適任者

ツヨシ

本編

気がつくと、部屋にいた。


私の体は静かにベッドに横たわっている。


ベッドと言うより、万年床と言ったほうがいい代物ではあるが。


まだ頭がはっきりとしない。


身体も思うように動かない。


戻ってすぐは、いつもこうだ。


このまま進めば、いつかはそうでなくなる日がくるのだろうか。


わからない。


――そのうち動くようになるさ。


動くようになった。


まだあちこち、特に指先など身体の先端部分に多少の違和感があるが、これもそのうちに治る。


ゆっくりと身体を起こす。


目に写るものは、いつもの見慣れた風景。


見飽きた風景と言ったほうがいいだろう。


築何年になるかもわからない、古びた木造アパート。


収入の芳しくない人たちが集う場所だ。


六畳一間に、小さな流し台。入り口近くに、体格のいい人間ならさぞかし窮屈な思いをするであろう、狭い風呂とトイレがある。


ここに住むようになってから、私は生まれて初めて、自分の身体が小柄でよかったと思うようになったものだ。


それでも各部屋に風呂があり、トイレが共有でないだけまだましなほうか。


そう思うことにしている。


大家は舞い上がったのか、強引に〝マンション〟と名づけているが、誰が見てもそんな代物ではない。


ちょっと大きな地震がおこれば、近所一帯がみな無事でも、ここだけは倒壊してしまうのではないかと本気で思える、年代もののアパートだ。


私はベッドから降りた。


ベッドと言っても、厚めのマットレスに、敷布団と掛け布団、それに枕を加えただけのものだが。


それでも私は、それを、ベッドと呼んでいるのだが。


ベッドのそばにある長年使っているラジカセのスイッチを入れる。


この部屋にテレビはない。


FM局から、聞いたことのない曲が、流れてくる。


アイドルなのだろう。


甘ったるい歌詞に、やけに明るいメロディ。


そして歌唱力の足らない若い女の歌声。


私は気分を害し、ラジカセのスイッチを切った。


昔からそうなのだが、私は下手な唄を聴くと、すこぶる不快になるのだ。


時には吐き気をもよおすこともあるくらいだ。


昔テレビで見たことがある、素人参加型のど自慢番組。


まれにうまい人もいるが、そんなものは例外だ。


ほとんどが聴くに堪えない。


最後まで見たことを、大いに後悔したものだ。


それを今でもはっきりと覚えている。


よくも最後まで見たものだと、いまだに不思議に思う。


おそらくあの日、私はどうにかしていたのに違いない。


あれ以来、一度も見ていない。


あんなものを毎週のように見ているやつの気が知れない。


おそらく音楽的感性というものが、欠落しているのだろう。


音痴が音痴の歌を聴いて喜んでいるのだ。


私は、そんな無神経なやからとは、まるで違う。私は生まれつき特別な人間なのだ。


――もう一度、やるか。


ベッドに目を移す。再度、試みることにした。


私はベッドに身体を沈めると、目を閉じた。




気がつくと部屋にいた。


私の体はいつものように、ベッドに横たわっている。


とは言っても、前とは明らかに違っていた。


以前は、いつのまにか自分の部屋に戻っていた、という感じだった。


戻ろうと思うこともなく、戻っているという自覚もなく、意識が閉じている間にいつのまにか帰ってきていたのだ。


だが今は、わずかではあるが――そろそろ戻ろう――と意識し始めた時に、なんとなくではあるが、今戻っているという自覚を持って、部屋に帰ってきている。


とにかくたいした進歩だ。立つこともできなかった幼子が、今や危なっかしいながらも自らの二本の足であるいているような。


そのくらいの差がある。


――毎日トレーニングを続けたかいがあったというものだ。


継続は力なり。


あとはきちんと歩き、走り、そしてジャンプができるようになれば、もう完成だ。


――ジャンプか。


そう、ジャンプこそが一番重要なのだ。


それができれば、もう恐れるものはなにもない。


まさに自由自在。




くり返すこと。


くり返すうちに、少しづつではあるが、確実に進歩してゆく。


うまくなってゆく。


いわゆる慣れだ。身体がそれに慣れていくのだ。


くり返しているうちに、ある時、ふとコツをつかむ。


コツをつかんだ時、それまでゆっくりと進んでいたものが、そこで一気にレベルアップする。


それがジャンプだ。


今までも何回かジャンプを経験した。


その度に、私の身体がけいれんでもしたかのように、激しく震える。


心の喜びもあるだろうが、身体が、身体全体の細胞が、ジャンプに成功したことを知ったために起こる現象だと思える。


やはり連動しているのだ。


密な関係にあるのだろう。意図的に切り離すことは、身体にとっても重要なことなのだ。


――あと一回か。


そう、おそらく、あと一回ジャンプすることができれば、長かった日々のトレーニングは、そこでようやく終わる。




私は、あれ、を最初に体験した時のことを、今でもよく覚えている。


忘れもしない十歳の時だ。


学校から帰り、居間でテレビを見ていた。


奥の台所では、母が晩御飯の支度をしていた。


とんとんと、リズムカルな包丁の音が私の耳に届いていたと、記憶している。


その音を聴いているうちに、いつのまにかうとうとしはじめたのだが、ふと気がつくと、私のすぐそばに、母が立っていたのだ。


――えっ?


