光る影

ツヨシ

本編

静寂と自然、癒しを求めてわざわざ田舎に越してきたと言うのに、一体ぜんたいこれはどういう事だ。


町は変貌する。


みるみる拡大していく。


奥村久市は嘆いていた。


都会に真っ只中に生まれ、育ち、仕事に就き、夫となり、父となってそして今では〝おじいちゃん〟と呼ばれるようになるまで、都会にどっぷりとつかっていた。


そんな中、いつしか芽生えていた憧れの田舎暮らし。


定年を機に、退職金とそれまで溜め込んでいたお金を元手にして、既に独立していた子供を残して関東のへき地と呼ばれるこの地へと移り住んだのだ。


老夫婦二人で。


ただ退職金とそれまでに貯めたお金で、と言う予定ではあったが、現実は違った。


それは、土地代が都会に比べてずいぶんと安い上に、古民家ごと買い取ったので、最初考えていたよりも半分以下の値段で、田舎の一軒家が自分のものとなっていた。


さすが関東のへき地。


安いとは思っていたけれども、予想をはるかに下回るこの値段。


が、関東のへき地とは言っても、都会から大きく隔たった地域と言うわけではなかった。


公共交通機関のわびしさと、車による通勤時間の長ささえ我慢すれば、住めないことは無い。


そこへもってきて、このあたりの土地を大量に所有していた大地主が、その土地を格安でたたき売りしはじめたのだから、たまらない。


原因は地主のギャンブル依存症によるものだが、そんなことはどうでもいい。


少々通勤時間が長くてもよいから自分お城を持ちたいと考えた人たちや、そこそこの会社の支社やそれなりの企業の工場及びそれらの従業員、人口が増えると見込んで進出してきた大手スーパーや郊外型の大型店舗。


それらがここ四、五年の間に大挙して押し寄せてきたのだ。


そしてメインストリートとなる県道も新しく作り直され、その道は奥村の家の前にどたりと横たわっている。


越したばかりのとき、家から見える風景は山と野原と畑と数軒の家のみだったのが、今や目の前を東から西へとのびるメインストリートは、道の両側全てが会社、店舗、一部工場となった。


メインストリート沿いには民家はほとんど無い。


この区間だけに限れば、町の人口はあっという間に百倍以上になっていた。


その増えた分のねぐらは、メインストリートの裏側にあたる南北の土地に陣取っている。




そんな状態の上、奥村の家のまん前には、メインストリートを挟んで無機質な六階建てのコンクリート建造物がそびえ立つ。


建物の大きさは去年できたスーパーに次ぐものだが、スーパーは平屋であるがために、延べ床面積では断然こちらのほうが上だ。


つまり二十年以上あこがれ続けた田舎にようやく移り住んだと言うのに、そこは数年ともたずに都会化し、窓から見える風景が以前住んでいた都会の郊外とあまりかわらなくなり、


おまけにこの町で一番大きな建造物が、こともあろうか家のまん前にあるのだ。


仕事の無い奥村は、毎日暇さえあれば執拗にその巨大な豆腐のような白い建物を、見つめ続けていた。


彼にとってその豆腐建造物は、敵であり異物であり、諸悪の根源だったのだ。


その建物の名称は、大きな門の門柱にでかでかと書きまれている。


東洋電磁波研究所。それが白い悪魔の名前だった。




ただ奥村は、あの研究所が出来た当初から、ある違和感を持っていた。


あれだけの大きさのビルだ。事務所として使っているならば、少なく見積もっても百人以上の人間が余裕で使用できるはずだ。


あるいは工場や名の通り研究所と使用しており、何だかの大きな機械や設備が中に存在していたとしても、やはり数十人の人間が業務が出来そうだ。大きな機械や設置物を稼動させるには、それなりの人数か必要だろうし。


だがその割には人の出入りが極端に少ないのだ。


週末以外に毎日通ってくる人間はいるのだが、その数がたったの四人。


それ以外に月一ペースで通ってくる男が一人、数ヶ月に一回の女が一人。


それだけなのだ。


東洋電磁波研究所と名乗ってはいるが、それが会社自体の名前ではなく、どこかの会社の出張研究所のようなのだが、その所有している会社がどこなのかはわからない。


近所の人で、それを知っている人も誰もいないようだ。


ただ近所の人とは言っても、そのほとんどが奥村よりも後からここに住みついた人で、その半分以上が研究所が出来た後にやって来た人だ。


おまけに無愛想な研究所に対して奥村のように強い関心を持つ人は、誰一人いない。


そんなものに興味を持つわけが無いのだ。


となれば、毎日顔を出している研究員(サラリーマン)に聞けばいいのだが、そんなことを直接聞いて〝変な奴〟と思われるのもしゃくにさわる。


ただ毎日通ってきている人間に対しては、ある程度わかっている。


全員ここに住んでいるのだから、近所の人と言えば近所の人だ。


まず一番若い男は、スーパーの隣のアパートに住んでいる。


一人暮らしだ。名を岬和夫という。


見た目に特徴と呼べるものを何一つ備えてはいないが、やや印象の悪い男だ。


ただ、何が印象悪いかと聞かれても、明確には答える事が出来ない。


なんとなくである。無理に言えば、なんとなく暗いというかなんとなく異質というか。


ただ二十代半ばという年齢的なこともあって、東洋電磁波研究所での地位は低いと思われる。


もちろんきちんと確認をしたわけではないが。


もう一人は岬よりもやや年上と思われる三十代前半の女性。


背が低く小太りで、はっきり言えば器量もよくない。


長い髪はいつもぼさぼさだ。


名前は谷村美佐子である。


県道から少し離れた山沿いにあるアパートに、一人で住んでいる。


もう一人は三十代後半と思われる、がっしりとした体格の男性。


その身体は、柔道家かプロレスラーと言えるほどで、何だかのスポーツか格闘技をやっていたのは間違いない。


名は桜田卓郎。谷村美佐子と同じアパートに一人で住んでいるが、いつも谷村美佐子よりもやや遅れて出勤してきている。


外で二人が何かを話ししている姿も見かけたことはなく、特に仲がいいという訳では、ないようだ。


そして残る一人が綿貫清次。


四十代前半と思われるこの男は、背は高いが箸よりも重たいものを持った事が無いのではと思えるほどに、貧弱な体つきをしていた。


いつも最後に出勤してくる。


この男が他の三人と違うところは、まず一軒家に住んでいること、そして一人暮らしではないことだ。


越してきた時から、一人の少女と住んでいた。


今年小学一年生になった郁子という少女だ。娘だと言う。


そして母親は、去年に亡くなったそうだ。


その綿貫の家は、奥村の家のすぐ真裏にあった。


つまり隣だ。




建設ラッシュおよび人口急激増加も、近ごろようやくおさまりつつあった。


理由は簡単だ。


地主が投売りした土地が全て売れた上に、そこにくまなく何だかの建造物が建ってしまったからだ。


もちろん落ち着きを取り戻したと言っても、すでに出来上がったものがどこかに消えてしまうわけではない。


奥村の家のまん前にある東洋電磁波研究所は、今も鎮座ましましている。


道から見て手前が門と駐車場になっているため建物自体は道から離れてはいるが、その距離は短い。


そして六階建て。建坪はスーパーよりは小さいとはいえ、その幅は奥村の家の十倍近くある。


とにかく目障りなことおびただしい。


周りの建築騒音がおさまったことで、奥村の意識はより強くその巨大な豆腐に向けられるようになった。


もはや完全に仇扱いである。


奥村は以前にもまして、その白い壁にも見える建物を、凝視し続けたのである。


そしてとある夏の日の午後十二時に、それが起こったのだ。




その日、奥村がいつものように白い豆腐をにらみ付けていると、中で何かが光った。


白い建造物にもともと窓は少ない。


しかもその少ない窓が、不自然と思えるほどに小さかった。


ゆえに奥村がいくら観察しても、中の様子をうかがい知る事が出来ないでいた。


六階建てと言うのも、建物の高さと、窓が上から下に六列並んでいるためにそう思ったにすぎない。


ほとんど壁と化していたのだが、その窓から強い光が見えたのだ。


一部の窓ではない。奥村から見えるところに存在する窓と言う窓が全て、まばゆいばかりに光ったのである。


日はまだ高く、雲も少ない晴天。


だと言うのにはっきりと見えたその光は、かなり強烈なものだった。


光が見えた後、奥村は考えた。


全ての窓が均一に光ったために。


――あの建物は、勝手に六階建てだと思い込んでいたが、もしかしたら天井がべらぼうに高いだけで、その実、平屋なのではないか?


