狭間のもの

ツヨシ

本編

目覚めた時は、あたり一面、まだ暗く夜の中だった。


男はゆるりと上半身を起こした。


普段、夜中に目覚める時は、尿意があるときが多い。


しかし今は、尿意は微塵も感じられない。


――なんで、目が覚めたんだ?


目が覚めた理由は、なぜだかわからない。


なぜだかわからないが、とにかく異様な胸騒ぎがする。


これまでの長い人生において何か胸騒ぎを覚えたことは、極端に珍しいことでもない。


しかし、今経験しているこの胸の落ち着きのなさは、これまでに経験したことのないほどに、激しいものだった。


頭痛までしている。


けっこうきつい。


おまけに指の先が、かすかにしびれている。


とても、じっとしていられない。


男は床に投げ出してある白いトレンチコートを手にとると、じとり油で湿った厚い布地を持ち上げ、そっと外に出た。


男の目の前に、星でうすく光る夜空をさえぎって、黒く長方形の巨大なものがそびえ立つ。


男はその黒影をじっと見つめた。


――あそこへ、行かなければ。


その理由はわからない。


ただそう強く感じただけだ。


男は白いトレンチコートをはおると、亡霊のように影にむかって歩いた。

 



ケムンが目覚めたのは、いつもの時間より少しばかり遅かった。


なんだか知らないが、軽く頭痛がする。


指の先の感覚が、すこしおかしい。


思わず触ってみる。


――血のめぐりが悪いみたいだが。


しばらくさすっていると、だいぶましになってきた。


もう朝の会合の時間のようだ。


ぼさぼさの髪をがりがりかくと、這いずるように外に出て、足早に玄関ホール前へと歩いていった。

 



ケムンが会合場所に着くと、朝の集会が始まっていた。


なじみの顔と背中が五つほど、ホール前のコンクリートの上に座りこんでいる。


中心で話をしているのは、たけさんだ。


三人いるリーダーの一人だ。


ケムンは、たけさんの本名は知らない。


元が竹田なのか竹内なのか、ある程度の想像はつくが、たけが名字からきたものとは限らないし、本当のところはよくわからない。


たとえわかったところで、どうかしたのもでもないし、わかりたいとも思わないが。


とにかくたけさんは、たけさんで通っている。


どのみちここにいる人間で、親からつけられた名前で呼ばれている人など、一人もいないのだから。


集まった人数はいつもよりも少なめであるが、たけさんの口調はいつもよりもなんだか熱っぽい。


「よお、やっと来たな」


ケムンの顔を見つけ、たけさんがそう言った。


背中を向けていた四人が振りかえる。


その顔は、毎日の習慣でとりあえず集まって話を聞いている人間の表情とは、少しばかり違っているように思える。


ケムンが座ると、たけさんが再び話を始めた。


「みんなにはもう言っているんだが、スワンの姿が見当たらなくなったんだ」


スワンとはここでは古株にあたる人物で、真夏以外はいつも白い(薄汚れていて、純白というよりは、まだらな灰色と言ったほうが正しい。カンさんはそれを、シマシマと呼んでいる)トレンチコートを着ている男だ。


スワン〝白鳥〟の名は、そのトレンチコートに由来している。


「スワンが?」


ケムンがそう訊くと、たけさんはいっそう声を荒げて言った。


「そうだ。隣のカンさんが、夜中の三時くらいに。外に出て行く気配を感じたそうだ。ただカンさんは、睡魔に勝てず、そのまま寝てしまったそうだ。だからその後のことは、何も知らないといっている」


カンさんが、やけに黒い顔をケムンに向けた。


「そうなんだよなあ。昨日の夜、ふと目が覚めて、またうとうとしていたら、シマシマのやろうーースワンのことだーーがハウスから出て行く音が聞こえ、そのまま歩いていく音が聞こえたんだ。まあ、便所でも行ったのかと、さして気にもしていなかったんだが。今までも時々、夜中にようをたしにいくことが、あったみたいだからな。俺もそうだが、年とると、しょんべんがちかくなってなあ。まったく、困ったもんだが。……で、そんでもって朝のぞいてみると、ハウスの中はもぬけのから。そのうち戻ってくるかと思ったんだが、戻ってこない。さっき、ここにいるみんなでその辺を探していたんだが、どこにもいないんだ」


そんな話をしていると、残りの二人が顔を出してきた。


ボンちゃんと、どろん。三日に一回は遅れて来る二人が、今日は仲良く遅刻だ。


たけさんとが、同じ話を二人に、めんどうくさそうにくり返した。


「いったい、どこいったんだろうなあ?」


たけさんがつぶやいた。


スワンが朝からどこかに出かけるということは、一番古株のたけさんでさえ記憶にないという。


普段なら午前中はほとんどハウスから出てこない。


したがってここにいる全員が、とくにたけさんが、妙なことだとは思っていたが、心配の量は決して多くはなかった。


その理由は単純だ。


スワンが九人の中では一番の嫌われ者だったからである。


なんでもスワンは、その昔、某有名国立大学をいい成績で卒業し、日本中の誰もが知っている一流企業に就職し、部長にまでなったという話だ。


その後のことは本人がまるで語らないのでわからないが、まあだいたいのことは想像がつく。


そして現在、他の八人と同じ身分となりながら、なにかあれば、一流大学がどうのこうの、一流企業がどうのこうの、昔の自慢話をはじめたがる。


それも同じ話を何度もだ。


迷惑なことおびただしい。


そのうえ過去の亡霊にとりつかれているらしく、おおっぴらではないにしても、他の八人を見下しているような態度が、時折見受けられるのだ。


ここではたけさんに次ぐ二番目の古株でありながら、三人も選んだリーダーになれなかったのは、そのためだ。


三人選ぶことになったのは、たけさんが、「それが民主主義って、もんよ」と言ったからに他ならない。


自分がリーダーになれなかったことに関して、当然なるべきだと一人だけ思っていたスワンは、あからさまに不平不満を申し立てたが、たけさんに言わせれば


「そんなもん、だれも聞いちゃいねえよ」


ということで、全員から見事にスルーされてしまった。


そしてリーダーが決まり、とりあえずたいした問題もなくうまくいっていたのだが、リーダー選出からちょうど百日目にあたる――百日目? やけに細かいスワンのことだ。おそらく再び自分の名前がみんなの中から挙がることを、指折り数えて待っていたにちがいない――一昨日に、周りから見ればなんの前触れもなく突然に、そのことについて猛抗議を始めたのだ。