我に返ったとき、私は居間のソファーに座って、ぼうとテレビをながめていた。


台所からは、あいかわらずとんとんと包丁の音が、響いてくる。


ふと、思った。


何を切っているのだろう? 


いやそんなことより、たった今、いったい何があったのだろうか?


考えたけど、わからなかった。


その時私は、あれ、は、夢でも見たのだろう、と思うことにした。




それ以降、何回も、あれ、が起こった。


その度に強引に、夢のせいや気のせいにしてきたのだが、それも限界が近づいてきた頃に、再び、あれ、がはじまった。


大学一年生の時だ。


その時なぜか、あれ、をコントロールしてみようと考えた。


なんでそんなことを思いついたのか、自分でもよくわからない。


ひょっとしたら、あれ、に関して、なにか、無意識のうちに気付いていたのかもしれないが、さしたる確信はなく、なんとも言い難い。


とにかく、わけがよくわからないままに、意識を集中させた。


なにかに意識を集中させることは、子供の頃から得意だった。


結果としては、成功したとは言えないだろう。


ただある時間帯、ほんの短い間ではあるが、あれ、が、ほんのわずかながら私の意志どおりになったような気がしたのだ。


――もしかしたら、訓練しだいでは自由に扱えるようになるのだはないか?


自信がまるでなかったにもかかわらず、そう思い立ったときの湧き上がる喜びは、自分でも驚くほどのものだった。


あれこれ、いろいろな思惑が浮かんでは消えたのを覚えている。


もし、思い通りに使いこなせるのなら。


あんなことやこんなことが、できるのではないか、と。


ただその時は、最終目標のことまでは頭がまわらなかった。


その時には、思いもよらなかったからである。




最後のジャンプが完成するまでに、それほど時間はかからなかった。


慣れと心の強い渇望が後押ししたのだ。


これで完全に、あれ、をコントロールすることが出来る。


あとは探すだけだ。




適当なところに車を停め、適当に歩く。


適当とはいっても、守らなければならないルールが一つある。


それは人目につかないことだ。


それだけは絶対に守らないと、それこそ死活問題になってしまうからだ。


おあつらえの家を見つけた。


玄関の反対側は街灯も届かず、真っ暗だ。


部屋の明かりに慣れ、暗闇には慣れていない目がなにかの拍子にこちらを見たとしても、闇以外なにも見えないだろう。


その家もすぐ近所の家も、犬は飼っていないようだ。


犬はまずい。たとえ見えなくとも、いとも簡単に、俺、の存在をかぎつける。


家の明かりはどこにも点いていない。


住人はそろっておやすみのようだ。


おれは静かにすみやかにブロック塀を乗り越えると、裏にまわった。


壁の向こうは、どうやら台所らしい。


ますますいい。


――さてと。


仕事、に取り掛かった。




俺が最初に、仕事、をしたのは、いつのことだったか。


よく覚えていない。


たぶん、六歳か七歳か八歳あたりか。


なぜこんな大事なことを覚えていないのか、それが自分でも不思議だ。


一生はっきりと覚えていても、おかしくはないのだが。


人間の記憶とは不可解なものだ。


今は、仕事、は一つしかやっていないが、そのころはいろんなことをやっていた。


一つに落ち着いたのは、もっと後のことだ。


それもいつごろからなのか、よくわからない。


それも不思議だ。


ひょっとしたら、俺のやっている、仕事、とは、俺にとっては、まるで息をしていることのように自然な行為なのかもしれない、と考えてみたりもした。


ただ覚えているのは、今の、仕事、は、最初は年に一回ぐらいしかやっていなかったように思う。


それがいつの間にか半年に一回となり、その後、じわじわとインターバルが短くなっていった。


――もっと仕事がしたい。


湧き上がる欲求。


俺は抑えることができなかった。


押さえる気も、さらさらなかったことは確かだが。


半年に一回になり、そのうちに四ヶ月に一回、三ヶ月に一回とエスカレートしていき、最近では一ヶ月に一回のペースだ。


今のところ月一回で落ち着いているのだが、それもいつまでもつか。


そのうちに、さらにエスカレートするような気がしてならない。


まあそれならそれで、別にかまいやしないのだが。


問題は、警察にばれやしないかということだ。


ばれたら、それこそただではすまないだろう。


子供の頃から、仕事、をはじめたこの俺も、この間、めでたく三十歳の誕生日を迎えることができた。


今までは、疑われたことすらなかったが、この先はどうか。