つまり、間に床がなくてただの箱のような建物。


六列に並んだ窓は、上から下までただの明り取りなのではないかと。


その箱のような空間の中で何かが強烈な光をはなったために、全部の窓が同時に光ったのではないのか。


そのまましばらく眺めていたが、光ったのは一度きりである。


何の音も漏れてはこなかった。


そうは言っても今までさんざん観察し続けてきたが、その建物から何だかの音を聞いた事はなかったが。


コンクリート建ての大きな建造物。


壁の厚みはそれなりにあるに違いない。


くわえて数が少ない小さな窓。


そんな条件の中では、少々の騒音ぐらいでは外に漏れてくる事がないのは確かである。


ただいつもと違っていたのは、ややあって、中から桜田卓郎、谷村美佐子、岬和夫の三人が、血相をかえて飛び出してきた事だ。


建物は一応高い塀で囲まれてはいるが、人や車が出入りする部分は塀が途切れており、その先に白い豆腐の入り口があり、おまけにその正面に奥村の家があるために、よく見ることが出来るのだ。


三人とも自分の車に乗り込むと、岬和夫が少し遅れたが、そのまま出て行ってしまった。


だが綿貫清次だけが出てこない。


――何があった?


しばらく眺めていたが綿貫清次は、そのまま研究所から出てはこなかった。

 



次の日、事態は一変していた。


朝早くから研究所に次々と訪問者があったのだ。


奥村が数えたところ、その数二十三人。


月一の男と、数ヶ月ごとの女も来ていた。


全員が神妙と言うか深刻な顔を晒しながら中に入り、そして一時間も経たないうちに全員が出てきて、そのまま研究所を後にした。


その日を境にして、東洋電磁波研究所を訪れるものは、誰一人いなくなった。


そして綿貫清次もいなくなり、娘の郁子も見かけなくなった。


奥村は思い出していた。


昨日、綿貫の娘は研究所の敷地内に入っていたことを。


とはいっても、建物の中にまで入ったかどうかは、疑わしい。


今は夏休み。


綿貫の娘は時々、研究所に遊びに行っていたのだ。


それも建物の中ではなく、駐車場や申し訳程度に小さな木が植えられている中庭で、ゴムまりなどを使って遊んでいるのを、奥村は何度か見かけたことがある。


仕事中の父親とは奥村の見た限り会ってはいないようだが、そこは父一人娘一人だ。


父親の近くに少しでもいたいという想いなのか。


だが父親が仕事を終える前には、郁子はいつも家に帰っていた。


そこのところが少し判りかねるところではあるが。


だが、例の窓の光った日以来、郁子はその姿を見せてはいない。


親子そろってあの日から、家に帰っていないのだ。


そして東洋電磁波研究所はそのまま放置され、すぐ裏に住んでいた親子二人が姿を消した。




ここの住人で、平日から家でごろごろしている男性は少ない。


奥村和夫はその中の数少ない一人だ。


ひまにまかせて散歩と称して近所をうろうろする。


家の裏にあたる方向へ向かって歩く。


その方向は、この地においての高い建物が、家の正面よりは少なかった。


そして少々距離は離れるが、その先に山も見える。


わずかだが田舎の雰囲気を味わえるというものだ。


正面側にも山はあるのだが、研究所およびアパートなどの建造物により、まるで見えない。


そして散歩がてら、やはりうろうろしている奥様方たちと、立ち話などをしてすごす。


家で妻を相手にしているよりも、ずっと気が楽である。


そんなわけで奥村は、この界隈におけるトップクラスの情報通となっていた。


どこそこの誰それが失業しただの、どこそこの誰それが不倫をしているだの、とるに足らない、奥村にはなんの興味も無いうわさ話。


そんな中でただ一つ、気になるうわさを耳にした。


なんでも真夜中に、研究所の裏手の方をうろうろしている女の子がいるとか。


今どき珍しいおかっぱ頭での、小学一年生くらいの女の子だそうだ。


「それにねえ……」


旦那が片道二時間もかけて通勤しているという、二十代後半にしてはやけに化粧の濃いマダムが語ったところによると


「その女の子、どうやら幽霊らしいのよ」


だとか。


――幽霊?


奥村は一笑した。


彼は幽霊などの類は、まるで信じていないたちなのだ。


――そんなものが本当にいるのなら、ぜひ一度お目にかかりたいものだ。


ただ、ちょっとひっかかるところがあった。


今どき珍しいおかっぱ頭で小学一年生くらいの女の子を、一人知っていたからである。


あの日以来姿を消した、綿貫郁子である。




数日間は我慢した。しかし気持ちは、日に日にどんどん膨れ上がっていく。


それは、その幽霊とうわさの女の子、綿貫郁子と同じ特徴を持つ女の子と、会ってみたいということだ。


なぜそんなに会ってみたいと思うのかは、奥村自身にも上手く説明は出来ないが、説明出来ようが出来まいが、会ってみたいと言う気持ちには変わりが無い。


会いたいのなら、会えるかどうかはわからないが、とにかく出かけて行くことだ。


どうせひまなのだから。


家の中でじっとしていたのでは、会える見込みがまるで無い。


ただ、すぐにそれでは、と言うふうにはいかなかった。一つは――幽霊なんぞ、絶対にいるものか。この俺が、なんだってそんなものを見にいかないといけないんだ。――という想いがあったこと。


そしてもう一つが、目撃される場所が研究所の裏手あたりだということだ。


とにかく奥村は、あの研究所が大嫌いだった。憎んでいると言っても、過言ではない。


研究所のある方角にも、足をむけたくなかった。


だから研究所が出来てもう三年にもなろうというのに、研究所の敷地内はもちろんのこと、その裏手にも行ったことはなかったのだ。


事故があって以来、研究所は完全に放置されている。


研究所自体はさすがに鍵がかかって入れないが、門は開きっぱなしで、敷地内だけなら入るのはたやすい。


現に近所の悪ガキどもが中に入り、せっせと石を投げて遊んでいる。


子供達の目的は窓だ。窓が小さく、おまけに上のほうにある窓はかなり高い位置にある。


ゆえにより高いところにある窓を狙って石を命中させ、周りの子供に自慢したいという男の子が集まってきている。


下のほうの窓は、すでに壊滅状態にちかい。


そんなにも簡単に入れて、誰にもとがめられる事がないというのに――裏手ならもっと簡単で安心できる――やはり行きたくない気持ちが歴然として存在し、おまけに行きたくないきもちが大きく、そんなものが居るわけがないと思っているのに、そのいると思えないものを見てみたいという矛盾した心理。


仕事もなく暇で、なおかつ家で妻と二人きりなのが落ちつかない初老の男性の心理は計り知れない。


奥村は一週間と我慢できずに、ある夜こっそり家を出た。




もう真夜中と言う時間帯ではあるが、真っ暗というわけではない。


街灯が一定区間ごとにあるし、ちょっと奥には二十四時間営業のコンビニもある。


アパートは防犯上の理由で道沿いが明るく照らされているし、今は無人の小さな工場も、会社の宣伝なのか社名の書かれた妙に大きい看板が、ぴかぴか光っている。


あとは一般住宅だが、それでも夜更かし家庭の明かりがところどころ灯っている。


奥村は初めて訪れた研究所の裏手が珍しいのと、いるわけない少女の幽霊に会いたいのとで、かなりの時間そのあたりをうろうろ徘徊していたが、少女の幽霊とやらに出くわすことはなかった。


――なんだ、やっぱりデマだったのか。


奥村は、その日はそのまま家に帰った。




――だいたい、行ってすぐに会えるというものでは、ないのかも。


次の日、奥村はふとそう思った。


そうなると、もう我慢がきかない。その日の真夜中も、のこのこ出かけていった。


妻の


「なにもこんな時間に散歩に行かなくても、いいのに」


というお見送りの言葉を背に受けながら。


昨夜とほぼ同じところを歩いた。


――何だか今夜は期待できそうだな。


なんの根拠もなく、そう思った。


しかし会えない。


足が疲労を訴えるほど歩いているのに、少女の幽霊に。


――やっぱりデマじゃないか。


少しばかりの怒りを含みながらそう考えていた時のことである。


民家と民家との間にある狭い隙間で何かが動いたように見えたのだ。


奥村はそのとき、ちょうどその隙間の前を横切ろうとしていた。


――なんだあ?


