亡霊

 昼過ぎになり、神門が自警団の仕事へ出かけていくと、パイソンとエリナの親子は事務所の地下ガレージに鎮座したコンピュータ端末の前へと赴いた。ガレージは、端末と布をかぶった機械装置と思しき物体以外には何も無いが、この二つの物体だけで、広いとはいえない敷地は支配されていた。


 脳内チップによる情報処理が最早珍しいものでもなくなった現代においてなお、パイソンは旧式の情報処理端末を信頼していた。

 むしろ、脳内チップを完全に使いこなすには、機械式の情報処理端末との連携が肝要なのだ。脳内チップが齎す利便性の前では機械式情報処理端末は足元にも及ばないだろう。だが、脳内チップは人間の脳に直接埋め込まれている。


 侵攻没入者ダイブクラッカーによる直接攻撃や対侵入者駆逐電子白血球Anti-intruder eXpulsion Electronic Leukocyte――略してAXELアクセルによる攻勢防御や、致死性電子トラップといったものに極めて。実際、それが原因で致死量の情報に晒されて廃人と化す者は後を絶たない。

 だからこそ、突っ込んだ事クライムハッキングに使うのなら、少々不便だろうが、すべからく機械式情報処理端末に連結するつなぐべきなのだ。


 そもそもパイソンの脳にチップは埋め込まれていない。通話の為にわざわざ携帯情報端末PDAの通話アプリケーションを使用していたのは、そのためだ。

 脳内チップは、新生児の段階で埋設しなければ『脳内チップの使用法』を脳が学習しない。生まれながらに目を盲いている者が、外科的手段で視覚を獲得しても、結局のところ色境を持て余すことになる。脳が『視界という感覚がない世界観』で完成してしまっているので、後付けの感覚に頭脳が対応しきれないのだ。それは義体処置者サイボーグにしても同様だ。既知の感覚の延長線上を『後付け』で増やす事は出来ても、元から無い感覚を増築する事は叶わない。


 パイソン・プレストンは『脳内チップによる恩恵を預かっていない時代』の人間である。従って、彼自身は例え脳にチップを設置しても、使用は叶わない。


 この情報端末の脳内チップリンク装置は、娘であるエリナに用意されたものだ。脳内チップ処置者が直接リンクするために使用するステージにエリナが立つ。


 彼女の立つ場所は人一人が立てる程度の広さしかない。

 ジョイントステージを介した接続――ジョイントリンクと呼ぶのだが、それはステージ毎に単独で使用しなければならない。何故ならば、ジョイントステージ一台に対し、複数人が使用するとリンクが混線し、脳内チップの完全没入フルダイブアクセスに悪影響を与える。

 その為、一つ一つのジョイントステージにジョイントリンク直前に使用者チップIDを登録し、万が一にもジョイントステージに複数人が立っても、使用時登録したチップID以外はリンクしないよう防護機構が備わっている。


 今回は電算空間に意識を預ける完全没入の必要はない。神門が乗っていたサイクロップスを追跡したデータの解析結果を抜き出すだけならば、通常のリンクアクセスだけで事は足りる。


 ジョイントリンクを開始すると、ステージに立ったエリナの周りを囲む形でオレンジ色の光がグリッドを作り出し、四角い空間投影エアウインドウが螺旋を描いて踊り出す。だが、ジョイントステージに立っている娘を見上げているパイソンの単眼には映ってはいない。それらは、拡張A現実R化された――つまり、エリナの脳内チップが視神経に直接作用して見せる虚構のイメージであるからだ。

 仮にパイソンが脳内チップ保有者であったならば、チップの設定――エリナが第三者の閲覧を許可、及びパイソンが閲覧許可されたモニターを見えるよう設定した場合――次第で見えたのだろうが。


