取引
「ぁあ? 呑めるか、そんなもん!」
ボブ・ホークが苛立った心のまま投げた酒の入ったグラスが、亜音速域で部屋を横断する。グラスが壁に至るまでに大気との擦過で蒸発し、焦げたアルコールの芳香が辺りに充満した。そして、グラス自体も途中で破裂したようで、散弾のように細かいガラス片が対面の壁に突き刺さっている。
彼が侍らせている愛妾の少女は、突然の主の激高に身体を戦慄かせている。
対面にいるのは、ローツ・パトリシア・キャリコと、その護衛にして秘書である
だが、流石は七番街の顔役といったところだろう。ローツは火薬庫で紫煙を嗜みつつ、飄々とした態度を変えようとしない。
「六万
驚くべき事に、ローツは神門に託された金額に加え、更に自らの資産から増額していたのだ。これには、少女の気品からくる麗しさと仕草を直で見て、
「はぁ、あんた、そこまでお気に入りなのね。だけどね……。こちとらいい
商売の上では上客であるが、玄天街を手に収める障害でもあるローツに、ボブがよい感情を持っているわけもない。
「寝ぼけたいなら、墓石の下で寝ぼけさせてやろうか? ァア?」
ごきり……とボブ・ホークの関節が獰猛に吼える。相対する李は静謐ながらも、体躯が緊張感を保った弛緩を見せている。その姿は、スタンスは異なりながら、撃鉄による開放を焦がれ待つ銃弾に似ていた。
「じゃあ、あんた、次の作戦には神門ちゃんを使えなくてもいいのかしら?」
ここ――ボブ・ホークの根城に来るまでに、ローツは華翆館の主ではないもう一つの顔……情報屋としての側面から、事前に情報を集めていたのだ。すると、ボブの手の者が武器や弾薬、MBパーツに義体パーツまで買い込んでいる事を突き止めた。しかも、その量たるや、先日の襲撃の比ではない。正式軍の一個小隊と正面から事を構えられる武装を揃えているのだ。
自然、帰するところは明々白々、近い将来に大きな作戦があるという事他ならない。
そうなれば、凄腕MBライダーである神門の存在は不可欠だろう。なんといっても、先日の作戦にしても単体であれ程の激闘を生還せしめた手並みは、そうそう真似できるものではない。
「あいつは、パイソンの処にいてる。お前には関係ない」
「フフッ、あいつが承諾するかしらね。結構義理堅いところあるからね。娘の世話をしている私。あんた。さて、パイソン・プレストンははたしてどちらの顔を立てるでしょうか?」
「――チッ!」
そもそも、基本的に六番街と七番街の住民は反目し合っているといっていい。事務所と居を七番街に構えるパイソンがどちらを取るか……考えるまでもないだろう。
その時、ボブ・ホークの野性的の嗅覚が、えも言われぬ何かを嗅ぎ取った。
「なら、その六万天円と、あのミカドだったか? ――野郎が今予定している作戦に参加して生き残れたら……どうだ? その報酬にこいつをくれてやる」
「――ふぅん?」
当然ながら、ローツは神門の依頼で人籠の少女を買い取ろうとしている事は、口説どころか態度にも出していない。ならば、どうして、そのような条件を付けたのか。
ボブ・ホーク自身とて、何故自分がこのような条件を付けたのか、説明する事ができない。ボブは自身が一番信頼している、己の野生からの囁きに従っているだけなのだから。
「でも、それだと神門くんは報酬なしで死地に赴く事にならない?」
「じゃあ、この話はなしだな」
すげなく言い放つと、ローツはしばし考えて結論づけた。
「オッケー。じゃあ、先行投資という事で、彼の報酬はこちらから払いましょう。まあ、これだけの別嬪さんなら、あとからお釣りが来るでしょ」
そう言うと、用は済んだとばかりにローツは立ち去ろうとする。流血沙汰を避け、なんとか落としどころを見つけた。ローツ自身としては、うまくいけば将来有望な遊女を三万天円弱で一人買い受けできるとなれば、悪い取引ではない。
扉の向こうへと消えようとしているローツと李の背中に、
「奴が本当に生きて帰れると思うのか?」
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