――まあ、今まで大丈夫だったのだから、この先も、たぶん大丈夫だろう。


俺は少し心配した後、本気でそう思った。




いざ探すとなると、なかなかいないものだ。


ある程度予想はついていた。


しかし、これほどいないとは思ってもみなかった。


まず最初の条件が難しい。


なにせルールと言うか基準と言うかその境目が、私自身よくわかっていないからだ。


行けそうな人は、そんなに珍しくない。


この人は、ひょっとしたら行けるかな、ぐらいの人間なら、ずいぶん見つけたものだ。


しかし、ひょっとしたら行けそうかな、というレベルではだめなのだ。


確実に行ってもらわないと。そうなれば、


今までに二人、といったところか。


しかしこの二人は、次の条件に合わなかった。


二人とも見るからに生命エネルギーに満ちあふれている。


憎まれっ子、世にはばかるとは、よく言ったものだ。


昔の人は、長い歴史と経験からそう言ったのだろう。


そこには真実が含まれている。


――なんとしてでも、早く見つけないと。


早く見たいのはやまやまだ。


しかし私は、自分がなぜそこまで急いでいるのかが、自分でもよくわからなかった。




昨日の仕事は思いのほかうまくいったようだ。


朝のニュースを見ながら、俺はそう思った。


予想していたよりも、被害が大きかったのだ。


被害は大きければ大きいほどいい。


そのためにやっているのだから。


――今度は民家ではなく、他のものを狙ってみるか。


民家以外のものに手を出したことは、今までなかった。


でも考えた。


民家ではいくら被害がふくれあがろうとも、たかがしれているのではないかと。


さらなる刺激を求めて徐々に過激になっていくのが、俺の悪い癖だ。


自分でもわかっている。


しかしその癖のために自分に累がおよんだことは、ただの一度もなかった。


おそらくこれからもないだろう。


俺はそう考えると、自然に笑みがこぼれた。


知らない人が見たならば、思わず一歩下がってしまうような悪意に満ちた笑みだ。




と思いつつ、次の仕事も平凡な一軒家だった。


何事にも順序がある。


いきなりの大仕事は、やはりまずいかもしれない。


俺はいつになく慎重になっていた。


でも、今はそれでいいのかもしれない。


やがて歴史に名を残すような大仕事をやってのけるのだから。


とは言っても、俺の名前は一切残らないのだが。




あのことに気付いたのは、数年前のことだ。


私があの状態になると、人間の生命エネルギーのようなものが見えるのだが、ある日それが異常なまでに少ない人間を見たのだ。


薄いと言ったほうがいいかもしれない。


向こうが透けて見える、という感じか。


三軒西隣に住む男性だ。


体育会系で背も高く、がっちりとした体つき。年齢は確かまだ二十三歳。


産まれてこのかた風邪一つひいたことがないと言う話を聞いたことがある。


そうなれば、生命エネルギーなどあふれかえってもよさそうなものだが、とても薄く見えたのだ。


――なぜだろう?


不思議だった。


私が少し前に見たときには、誰よりも濃く力強く輝いていたというのに。


その頃の私は、あの状態では自分の近所しかうろつくことが出来なかった。


自己コントロールも、はじめて間がないころだったし。


その数日後、男は死んだ。


原因は転落死。


登山が趣味だったのだが、誤って崖から落ちた。


全国ニュースにも取り上げられるほどで、近所の暇なおばさん連中が集まって、あきれるほどに大騒ぎをしていたものだ。


その時私は知った。


人よりも明らかに生命エネルギーの薄い者は、近いうちに死ぬ運命にあるということを。




その後も捜した。捜して捜して捜しまくった。


五日前に浦和に行ってきたし、三日前は千葉だった。


そして今日、とうとう横浜で見つけたのだ。


二つの条件を満たす適任者を。


間違いなくあそこに行くことができ、しかも近々命を落とす人間だ。




今日も仕事をした。


四日前に一つやっつけたばかりだと言うのに。


――いくらなんでもペースが早いか。


しかも仕事をやり終えたばかりなのに、もう次の仕事がしたくなっている。


いつもなら仕事の後は、大きな充実感で満たされ、しばらくその状態が続くのだが、今回はまるで違う。


何年か前までは、年に一回仕事をすれば、充分だったのに。


――なにか、おかしい。


まるで生きているうちに、できるだけ多くの仕事をこなそうと、あせっているかのように感じられる。


――なんでそんなに、あせっているんだ?