だが、これまた話し合い、と言うよりもまた誰からも相手にされなくて、そのままなあなあで、ろくに話し合いなど行われないうちに、自然消滅してしまった。


スワンは、見ているこちらが気分を害するほどの不機嫌をくっきりと顔に貼りつけ、用もないのに意味もなく、仲間八人のまわりを、うっとうしいほどにうろうろし続けた。


本人はある種の自己アピールのつもりだったのだろう。


もともと自己主張の激しい男だ。


しかしその行動は、ただでさえ仲間の中で浮いていたスワンを、さらに高く浮かび上がらせる結果となった。


「まあ、あいつも子供じゃないんだからな。そのうちあの面の皮の厚い顔を、また出してくることだろうよ」


たけさんがそう言うと、みんな適当にうなずいた。


しかしその顔は全員が「別に戻ってこなくてもいいよ」と言っていた。




夜になってもスワンはその姿を現さなかった。


人によっては申しわけ程度に心配する向きもないではなかったが、平均すれば、あんなのはどうでもいい、という妥当な値となっていた。


「まあ、そのうち帰って来るさ」


たけさんが、ケムンの肩を、元気づけるかのように軽くぽんぽんと叩いた。


しかしケムンは、心配というより、あんなやつこのまま永久にいなくなってしまえ、と考えていた。


不平不満の塊なスワンにとって、ボンちゃんについで二番目に若く、一番新参者でおとなしいケムンは、絶好のカモでしかなかったからだ。


たけさんがハウスに帰った後、ケムンも自分のハウスにもぐりこみ、「神様、どうかお願いです。あいつがこのまま、二度と現れることのないようにしてください」と、ろくに信じてもいない神に祈りながら、眠りについた。


その日はそのまま日がくれた。




スワンが消えてから、一週間が経った。


もう彼のことは、最初からいなかったかのように話題にものぼらなくなっていたが、問題が一つだけある。


それはスワンのハウスをどうするかだ。


「あれだけど、もうそろそろとっぱらっても、いいんじゃないか?」


カンさんがそう言ったのをきっかけに、スワンのうすく軽いハウスは、とっととなくなれとばかりに、あっという間にとり払われた。


「一応、私物は残しておくか」


たけさんが、なんの感情もこもっていない声で、そう言う。


スワンの哀れを誘うような私物は、その辺にある一本の木の根元に集められ、そのまま放置されることになった。


木の下とはいえ、雨も風も十分に降りかかるところである。


すぐ近くの正面玄関前には大きな屋根があり、そこは雨風をしのげる場所だというのに。


しかしそこまで持っていくわずかな労力を、全員が惜しんだ。


「とりあえず、これでいいか」


カンさんがそう言い、みなが軽くうなずく。


それでスワンのことは、一から十まで終わりとなった。




みんながちりじりになった後、ケムンはスワンのわびしい私物の中に、そっと手を入れた。


その手を抜くと、そこにはオイルライターがひとつ握られていた。


ケムンが大好きなバットマンのキャラクターライターだ。


子供の頃からのバットマンファンのケムンは、それがけっこうなレアなものであることを知っていた。


なんでもスワンの子供が生まれたとき――子供! 子供だって? あんなやつに、子供がいるのか。あの貧相な顔で――誰かからお祝いにいただいたものだそうだ。


ケムンが以前スワンに、「お願いですからどうかそのライターを私にください」と懸命に頼んだところ、いくらなんでもそこまで言わなくていいだろうというとんでもない台詞を伴って、思いっきり断られたという経過のある、ケムンにとってはいわくつきのライターだ。


ケムンはそれをズボンのポケットにねじ込むと、何事もなかったかのようにそのを後にした。

 



次の日、ケムンは目覚めた時に、軽い頭痛と指先のしびれを感じた。


――あの時と同じだ。


あの時とは、スワンがいなくなった朝のことである。


なんだか落ち着かない気分になり、じっとしていられない。


しかたなく、まだ早いと思いつつも朝の集会に顔を出すと、そこにはサムソンが一人でいた。


ケムンの顔を見ると、彼がまだ腰を落ち着かせる前に、ケムンに言った。


「おいおまえ、どろんの奴、見なかったか?」


「いや、見てないけど」


「そうか……あいついったい、どこに行ったんだ?」


そのうちみんなが集まってきた。


サムソンは一人一人にどろんの事を聞いたが、誰も見ていなかった。


「おかしいなあ」


つぶやくサムソンを見ながらカンさんが言った。


「全員で探すか」


みんながなんの迷いもなく承諾した。


どろんは、どっか抜けたようなところがあったが、陽気で人当たりがよく、スワンと違って彼らの人気者である。


そのどろんがいなくなったとあっては、スワンの時とは力の入れようがまるで違う。


「とりあえず、ここの周辺はみんなで捜してくれ。俺とたけさんとサムソンとで、街まで行って訊いてみる」


カンさんがそう言い、たけさん、カンさん、サムソンのリーダー三人が町へ行き、残りはホテル周辺を捜すことになった。


ホテル周辺とは、ホテルの建物とその敷地内、そしてその周りと町まで続く一本道にことである。


この場合、ホテルの中には入れないので、当然除外。


敷地内は普通に捜索できるが、ホテルの周りには崖など危険な箇所がある。


そこに転落した可脳性もないわけではないが、上からでは死角になって見ることが出来ない場所もある。


そこは一番若くてロッククライミングの経験まであるというボンちゃんが、必然的に担当することになった。


「誰か危険手当、くれませんかね?」


笑いながらそう言ったボンちゃんだが、その目は少しも笑ってはいなかった。


危険なのは確かだし、おまけにいなくなったどろんと一番親しかったのが、ボンちゃんであったからだ。


「じゃあ、始めるか」


たけさんがそう言って、行動が始まった。




ボンちゃん以外のケムン、スーさん、やぎさんの三人はばらばらにホテルの周辺を捜すこととなった。


「俺は道のほうを見てくる」


スーさんがそう言ったので、残る二人がホテル敷地内を捜すこととなった。


とにかくこのホテル、建物もそこそこ大きいが、まわりの敷地はさらに広かった。


海岸にせり出したがけの上に建てられているのだが、崖そのものが巨大で、門をくぐると、とてもこれが崖の上に建っているとは思えないほどだ。


おまけにオーナーの趣味なのか、植木がうっとうしいほどにやたらと植えてあり、そのうえに五年間放置されているがために、いやというほど高い雑草が生え茂り、軽く熱帯ジャングルのような様相となっている。


