野生
無言の睨み合いは時間にして僅か数秒に過ぎなかった。
切っ掛けを齎したのはアシミ。
彼の義体に搭載されたズームパンチ機能の射程は六メートル。
脳内チップによる通信で、ボブより下知を与えられたアシミは、ちょうどぎりぎり射程内にいた警備兵に拳を叩きつけた。
顔面を陥没する程の破壊力をもった鉄拳は、しかし
だが、暴君率いるケダモノの群れは、アシミの開戦の号砲を契機に周りを取り囲む警備兵に襲いかかった。
暴君の鉤爪が機化処理された警備兵をいとも簡単に八つ裂きにする。
警備兵のライフルで鋼化頭蓋ごと脳を貫通されたケダモノが息絶える。一方でケダモノが臓腑にたかるハイエナのように警備兵にたかり、哀れな悲鳴が谺する。
修羅の乱闘を睥睨する帝王からは、警備兵が次第に圧され、数を減らしていくのが手に取るように見えるはずだが、彼は涼しげな笑みをこぼしたまま。
異様と言えば異様だ。
警備兵たちが鏖殺されれば、獣の群れの眼は次にメルドリッサへ向かうは明白。だというのに、彼は場違いなほどの余裕で以て眼下の狂宴を見守っている。
やがて、宴は収束へと向かいつつあった。獣の王の鬼火が宿る瞳が、天壌の王を見据えた。次にちらりと見たのは、メルドリッサのちょうど下付近にある、警備兵が落としたと思われるカービン銃。
機化した
銃を撃つという行為自体は、義体だろうが生身だろうが、そうそう変わるものではない。
狙いを定めて撃つ。銃を撃つという行為の帰趨するところとはそれだ。だが、それならば強化された四肢を振るう方が疾い。そういう判断で捨てられた銃が誰ぞの足にぶつかり、ここまで滑ってきたのだろう。
ボブの本能は彼我の距離から、カービン銃の掃射が最も手っ取り早いと判断した。
両者が動いたのは同時だった。中二階から飛び降りるというより蹴り降りたメルドリッサ。地を這う前傾姿勢で、天鵞絨のカーペットを抉りつつ趨るボブ。
獣の差し伸べた右手の指先がカービン銃の銃把に触れた瞬間、メルドリッサの両脚が彼の右腕を挟み込み撚る。
行動を認識する前に、先んじた野生の警鐘に従い、腕を退く事で、危うく腕部の損壊を免れた獣は仕切り直しを図り、弾ける勢いで後ずさる。
泰然たる様子はそのままに、メルドリッサは右の手刀を斜に構え、左腕は背中に回している。それは、弟子に稽古をつける師父の出で立ちに似て――
ボブの勘に障った。
歯軋りの音を立て、ボブは熊の威嚇のように両腕を広げ、メルドリッサを覆い尽くすような構えを取る。
力みに撓みに撓んだ人工筋肉が開放を待ち望むのを、更に撓ませる。ボブをして最速の一撃は弧を描く軌道でありながら目に留まる速度を超え、もはや音さえ突き放し、袈裟斬りに身体を刔ったと見え、メルドリッサの身体は半歩位置をずらして暴圧をやり過ごした。
獣は勢いのまま身体を捻り、反動から更に手刀を重ねる。
潜るように躱す帝王に、重ね重ねて猛獣の爪牙が王の骸も残さず切り刻まんと、暴風の連撃が迫る。
鋭い蹴りで大気が爆ぜ、鉄拳の風圧が辺りを粉砕するも、帝王には決して届かない。
むしろ、回避により
清流の躍動はやがて渦巻く水流を倣ってか、側転に旋転を交え、麗々しさを魅せる。捕らえきれない疾さではない。
確かに、生身のそれよりは隔絶している。だが、獣の速度域で繰り広げられる野生の動きを、完全に見切った動きはなんだ。
不意に、メルドリッサの
ぞくり、と獣は産まれて始めて、脊髄が氷に浸されたような、寒々しい感触を味わった。
――恐怖。或いは、絶望感だろうか。初めて味わう感情に、獣の心中は恐慌の寸前にあった。
だが、それを押し留めたのは自らこそ魔都の王であるという激烈な矜持だった。
持ち得る妄執と殺意を
際どく躱した帝王に更に連鎖して獣の爪先、踵、足刀が襲う。後退する帝王を追い、ボブは足を止めずに追いかける。時折、頭蓋や胸部を狙い、鉄拳や鉤爪が飛ぶ。
勢いを取り戻した魔獣はその猛威を振るい帝王に喰らい付く。衣擦れと風の音が両者を包む中、カン――とボブの聴覚が何かを捉える。だが、もはや魔性の塊、忘我の域にあったボブは足を止めたメルドリッサの首元を掬う軌道で貫手を趨らせていた。
――もらったぞッォォオオオオ! その脳髄ごと宙を舞えェエエエエエッ!