自問自答する。


しかし俺には、なんの答えも得ることが出来なかった。




それともう一つ、気になることがある。


それは最近、〟誰かに見られている〟と強く感じることだ。


人目は気にしている。


子供の時から。人目を気にしないといけないような事ばかりをしてきたからだ。


子供の頃、俺の近所では「変なことばかりが起きる」と噂が絶えなかった。


若い女性の下着が盗まれる。


飼い猫が突然いなくなる。


玄関先に生ゴミがばらまかれる。


老人が命の次に大切にしていた庭の盆栽が、すべてへし折られる。


誰かが子供に石を投げて怪我をさせる。


チワワがたたき殺される。


などなど。


警察沙汰になったことも、一度や二度ではない。


全部俺がやった事だ。


もちろんやる時は、見つからないように人目を十二分に意識をしなければならない。


当然だ。


見つかっておもしろいことは、一つもない。


俺は悪いことをしていない時でも、努めて人目を気にするようになった。


それは言わば訓練だ。


子供の頃から毎日欠かさずにやっていた。


朝起きてから夜寝るまで。


そのおかげで人の視線には異常なほどに敏感になったものだ。


その頃、一つの噂が立った。若い男の噂だ。


噂とは実にいい加減なものだ。


誰かが何の気なしに「怪しい若い男を見た」と言い出せば、近所で起こる悪しき出来事はすべてその男のせいになり、近所中で怪しい男の掘り起しが始まった。


警察も〝目撃証言〟に基づいて、その男を捜索していたようだ。


もちろん見つかるはずはない。


そんな男は存在しないのだから。


ましてや俺はその頃、まだ小学生だったのだ。


疑われるわけもない。




ところが何所にでも、カン、の鋭い人間がいるものだ。


俺が怪しいと気付いていた人間も、そんな一人だった。


道をはさんで斜めむかいに住む女の子。


年は俺より一つ年下だった。


俺がなにかしているところを見たわけでもないのに、持って産まれた直感で俺が犯人だと見透かしていたようだ。


しかししょせんは小学生の女の子だ。


そういう俺も、まだ小学生だったか。


その事実を誰かに説得力を持って伝えることができなかった。


証拠もなかったし。


そんなわけで俺はつるし上げをくらわずにすんだ。


ただいつも俺を見張っていた。


小学生の女の子なりに、証拠を掴もうとしていたのだろう。


その時、俺の人の視線に敏感と言う能力に、磨きがかかったように思う。


その子がカーテンのすきまからのぞこうが、俺からは直接目で見ることが出来ない暗がりから見ようが、俺は気付くようになっていった。


もちろん俺は気付いても、そ知らぬむりで通した。


その俺のそ知らぬふりは、小学生にして国際映画祭で演技章をとれるほどの自然さだったと自負している。


しかし彼女のカンはそれを上まわっていた。


俺が見られていることに気付いていたことを、はなからわかっていたようだ。


そして彼女のすごいところは、それでも俺を監視続けることをやめなかったことだ。


小学生の女の子の深層心理は、同じく小学生の男の子である俺にはわかるすべもないが、推測するに、俺を見張ることにある種の義務感を抱いていたのではないのかと思う。


俺の、正体、を見破ったのは自分ひとりだけなのだと、強く感じていたのかもしれない。


あるいはそんなものではなく、単なる俺に対する当てつけ、嫌がらせだったのかもしれないが。


近所に住む自分に、俺が手は出せないとたかをくくっていた可能性も、否定は出来ない。


とにかく彼女の俺の監視体制は、俺が中学生になっても続いていた。


そのうちに向こうも中学生となった。




人に見られるのは、疲れる。


ストレスがとてつもなく溜まるものだ。


その重みは徐々に俺にのしかかってくる。


ある日、俺は決意した。


そしてそれを、なんのためらいもなく実行した。


当然のことだ。


河川敷の草むらの中から彼女の遺体が見つかったのは、次の日のことだった。


飼い主に連れられて散歩をしていた柴犬が、それを見つけたのだという。


その柴犬は、前に俺が殺しそこねたやつだ。金属バットを手に持ち、殺そうと近づいた時に、視線を感じたのでやめたのだ。


その視線は、俺が殺した彼女のものだった。


自分を助けた中学生の死体を見つけるなんて、なかなか義理堅い犬じゃないか。


俺もそれを聞いて、あの犬を殺さないでよかったと思った。


仕事、をしても誰にも知られることがないのでは、まるで張り合いがない。


人が騒げば騒ぐほど、おもしろいのだ。


ただいなくなったのと死んだのでは、世間もそうだろうが、俺の中では世間以上の差がある。