仮に人が、意識的にその中に姿を隠したとしたならば、捜すのは容易ではない。


逆にそのために、夏は暑い日ざしをさえぎり、冬は肌を刺すような風を防いでくれている。


ホテルが閉鎖されてちょうど五年。


最初にたけさんが住みついて四年。


最後のケムンで住み着いたホームレスの数が九人となったのは、ほぼ半年前のことだ。


ケムンが来たその日、カンさんが不自然なほど黒い顔を向けて言った。


「おめえ、ケムンパスに似ているなあ」


ケムンパスとは赤塚不二夫のマンガ、もーれつア太郎に出てくる毛虫のキャラクターである。


ケムンの大きな丸い目と大きな口、そして歯並びのいい白い歯を見て、そう言ったのだと思われる。


それでホテルに着いたとたん名前がケムンパスとなり、数時間後にはみんながケムンと呼ぶようになっていた。




ヤギさんが当たり前のようにホテルの右側をまわっていくのを見て、ケムンはしかたなく左へとまわり始めた。


ホテル・シャングリラ。


鉄筋コンクリート造り地上九階、地下一階建て。


今年で築十年になる。


十年前、まだバブルが絶頂の頃に建てられた。


もともと崖下にはちょっとした温泉街があり、その目の前に広がる砂浜も、夏には人であふれかえっていた。


そこにこのホテルが建てられた。崖から見下ろせる見事な青いオーシャンビュー、がうたい文句である。


温泉街からわざわざ温泉も引っぱってきて、遊歩道しかなかった道を広げて建築資材を運び、一年がかりで造り上げたものだ。


当初はうたい文句がよかったのか、週末には満室となる盛況ぶりであったが、バブルが崩壊してしまい、下の温泉街自体がかつてのにぎわいがなくなり、日帰りの海水浴客はまるであてにならず、売上はある時期を境に一気に下降線をたどっていった。


そして閉鎖が五年前。


土地ともども売りに出されたが、買い手は誰一人現れず、取り壊す費用もなく、今はただホームレス達の盾となっているだけの、無用の長物である。




ケムンは左に行った自分を呪った。


スーさんは悪い人ではないが、労働というものが嫌いである。


まあ、ここにいる人達は、一部の例外を除いてみんなそうだが。


スーさんが楽な右に行ったために、自分は多くの邪魔な木と、それ以上に、密集している雑草群を掻き分けて進まなければならない。


ケムンはけっこう長身であるが、嫌がらせのようににょきにょきと生えた雑草は、高いものだとケムンの頭の上を越えている。


それでもぐちぐち呟きながら、雑草の束を親の仇のように薙ぎ倒しながら進んでいくと、ホテルのすぐ横に出た。


ホテルの壁際の土地には、民家の犬走りのようにぐるりとコンクリートが打ってあり、そこはさすがにほとんど雑草が生えていない。


とりあえず雑草内の捜索はおいといて、歩きやすいホテルの壁際を進んだ。


壁と雑草にはさまれたその狭い空間は、ただでさえ圧迫感があるというのに、右からはコンクリートの乾いた粉っぽい匂い、左からは雑草の湿った生臭い匂いが流れこみ、混ざり合って、ケムンの鼻の中に無理矢理進入してくる。