奥村に向かって来るもの。


それは狭い隙間で街灯がまったく当たらない所にいるというのに、その輪郭が不自然なほどよく見えるのだ。


それ自体が、淡くぼんやりとした光を放っているような。


そんな感じなのである。


――人間?


そしてさらに近づいてきたところで、気がついた。


まわりが真っ暗な上に、それが放つ光が弱弱しいものだったのですぐ近くに来るまで判らなかったが、今、その正体がわかった。


それは女の子。小学一年生くらいで、市松人形のようなおかっぱ頭の。


低い身長の上に、下を向いたままなのでその顔をよく見ることは出来ないが、その少女は綿貫郁子としか思えなかった。


その人間であるはずの少女の身体がうっすらと、実にうっすらとではあるが、確かに光っているのである。


――なんなんだ、こいつは?


奥村がそう考えていると、目の前にいた少女が、さらに奥村に近づいてきた。




朝目覚めるのは早い。


通勤時間がべらぼうに長いからだ。


寝ている妻を起こさぬようにそっとベッドから抜け出し、台所へとむかう。


昨夜のうちに妻が用意してくれた朝食を電子レンジで暖め、パジャマ姿のままで口の中に押し込んでから、スーツに着替えて家を出る。


しかしその日はいつもの朝とは違っていた。


まだまわりの住人が誰も起きていない早朝の住宅街の一角。


その男の家の前に、何かが転がっていたからだ。


見た瞬間は別のものを連想した。


しかしやがてそれが何であるかに気づいたとき、男は小さな悲鳴をあげた。




現場に着くと、もう何もない。


死体はすでに片付けられている。


古谷はいつも現場に着くのが遅い。


本人はなんとも思ってはいないが。


見慣れた人型に張られた白いテープが、さっきまでよこに死んだ人間の身体があったことを物語っている。


そしてその死んだ人間は、その少し前まではまだ生きていたのだ。


いつもの現場だが、ややいつもと違う事があった。


わずかに漂う、殺人現場ではいままでに嗅いだことのない臭い。


――なんだろう?


最初に思いついたのが、焼肉屋。


その店内に漂う臭いに似ていると感じた。


感じたが、さほど気にはしていなかった。


住宅街のど真ん中。


明け方である。


朝から家で焼肉と洒落込んだ者がいたのかもしれない。


深夜勤務でまだ暗いうちに帰宅し、そのままかなり遅い夕食を平らげた者がいるのかもしれない。


夏のことだ。窓を開け放していても、なんら不思議ではない。


地べたに這いつくばっている鑑識官をながめながら、古谷はとりとめもなくそんなことを考えていた。


が、まるで我が家に帰ったかのような緊張感の無い足取りで鑑識官に近づくと、そのまま中腰になってその顔を覗き込んだ。


「何か見つかったか?」


鑑識官が地面を凝視したまま答えた。


「古谷刑事、目立ったものは何もありませんね。ただ……」


「ただ……なんだ?」


「地面に少しばかりですが体液のようなものが、流れ出ています」


「体液? 血じゃないのか」


「血ではありません。体液です。帰って詳しく調べないと、細かい事はわかりませんが」


「……」


古谷はそのまま鑑識官を見ていたが、やがてゆるりと腰をあげると、すたすたと歩いてその場を後にした。




見飽きた廊下を進み、陰気な部屋に入った。


気配を感じ、検死官が顔を上げて古谷を見た。


「こりゃ、どうも」


それには何も返さず、古谷は検死台の上にある人間の残骸ち近づき、やや鋭い眼差しでそれを見た。


異様な死体。


まず全身のほとんどが、黒に近い赤色に染まっている。


そしてところどころ白い斑点のようなものがある。


点に近い大きさのものから、五百円玉くらいの大きさのものまで。


全て円形だ。


それ以上に目を引くのは、身体全体が奇妙に膨れ上がっていることだ。


皮膚が顔から足のつま先にいたるまで、これ以上はないほどにぱんぱんに腫れていた。


もともと肥満体というわけではなく、急激に身体の体積が増えたことを、そのはり具合が物語っている。


眼球は二つとも飛び出し、片方は割れていた。


その中には何も見当たらず、卵の殻のような状態になっている。


水死体と似ている点もいくつかあるが、水死体とは明らかに違うものだ。


唇の色は、墨を塗ったように真っ黒だ。


「……これは?」


おもわず口ごもった古谷を見て、検死官が答えた。


「私もこんな死体は初めて見ますな」


「……で、死因はわかったのか?」


「はい、わかりました。このガイシャは料理されていますね」


「料理されてる?」


「ええ、電子レンジで、チン、てね」




デスクに帰ってからも、古谷は検死官の言葉が頭から離れなかった。


「どう見ても、電子レンジで料理されているように見えますね。……ただ」


「ただ……なんだ?」


「妙な点もあります。これだけ身体が膨れ上がるほどのマイクロ波を浴びたのなら、体中の穴という穴から、沸騰した体液が流れ出るはずです。穴どころか、皮膚もあちこち裂けてしまうでしょうね。そうなればガイシャは膨れ上がるどころか、やせ細ってしまうはずです。皮膚も今みたいにぱんぱんではなくて、しわしわにしなびてしまうでしょうね。なんせ人間の身体の大半は水分なのですから。マイクロ波を浴びると、その水分が沸騰してしまいますからね。なのに、身体全体が沸騰した状態になっているはすなのに、水分、つまり体液がほとんど身体の中に残ってしまっているのです。そんなこと、普通、ありえませんね」


「……と言うと?」


「私の知っているマイクロ波では、こういう状態にはなりませんね。ためしに家の電子レンジに生肉を入れて調理してみてください。調理時間にもよりますが、けっこうな量の体液が流れ出て、カチカチの肉になってしまいます。ところがこの死体は、そうはなっていない。体液の流れ出た量も、ほんのわずかなものです」


古谷は聞いた。


「それは、どういうことなんだ」


検死官が、ややずり落ち気味のメガネを左手人差し指一本でずいっと上げた後、答えた。


「先ほども言ったように、通常のマイクロ波なら、こんな風には決してなりませんね。ありえないことです」


「……と言うことは、死因はマイクロ波ではないのか?」


検死官が大げさにかぶりを振った。


「いえいえ、そういうわけではありません。このガイシャがマイクロ波を浴びてこのような状態になったことは、紛れも無い事実です。たださっきも言ったように、沸騰したはずの体内の水分が、ほとんどまだ身体の中に残っているということは、マイクロ波はマイクロ波でも、通常のマイクロ波とは違うようですね」


「通常のマイクロ波とは違う? 違うって、いったいどう違うんだ。どんなマイクロ波を浴びたら、こんな状態になるんだ?」


「どんなマイクロ波って……そこまでは私にはわかりませんよ。私はマイクロ波の専門家ではないし。私が言えることはただ一つ。このガイシャは、通常とは異なるマイクロ波を浴びて、死んでしまったということです」