圧倒的な違いと言っていいだろう。


そして俺が一番嫌なのは、せっかく仕事をしたのに、まわりがなかなか騒いでくれないことだ。


死体はそのうちに見つかったとしても、見つかるまでの期間がすこぶる落ちつかない。


かといって俺が第一発見者になるわけにもいかない。


翌日に見つけた犬に、キスでもしてやりたい気分だ。


警察はあいも変わらず若い男を躍起になって捜している。


それは近所の噂スズメも同じだ。


ピーチクパーチクとうるさいことだ。


でもそのまませいぜい騒いでいるがいいさ。


そんな男は存在しないのだから。

 



人を殺したのはそれが初めてだった。俺が中学二年生の時だ。


今はもはや、何人殺したのか数え切れないほどになったが。

 



次の日も仕事に出かけた。


ここ数日で、俺の中でなにかが確実に変わっている。


それがないかは、よくはわからないが。


とにかく落ちつかない。


仕事をどんどんやらないと、発狂しそうになるほどに落ちつかないのだ。


そしてその日、仕事をしている間中、誰かの視線を感じた。


――おかしい。


人の視線は感じる。


それも強烈なやつを。


なのに人の気配というものを、まったく感じないのだ。


こんなことがありえるだろうか。


視線と気配は似ている。


視線のほうが強く感じられるが、いつも気配も同時に感じていたものだ。


例外はなかった。


今までは。


しかし今感じているのは、強烈な視線のみだ。


気配と言うものがまるでない。


視線と気配の違いは、俺の中では明らかだ。


似たような感覚で迫ってくるが、視線を意志とするならば、、気配は肉体である。


だとすれば、肉体のないものが意志だけで俺を見ていることになるのだが、もちろんそんなことはありえない。


もしあるとすれば……


――それはまるで……


俺はその先の考えを打ち消した。


気の迷いだ。


そう決め付けることにした。


最近、とにかく落ちつかないし、気分もすぐれないのは、単なる疲労にすぎない。


視線を感じつつも俺は仕事を実行し、やりとげ、その場を後にした。




それから二日ほど我慢した。


二日間我慢したのは、二日が限界だったからだ。


奇妙な視線を感じるようになってからは、仕事をしばらく控えようと決意したはずなのだが、文字通り三日ともたなかった。


――単なる気のせい。気のせいなのだ。


俺は迷いを振り切るように、家を出た。




車を飛ばす。


隣町のさらに隣町。


俺の家からはけっこう離れている場所だ。


前に一度、下見に来たことがある。


いつもなら下見は、最低二回はするのだが、今回はその余裕がない。


そのまま仕事にはいることにした。


すでに目をつけていた家へとむかう。


暗がりで見ても、下見の時に感じたように仕事のしやすい家のようだ。


視線は相変わらずきつく突き刺さってくる。


車に乗る前、車を飛ばしている時、そして今も。


深夜と言っていい時間帯。


俺の車を追ってくるものは、車であれバイクであれ、一台もなかったと、自信をもって断言できる。


それなのに視線だけがいつまでもべたりとくっついて来て、一時も離れることがないのだ。


でもそんなことは、もうどうでもいい。


わけのわからないものを、気にかけている場合ではない。




仕事はすぐに終わった。


後は結果を明日のニュースで見るだけだ。


全国ニュースになるかローカルニュースどまりかは、被害の大きさによるだろう。


そこまでは予測は出来ない。


全国ニュースで大々的に取り上げられることを祈るだけだ。




その場を去ろうとしたとき、視線がさらに強まった。


視線が突き刺さるとはこのことか。


現実に体中に激しい痛みを感じたのだ。


電気ショックでも受けたように。


その場から逃げたい一心でふらふらと歩き始めたが、視線の攻撃は止まらない。


むしろどんどん強さを増していっている。


痛い。本当に痛い。


思わず口をついて出た。


「だっ、誰だ!」


すると、仕事を終えたばかりの家の二階で明かりがつき、窓ががらりと開いた。


そこに立つ人影は、逆光で顔は見えなかったが、俺を見ていることは明らかだった。


ほかに見るものはなにもない。


――まずい。


逃げようとした時、俺の身体を走り回っていた痛みが急にやわらいだ。


俺は反射的に走り出した。




住宅街の路地を闇雲に走っていると、どこかで道を間違えたのか、見知らぬ場所に出た。


――何所だ、ここは?


車の停めている場所がわからない。


しかし家の住人に顔を見られてしまっている。


いつまでもこんなところをうろうろしているわけにはいかない。


――あっちか?