小さく咳をしながら進んでいくと、大きなガラス窓のところに辿り着いた。


コンクリートの匂いが減った分、息苦しさが少し和らぐ。


ケムンは、ガラスがほとんど匂わないという事実に、感謝すら覚えた。


その場所に立ち、軽く深呼吸をする。


その時ケムンの目の端に、何かが写った。


巨大なガラスを通して見えるロビーの床の上、壁際近くにそれは落ちていた。


それは見覚えのある古ぼけた一枚の写真。


四歳くらいの女の子が、カメラに向かって天使の笑みを浮かべている写真。


その写真は、どろんがいつも肌身離さず持っていた、彼の愛娘の写真であった。




「うーむ」


たけさんは、大きく一つ唸った。


みんな黙っていたが気持ちは同じだ。


写真はホテルの中に落ちていた。


しかしホテルは完全に閉鎖され、出入り口や窓などはすべて施錠されている。


九人の――今は七人になってしまったが――ホームレス全員が、ホテルの中に入ったことは一度もない。


割れた窓、鍵の壊れた通用口なども、一つもないはずなのだ。


写真が見つかった後、再度ホテルの周りをよってたかって調べたが、少なくとも手の届く範囲に、ネズミ一匹入れるような場所さえ見あたらなかった。


「まあ、写真だからな」


たけさんの言い分は理解できなくもない。


うすい一枚の紙だ。指も入らない隙間でも、写真が通ることの出来る幅があれば、それを中に投げ入れることが出来る。


その点も考慮して、さらにもう一度徹底的に調べ上げたが、ホテルという施設の防犯上の理由からなのだろうか、そんな薄い隙間さえ、どこにも見つからない。


可能性としては、どろんが壁をよじ登って、どこか開いている窓から侵入したとか、あるいはどろんがみんなの知らないすきまから写真を押し込んだとか。


だが前者の可能性は、ボンちゃんにより否定された。


「そんなの、僕でも無理ですよ」


ましてやホームレスにあるまじき肉付きのよさをほこるどろんに、そんな芸当が出来るわけがない。


後者の可能性は、そこにいる全員によって否定された。


そんなことが出来る場所は、どこを捜してもないのだ。


「じゃあ、なんで中に落ちてるんだ?」


カンさんの質問には、誰も答えなかった。


まるでわからないからである。


そうこうしているうちに、日はどっぷりと暮れてしまい、カンさんの黒い顔をさらに黒くした。


「うーん、しかたがない。とりあえず帰るか」


たけさんがそう言い、みんな人形のようにこくりとうなずいた。


その日はなんの進展もなく、終了した。




次の日の朝、ケムンはいきなりたたき起こされた。


「おい、起きろ。今すぐ集会場に来るんだ」


カンさんだった。


目が血走っている。


その時ケムンは、これまでにないほどの頭痛と指先のしびれを感じていた。


カンさんの態度といい、もうなにが起こったのか、言われなくてもわかる。


ケムンがカンさんと集会場に着くと、そこには、サムソン、スーさん、ボンちゃんの三人がいた。


たけさんとヤギさんの姿が見当たらない。


「まさか」


呟いたケムンにサムソンが答える。


「おう、そのまさかよ。たけさんとヤギさんまでいなくなっちまったよ。二人いっぺんにだぜ」


また誰かがいなくなったんだと、充分に予想はできていた。


が、一人ではなく、二人も姿を消すとは。それはケムンの頭の中に、全く存在していなかった。


固まるケムンにカンさんが言った。


「とりあえず、もう一度、俺とサムソンで町をあたってみる。あとの三人はご苦労だが、もういっぺんホテルの周辺を捜してみてくれ」


サムソンがカンさんの顔を見ると、カンさんがサムソンを見た。そして二人同時にうなずくと、そのままホテルの出口へと歩いていく。それをじっと見送りながら、スーさんが言った。


「しかたがない、もう一度やるか。ボンちゃん、わかっているね」


「またロッククライミングですか」


「そうだ」


「しゃあねえなあ」


「じゃあ、ケムン、俺たちも行くか」


ボンちゃんが崖へと向かい、スーさんも動き出す。しかしケムンは動かなかった。スーさんが気付く。


「おい、どうした?」


ケムンがいつにない真剣なまなざしでスーさんを見た。


「今度はスーさんが左側を捜してください。俺が右側をさがしますから。それでいいでしょう?」


スーさんはあっけにとられたように口をぽかんと開けてケムンを見ていたが、やがて少し引きつった笑みを浮かべると、ふうと大きく息を吐き、顎を突き出しぼりぼりかきながら言った。


「しょうがないなあ。今回だけだぞ」


――次がまたあるのか?


