胎児
身体中を駆け巡る鈍い痛みを呼び水に、神門は深淵の闇の中覚醒した。どうやら打撲による痛みのようだが、奈落へと落ちてきたにも関らず、これといった重傷もなく生を拾っているのは僥倖という他ない。
じわりと身体に染み入ってきそうな冷たさが襲いかかる。殆ど、裸といってもいい状態では、僅かな温度の低下も身震いする寒さと化す。
――ここは?
立ち上がった神門は辺りを見渡すも、殆ど光が差し込まぬ奈落の闇はどれほどの広さがあるのか見当もつかない。
ただ、足元に沈殿した白い靄だけが淡い光を反射している。この靄が体温の簒奪者だったのだろう。今なお、足元から身を苛む寒さは、生者の温かみを羨み絡む。
氷月教授より渡されたPDAを取り出すと、モニタ画面のバックライトを光源にして、辺りを見渡す。光源にしては心許ないとみえ、だが、まともな光源がないと言ってもよい闇間では、幽き灯りでさえ明るく見えた。
高くない光量ではあったが、狭い範囲を照らすには不足せず、時間を少々使いつつも奈落の底を透かし見る。
かなり広めの空間で、石筍に似たオブジェ以外は特に見当たるものはないようだ。当然と言えば当然だが、上を仰ぎ見ても、録な光源もない状況では吊り橋さえも視認は叶わなかった。
更に、辺りを見回しつつ、どこかとなく歩き出す。
虎狛と
しばらく――と言っても、実際は感覚ほど長い距離と時間ではなかったのかもしれない――進むと、行く手を阻むように断層面に似た壁が現れた。おそらく、頭上にある、今は仰ぎ見る事もできない吊り橋の両端のどちらかだろう。
近づき、仔細に見てみれば、人が通れそうな横穴が口を開いていた。
虎穴に入らずんば虎子を得ずとはよく言ったものだ。眦を決して入り込む。片手を壁で支え、慎重に摺り足で歩を進めると、ほどなく先程の広間と同規模と思しき空間に辿り着いた。
代わり映えのない景色と思えて、しかし、明確に異なるのは、頭上を覆う天蓋と、神門の体躯の半分ほどを占める大きさの鈍色のコードが辺りに雑然と存在している事だろう。思えば、規模は拡大されてはいるが、三神官が胎盤と呼んでいた場所に酷似している。
鈍色のコードは、先の神門と虎狛に絡みついていたものと同じく、蠕動する度に内側を蛍火が趨り抜けている。
その帰結するところは広間の中央に位置する石灰華柱のオブジェだ。今まで見たものと異なるのは、中央辺りに巨大な樹脂か宝玉を思わせる膨らみが存在し、そこへ蛍火が集ってゆき、鼓動のように断続的に鈍く光っている。
その様はどこか子宮か繭のようでもあり……。そういえば、光る塊の中に何かが――人では決してない巨大な何かが透かし見えたような……。
眼を細め、その詳細を覗き見ようとした神門は、
強烈な音と風圧を不意に受けた人間は、反射的に殻にこもるように身体を丸めるという。神門も例外ではなく、無意識に頭を庇う体勢で身を竦めた。
爆風は神門の体躯を煽り、彼の体重を超える圧力を与えてきた。結果、一瞬重力を裏切った体躯は、風圧の為すがままに数メートル飛ばされると、衝撃のまま床面を転がる。
鮮烈ではないものの、芯に染み入るような痛みに抵抗しながら、神門はよろよろと立ち上がる。痛みに掻き乱された平衡感覚に膝が笑う様は、生まれたばかりの鹿の子か。
――まさか、奴らか?
不吉な未来予想図が頭をよぎる。だが、幸運な事に彼の予想は外れた。
爆風の彼方から現れたのは、一八メートルほどの航宙航空戦闘機の姿だった。
洗練された先鋭的シルエットを持つ航宙航空戦闘機は――宇宙空間における迷彩か、
クリップトデルタ翼と
なるほど。些か乱暴なご登場だが、これこそ、氷月教授が言っていた、神門の手に収まっているPDAを追跡してきた『迎え』で相違あるまい。
神門の上空で静止すると、紙飛行機がほどけたように姿を変化させる。
クリップドデルタ翼の下部と上部の中腹から翼端部分が本体から分離するように離れ、更に二つに分裂、本体よりの一方は大腿部、外側のもう一方は下腿部となり、逆関節の脚部へと変形した。
クリップトデルタ翼特有の欠けた翼端部分からは
つづいて、本体から尾翼の無い後尾がずれるように持ち上がる。
最後に、先程、脚部と切り離されたクリップドデルタ翼の残りが分割し、肥大し先鋭化した肩をいからせる機械の獣と化した。
顕れた異形の二足歩行動物の陰翳は遥か太古、或る惑星に棲息していたという獣脚類に似ていた。太古の時代を支配した獣脚類――恐竜は、世界の寵児を人類に明け渡し、天を翔ける鳥類へと化したという。そう思えば、機械仕掛けの人造の鳥類が、太古の姿へと先祖返りしたように見えなくもない。
変形する機体が発する軋む轟音が、あたかも咆哮のように伽藍に響き渡る。
可変航宙航空戦機兵――略して、機兵。MBと設計思想を異とする、現代兵器の姿である。