「……」


「もう少し調べてはみますけど。でも劇的な大発見というものは、期待しないでください」


「そうか」


古谷がため息ともとれるような吐息を、一つ吐いた。


それを見た後、まるで部外者のようになぶりで、検死官が言った。


「でもどこのどいつが、人間一人を電子レンジでチンしてしまったんでしょうね」


古谷は何も答えなかった。

 



誰がどうやって奥村久市という初老の男性を、マイクロ波で殺したのかはわからない。


まあ、それを探るのが警察の仕事というものだが。


基本は聞き込みだ。


まず近所への聞き込み。


普段はこの聞き込みに、けっこう苦労する。


いつもなら一般市民は、たとえ自分に身に覚えがなくても、警察が来たというだけで必要以上に身構える。


こちらが聞きたいことを、なかなか言おうとはしない。


逆に生真面目な人間は、なんとか警察に協力しようと誠実に対応はしてくれるのだが、あまりにも真剣なために余計な事ばかり並び立ててしまう。


まれにいる人並みはずれたお調子者は、警察が来たというだけで自分が事件の主役になったと思い込み、テンションが上がり、話を盛るだけ盛って、悪意はないものの結果的には間違った情報を与えてしまう。


その中から正しく有益な情報を選別し、ふるいにかけなければならない。


そうしないと誤った情報に振り回され、真相の究明と犯人の逮捕からほど遠い状態に陥ってしまうのだ。


古谷が以前――全国の学校で、正しい聞き込みの対応の仕方を教えるべきだ――と本気で考えた事があったほどだ。


ところが今回は多少様子が変わっていた。


マスコミのおかげと言うべきか、マスコミのせいと言うべきか。


電子レンジ殺人事件。


一放送局がそう報道したのがきっかけで、それはもうとんでもない騒ぎとなってしまった。


殺され方があまりにもセンセーショナルだったためだ。


現に事件から六日もたつのに、聞き込みの刑事の数よりも、この界隈をうろつく報道関係の人間の数のほうがはるかに多いのだ。


いつもなら六日目となれば、マスコミの数は事件当初よりもずいぶんと減っているものなのだが、それが逆に増えている。


マスコミはインタビューと称して近所じゅうを訪れ、根掘り葉掘り聞いてまわる。


その結果、ここの住人達は聞かれること、そして答えることに慣れてしまった。


慣れるとその人の頭の中で情報は整理整頓され、わりと的確に答えるようになる。


古谷の二十年にわたる刑事としての人生の中で、今回が一番聞き込みがしやすい状況となっていた。


ただ警察の聞き込みもマスコミのインタビューも、答える人は同じ人で、答える内容も同じ内容だ。


警察が情報を得るのとマスコミが日本全国に情報を垂れ流しするのとが、常に同時進行になっていた。


「聞き込みなんかしないで、夕方のニュースでも見たほうが、てっとり早いんじゃないのか」


と言った刑事がいたほどだ。


また近所の人からの情報というのが、マスコミも善良な市民も喜びそうな、わかりやすくて派手な情報ばかりなのだ。


まず一つ目は少女の幽霊。


マスコミももちろん報道しているが、警察が得た情報も同じで、近所の人たちの何人かが、夜に淡く光る少女を目撃している。


そしてその少女の服装、体型、髪型が、消えた綿貫郁子とそっくりだと言うのだ。


古谷は幽霊など信じていなかった。


しかし、見た、と言っている数人は、とても嘘を言っているようには思えない。


全員が――あの子は綿貫郁子ちゃんだ――と断言している。


ベテランの刑事である古谷に疑われずに嘘をつけるような素人は、そうそういるものではないにもかかわらず。


行方不明になった少女が、まだこのあたりをうろついているのだろうか? 


それにしてもわずかながらでも、うっすらと輝いていると言うのは、どういうことなのか? 


もちろん古谷は、輝く人間など見たことも聞いたこともない。


――とりあえず幽霊はあとまわしだな。


そして綿貫郁子が消えた同じ日に、父親の綿貫清次も消えている。


綿貫清次。


閉鎖された東洋電磁波研究所の所長だ。


電磁波といえばマイクロ波のことである。


電磁レンジがその内部に向かって放出しているものだ。


電磁レンジ殺人事件と東洋電磁波研究所。


位置的にもかなり近い。


この二つについては警察も関連性を疑ったものだが、マスコミはそんなものではない。


関連があるにちがいない、という決め付けた内容となっていた。


そして警察よりも前に、東洋電磁波研究所がトール電器産業により運営されていたことを突き止めていた。


トール電器産業。


北欧神話に登場する雷神の名を冠するこの会社は、ここ数年の間に驚異的に成長を遂げた電器製品製造会社だ。


常に――うちの製品は他社の製品よりもより使いやすく、おまけに安全な製品であります――と言ううたい文句で商品をアピールし、他社製品との差別化を全面的に押し出す事によって、売り上げを伸ばしてきた。


すでにマスコミは、まるでトール電器産業が犯人であるかのようにこぞって押しかけていたが、完全に門前払いをくらっていた。


そのはらいせもあってか、あたかもトール電器産業が何か危険な研究を続けていて、そのせいで奥村久市が殺されてしまったかのような報道にまでエスカレートしていった。


が昨日、トール電器産業側が、特に過激な報道をしていたテレビ局を名誉棄損と営業妨害で訴えると公式に発表したために、昨夜のニュースでそれが取り上げられた後は、今日のニュースからはトール電器産業を取り扱うテレビ局が一社もなくなった。


その時点で警察側は、トール電器産業とは何の接触も試みてはいなかった。


殺人事件とトール電器産業との明確な関連を示すようなものは、何一つ見つかってはいなかったからである。


しかし、その傘下である東洋電磁波研究所は別である。


そこでかつて働いていた人への聞き込みは、当然のことながら行われた。


事件が研究所のすぐ近くで起こった事と、綿貫親子がいまだ行方不明であることも手伝って。

 



古谷は最初に桜田卓郎という男を訪ねた。


綿貫に次ぐ、東洋電磁波研究所のナンバー2だ。


研究所が閉鎖になってもその近くに住み続け、毎日一時間以上かけて新たな職場となったトール電器産業の支局に通っている。


近々引っ越すそうだが、そんなことはどうでもいい。


最初に尋ねたのは、綿貫清次と娘の郁子のことだ。


桜田は言いにくい事をあえてしゃべっているという空気を隠しもせずに、答えた。


わかりやすい男だ。


「ええ……行方不明になってしまいましてね。捜索願も出したことは出したのですが」


もちろん古谷は、綿貫親子が行方不明になったこと、会社が捜索願を出したことを知っていた。古谷が聞いた。


「行方不明になったのは、何だかの事故……があった翌日の事ですね」


「そうです」


「どんな事故ですか?」


「……それがよくわからないんです。あの研究所での研究は、ほとんど綿貫所長一人でやったいたものですから。私はほんのお手伝い程度でして」


古谷の見たところ、あまり話したくない、と、本当によくしらない、が混ざって、歯切れのよくない結果となっているようだ。

その他にもいろいろと聞いたが、特に目新しい証言は、得ることができなかった。


桜田卓郎は、とりあえず一旦終了となった。




次は谷村美佐子である。


この女性もまだ前の住まいに住んでいて、やはり片道一時間以上かけて新たな勤務先へと通っていた。


が、桜田とは違い、当分引っ越すつもりはないと言う。


が、これまた桜田と同じで、どうでもいいことだ。古谷が聞いた。


「事故があったそうですが」


「ええ、ありました。何でも電磁波を発生させる装置に不具合が生じたみたいで、突然光ったんです」


「光った?」


近所の人間数名が証言している。


あの日、東洋電磁波研究所の窓と言う窓が、全て強い輝きを放ったのだということを。


「光ったとは、どうして?」


「それがよくわからないんです。あの研究のほとんどは、綿貫所長が一人でやっていましたから。私は綿貫所長を手伝っている桜田さんのお手伝い。つまり綿貫所長のお手伝いのお手伝いですから」