 エリナは躍るようにデータアクセス、すぐさまそれらの解析を行う。

 エリナの脳内チップとリンクした据置式電脳処理システムが、単体の二倍以上に加速した情報処理速度で、データを精査していく。処理速度の程を知らしめて、銀髪の少女を囲むモニター群は目に捉えきれない速度で連環し、最早、光の帯となって、さながらエリナを惑星として幾重にも束ねられたの様相をていしている。

 エリナも、既に動体視力を超えてと化したモニター群を見てはいない。高速演算を行う脳内チップはエリナの命令通りに着々と処理されている様を、頭に響く独特の感触で感じているのだ。こればかりは、脳内チップ保有者でないと分からない感覚だろう。


 処理は五分ほど続いたか。処理整理されたデータは3D処理されて情報端末に蓄えられた。


「――ふう」

「ご苦労」


 ジョイントステージから降り立ったエリナは、パイソンに撓垂れかかった。エリナは煙草を吸っていない父の匂いが好きだった。

 匂い――嗅覚は、記憶の想起と特段に結びつきが強いといわれている。プルースト効果により、少女の意識は一瞬にして父と出会った、そして親子となった日へと旅立つ。無精髭は剃らず、言っても煙草をやめず、仕事も隙を見てはサボろうとする……と悪い面を数えれば切りがない。

 しかし、エリナはパイソンという男に全幅の信頼と愛情を傾けていた。


 面倒そうなしかめっ面を変えないパイソンではあるが、隻眼がいつになく優しく見えるのはエリナの見る幻ではあるまい。表情の変化に乏しい少女だが、今は日頃ほぼ一定に保っている顔筋を弛緩させ、まるで人懐っこい猫のような有様だ。


「エリナ疲れんした。ごほうびにせっぷんをしておくんなんし」

「…………はあ。目閉じろ」

「……んっ」


 素直に目を閉じる娘に、ヨコスカジャンパーのポケットから玄天街には滅多に入ってこないガナッシュを取り出すと、そのすぼめた口に突っ込んだ。


「……甘い」


 希望の行為ものではなかったがエリナは満足した様子で、一口大のガナッシュを口中で転がす。薄く笑んだ口元がなんとも愛らしい。丸いガナッシュは、クーベルチュール・チョコレイトでコーティングされたトリュフ・チョコレイトだ。明らかな高級品で、保存期間もそれほど長くない。玄天街で一個手に入れるだけでも至難の業であろう。


 ガナッシュを味わう為、それきり黙ってしまった少女を尻目に画面を覗き込んだパイソン。そこには、昨夜の神門が乗っていたサイクロップスの3Dデータが表示されていた。

 映像は、監視カメラの視点不足箇所を補完し、昨夜の激闘を再現していた。データ上のものとはいえ、緻密に再現された3Dデータの躍動感は真に迫ったものがあり、無機質な電子情報であるにも関らず、視覚に生々しさを訴えかけてくる。


「巧いな。年齢としを考えると驚異的と言ってもいい」


 稲妻状のダッシュの切り返しの多さ、旋回時の回転半径も最小に近い、爆斬鉈ばくざんしゃの扱いも堂に入っている。MBの蹴りを実戦で使用するなど、高等技術にも程がある。

 が、言ってしまえばだ。MBや通常兵器に対する戦闘ではまず遅れをとる事はあるまい。あくまで、そのレベルまでは。


 パイソンは――半ば分りきっていた事ではあったが、結論づけた。龍神神門はノスフェラトゥではない。ノスフェラトゥ部隊に迫る実力はある。しかし、ノスフェラトゥに不可欠な、技能が神門には足りない。


 それは――。


 未だ口の中でガナッシュが残っているのか、甘さと少しの渋みの絶妙なコラボレーションを楽しんでいる娘が、ふと視界に入った。その姿に、パイソンの無粋な考えは霧散した。


 ――警戒しすぎ……だったな。


 そう。エリナがここにいる以上、神門がノスフェラトゥとは考えられないのだ。益体のない考えを自嘲して薄く口元を緩ませると、パイソンはモニターを切った。

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