あっちのような気がしてきた。


俺は再び走り出した。


すると突然、広い道路に身体が飛び出した。


幹線道路に出たようだ。


と同時に、右からさす強烈な光りに気がついた。


思わず右を見たときには、もう手遅れだった。


大型トラックと思える二つのライトが、すでに手を伸ばせば届きそうな距離にあった。




気がつけば俺は見知らぬ場所に立っていた。


暗い。


しかしまったく明かりがないわけではない。


前方にぼうと小さく光る明かりがある。


その光りが俺に近づいてきた。


――なんだあ?


さらに近づいて、その光の招待がわかった。


一メートルにも満たないような、不自然なほど小柄な男。


相当な年齢を重ねていると思われる老人が、小さなランプをぶらさげているのだ。


俺が黙って見ていると、老人が言った。


「それでは行きますか。ついてきなさい」


物言いは柔らかだが、一切の質問も反論も許さないような響きが、その声にはあった。


老人が背を向けて歩き出す。


俺はそのままついて行くことにした。




少し歩くと老人がふと立ち止まった。


振り返り、俺の肩越しに後方を見てつぶやいた。


「もう一人いますなあ。まだはやいのに」


振り返ったが、そこには誰もいなかった。


というよりも、暗くてなにも見えないのだ。


ただ俺は感じていた。


最近ずっと感じていた視線と同じものが、見えない闇の中にあった。


感じたのではなく、あると思ったのだ。


同じ視線にはちがいないが、感じ方がまるで違う。


視線が、なんだかの物体、サッカーボールや陶器かなんかのように、手にとってつかむことができるもののように思えたのだ。


そしてもう一つ俺が感じたこと――こっちは感じたことである――があった。


その視線が近づいてきていることだ。


実際、その視線の主が姿を現した。


最初はぼんやりとしていたが、俺の身体の横に立った頃には、はっきりと見えた。


若い男だ。


二十代前半くらいだろうか。


白衣を着ている。


見た目の印象は、医者もしくは医大生だ。


白衣を着ているためだけではない。


きちんと七三に分けた今どき珍しい髪型。


ファッション性を度外視した黒ぶちの大きな眼鏡。


そして端整で知的な顔立ちが、医者と言う印象をさらに強くしていた。


「はじめまして」


男は言った。


俺はなにも返さなかった。


かわりに老人が言った。


「それでは、……とりあえず行きますか」


状況がよくつかめないが、今はそうするしかないような気がした。


老人が歩き出し、男と俺はそれにならった。




三人で歩く。


男の視線はもう感じない。


理由は簡単だ。


男の目はまっすぐ前方に向けられており、俺のほうは見ていないからだ。


歩きながら考えた。


俺が最後に視たのは、迫り来るトラックのライトだ。


光が強すぎて細かくはわからないが、すぐそばにいたような気がする。


――と、いうことは。


おれはトラックにひかれたはずだ。


どう考えても。もちろん無事にすむわけがない。


なのに今、俺は身体のどこにも痛みを感じないし、不自由さもない。


大型トラックにひかれて五体満足でいられるわけがない。


――ということは。


老人が歩きながら、背を向けたままで言った。


「ようやく気がつきましたか。そう、あなたは死んだのですよ。トラックにひかれてね」


――やっぱりそうだったのか!


ということは、ここはあの世ということになる。


そうなると、俺は……


老人が言った。


「そうです。あなたは地獄に行くのです」


――なんということだ!


生きている時は地獄など、まるで信じていなかった。


しかし今は違う。今なら信じられる。


なぜならこの先に、三人で歩くその向こうに、地獄というものの存在をはっきりと感じることができたからだ。


まだ見てないのに、実際にその場にいるかのように実在感を持って、俺にのしかかってきている。


――逃げ出そうか?


思ったとたん、老人が言った。


「とても無理ですね。あなたは子供の頃から数々の罪を重ねてきました。そして死ぬ前は、連続放火魔となっていました。あなたの放った火で、多くの人が命を落としています。どうあがいても、地獄行きをまぬがれることはできません」


無理なことは薄々わかっていた。


さっきから俺の体は、俺の意思を無視して勝手に動いている。


先のまったく見えない、暗闇に向かって。


――どうしようもないのか。


今までやってきたことを、頭に浮かべる。


地獄に行くには、充分すぎることをやってきたのだ。


――これが因果応報と言うやつか。


俺はこれから、生きていた時に犯した罪を、永遠に償わなければならないのだ。




そのまま歩いていると、老人が言った。


「ところで、あなたはどうしてここにいるのですか?」


俺のことではない。


もう一人の男のことだ。


不健康な青白い顔をした男。


俺が男を見ていると――なぜか首から上だけは自由に動かせるので、男のほうを見ることができる――男が言った。


「説明しないといけませんか」


老人が答える。


「ええ、しないといけませんね。あなたのような人が来ることは、予定にはなかったことですし、私はここの案内人を任されていますので、どこの誰かもわからない人を、連れて行くわけにはいかないものですから」


