太陽を拝むことはできないが、降り立った玄天街七番街は黄昏色に染まり、既に祭の賑わいに包まれていた。

 玄天街の十万億土じゅうまんおくどの二つ名も相応しく、これから始まる陰徳な獣遊びを期待し登楼する客、妓楼の欄干から蠱惑に誘惑する遊女の艶姿あですがた、男たちの緩んだ紐の財布からおこぼれを頂戴しようと露に店を構える者、客引きを行う妓夫ぎゅう、活気的な喧騒の巷は玄天街ではここでしか見られない景色だろう。


 彼らを照らすのは、紅蓮華くれないれんげの赤提灯が見せる人工的な夕闇色の光。紅に染まった光が更に朱の妓楼に照らしだされ、一層赤々と、どことなく退廃と淫靡の馨りを伴ったそれは、熱情の逢魔ヶ刻と言える。


 そんな七番街でも最も喧騒に包まれた、街の中心に位置している華翠館かすいかん。玄天街へと戻った神門は直接そこへ辿り着いていた。


 華翠館の裏玄関の一角で、神門は壁に身体を預けて佇んでいた。眼を閉じ、壁に身を任せつつも、靭やかさとゆるさが満ちた彼の姿には微塵の隙もない。意識してのものではない。たゆまない訓練の果て、たとえ無意識でも周囲に気を配る習性が身についただけの事だ。


 壁の向こうからは、ローツの騒々しくはしゃぐ声が漏れ聞こえてくる。曰く、「きゃーー、身体細ーい!」や、「肌きめ細か!」だの、「髪艶さらじゃん!」などといった塩梅だ。


 目の前には、こっそり日を点けた煙草ごとパイソンが、エリナにバケツの水を浴びせられている。

 煙草自体は、彼の口に挟まれたまま落下の憂き目は免れたものの、ここまで湿気ってはもうむ事は叶わないだろう。

 顰蹙ひんしゅくとしたパイソンの雄獅子のたてがみに似た髪がぽたぽた水滴を足元へと、絶えず落としていく。百獣の王と呼ばれる肉食獣であったとしても、こうなっては形無しだ。水を吸った鬣はパイソンの顔に貼り付き、その様はなんとも悲愴感が漂う。


「あ、そうだ」


 エリナは思い出したかのように声を上げると、神門の方へ向く。


「情報整理してわかりんしたけど、あなたのお父さん、太義タイシー義体公司に幽閉されているようありんすよ」


 俯いて目を伏せていた神門は、少女の言葉にゆっくりと双眸を開き虚空を睨む。

 龍神神門が太義タイシー義体公司を敵に回してでも手に入れたかった、養父の情報。いよいよもって近づいてきたということか。


「そうか……」


 返した一言には――万感の思いが込められていたとみえ、神門の瞳は常に無いほどに熱く、そして冷たい光を宿している。


 ちょうど先程までの壁の向こうで行われていた騒ぎが終わったらしく、扉を開けたローツはパイソンの濡れネズミっぷりに眉をひそめた。


「……パイソン。何やってんの、あんた」

「ビシッ! ローさん、エリナが思うに、煙草の煙が雨雲になって、局所豪雨になりんしたのではないかと」


 敬礼しながら、のたまう娘にパイソンは閉口するしかない。何の因果で自分の稼ぎで買った煙草を禁止される謂れがあるのか……などと口にしたら最後、延々とエリナとローツの説教がステレオで流されるのだ。

 幾度と無く、そんな苦境に立たされ、彼もいい加減に理解したのだ。この二人の前で、煙草を如何様にされても沈黙を保つべし。

 口を開けば、人を呪えば穴二つもかくや、数十倍となってはね返り、重ね重ねた膨大な呪文で神経を鑢がけにされてしまう。


よって、パイソンは何事も無かったかの如く、振る舞う事にした。


「終わったか?」

「ええ。あんまり美人なんで、色々楽しみすぎちゃったわ」


 ローツは恍惚とした様子で、まるで舞踏の振り付けのように大仰に、腕を広げながら虚空を眺めて言った。


「さて、お出ましお出まし~、ハイッ!」


 煽るように両手を上げるローツに、男二人は冷ややかそのもので何の反応もない。


「わ~、どんどんどんぱふぱふぱふ、エリナの胸はまだぱふぱふぱふには程遠い~」


 躁状態ハイテンションなローツと平素通りのエリナの声を呼び水に、扉――遊女の控え室兼衣装部屋である――より、しずしずと貞淑に歩み出てくる人影。秋津衣装キモノドレスに身を包んだ天君咲夜の姿だった。


 秋津衣装キモノドレス神州秋津しんしゅうあきつの民族衣装神州装束しんしゅうしょうぞくをアレンジし、煩瑣な着付け――と呼ばれる着用を簡便化した衣裳である。旧時代かつて、一流と言われるラグジュアリーブランドがこぞって採用した経緯もあってか、独特の艶美さと高級感は未だ根強い人気を誇る。