古谷は一息入れた。


桜田とほぼ同じ話だ。


でも止めるわけにはいかない。次なる質問を言った。


「光った後は、どうなりましたか?」


「その後は綿貫所長がみんなに避難するように言って、それで全員避難したんです」


「綿貫さんは?」


「……わかりません」


谷村美佐子が一瞬言葉を濁したのを、古谷は見逃さなかったが、何事もなかったかのように続けた。


「郁子ちゃんは、その時どうしていましたか? 小学校が夏休みの間、よく研究所の敷地内で一人で遊んでいるのを、近所の人が見ていますが。あの事故のあった日も、あそこにいたそうですね」


「ええ、私達が外に出て車に乗り込もうとした時、駐車場の近くで一人でボール遊びをしていました。桜田さんが早く家に帰るように言い、家はすぐそばですから、その後はみんな、家に帰りました」


「翌日、大勢の人が研究所に集まりましたね。その時あなたもその場にいましたが、中ではどんな様子でしたか?」


「はい、本社のほうからたくさんの人が駆けつけて。……何か調べていたようでしたが、……私には誰も詳しい事は教えてくれなくて……ただ黙って見ているだけでした」


「何を調べていたんですか?」


「マイクロオゾン発生装置です」


「マイクロオゾン?」


「綿貫所長が中心となって開発していた装置です。なんでも新しいマイクロ波を発生させる装置だとか」


「新しいマイクロ波とは?」


「それがよくは、わからないんです。私はマイクロ波の専門家ではないものですから」


「マイクロ波の専門家ではない? 専門家ではないのにマイクロ波の研究所に毎日通っていたんですか?」


「私なんて……ほんと雑用係りで。あれとってくれ、コピーしてくれ、お茶いれてくれ、掃除してくれ。……一日中そんなのばっかりでした」


ここにきて古谷は、ようやくあることに気がついた。


マイクロ波の研究は綿貫所長がほとんど一人でやっていたこと。


そしてその周りにいた人間は、全員がマイクロ波の専門家ではないこと。


というよりも、あえてマイクロ波の専門家でない人物を、周りに置いたのではないかということだ。


新しいマイクロ波についてよく知っているのは、本社にいる数名と綿貫所長だけだろう。


大事な研究なら、ありえるかもしれない。


へたにマイクロ波に詳しい人物をメンバーに入れたら、その人間から重要な企業秘密が漏れてしまうおそれがある、ということなのかもしれない。


どんな研究なのか、綿貫が何をやっているのか、新しいマイクロ波がなんなのか理解できなければ、秘密を漏らすこともそれをライバル会社に売り飛ばす事も出来ない。


だから桜田も谷村も、何も知らないと言うのだ。


ただ桜田は、谷村と比べると多少は新しいマイクロ波について知っていたような感じではあるが。


古谷はとりあえず切り上げることにした。


なにかあれば又聞きに来る可能性もあるが、一応谷村美佐子も終わり。




三人目は岬和夫だ。


三人の中では一番若い。


トール電器産業に入社してからも二年くらいしか経たない。


一番期待薄だが、とりあえず聞いてみる。


「……ですね」


最初のほうは、桜田、谷村とほぼ同じ内容だった。


二人と違うのは、あの町を捨ててすでに引っ越しているということだが、もちろん古谷にはどうでもよいことだ。


しかし古谷がさりげなく聞いた質問に、意外な答えが返ってきた。


「事故の後、綿貫さんはどうしていましたか? 最初は研究所に残ったようですが」


「ああ、綿貫さんはそのままずっと研究所に残っていたようですね」


「ずっと研究所に残っていた……。どうしてわかります」


「マイクロオゾン発生装置と連動しているパソコンを動かすと、全て履歴が残るんです。その履歴が事故の後も頻繁に記録され、結局本社の人間が押しかける直線、つまり翌日の朝まで残っていたのですから」


「綿貫さんが、ずっとパソコンを動かしていたということですか」


「ええそんなこと、綿貫さん以外にする人はいませんから」


「事故があったのはお昼ですよね」


「そう、昼の十二時を少し過ぎた時です」


「その後、ずっとですか?」


「ええ、最後の履歴が翌日の午前六時過ぎになっていましたから、その間ずっと装置かパソコンを操作していたことになります。……でもそんなことは、考えられないんですけどね」


「考えられない。どうして?」


「事故の直後以降、マイクロオゾン発生装置から、マイクロ波が出続けていたんです。それが止まったのが、翌日の午前六時すぎ。つまり綿貫所長が最後にパソコンを触った時ですね。マイクロ波が出ると、その状況が記録されるんです。事故発生の昼の十二時すぎから翌日の朝の六時過ぎまで、ほぼ十八時間連続してマイクロ波が発生していたのが、データとして記録されているんです。つまり綿貫所長は、十八時間もの間、マイクロ波を浴び続けていたことになります。いくら新しいマイクロ波とはいえ、それは考えられないですね」


「……」


「マイクロ波とはご存知でしょうが、電磁波のことでした、電子レンジなんかから出ているやつですね。新しいマイクロ波は、従来のものよりもソフトと言うかマイルドと言うか、人体に影響が少ないとは聞いていますが。でもいくらマイルドとは言っても、マイクロ波はマイクロ波ですからね。人間の身体を電子レンジで十八時間調理したときの事を考えたら、とても生きていられるとは思えませんね。一分ももたないでしょう。体中の水分が沸騰して、ボン、ですか。昔、こんな話がありましたね。濡れた猫を子供が乾かしてあげようと思い、電子レンジに入れたら、中で猫が爆発したって。一種の都市伝説みたいなものですが、実際問題としては、おそらくそうなるでしょうね。それは人間も同じです。いくら、従来のものと比べるとソフトでマイルドとは言ってもんですねえ」


「では新しいマイクロ波とは、どんなものなんですか?」


「それがよくはわからないですね。さっきも言いましたが。ただ従来のマイクロ波が危険であるから、他社との差別化をはかるために新しいマイクロ波の研究をしていたことは確かですが」


「従来のマイクロ波が危険なのですか?」


「そりゃ危険ですよ」


「どんなふうに?」


「電子レンジの危険性についてはずいぶん前から言われてました。ソビエトは1976年に法律で電子レンジの使用を禁止していますし。でも資本主義国家では、それがそれほど広まりませんでしたね。資本主義国家では、なにせ電気メーカーの力がすごいですからね。でも1991年に、電子レンジで温められた血液を輸血されたトーマ・レビという人が、それが原因で死亡しました。普通、輸血用冷凍血液を温めるのは温水を使い、電子レンジで温めるなんてことはしないですが、看護婦が手抜きをしたんですね。それ以来世界中で研究が行われるようになりましたね。ところで電子レンジでどうやって血液を温めていると思いますか?」


「マイクロ波ですね」


「そう、そのマイクロ波が、どのようにして食べ物を温めているのか、ご存知ですか?」


「いえ、詳しくは」


岬は一呼吸おくと続けた。


「マイクロ波にかぎらず全ての波動は、周波が一回転する間に極性がプラスからマイナスに変わります。そしてマイクロ波の場合、一秒間に数百万回も極性がかわるんです。全ての食べ物の分子にも、プラス極とマイナス極があります。そこにマイクロ波を当てると、食べ物の分子が毎秒数百万回回転するんですね。分子が激しくかき混ぜられる事によって摩擦熱を生じ、食べ物が温められます。太陽からもマイクロ波は出ていますが、太陽のマイクロ波は摩擦熱を生じない直流ですが、電子レンジのマイクロ波は交流で、同じマイクロ波でもずいぶんと違うものです」