「わかりました」


「できるだけ詳しくお願いします」


「はい、では。……もう気がついているとは思いますが、私は生霊です。まだ死んではいません」


男は自分の頭の上を指さした。


俺とは違って、自由に動けるようだ。


男が指さしたものは、糸のようなものだった。


白い太い糸で、男の頭のてっぺんから生え、うすぼんやりとにぶい光りを放ちながらそのまま男の後方へと伸びている。


途中から闇にまぎれて見えなくなっているが、それ自体が光っていることもあり、見えている部分だけでもかなりの長さがある。


その存在は、最初から気付いていた。


ただそれが何であるかが、俺にはわからなかったのだが。


男が言った。


「魂の糸です」


老人が軽く笑う。


「ここではまずお目にかかれないしろものではありますが、知っています。魂と肉体をつなぐ糸ですね。生きた人間はつながっていて、死んだ人間は切れている」


「そうです」


「で、生霊が、どうやってここまで来ましたか? 生きている人間で、地獄への道を知っている人は、一人も存在しません。それは断言できます」


「その人について来たのです」


その人? 俺のことか? 


この男は俺について来たと言うのか?


「やっぱりそうですか。……でも、どうやって。まずどうしてこの人が地獄へ行くと知っていたのですか? あとどうしてこの人が、死ぬと知っていたのですか? たまたまとは、とても思えませんが」


「私は子供の頃から時々幽体離脱をすることがありましてね。最初は勝手に身体から幽体が離れて、勝手に戻っていたのですが、そのうちのそれをコントロールしようと思い立ちました。そして何年もかかって、自由に離脱し、そして離脱した幽体を思いのままに動かせるようになったのです」


「ほほう」


老人が再び笑った。


しかし先ほどの軽い笑いとはまるで違っていた。


重く湿った、人の皮膚にまとわりつき、ぴったりと離れないような笑い。


俺が生まれてから一度も、誰の顔の上にも見かけたことがないような笑いだ。


老人の歪んだ笑いに気がつかないのか、男は続けた。


そのものの言いようは、自慢しているようにも聞こえる。


「幽体離脱をすると、どこへでも自由に行くことができます。見たいものを見ることができます。そして私は捜したのですよ。適任者を」


「適任者?」


「そう、適任者です。死んだら必ず地獄に行き、しかももうじき死ぬ運命にある人を。さんざん捜しまわってようやく見つけました。それがこの人です」


老人の顔から、不気味な笑みが消えた。


「そうですか。地獄に行きそうな人は、見ればわかりますよね。幽体はどこにでも入り込めますし、相手からは見ることができませんし。それにこの人のやってきたことは、地獄に行ってさらにお釣りが出るほどですから。しかしもうすぐ死ぬというのは、どうしてわかります?」


「幽体の時に人間を見ると、まれに他の人よりエネルギーが薄いと言いましょうか、少し透けて見えているような人がいるのです。そのうちに、そんな人はじきに死ぬ人なんだと気がつきました。この人もそうでした」


「なるほど。それで適任者と。確かに地獄へついて行くには、これ以上はないほどにぴったりな人ですね」


――やっぱり。


俺が誰かに見られているような気がしたのは、気のせいではなかったんだ。


現にこの男の生霊が見ていた。肉体を持たない生霊が。


その間、おれのやっていたことは、すべて見られていたのだ。


でもまあいい。


こいつは警察じゃないし、それに俺はもう死んでいるのだから、警察もなにもあったもんじゃないだろう。


老人が今度は表情のない顔で聞いた。


「なぜ、地獄に行きたいとおもったのですかね?」


男が笑った。


現れたときからずっと軽くにやけてはいたが、今は声こそ出してはいないが、完全に笑っている。


しかも、人間性をまるで感じさせない、無機質の笑いだ。


が、男は不意に笑うのをやめると、やはり鉱物の響きで言った。


「見たかったんですよ、地獄を。正確に言えば、地獄で苦しむ亡者達の姿を、見たかったんですよ。なにがなんでもね」


「……なんでそんなものを、見たいんだ?」


今度は俺が、男に聞いた。


男は再び命のない笑いを顔いっぱいに浮かべながら言った。


「なんで、だって? だって見たいじゃないですか。地獄で、それこそ本物の責め苦を味わう亡者達を。生きている世界では、決して見ることのできない、残虐で無慈悲な仕打ち。生きている人間にやったら、すぐに死んでしまうようなひどい体罰を受けても、死なずに……とは言ってももうすでに死んでいるのですが、そのまま罰を受け続けている亡者達。苦しみ、わめき、呻き、もがき、そして絶望の淵でわが身を呪っている。未来も希望もない、正真正銘の地獄の底で。そんな姿を見たいと思うのは、人間として当然のことでしょう。当たり前じゃないですか。わくわくしませんか? 考えただけで、身体中の血が沸き立ちませんか? いったい、どうしてそんなわかりきったことを、わざわざ聞くのですか?」