左右にチェーンガンを付随させた
前部座席に身体を落ち着けると、目の前のディスプレイに銀河標準文字のロゴで『SACU-YA』と描かれ、下に小さく『Special Airframe Control Unit-YA』と書かれた画面が映っている。
『はじめまして、龍神神門様。特殊機体管制ユニットYA、
鈴鳴るような女性の声が聞こえた。どうやら自己紹介通り、この機兵に搭載されている機体管制ユニットであるらしい。
画面表示された機体情報を眼で追いながら、氷月親子の救出が可能か検討する。如何せん、今の彼には情報が少なすぎる。
『動体反応。三を感知』
意識の深層に足を沈めていた神門に注意を喚起させるサクヤの警報。三つの動体反応といえば、今の神門の心当たりは一つしかない。脳裏に浮かぶ凶兆の白い衣を纏った、三柱の逸脱者。
『――来ます』
神門は形而上的な何かの導くまま、風防の向こう側より飛来する白い衣を見る。はためく法衣の主は、グラウム。六ツ指を持つ白貌の神官。風防を貫通し、突き刺さる視線は視覚を感光せしめる妖光に燃えている。
姿を確認すると、神門は一切の躊躇なく銃爪を引く。
頭部に仕掛けられたビームマシンガンの銃口から、神門の感情をのせた
詰め寄ろうとしていた距離が開く。銃弾の圧力に負けてか、翻したグラウムだったが、対物の域にまで鍛え上げられた銃の威力でさえ、その矮躯どころか法衣にすら些かほどの傷さえつける事ができなかった。
如何なる魔術か。神官は六本指を開き、光の瀑布を己の前に展開していたのだ。瀑布の水圧に銃弾は逆らうも、その推進力が尽きると、虚空へと堕ちていった。
グラウムより後方の闇から躍りかかってきたのは、碧い神官メルトールだ。その手より放たれた波打つ蛇の光線は、赤に蒼に色を変えながら神門に襲いかからんと呀を剥く。
「ぬっ!」
当惑の声はグラウムのものだった。
広間の中心に位置している石灰華柱、それと同化した繭に亀裂が走った。中から蛍火が床面に滴り、燃え揺らめく。殻を破られた卵の有様となった石灰華柱に、その場にいた全ての者が眼を見張り、固唾を呑む。
罅割れた繭から、機兵に準ずる大きさの何物かが苦しみに狂い悶え、蠢く影が映る。陸に打ち上げられた魚よろしく、切実に何かを求め訴え掛けるように、
しかし、溺れながらも発する神々しいとさえいえる存在力は、空間を支配し、全ての者を身動きできない沼へ引きずり込む呪縛を与えてきている。
罅割れ欠けた殻の内より何かが伸びる。
異生物の遺骸を連想させる姿。
生まれ這い出た遺骸の瞳なき眼窩が、ちょうど近くにいた機兵を捉え、生者に縋りつく亡者の如く未完の手を伸ばし、ひたっ……と
途端、
『アラート!
サクヤのAIとは思えぬ切迫した声色と、警告音が
「おのれ!」
叫びと共に、メルトールの両手から空間を横断する雷霆が走った。だが、空を横薙ぎにする雷も『それ』に対してはおののいたのか、周囲を覆うように躱して、奥の壁面へと突き刺さった。
蟻の巣ほどの孔から
「うぬ……」
さしもの逸脱者たちも、突然の風に吹き飛ばされぬよう身を屈めた。空間に身体を縫いつけたのか、場に固定した三柱だったが、そのままの状態では身動きが取れぬとみて、『それ』を睨むように見つめている。そして、彼らが見つめる中、機兵を呑み込んだ胎児は押し流され、壁面の向こう――無限に広がる大宇宙の闇へと墜ちていった。
「なんという事……」
はためく法衣のフードの下から、茫然自失といった様子でリシトルの朱唇が呟く。
ようやく、大気が宇宙の大穴に吸い尽くされたらしく、身の自由が確保できた三神官は壁面の大穴へと近づく。
極寒の真空――酸欠死の前に
彼らが見つめえた大穴の先の宇宙空間、底に広がる巨大な球の一部。
惑星カロウデの地平だ。その一点で赤く尾を引く光がある。
彼らの瞳は光に惑わされる事なく、光の正体が重力に引かれて墜落していく胎児と看破していた。
「まずいな。今の状態では迎撃衛星に撃ち落とされかねん」
大気が満ちていない宇宙空間であるにも関わらず、彼らの声は頓着せず常と同じく辺りに拡散していく。
『いえ、迎撃衛星は一時的に機能停止させています』
振り返ると、いつからそこにいたのか。立体映像の僅かなノイズを表面に走らせて、金髪の吸血鬼が超然たる微笑みを湛えていた。
「メルドリッサ――」
戸惑うようなグラウムの声無き声。
『大気との摩擦熱と落下の衝撃に耐え切れるのならばですが――カロウデへと落ちます。落下予想地点へ回収部隊を用意させましょう』
どうにも手回しが良すぎる。向けられた訝しげな視線に気がついているのかいないのか、
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