ケムンは思わずそう言おうとしたが、その言葉を飲み込んだ。




みんなが集会場に集まったのは、日も暮れかかったころである。


結果は見事に空振りだった。


たけさんとヤギさんはどこにも見当たらない。


ついでに言えば、どろんとスワンも。


全員疲れていたが、とくに最年長のカンさんと、ロッククライミングづくしのボンちゃんの疲労は、誰の目にも明らかだ。


それを見てサムソンが言った。


「こうなったら仕方がない。できればやりたくなかったが、もう警察の世話になるしかないな」


「仕方ねえ。警察なんて、でえ嫌いなのによう」


地べたに座り込んだまま、カンさんが呟く。


サムソンは全員の顔を一人一人見たあとで、ケムンに再び目を向けた。


「そうだな、俺が警察に行って来るのがいいようだ。ケムン、おまえもついて来い」


ばてばてのカンさんとボンちゃんは論外。


それと、たけさん、スワン、ヤギさんの年上の三人がいなくなり、今やカンさんに次ぐ年長者となってしまったスーさんを除けば、考えるまでもない。


「じゃ、行くぞ」


ケムンが返事をする前に、サムソンは歩き出した。


もう、ついていくしかない。


正直、気がすすまないが、断れるものでもなかった。




町はあいかわらず、表面上はにぎやいでいる。


温泉街のほとんどに灯かりがつき、その先の小さな飲み屋街も、一応営業はされている。


しかし、どこも内情は苦しいのを、ケムンは先人からの話と自分の経験で知っていた。


スワンが住みついた頃からホームレスに渡されていた残り物の量が減っていった。


ゴミ箱の残飯の数まで少なくなっている。


飲み屋の裏に出されるアルコール類のびんも、昔はけっこう中にお酒が残っていたそうが、最近はそれすら減っていると。


さかさにしても匂いしか出てこないびんが、ほとんどである。


五年前にバブルがはじけて一気に不景気となっていたが、その時点がピークではなく、年々徐々に確実に、景気が姿なき怪物に食われていっているようだ。




二人は警察署についた。


警察署はそれなりの規模を誇る温泉街と、それと比べると明らかに小さな飲み屋街との、境界線上にある。


サムソンが言った。


「俺はちょっと、話をしてくる。少し時間がかかると思うな。おまえはとりあえず、なじみのもんにでも、話を聞いてみてくれ」


サムソンの名前は、旧約聖書に出てくるサムソンからきている。


鹿の顎の骨一つで、武装した二千人もの兵士を、あっという間に殴り殺したという怪力の英雄である。


クリスチャンでもないのに聖書に詳しいたけさんが、名付け親だ。


サムソンはその岩のような身体を、とくに筋肉で盛り上がった両肩を必要以上に大きくふりながら、警察署に入っていった。


その歩き方は、まるでその筋の人そのものである。


こわおもての顔といい、署の中で知らない人が彼を見たら、てっきり連行されてきたと思うことだろう。


ケムンはサムソンの広い背中を見届けると、なじみのところへ行った。


が、話を聞くためではない。


話はどうせリーダー達がたっぷりと聞いている。


ホームレスたちは町の人からけっして好かれてはいなかったが、とことん嫌われているわけでもない。


絶対に嫌われることのないようにと、ホームレス達が、十分に気を使い続けているおかげだ。


なじみの人達が「知らない」と言えば、それは本当に知らないのだ。


だいいち隠たりして、いったいなんの得がある。


無駄とわかっていて聞きに行くのもめんどうだし、それよりもしつこく聞いて心象を悪くすると、ただでさえ少なくなったおこぼれに、ありつけなくなるかもしれないのだ。




ケムンは飲み屋街の裏側にまわった。


表と違ってネオンもなく、暗くわびしい通りだ。


カラオケだろう。


どこからか原曲を無視したかのような調子のダミ声が、聞こえてくる。


それと同時に、ママさんだろうか、年配と思える女性の、わざとらしくはしゃいだキンキン声。


それ以外の音は見当たらない。耳に触りの悪いその騒音は、この通りをよけいにうら寂しいものにしている。


ケムンが短い裏通りを端から順番に調べていく。


どこかにお酒の残りものがないか、それを調べているのだ。


ところが――ある程度予想はしていたが――全く収穫のないままに、一番端の店の裏に着いた。


何も期待せずに、機械的に、もう最後となったからのビンの集まりを調べる。


そのケムンの動きが止まった。


重い。


手に持ったウオッカのビンが重かった。


見ればその中にウオッカが、ほとんど飲まれずに残っている。


信じられない。


こんなことがあるのか。


水でも入っているのかと匂いをかぎ、舌の先をしめらせたが、まぎれもなくウオッカだ。


ケムンはまわりに誰もいないにもかかわらず、左右を数回確認し、急いでビンのふたをしめ、それをコートの大きなポケットの中に、まるで親の形見でも入れるかのように、そっと押し込んだ。




警察署に戻るとちょうどサムソンが、必要以上に攻撃的な歩き方で、出てきたところだった。


「よお、話はすんだぜ。一応捜してはみるそうだ。大富豪のご令嬢じゃないから、どこまで真剣にやってくれるかはわかんねえけど、とにかく期待しないで待っとくしかないな。……じゃあ、帰るとするか。……うん、どうした?……ああ、話か。そんなもん、最初から警察以上に期待してなかったぜ。どうせ、なにもないんだろ。……うん、そうか。やっぱりな。じゃあ、帰るぜ」


サムソンが歩き始める。


前からきた千鳥足の中年のカップルが、一瞬でしらふに戻り、さっと左右にわかれた。


ケムンはサムソンの後ろにぴったりとついて、歩いた。


そのほうが歩きやすい。




サムソンがみなに報告すると、カンさんが「ご苦労さん」と小さく言った。




その日の捜索は、それまで。


明日どうするかは、また明日話し合われることだろう。


そのほとんどが、カンさんとサムソンの二人で話がすすむこととは思うが。


ケムンは話し合いで、なんだかの意見を言ったことが、今までに一度もなかった。


その理由はしごく簡単だ。


意見など、なにもないからである。




もう冬が近い。


明け方の寒さで、目が覚めることがある。


どこからか毛布を一枚調達してこなければ、へたをすると寝ている間に凍死してしまう危険すらある。


そこまでいかずとも、風邪を引いても病院にも行けないし、食料の回収およびその他の生活に、支障をきたしてしまう。


ケムンはそんなことを考えていた。


今夜は何故か眠れない。


眠れないから、考えなくてもいいことまで考えてしまう。


毛布の調達は死活問題だが、調達すればそれですむことだ。


あても、ちゃんとある。


しかしさっきから、調達できなかった場合のことばかりが、脳裏に浮かんでくる。


もともと考えることは大の苦手で、そのせいもあってか、寝つきは人一倍いいのが唯一のとりえだと言うのに。


ダンボールと木の板と布切れでつくられた粗末なハウスの中で、ケムンは何度も寝返りをうっていた。


――いったいどうしたんだ? この変な胸騒ぎは。


最初は、ちょっとばかり落ち着かない気分だった程度のものが、今やかなりむんむんとしている。


何に? 


わからない。


それがわかれば苦労はしない。


そのうちに頭痛がしてきて、指先もしびれてきた。


――まただ。


また誰かいなくなるのか? 


もうゆっくり寝ている場合ではない。


ケムンの意識と耳は、自然と外に向いた。


何かが聞こえた。


外からだ。


どこかのハウスの戸を開ける、じゃっという音。


誰かがハウスから這い出る、ずるずるという音。


そして土ぼこりだらけのアスファルトを歩く、ざっざっざっという音。


それらが順番に聞こえてきた。


ケムンはうつぶせのまま顔を上げ、ほふく前進で少し進み、戸――正確にはただのボロ布だが――の隙間から外を見た。


その時ちょうどケムンの目の前を、太く短い足が横ぎった。


サムソンだ。ズボンの上からでもはっきりとわかる、いかつい足。


あんな足は、他にいない。


サムソンの足はすぐに見えなくなった。


力強い足音だけが、だんだんと遠ざかっていく。


ケムンはハウスの外へ出た。


目の前を、見覚えのあるたくましい背中が、歩いている。


その背中は、ホテルへ向かっていた。


ホテルの正面玄関のほうだ。


いつも朝の集会をやっている場所。


ケムンは先ほどから感じていた胸騒ぎとは別に、新たな感覚を覚え始めた。


いいようのない、うっとうしいほどの奇妙な感覚。


その感覚は、なにかに、とにかくホテルへ行け、と命令されているような、そんな感覚。


もちろん、なにも聞こえては来ないし、サムソン以外の人影も見当たらない。


それでも、そう命令されているような気がしてならない、身体全体にまとわりつくような感じ。


見ればサムソンは、まっすぐホテルへ向かっている。


――よくはわからないが、とにかく、ついて行くしかない。


ケムンはそう思い、そう行動した。


サムソンの歩みは早くはなかった。ケムンはすぐに追いついた。


「……あのぅ」


返事はない。


ただ黙々と歩いている。


「サムソンさん……」


やはり返事はなかった。


ケムンはサムソンの後に従った。


サムソンは、背後霊のようにぴったりとついてくるケムンを無視して、黙々と歩いている。


やがて正面玄関の前に立った。


そこには両開きのガラス製の大きな扉がある。


扉はサムソンを認識したかのように、左右にウィーンと開いた。


――えっ?