俺はなにも言わなかった。


俺にはそんな趣味はないからだ。


責め苦に苦しむ人を見たいと思う趣味は。


俺が見たいのは、驚き、慌てふためく人間なのだ。


あと、無節操に騒ぐマスコミ。


こいつとは次元が違う。


老人も同じくなにも言わなかった。


老人が何事もなかったように歩き出し、俺もそれに続く。


男は、二人の無反応と言う反応に驚き、抗議の顔をつくったが、そのまま無言で二人についてきた。




それからどれほど歩いたのだろうか。


時間と空間の観念が、生きている時とはくらべものにならないほどに曖昧なため、俺にはよくわからない。


ただ一歩一歩地獄に近づいていることだけは、確かなようだ。


空気が身体に感じるほど、濃密で重くなってゆく。


まるで水中を歩いているかのようだ。




「着きましたよ」


何の前触れもなく、老人が言った。


目の前に戸が一つ、ぽつんとある。


その辺の民家にあるような、なんの変哲もない古びた引き戸だ。


老人が引き戸を開け、中に入る。


俺と男はそれに続いた。


二人が入った後、老人が戸を閉めると、その戸はすうっと霧のようにかき消えた。


「ここが地獄か」


男が言った。


その声にはなんの喜びも感じとれない。


俺もそうだが、男も自分が予想していたものとは、かなり違っていたようだ。


目の前に写るもの。


それは岩山だ。


軽い傾斜のある岩の台地が、延々と延びている。


空は暗いが、真っ暗というわけではない。


現世の夕方くらいの光りがある。


ただこの世の夕方の風景は赤く染まっているが、ここでは灰色に染まっていた。


亡者の姿は、どこにも見当たらない。


亡者どころか、誰一人いないのだ。


「ここが地獄だって? そんなバカな。ありえない。なにかの間違いだ!」


男がわめく。


老人が冷たく答えた。


「ここは地獄ですよ。まぎれもない」


「じゃあ……それじゃあ亡者達は、どこにいるんだ。鬼は、悪魔は。いったいどこにいるんだ。なんにもないじゃないか。いったいどうなってるんだ」


「ここは地獄の入り口です。地獄はとても広いのですよ。この世の世界とは比べものにならないほどはるかに。心配しなくても大丈夫です。あなたはこれからたっぷりと地獄を体験できますから」


――体験? 見学じゃないのか?


俺がそう考えていると、男が言った。


「なんだそうか。それはよかった。それじゃあゆっくりと見させてもらうよ」


再び老人が言った。


「見る? ですか。そりゃあ嫌でも見ることはできますけどね。見る、だけじゃあすまないと思いますよ」


俺は気付いた。


男の頭から生えていた、魂の糸がなくなっていることに。


それは男が死んだと言う意味に、他ならない。


俺の視線に気がついたのだろう。


男は右手で自分の頭を撫で回しはじめた。


最初はゆっくりとだったが、突然その動きが激しくなった。


そして今は、両手で狂ったように頭を掻きまわしている。


おそらく魂の糸は、自分の手で触ることができるのだろう。


男は今までに何度もそれに触れたことがあったのに違いない。


しかし今は、手になんの感触もないのだ。


その意味を理解したのか、男は両手を頭にのせたまま、大きく見開いた目で老人を見た。


老人が言った。


「そうです、あなたはもう死んでいます。現世ではあなたの魂の抜けた体が、どこかにころがっていることでしょう。そもそも生きた人間は、たとえ生霊でも地獄に入ることはできません。つまり地獄に入ったとたんに、あなたは死んだのです。もちろん出て行くことは、不可能です。よかったですね、願いがかなって。これからは永遠に地獄を見続けることができるのですから」


すでに死んでしまった男の動きを見た俺は、自分の身体が動くか試してみた。


やはりだ。自由に動く。


おれは男の右手をしっかりと握ると、その蒼白に固まった顔をのぞきこんで言った。


「これからはずうっといっしょだぜ。仲良くしような、兄弟」


そして笑った。

 


 

       終

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