 華翠館かすいかんのみならず、玄天街七番街の妓楼の殆どが採用しており、この神州秋津の風情を模した傾城町の情景を彩っていた。


 咲夜が纏った秋津衣装キモノドレスは桜隠しの情景も麗しい、春のはな咲く優美さと冬のしろ染まる趣きが重なりあい、高名な絵師が雅致を凝らした一枚の絵図の如き珠玉の逸品だ。ここまでの織物など、玄天街でなくてもそうそうお目にかかる機会はないだろう。

 だが、そんな華美な装いでさえ、彼女自身から発せられる輝きを帯びた気配に華を添えるだけに過ぎない。


 切り揃えられた前髪は左目のちょうど上で分けられ、膝まで長く伸びた色味の移り変わりグラデーションも麗しい御髪みくしは、くびれた腰からなまめかしいラインを描く尻にかけて――髪色が漆黒から桜色へと移ろうとする辺りで束ねられており、古風ながら秋津衣装キモノドレスによく映えている。


 濃艶ながらも、清らかな精美さを併せ持った姿。傾国けいこくの美女と形容された女性たちもこのような二律背反美で魅せ、人も世も魔訪まどわせたのだろうか。


「お待たせしました」


 神門の元へ、楚々とした所作で両の手で掲げ持ってきたのは、華翠館かすいかんに辿り着くまで、直接肌に着ていた神門の軍服だ。衣服の扱いについては無頓着な神門とは比べるべくもなく、几帳面に折り畳まれている。彼女自身の性格なのか、それとも情報端末としての無謬性故か。


「あ? ああ」


 もう何度目になるのか、見惚れて一瞬呆心していた神門は、たどたどしく軍服を受け取ると、迂闊な気恥ずかしさを隠すように、即座に着込んだ。その際、風を孕んだ軍服から薫る、陶酔しかねぬ馨香けいこうは彼女のものか。

 これでは、軍服を着せて誤魔化した面映ゆさの再来ではないか。思わず、気を保つ為に渋面とした表情になるも、いつになく赤く染まった耳は到底隠しきれぬものではなかった。


「?」


 神門を見上げていた咲夜は、少々挙動不審に陥った神門の姿に首を傾げる。それを、一方はまじまじと伏し目がちなまなこで睨むが如くに、もう一方は興味無さげに欠伸をしつつも、しかと隻眼を向けて、見守るエリナとパイソンの親子。


「はいはい、お見合いはお仕舞い!」


 柏手かしわでを二回打ったローツは、場に立ち込めた妙な雰囲気を払拭するように声を上げた。


「先約があったでしょ、神門くん」


 玄天街へと戻った神門がまず華翠館かすいかんに寄ったのは、何はともあれ、咲夜の身に付ける衣類を調達する為だった。偶さかにも居合わせたプレストン親子が、ローツと何やら話し込んでいた様子で、神門の姿にまずは一安心といった表情を浮かべた。後に、傍らに連れ従う咲夜の姿にパイソンが隻眼を丸くしていたのを、エリナが含み笑いする一幕もあったのだが。


 しかし、仮に咲夜がいなくとも、神門は遠からず華翠館かすいかんへ足を運んでいた。ボブ・ホークに飼われた少女を買い取る為に、だ。


 女衒の出した二つの条件通り、神門は修羅道を生還し、預かり知らぬところではあったが、ローツが更に三万天円ティエンイェンを上乗せする事で倍額となった、六万天円ティエンイェンの用意も既にある。売買契約としては不足ない。

 玄天街で売買という基本的な契約すら履行できぬとなれば、ボブ・ホーク自身の格を下げ、二度と現在の地位に返り咲く事は不可能であろう。


 いくら暴君なれど、恐怖以外で人心を掌握できぬ器とあれば、ただの一頭の獣でしかない。六番街を手に収める器量は、ない――という事他ならない。尤も、ローツから見れば、現在でも六番街を統べるに相応しいかどうかの是非は、考えるまでもなく否であり、そこに疑問の余地はない。


「まあ、休む暇なくて悪いが、反故にされても困るしな?」


 とはいえ、完全に信用ならない相手ではある。大仙楼から脱出している事は把握していたが、すぐに神門が戻れない場合を見越して、ローツはパイソンを連れて行こうと華翠館かすいかんに呼んでいたのだ。


「…………」


 こくり、と首肯すると、神門は華翠館かすいかんの扉を開く。既に、玄天街の外は夜の帳が下りている。玄天街七番街の毎夜ごとの謝祭は最高潮を迎えており、扉を開けた途端、喧騒が耳を劈くかと思われるほどに押し寄せてきた。


「いってらっしゃいませ」

「いってらっしゃい、旦那様」


 無言で神門、つづいてローツが片手を上げつつ、扉の先へと消える。


「誰が旦那様だ、バカ」


 毎日の事にも関わらず、律儀に突っ込みの手を入れながら、最後にパイソンが扉を閉めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る