ケムンは驚いた。


扉は二枚とも上下二箇所で施錠されている。


おまけにこのホテルには、五年前から電気はきてないはずだ。


なのに自動ドアが開いたのだ。


サムソンは、まるで自分の家に帰るように、中に入っていく。


ケムンがあわててその後を追った。


二人が入ると、自動ドアが閉まった。


中にはいるとそこは玄関ホールとなっている。


サムソンは迷うことなく先へ進み、奥へ奥へと歩いていく。


フロントを通り過ぎその先にある大広間の前に立った。


食事及び宴会所となっている部屋である。


扉は閉まっていた。


サムソンは、さも当然のようにその扉に手をかけた。


「サムソンさん」


ケムンは思わず声をかけた。


するとサムソンが、まるで機械仕掛けの人形のように、くるりと振り返った。


そして、その存在を確認するためなのか、じっとケムンを見た。


眼が完全にすわっている。


ケムンは思わず一歩後ずさりをした。


次の瞬間、サムソンが体勢を低くしたかと思うと、ケムンにむかって突進してきた。


思いもかけないことで、とっさの対応が遅れる。


サムソンの肩がケムンの胸に遠慮なくぶち当たる。


サムソンの半分ほどしか体重がないように見えるケムンの枯れ木のように細く軽い身体は、あわれなほどに吹っ飛んだ。


背中から床に落ち、後頭部を打った。


もうろうとする意識の中ケムンが見たものは、サムソンがケムンの身体の上に馬乗りになっていくところだった。


その右拳は、思いっきり後方に引かれている。


サムソンがその右拳を、ケムンの顔面に打ち下ろした。


ケムンはそのまま意識を失った。




ふと目覚めた。


起き上がろうとしたが、身体はまだうまく動かない。


後頭部、そしてあごに強い痛みがある。


血の鉄の味を感じ、舌でさわってみると、左下の奥の歯が一本、どこかへいってしまっている。


――痛い。


痛みをこらえながら起き上がる。


まわりを見わたしたが、サムソンの姿は見当たらない。


ふらつきながら立つと、前にある扉に目がいった。


扉がわずかに開いている。そこから灯がもれていた。


赤というかピンクというか、ぼうと光る灯。


場末の風俗店の小部屋で見るような色の灯。


どこかに照明があるというよりも、空間そのものがぼんやりと光っているような灯。


そんな灯かりが見えている。


ケムンは扉に近づき、その隙間から中を覗いた。


中はピンク色の空気で満たされていたが、それ以外はなにも見えなかった。


サムソンの姿も見当たらない。


ケムンがもっとよく見ようと扉に手をかけた時、その扉がいきなり左右に開いた。


思わずまえにつんのめったケムンの両腕を、何かがつかんだ。


反射的に右を見たケムン。


その目に写ったものは、その年齢のわりには妙になまめかしい眼でケムンを見つめ、全裸で、細く引き締まった肉体を持ち、ピンクの光を受けて皮膚の表面が濡れたように淫靡に光り、長い黒髪で、笑った厚い唇の間から白い歯がのぞき見え、恥部の毛も生えていない、八歳くらいの少女だった。


左を見たケムンが見たものも、やはり少女だった。


一卵性双生児のように瓜二つの顔をした二人の少女。


ただその少女は、背が高かった。


少女の少年のようにぺったんこの胸が、ちょうどケムンの眼の高さにある。


だれも触れたことがないような淡いピンクの乳首が、大写しに目に飛び込んできた。


普通、八歳くらいの少女は、こんなには大きくはない。


激しく驚くケムンを、二人の少女が部屋の奥へと引っ張っていく。


ものすごい力だ。


その身長がゆうに二メートルを超える少女二人分以上の力が、そこにはあった。


何も抵抗できないままに、ケムンが奥に連れて行かれると、そこは宴会客に芸を見せるための舞台となっていた。


それほど小さい舞台ではなかったが、部屋が広くて天井が高いがために、実際よりも小さく見える。


舞台の奥は、空間そのものが光っているような光がなく、そこだけ塗りつぶしたかのように、黒く沈んでいる。


ピンクと黒との間には、明確な境界線があった。


するとその暗闇の中から、なにかがゆっくりと、実にゆっくりと出てきた。


二人の少女よりもはるかに大きく、下の部分に、いびつに歪んだ太く短い二本の足のようなものがはえていて、異様にぶよぶよとした醜いもの。


そのぶよぶよの中の下の方に、バレーボールくらいの大きさで瞳がなく、全体に鈍く乳白色に光る目と思われるものが二つ並び、その上に、右上から左下に向けてまるで鋭利な刃物で切り裂いたような、斜めに走る口と思われる裂け目があり、そして中央付近に、角しか表現しようのない大きなものが、天に向かって突き出していた。


短い足と、上下が逆さまになった巨大な顔だけの存在。


それがケムンに語りかけてきた。


〝おいおい、まだ呼んでもいないのに、のこのこやって来たやつがいるのか?〟


その声は、ケムンの頭の中に響いてきた。


〝うん、そうだね〟


〝うん、そうだね〟


左右の少女が答える。


これも頭の中にストレートに響いてくる。


再び〝顔〟が言った。


〝意識が同調しやすい、単純な人間のようだな〟


少女が同じくステレオで答えた。


〝で、どうするの?〟


〝で、どうするの?〟


男とも女とも――少なくともどう見ても人間でも動物でもない――子供とも老人ともつかないぶくぶくしたものが言った。


〝無理やり喰ってもいいが、念のため、意識を捕まえておくか〟


いきなりケムンの頭の中に何かが入ってきた。


普通に暮らし、一生を終える人間は、頭の中に直接何かが入ってくるという経験を持たないままに死を迎える。


ケムンもそうなるはずだったが、そうはならなかった。


頭の中、白い脳みその中に、透明で、実体があるようなないような、それでいて長い爪がのびていることがはっきりとわかる二本の手のようなものが、無造作に頭を、脳みそを、そしてケムンの意識を引っ掻き回している。