「……」


「そんなわけで、ただ温めるだけではなく、分子レベルでその性質が変わるんです。ビタミンが六割破壊されることは前から言われていましたが、ビタミンが六割破壊されても栄養値は下がりますが、害になるようなものではありません。ところがノーマ・レビさんの死をきっかけに、新たな研究はもちろんのこと、過去に埋もれていた研究も掘り起こされて、同時に日の目を見るようになりました。1989年、ミネソタ大学の研究により、母乳を電子レンジで温めると、乳児を保護する性質が破壊されることがわかりました。ノーマ・レビさんの死んだ1991年には、ヘンデル博士とローザンヌ大学の研究により、電子レンジで調理された食べ物には栄養素に変化が起こり、その料理を食べた人の血液を通じて人体の退行を促す、つまり老化を早める、抵抗力を失わせる、体力を低下させる、ということがわかりました。同じく1991年にソタ・リー博士が、電子レンジで調理された食品からもともとはなかったDニトロソティンタノミラン、フリーラジカル、つまり発がん性物質が発見され、シリアルアミノ酸とグルコンド、カラクトシド、植物性アルカロイドが発がん性物質に変化したと発表しました。ベルリンのフンボルト大学の研究では、消化器系疾病の増加、リンパ系の機能低下、栄養素の低下、そして数種類の発がん性物質の発生が発表されました。これらは人体に直接マイクロ波を当てたわけではなく、マイクロ波で調理された食品の変化と、それらを食べた人の変質の研究なんですね。つまり体力が落ち、抵抗力が低下してあらゆる病気になりやすくなり治りにくくなり、老化が促進され、ガンになる確率が高くなるわけです」


「……」


「でもマスコミは、特に資本主義国家において、それをマスコミや政治的レベルで取り上げた例は、一つもありません。それだけ家電メーカーの財力、政治的影響力がすごいんでしょうね」


「そうですか」


「ですから我々研究チーム……チームと言ってもほとんど綿貫所長一人でやっていましたが、安全性の高いマイクロ波の研究をしていたわけです」


「安全なマイクロ波とは、どんなものなのですか?」


「それは私にはわかりません。振幅、つまり波動の幅、あるいは周波数、つまり一秒あたりの回転数ですが、それ以外では振動数、つまり毎秒ごとの繰り返しの回数ですね。それらを変化させることは可能ですが、それで安全な電子レンジが作れるなんて、私にはとても思えませんね。電子レンジは食品を温めるものですから。食品の分子を毎秒数百万回極性を変化させ、その暴力的ともいえる作用により分子を引き裂き、力づくで分裂させて摩擦熱を起こさない限り、食品が温まることはないですから。テレビもラジオも長距離電話、携帯電話なんかもマイクロ波を使っていますが、電子レンジのマイクロ波だけが破損した放射能であるといわれているのは、それだけ破壊的なマイクロ波であるからですね。食べ物の生命エネルギー場にいたっては、九割失われると言われてますから。電子レンジで温める前と後では、もはや別の物質となっているといっても過言ではないです」


「……」


「それだけですか。他に何か聞きたい事はありますか?」


「で、やっぱり綿貫所長は、十八時間もマイクロ波を浴び続けたと思いますか?」


「浴び続けていたとしたら、それで生きているとしたならば、電子レンジにはぜんぜん使えないマイクロ波でしょう。テレビや携帯の電波とさほど変わらないマイクロ波と言うことになりますね」


「そうですか。では綿貫郁子ちゃんがどうなったのか、知っていますか?」


「私が一番最後に研究所を出たんですが、その時郁子ちゃんが研究所の中に入っていくのを見ました。危険と言えば危険ですが、中に父親がいるので、そのままにしましたね」


「わかりました。いろいろありがとうございます」


「いえ、どういたしまして」


そして別れた。


古谷は知った。


一番若い岬が、一番マイクロ波に詳しかったことを。




電子レンジとマイクロ波の話は興味深かったが、事件解決に進展を与えるものではなかった。


その後はだらだらと聞き込みを中心とした地味な捜査が続き、時間は意味もなく過ぎてゆく。




トール電器産業の関連性もとうぜん疑われたが、ごく軽い調査が行われただけで、それ以上のことは何もなかった。


本格的な調査を実行できるほどの何だかの証拠というものが、何一つ存在しない。


相手はそれなりの企業である。


テレビ局を速攻で訴えているという前歴もあり、簡単には手が出せない。




男はふらふら千鳥足で我が家に帰ってきた。


学生時代の旧友と十数年ぶりに偶然出会い、それがきっかけでここのところ連日のみ歩いていたのだ。


玄関の戸を開けようとした。


しかし開かない。


こんな時間だ。


妻は鍵をかけて寝ているはずだ。


酔った頭で思い出し、ポケットから鍵を取り出して、開けた。


鍵は開いたが、玄関の戸はがんとして開かなかった。


男は再び思い出した。


玄関にはもう一つ鍵があり、それは内側からしか開け閉めすることができない。


防犯上の理由で後からつけた鍵なのだが、妻はその鍵をかけて寝たのだ。


おそらく毎日飲み歩いている夫への嫌がらせなのだろう。


男は思いっきり玄関の戸を叩き、大声で叫んでやろうかと思ったが、すんでのところで思いとどまった。


近所迷惑なのは確かだし、それに男は隣に住む四十代後半の大男が大の苦手だった。


引っ越してきて初めて見たときの印象が〝怖い〟だったからである。


――しかたがないか。


幸い今は夏だし、明日は仕事が休みだし。


このまま朝まで過ごしても特に大きな支障はない。


男は酔い覚ましをかねて、そのへんをふらつくことにした。




しばらく歩いていると、さすがに酔いがさめてきた。


あたりはまだ暗い。


――ん、ここはどこだろう?


右を見ると高いブロック塀が視界をふさいだ。


――そうか、研究所の裏だな。


そう思って再び歩き始めた。


その時、突然目の前に何かが現れ、こちらに向かってくるのが見えた。


うっすらと光る少女。


最近、近所の噂で何度となく話題になっている、綿貫郁子の幽霊だ。


――うわっ、本当に出やがった!


男は気が弱かった。


その上特に苦手だったのが、子供のころからお化けである。


あまりの恐怖に足がすくみ、その場から動けない。


そのうち光る少女は男の前に立ち


「……や」


と言った。


――……や?


そして少女はおもむろに、両手で男の右手を握った。


その手は熱かった。




死体が見つかったのは研究所の裏にある路地である。


見つけたのは死体が転がっていたところの隣に住む住人だ。


日課となっている早朝のマラソンをしようと家を出たところ、三十前男の変わり果てた姿を発見したのだった。


死亡推定時刻は深夜一時から三時の間で、見つかったのが五時半ごろ。


死因は前回と同様に、マイクロ波により調理されたこと。


そして検死官が前と同じことを言った。


マイクロ波による殺人であるが、それにしては皮膚を筆頭に筋肉や内臓の損傷が少ない。


身体が風船のように破裂してもかまわないのに、いやむしろ破裂しないほうが不思議なくらいなのに、破裂はおろか皮膚の小さな裂け目すらない。


それなのに身体全体がこれ以上はないほどに膨れ上がっているのだ。


「どういうことだ?」


古谷の問いに検死官は古谷の目をしっかりと見ながら答えた。


「そんなの私にわかるわけがないでしょう」


「そうか」


「ただ一つ言えることは」


「言えることは?」


「電子レンジのマイクロ波に非常に近いものではあるけれど、電子レンジのマイクロ波とまったく同じというわけではない。どこがどう違うと言われればさっぱりわかりませんけどね。新種のマイクロ波。そんなもんですかね」


「……新種のマイクロ波ね」


「どういうマイクロ波かはわかりませんが、今までのマイクロ波と比べると、その効果が若干柔らかいと言うかソフトと言うか、そんな感じですね」


「そうか」


古谷はそのまま検死室を後にした。




二人目の犠牲者が出た事で、警察は〝参考意見を聞く〟という名目で、トール電器産業と接触を図った。


殺人を犯した新種のマイクロ波とは? 