心の声すら獣の咆哮じみたボブの殺意は、果たして王の髪を撫でるだけに終止した。
なまじ狙いが正確だったために、首を逸らすだけで貫手は外され、そして、次の瞬間、頭蓋を揺らす衝撃で暴君の視覚の左半分が闇の帳に包まれた。残された右の義眼が見たのは、先ほど右手が触れたカービン銃の姿。
帝王は、カービン銃のストラップを足に引っ掛け、虚空へ蹴り上げたそれを手に収めると、鈍器に見立てて獣の頭蓋へと叩き込んだのだ。粉砕されたカービン銃の向こうから浮かぶ、嘲弄するかのような涼やかな笑みが網膜に貼り付く。
「大将ッ!」
メルドリッサの四方を囲む荒くれ者どもの拳脚は空を切るばかりか、美事な
数瞬後には、残るはボブに迫る
だが、僅かな時間で体勢を整えたボブは、メルドリッサの秀眉な顔面の皮ごと前頭部を引き抜かんと、ストレートパンチの要領で爪を伸ばす。同時、脳内チップにより主の行動を把握したアシミが、暗器として左掌底に仕掛けた仕込み銃の銃口を突きつける。
「ハァハァ……」
「はぁはぁ……」
「…………」
はたして、鉤爪と銃口はそれぞれ王の頭蓋の数センチ手前で止まった。何故なら、MBの装甲すら貫通しうる、大口径の拳銃――シユウR99Rが暴君の頭蓋を狙っていたのだ。
解放戦線メンバーでこの銃を愛用している者がいた事をボブは思い出した。もっとも、現在本来の持ち主は地を舐めてはいるが。
ボブほどの
喘ぐように酸素を欲しているのは、ボブとアシミ、二人の
無論、義体の駆動で酸素を必要としたのではなく、極度の緊張状態で神経をすり減らした脳が、酸素を要求した際の生身の名残に過ぎない。ほどなく、機械的に酸素の供給がなされ、この息切れもなくなるはずだ。
荒い息遣いが空間を支配する中、眼を細めたメルドリッサが掴んでいた拳銃を――手放した。想像の範疇を超えた意外な行動を思わず見送ってしまった
僅かだが、それは明らかな空隙で――
判断に一瞬
だが、銃爪を引くという脳の勅命に義体が従うまでの僅かコンマ数秒を縫うように、メルドリッサは火線の外へ身を翻した。
アシミと同時に、暴君もまた右の鉤爪を改めてメルドリッサの顔面へ、更に時間差で左の鉄拳を胴体へ向け、左右で挟み込んで潰さんとしていた――のだが。
鉤爪は目標を失い、大気を裂くだけにおさまった。それだけに留まらず、翻りつつ放たれた二指が獣の顎を引っ掛けるように捉え、振り抜かれる。脳が攪拌され、残る左の拳も目標到達までに力を失い、魔都の王の
いくら
とはいえ、魔獣の域にまで足を踏み込んだボブも、流石は音に聞こえた
刈り取られた意識と分かたれた本能が、瞬間、身体を支配し足を跳ね上げさせた。それは、平素の彼の蹴撃と比べればそよ風にも等しいものだが、帝王にとっても予想外だったとみえ、ここにきて初めて腕を使い防御の姿勢をとった。
もし万全で放たれたものであったらば、腕を貫通し脊髄を破壊する圧力があったのは間違いない。彼の本能は、先祖返りした遺伝子からの賜物であったのかもしれない。
この間、アシミは呆然と魅入ってしまった。獣の王のなんと雄々しく、
そして、目を離せなかったが故、予想外の反撃に
傲岸不遜にして、届かぬ地平にいると思っていた獣が崩れようとする姿を見て、身体が無意識に動いた。
自らの王が倒れる前に受け取り、逃走を図った。判断も何もない。
すぐに体勢を立て直したであろう背後の帝王すら脳内からは抜け落ち、非常階段への鉄扉を体当たりで蝶番ごと外すと、一気に駆け下りていった。
「ほう、なかなか……」
追撃は充分可能だったのにも関らず、獣の主従が姿を消す姿を見送りながら、帝王は感嘆の笑みをこぼしていた。全力ではなかったとはいえ、最後の予想の埒外から放たれた蹴撃には目を瞠った。
思わず腕で防いたが、本来、あれはその程度で受けきれるものではない――と、メルドリッサは看破していた。
所詮、地を這うケダモノの
だが、だからこそ、面白い。
僅かな可能性に切り込む野生の
とりわけ、生に倦みそうな我が身ならば。
愉しそうに微笑むと、エレベーターへと目を向ける。二階より登ってきたかごが、間もなく到着しようとしていた。
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