そんな感覚だった。


気分が悪い。


胸の鼓動もはっきりとわかるほど、上がっている。


と同時に、無意識のうちに少女の手を振り払おうと力を込めていたケムンの両腕から、すっと力が抜けた。


それを確認した少女が、つかんでいた手を離した。


ケムンの身体がゆっくり、しかしまっすぐに、顔に、皮膚のないむき出しの顔にむかって、勝手に歩き出す。


止まりたい意識は十分にあるのだが、頭を少し後方に倒した状態で、足だけが自分の足ではないように、ケムンの意思を無視して進んでいく。


「こいつらいったい、なんなんだ?」


思わず口にすると、意外にも質問の答えが返ってきた。


頭の中で自由に暴れる手から、何かが伝わってきた。


ある風景。


まるでその場にいるかのように、一つの風景がはっきと見えた。


重い灰色の空の下に、焼けこげたような黒と茶色の砂と岩で埋め尽くされた大地が、右も左も前も終わりが見えないほどに広がっている。


そこになにかがいた。


一番近くにいる人間……の、ようなもの。地面に転がっているその身体には、頭がない。


そのかわり、胴体ほどの太さと大きさを持った右手の巨大な掌のに、目と鼻と口がある。


苦しいのか、うめき声のようなものを上げ、口から何かねばねばした黄色いものがしたたりおちている。


その右側には目と口。


大きな目と口だけが、岩の表面に張り付いていた。


そいつはケムンを見ていた。その存在がわかるのだ。


不気味に薄く笑っている。


左にはのっぺらぼう。


人形のようにじっと立っている。


裸のそいつには、目も鼻も口も耳も髪の毛もない。


男と見られるその身体の股間にも、あるべきものがなにもない。


首だけがやけに長く、カタツムリの触覚のように、頭が前方に突き出ている。


遠くにもなにか動くものが五つ、六つあるが、暗くてよくはわからない。


さらに遠くにも、山のように巨大なものの影が、地響きを立てながらうごめいていた。


肌にへばりつくほどの湿った生暖かい風にのって漂ってくる臭いは、魚がくさったような、鉄が錆びついたような、地下深くから湧き出る硫黄のような、なんとも言いがたいが、とにかく鼻を突く強い臭いだった。


――狭間(はざま)の世界――


言葉が脳裏に鮮明に浮かんだ。


生きたものの世界ではなく、死んだものの世界でもない、そのはざまにある世界。


生きているものからは恐れられ、死んだものからさえも忌み嫌われるものたちの世界。


ここがやつらのふるさとなのだ。


やつらはここからやって来たのだ。


そして、今、ケムンの目の前にいるのは、生きてもいないし死んでもいない存在。


それがこの生きたものの世界に、今、確実にいるのだ。


――でも……どうやってここに来たんだ?


また答えがあった。


見えない手から。


風景が少し変わった。


狭間の世界にいるのは、舞台に立つあいつ。


その上の空間に、いきなり黒い穴が出現した。


吸い込まれるように穴に入っていく〝顔〟。


暗く長いトンネルを、激しく移動して、たどりついた先にあったのが、このホテル・シャングリラ。


その後その穴は閉じ、再び開くことはなかった。


普段は存在しないこの世と狭間の世界とをつなぐ道が、なにかのはずみで出来上がり、こいつを現世に運んだ後、消えた。


そのことがケムンには、自分が経験したことのようにはっきりとわかった。


異界のものが言った。


“『門』が開くことが、ごくまれにあるとは知っていたが、まさか自分がそれにまきこまれるとは、思ってもみなかったぞ〟


気がつけば、ケムンの足は顔の近くで止まっていた。


見える景色もホテルの宴会場に戻っておる。


――これから俺は、いったいどうなるんだ?


ふと頭をよぎった疑問に、律儀にも答えが返ってきた。


〝これからどうなるかだって? 喰うんだよ、おまえをな〟


ケムンが思わず口に出す。


「……俺なんか喰ったって、うまかないぞ」


〝顔〟が笑う。


〝うまいまずいは、この際問題ではない。この世界に来て、すぐにわかったことがあった。〝卵〟を一つ産むのに、人間一人の身体が必要だということがな。だからおまえも、喰うんだよ〟


――卵?


足とは違い、自由に動く首をケムンが左右にふると、それはすぐに見つかった。


ケムンから離れた場所に置かれている会議用の長机の上に、卵があった。


全部で四つ。


ソフトボールくらいの丸く白い球体。


右から、スワンの卵、どろんの卵、たけさんの卵、ヤギさんの卵。


やつらと意識がつながっているせいか、ケムンにはそれがありありとわかった。


サムソンの卵は、サムソンを喰ってからあまり時間がたっていないがために、まだ産まれてはいない。


産まれるまでには、もうしばらく時間がかかりそうだ。


二人の少女が近づいてきた。


ケムンには目もくれずに進み、一人は顔の右に、一人は顔の左に立った。


少女達は顔に両手両足でしがみつくと、すこし上に登った。


すると少女の足が、ひざから下くらいのところまでが、顔の中にずぼずぼ入っていく。


少女達の身体は真横になり、そのままの体勢で両手を広げた。


ケムンが思わず見入っている目の前で、今度は少女達の頭が、真ん中からきれいに裂けた。


裂け目はむねのあたりで止まり、次に骨格を完全に無視した肉の動きが始まった。


むくむくとあちこちがふくれたかと思うと、逆に細くなったところもある。


二本の足は一本になり、一本の手は一本の棒のようなものになり、少女の身体の面影をかろうじて留めてはいて、二つの目もまだ残ってはいるが、それは全く別のものへと変化していた。