殺害の方法(まさかばかでかい電子レンジを持ってきて、その中に無理やり人間を押し込んで調理したわけでもあるまいし。かと言って、大量のマイクロ波を放出する機械を持ち込んで、人体に放射したとしても、ぱんぱんに膨れて死んでしまう前に体調の異変を感じて、逃げるなり暴れるなりするのが普通だが、現場には争ったあととか人間が追い掛け回されたような痕跡は一切残っていない)とか? 


何でもいいからとにかく聞き出しておくのが目的だ。


そこから事件の糸口、あるいは事件とトール電器産業との関連性が浮かび上がっていくかもしれない。


しかしトール電器産業もさるもので、表面上は〝全面的協力〟という立場をとりながら、肝心な事に触れると「その点につきましては、残念ながら当社ではわかりかねます」という姿勢に始終した。


結局のところ警察は、トール電器産業からは何の情報も得ることが出来なかったのである。




古谷の聞き込みは続いた。


最初のほうは「何か不審な人物を、見なかったか?」に始まり、東洋電磁波研究所も含めてさまざまなことを聞いてまわっていたが、いつしか質問の全てが、綿貫親子のことに集中していった。


古谷には、綿貫親子こそがこの事件の中心人物としか思えないようになっていったのである。


――少女の幽霊か。


綿貫郁子は夏になると毎日同じ服装だったそうだ。


赤いワンピースに青い靴、そして頭には黄色いリボン。


一つの服を洗濯しないで着続けていたのではなく、同じ服を何着も持っていたそうだ。


おそらく彼女のお気に入りだったのだろう。


その信号機のようにカラフルな服装で、同じ年恰好、同じおかっぱ頭の光る少女が、夜中に現れると言う。


そして親子は二人とも行方不明だ。


岬が言っていた。


事故の時、みんな逃げ出している最中に、綿貫郁子が研究所に入っていくのを見たと言う。


岬はすでに車に乗り、その車が走り出していた時なので中にまだ父親が残っている事もあり、そのままその場を離れたのだそうだ。


――どちらにしても、その研究していたと言う新種のマイクロ波が鍵だな。


トール電器産業への聞き込みは、古谷の管轄ではない。


他の、古谷よりも上役の刑事が行っている。


大企業への気遣いか。


しかし苦戦しているようだ。


――もう少し詳しく調べてみるか。


もちろん綿貫清次のことである。




聞き込みを綿貫親子のみにしたせいか、前回は聞く事が出来なかった情報も入ってきた。


二人のご婦人が同じことを言っていた。


それは、あの親子には毎日何回かやる決まりごとがあったそうだ。


「まず最初は、父親が研究所に行くときにやっていたわね」


玄関先で父親が座り込んで右手を差し出して、その手を郁子が両手でつかむのだそうだ。


「そして二人でこう言うのよ。優しさの〝や〟、約束の〝や〟。そして郁子ちゃんが手をはなす時に、二人で「や!」って声を出すの」


「優しさ、約束、とは?」


「さあ、たいした意味はないんじゃないの。ただのおまじないみたいなもんだと思うけど」


「……優しさの〝や〟、約束の〝や〟」


古谷はそう二度つぶやいた。




綿貫の生まれたのは、東北の小さな町だ。


両親は死んでしまったが、弟夫婦といとこが住んでいる。


もちろん弟夫婦から聞き込みである。


綿貫清次は写真でしか知らないが、古谷は陰湿で気難しい印象を持っていた。


だが弟の綿貫三郎は全く逆で、人がよく人懐っこく、おしゃべり好きの明るい男だった。


彼は行方不明になっている兄に関する情報を古谷から何か聞き出せるのではないかという思いも手伝って、いつも以上に饒舌になっていた。


綿貫清次は東京の大学に入った後、どこかの研究機関にいたそうだが、その間は故郷に一度も帰ってこなかったそうだ。


が、その研究機関で何かのトラブルを引き起こして、数年前にふらりと帰ってきて、そのまま半年ほど居座っていたそうだ。


「その時に正美さんと知り合ったんですよ」


正美は綿貫の妻のことである。


もともとこの町には住んでいなかったが、何だかの事情により、独身の叔父のいるこの町にやって来て、そのまま叔父の家に住み着いたのだそうだ。


綿貫が帰ってくる数ヶ月前のことである。


「それでですね」


綿貫三郎はものすごく話し辛そうに、同時に誰かに話したくてたまらないという匂いを漂わせながら、語った。


「正美はやって来るなり、町のある青年と付き合い始めたんです。ところが兄がやって来る少し前に、その青年と何かあったらしくて、その青年を避けるようになりました。そして兄が来た途端に自らアプローチして、清次と付き合うようになったんです。でもしばらくするとその青年ともよりを戻して、再び付き合うようになりました。つまり二股かけていたんですね」


「……」


古谷が何か言うのを待っていたようだったが、何も言わないので、三郎は再び話し始めた。


「私も何度か注意したんですが、兄さんは〝正美はそんなことをする女じゃない〟と言って、聞きませんでした。そうこうしているうちに、無職だった兄のもとにトール電器産業からお誘いがあって。兄がそれに飛びつき、東京に行くことになると正美が〝私もついて行く〟と言い出して。兄が了解したものですから、そのままついて行ってしまって。私のところに結婚式の案内が来たのが、その一ヵ月後です。その二ヵ月後には結婚式、そのまた五ヵ月後には郁子ちゃんが生まれました。郁子ちゃんは正美がこの町にいる時にできた子供と言う事になりますね。町を出て八ヵ月後に生まれていますから。兄は仕事が忙しいと言って、盆にも正月にも帰ってこなかったのですが、去年正美が死んで、お葬式に私も参加したのですが。そこで……」


「そこで……どうしました?」


「そこで郁子ちゃんを初めて見たんです。そう、郁子ちゃんは、郁子ちゃんの顔は、この町で正美と付き合っていた青年の顔と、瓜二つだったのです」


「……」


「兄は、郁子は両親のどちらにも似ていないが、正美のお母さんにちょっとだけ似ている。隔世遺伝かな? とか言っていましたが、郁子ちゃんの顔を見れば明白です。あの子は兄さんの子ではありません」


「清次さんは、そのことを知っているのですか?」


「いえ……とてもそんなことは言えません。あの当時、正美が上手く立ち回っていたので、兄はその青年と会ったことがありませんでしたし。その正美も死んでしまって、その青年もその後町を出て、どこで何をしているのか誰も知りません。そんな状態でそんなことを、兄に言えるわけがないじゃないですか。その子は兄さんの子じゃないよ……なんてことを」


