章之伍
曙光
神門が玄天街に帰還したのは、明くる日の夜に差し掛かろうという黄昏時だった。
この陽光の恩恵に与れない常闇の街では、朱に染まった
玄天街の
彼らを照らすのは、
そんな七番街でも最も喧騒に包まれた、街の中心に位置している
華翠館の裏玄関の一角で、神門は壁に身体を預けて佇んでいた。眼を閉じ、壁に身を任せつつも、靭やかさと
壁の向こうからは、ローツの騒々しくはしゃぐ声が漏れ聞こえてくる。曰く、「きゃーー、身体細ーい!」や、「肌きめ細か!」だの、「髪艶さらじゃん!」などといった塩梅だ。
目の前には、こっそり日を点けた煙草ごとパイソンが、エリナにバケツの水を浴びせられている。
煙草自体は、彼の口に挟まれたまま落下の憂き目は免れたものの、ここまで湿気ってはもう
「あ、そうだ」
エリナは思い出したかのように声を上げると、神門の方へ向く。
「情報整理してわかりんしたけど、あなたのお父さん、
俯いて目を伏せていた神門は、少女の言葉にゆっくりと双眸を開き虚空を睨む。
龍神神門が
「そうか……」
返した一言には――万感の思いが込められていたとみえ、神門の瞳は常に無いほどに熱く、そして冷たい光を宿している。
ちょうど先程までの壁の向こうで行われていた騒ぎが終わったらしく、扉を開けたローツはパイソンの濡れネズミっぷりに眉をひそめた。
「……パイソン。何やってんの、あんた」
「ビシッ! ローさん、エリナが思うに、煙草の煙が雨雲になって、局所豪雨になりんしたのではないかと」
敬礼しながら、のたまう娘にパイソンは閉口するしかない。何の因果で自分の稼ぎで買った煙草を禁止される謂れがあるのか……などと口にしたら最後、延々とエリナとローツの説教がステレオで流されるのだ。
幾度と無く、そんな苦境に立たされ、彼もいい加減に理解したのだ。この二人の前で、煙草を如何様にされても沈黙を保つべし。
口を開けば、人を呪えば穴二つもかくや、数十倍となってはね返り、重ね重ねた膨大な呪文で神経を鑢がけにされてしまう。
よって、パイソンは何事も無かったかの如く、振る舞う事にした。
「終わったか?」
「ええ。あんまり美人なんで、色々楽しみすぎちゃったわ」
ローツは恍惚とした様子で、まるで舞踏の振り付けのように大仰に、腕を広げながら虚空を眺めて言った。
「さて、お出ましお出まし~、ハイッ!」
煽るように両手を上げるローツに、男二人は冷ややかそのもので何の反応もない。
「わ~、どんどんどんぱふぱふぱふ、エリナの胸はまだぱふぱふぱふには程遠い~」
咲夜が纏った
だが、そんな華美な装いでさえ、彼女自身から発せられる輝きを帯びた気配に華を添えるだけに過ぎない。
切り揃えられた前髪は左目のちょうど上で分けられ、膝まで長く伸びた
濃艶ながらも、清らかな精美さを併せ持った姿。
「お待たせしました」
神門の元へ、楚々とした所作で両の手で掲げ持ってきたのは、
「あ? ああ」
もう何度目になるのか、見惚れて一瞬呆心していた神門は、たどたどしく軍服を受け取ると、迂闊な気恥ずかしさを隠すように、即座に着込んだ。その際、風を孕んだ軍服から薫る、陶酔しかねぬ
これでは、軍服を着せて誤魔化した面映ゆさの再来ではないか。思わず、気を保つ為に渋面とした表情になるも、いつになく赤く染まった耳は到底隠しきれぬものではなかった。
「?」
神門を見上げていた咲夜は、少々挙動不審に陥った神門の姿に首を傾げる。それを、一方はまじまじと伏し目がちな
「はいはい、お見合いはお仕舞い!」
「先約があったでしょ、神門くん」
玄天街へと戻った神門がまず
しかし、仮に咲夜がいなくとも、神門は遠からず
女衒の出した二つの条件通り、神門は修羅道を生還し、預かり知らぬところではあったが、ローツが更に三万
玄天街で売買という基本的な契約すら履行できぬとなれば、ボブ・ホーク自身の格を下げ、二度と現在の地位に返り咲く事は不可能であろう。
いくら暴君なれど、恐怖以外で人心を掌握できぬ器とあれば、ただの一頭の獣でしかない。六番街を手に収める器量は、ない――という事他ならない。尤も、ローツから見れば、現在でも六番街を統べるに相応しいかどうかの是非は、考えるまでもなく否であり、そこに疑問の余地はない。
「まあ、休む暇なくて悪いが、反故にされても困るしな?」
とはいえ、完全に信用ならない相手ではある。大仙楼から脱出している事は把握していたが、すぐに神門が戻れない場合を見越して、ローツはパイソンを連れて行こうと
「…………」
こくり、と首肯すると、神門は
「いってらっしゃいませ」
「いってらっしゃい、旦那様」
無言で神門、つづいてローツが片手を上げつつ、扉の先へと消える。
「誰が旦那様だ、バカ」
毎日の事にも関わらず、律儀に突っ込みの手を入れながら、最後にパイソンが扉を閉めた。
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