三郎は、ふっと大きなため息を一つつくと、何かのつかえがおりたかのような顔で言った。


「兄は今は行方不明ですが、たとえ見つかったとしても、今言ったことは絶対に言わないでくれますか?」


「ええ、もちろんですとも」


古谷はしっかりと答えた。


郁子の父親が誰であるかなんて、自分には全く関係のない話だ。




捜査は完全に暗礁に乗り上げた。


上層部では今、トール電器産業に強制捜査に入るべきか否かで、けっこうもめているらしい。


でもそれは、上層部の仕事だ。


古谷のやるべきことではない。


古谷は相変わらず一般人相手の聞き込みだ。


聞いた多くの人間が言う事。


それはあの親子がいかに仲がよかったか、とりわけ綿貫清次がいかに娘を溺愛していたか、と言うことだ。


綿貫は郁子が自分の娘ではない事を知らない。


――何だか哀れだな。


古谷の中にわずかに生まれた綿貫清次への同情心。


もちろんそれは、捜査には必要ないものである。




古谷は幽霊なんぞ信じない。


しかしこうなると、事情が変わってくる。


ここのところずっと捜査に進展がない。


あせっていた。事件が解決しませんでした、では警察の面子が丸つぶれである。


――やってみるか。


やることは二つある。


一つは東洋電磁波研究所を〝勝手に〟調べる事。


そしてもう一つは、綿貫郁子の幽霊とやらを探し出すことだ。




東洋電磁波研究所は、三メートル弱もある高いブロック塀で囲まれている。


そこから中は見えないが、正面の大きな観音開きの門は金網である。


そこからは中が丸見えだ。


おまけにその門は、あの日の事故以来、ずっと開きっぱなしとなっていた。


どうぞ誰でもご自由にお入りください、と言わんばかりだ。


もちろん建物の入り口の鍵は掛かっているが、門から覗いただけで、この研究所がトール電器産業から完全に見放されたことが見てとれる。


近所の手前もある。


なにせ〝勝手に〟捜査するのだから。古谷は夜を待った。




夜になると小さな懐中電灯を用意して、研究所の敷地内に入った。


いくらトール電器産業が放置したとはいえ、これは立派に不法侵入である。


古谷は門からは見えないところにすばやく移動すると、建物に張り付いた。


小さな窓から中を照らすと、どうやら中は大きな空間となっているようだ。


外観は六階建てであるが、実は平屋だ。


端のほうに宇宙船の操縦パネルを連想させる大きな機械があり、その横にはパソコンのモニターらしきものが二台見える。


らしきものと言うのは、中が広すぎて懐中電灯の光が遠くまで届かず、はっきりと見ることが出来ないからだ。


反対側にはプレハブに見える小さな部屋らしきものがいくつも並んでいる。


部屋の中までは見ることが出来ない。それは懐中電灯の光の弱さというより、その部屋には全て、窓と言うものが存在しないからだ。


そしてばかでかい空間の真ん中に、それはあった。


最初からそこにあったのだが、あまりにも巨大なために壁かコンテナだと思い込み、数回懐中電灯を往復させるまで気づかなかったのだ。


床から天井まで届くその大きさ。


大きな箱にも見えるがそれは下のほうだけで、上部には長い金属の棒のようなものが何十と飛び出し、一番上にはクラブにあるミラーボールを巨大化させたような球体が乗っていた。


もちろん古谷には、どういう類いの機械であるかは、計り知れない。


唯一頭に浮かぶのは〝これが新種のマイクロ波を発生させる装置なのか〝ということだ。


――なんという大きさだ。


あっけにとられて見ていたが、そのうちに気がついた。


いくら見ても何もわからないということに。


とにかく正面側だけ見たのでは、全体を見ることができない。


それだけ中は広く、古谷の懐中電灯の能力は低い。


古谷は裏に回ることにした。




裏側は正面以上に窓が少なかった。


数少ない窓に懐中電灯を差し込むようにして中を覗いていたが、正面以上の情報を得ることが出来なかった。


そして建物の中ほどにさしかかった時、古谷の足が止まった。


ドアがあった。


表の扉に比べると小さく、畳一畳ほどのドア。


裏口か?


ドアノブをまわして引いたが、ドアは開かなかった。


ドアをそのままにして歩き始めた古谷の足が再び止まった。


――うん?


柔らかい。


それまで歩いてきた硬い土の地面と比べると、微妙に柔らかかった。


足をどけて光を照らすと、浅く足型が残っている。


しゃがみこみ、指先で触って気がついた。


掘り起こされている。


しかも最近。


地面を掘り起こしてそのまま何もせず、また埋めなおす奴はいない。


地面を掘り起こしたという事は、何かを埋めたということだ。


さらに調べて、長さ百三十センチ、幅六十センチくらいの長方形に掘り起こされている事がわかった。


――長さ百三十センチくらい、幅六十センチくらいの長方形だと?


古谷の脳裏に何かいやな予感がよぎった。


懐中電灯でまわりを照らしてみると、先のフェンスの角に何かがいくつも転がっていた。


行ってみると、見たことのない機械の部品がいくつか捨てられていたが、中に一メートルくらいの手ごろな金属の棒があった。


古谷はそれを拾い上げると両手でつかみ、懐中電灯を口にくわえて、何かに追い立てられているかのように、不気味な長方形を掘り始めた。




どれくらい掘っただろう。


そんなに長い時間とは思えないころ、金属の棒の先の感触が変わった。


気づけば穴の深さは五十センチほどになっている。


古谷は棒を放り投げ、両手で狂ったように掘り出した。


やがてそれは、丸い光の中に姿を現した。


死体。


それも全裸の少女の死体。


表面の土、特に顔のあたりの土をはらいのけて、古谷はその死体を見つめた。


間違いない。腐敗がすすみ、


見える範囲でも何匹ものうじ虫がうごめいているが、面影ははっきりと残っていた。


その死体は紛れもなく綿貫郁子だった。


ただ一つ異様なのは、その死体は何故か、頭の皮がきれいにはがされていたのだ。


――すると?


研究所の裏に深夜現れるという少女の幽霊。


綿貫郁子と同じ服を着て、同じおかっぱ頭でうっすらと光る少女。


綿貫郁子がすでに死んでいるのならば、本物の幽霊なのか?


混乱していた。


気がつけば穴から出て、ふらふらと歩き始めていた。


そこに突然現れたのだ。


頭の中が綿貫郁子でいっぱいだった。


だから反応が遅れた。


すでに目の目にいた。


赤いワンピースに青い靴、


大きな黄色いリボンをつけたおかっぱ頭の女の子が、下をむいたまま立っていた。


その身体は間違いなくうっすらと光っている。


さほど距離は離れていなかった。


が、さらにゆっくりと近づいてくる。


古谷は思わず後ずさりをした。


少女がさらに向かってくる。


古谷は再び後ろに下がった。


が、片足が今自分が掘ったばかりの穴に入り、そのまま後方に倒れ込んだ。


勢いよく尻もちをつき、古谷の身体は膝を曲げた状態ですっぽりと穴の中に入ってしまった。


少女が穴のふちまで近づき、古谷を覗き込んだ。


少女を下から見上げる格好になった時、初めて古谷にその顔が見えた。


その顔は綿貫郁子ではなかった。


その顔は、綿貫清次だったのだ。


――これは、いったい?


綿貫清次は捜査資料によれば、その身長は、百八十センチだったはず。


しかし今目の前にいる少女の服を着たその男は、その身長がせいぜい百十センチくらいしかない。


身体が全体的に縮んでいるのだ。


不意に、岬の言葉が浮かんできた。


〝綿貫所長は、十八時間もマイクロ波を浴び続けていたことになりますね〟


――これが十八時間もマイクロ波を浴び続けた男の、成れの果てなのか。


綿貫清次はじっと古谷を見ていた。


が、その目は左右の目の視線が不自然にずれている。


左右の目の人格が、明らかに違っているのだ。


――狂っている。


そう狂人の目だ。


マイクロ波を浴び続けて、身体だけではなくその精神までも暴力的に変えられてしまったのか。


――いや、違う。


そう感じた。


確信はない。


ただ綿貫清次が狂ったのは、マイクロ波が原因ではなく、溺愛していた娘が死んだからなのではないのか。


そんな気がした。綿貫の目を見ていると、なぜかそう思えてきたのだ。


綿貫は郁子が自分の娘だと信じている。


もちろん疑ったことなどないだろう。


その娘が、状況まではわからないが、あの事故で死んだ。


綿貫は正気を失い、それでも娘を埋葬し、十八時間かけてマイクロ波を止めたのだ。


娘を失った悲しみは、娘でしかおぎなえない。


郁子が必要だ。


だが郁子はもういない。


だから自分が郁子になった。


綿貫の目を見ていると、そう思えて仕方がなかった。


まるで綿貫の強い想いが、目を通じて古谷の脳内に侵入してくるかのような。


いつの間にか綿貫清次が古谷の傍らにしゃがみこんでいた。


「……や」


そう言った。


古谷は動けなかった。


綿貫は上半身を乗り出して、その顔を古谷の眼前までもってきて、言った。


「優しさの〝や〟、約束の〝や〟」


そう言うと、穴の縁をつかんでいる古谷の右手を、そっと両手で握った。




       終

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