それは手だった。


不恰好な四本指を持つ手が、そこに出来上がっていたのだ。


頭の中に手を入れられてなくても、動くことが出来なかったであろう異形の光景を見つめるケムンの脳に、また言葉が響いた。


〝これが本来の姿だ。人を喰うときは、この姿でないと、いろいろと都合が悪いのだ。その理由は、しょせん人間には理解できないだろうがな〟


ケムンは、逃げる、ことしか考えてなかった。


しかしかんじんな自分の身体が、言うことをきかない。


相手は出来上がったばかりの二本の手でケムンをつかみ、口の中に押しこみ、ばりばりと喰うつもりなのだ。


〝それじゃあ六人目よ、そろそろ喰わしてもらうぞ〟


唇のないばかでかい口が、がばと開き、ずらりならんだ三角形の鋭い歯が、その中にはっきりと見えた。


ケムンの右足が、本来の持ち主の悲痛な叫びを無視して、ふわりと上がり、そして前方におりた。


そして今度は左足がふわりとあがり、同じく前方におりる。


その時、


「いてえっ!」


ケムンの左足の裏に激痛が走った。


見ればすりきれて薄いスニーカーの底を突き破って、何かがケムンの足の裏に、ふかぶかと突き刺さっていた。


おそらくホテル閉鎖の際は、最後の整頓や清掃がきちんと行われなかったのであろう。


それは、肉料理に使う長い鉄製の串。


その先が九十度曲がり、それを上に向けて深い絨毯の上に落ちていたのだ。


あわてて串を抜いた時、ケムンはあることに気がついた。


自分の頭をつかみ引っ掻き回していた二本の腕が、どこかに消えてしまっている。


ケムンは逃げようとした。


が、異界の顔も、気がついていた。


自分の透明な手の力が、たった一本の串によって弾き飛ばされてしまったことを。


熊手よりも大きな二本の手が、ケムンを捕まえようと襲ってくる。


ケムンは身をかわし、すんでのところでよけたが、バランスを崩してどたどたとしばらく歩き、そして倒れた。


急いで目の前にあるものをつかんで、起き上がった。


ケムンがつかんでいたもの、それは会議用の長机の脚だった。


今ケムンの前にあるのは、四人のホームレスたちの命と引き換えにこの世に、この現世の日本にうまれた狭間のものの卵。


その時、後方からどこんどこんと大きな音が響いてきた。


振りかえれば、狭間のものが太く短くいびつに歪んだ二本の足を使って、ケムンに迫ってくる。


元は少女だった手を前に突き出して。


「ひっ!」


ケムンは思わず卵を一つづつ握りしめると、そいつを狭間のものにめがけて投げつけた。


卵は巨大な顔に当たり、二つとももろくも割れ、中からどろりとした赤と白のまだらなものが流れ出てきた。


顔がその動きを止めた。


「うっ」


その目から、涙、そう涙を流し始めた。


「うっうっうっ」


泣いている。


「うっうっうっうううっ……うおーーっ!」


灰色だった丸い目が、今や燃えるように赤い。透明な手とつながっていなくてもよくわかる。


激しい怒りがその全身をこがしていた。


再び、ぼこぼこにへこんだドラム缶のような足を不器用に使って、ケムンに迫ってくる。


ケムンは右手でもう一つの卵をつかんだが、左手は無意識のうちに、素早くコートのポケットに突っ込んでいた。


指先に当たるなにか硬いもの。


それはウオッカのビンだった。


ケムンは卵をなげた後、アルコール度数八十度のウオッカのビンを、顔の中心あたりに投げつけた。


それは顔の中央部分にある角(のようなもの)に当たり、ビンが割れて中身が顔面にばらまかれた。


それでもそいつは止まらない。


重心の高い危ういバランスながらも、どたんどたんとケムンに迫ってくる。


恐怖がケムンの身体を貫いていた。


もはや正常な思考は望めない。


ケムンは本能のみで動いていた。


動きも、いつものだらだらとした動きではなく、アスリートのように速かった。


最後の卵をつかむと、もう一方の手をズボンのポケットにねじこんだ。


そしてオイルライターを引っ張り出すと、すばやく火をつけ、闇のものに投げつけた。


火がついた。


火がつくことは、投げた瞬間に予想がついた。


しかし、なにかが明らかに違う。


信じられないことに、角のまわりを焦がすだけと思われていた火は、あっと言う間に巨大な炎と化した。


ケムンは自分の眼を疑った。


たった一本のウオッカが、これほどまでの効果をあげるとは。


それはまるで、ガソリンを十分に含んだぼろきれか紙でもあるかのように、あかあかと燃えているのだ。


頭の中ではなくケムンの耳に直接、なにかが聞こえてきた。


「くそっ、なんてことを、なんてことを……熱い……火には……弱いのに……」


日本語だった。


斜めに走る大きな裂け目が、日本語をしゃべっているのだ。


ぶよぶよした巨大なものが床に倒れ、その上をごろりごろりと回り始めた。


火を消そうとしているのだろう。


しかし炎の勢いは、いっこうに治まらない。


それどころか、最初からあった激しさが、さらに増していくようにも見える。


人間とも動物とも違う、今まで一度も聞いたことのないようなかん高い絶叫が、あたり一面に響きわたる。


狭間のものは、両手をぶん回し、床を転がり、もだえ苦しんでいる。


不意に片方の手がぼとりと落ちた。


その次には、もう片方の手も。


落ちた二本の手は、燃えながらあっという間に元の全裸の少女へと、戻っていった。


二人ともたちあがり、ふらふらとさまよっている。


が、やがて一人の少女の背中から、美しい曲線を持つ足が生えてきた。


それは、長さは同じくらいだが、少女の細い足ではなく、十分肉の付いた大人の女性のものである。


そして今度は背中といわず、腹といわず、胴体のあらゆるところから、何本もの成人女性の足が次々生えてきた。


足に埋もれて、顔や手が見えなくなっている。


そして足のハリネズミは、なんの抵抗もないままに、床に倒れ込んだ。


もう一人の少女は、同じく胴体から隙間なく、少女と同じ顔の首が、ぼこぼこといくつも生えてきた。


そして全員でまるでコーラス隊のように、同じ顔で同じ悲鳴をあげている。


人間の少女があげるものと、同じ悲鳴。


それも束の間、先の少女の後を追うように、床に倒れ込んだ。


見れば本体も、崩れるように床に伏した。


火の勢いはさらに増し、気がつけば二人の少女の身体が、どんどんと小さくなっていく。


そして普通の八歳くらいの大きさになったと思ったとき、二人同時に表面ではなく中から、まるで火炎放射器のようにいくつもの炎を噴き上げると、あっと言う間にその身体が縮み、ほとんど見えなくなった。


後は床が、ちろちろ燃えているばかりである。


本体のほうも、熟した果実がしなびていくように、小さくなってゆく。


そしてケムンよりも小さくなったと思えた時、突然がばと足だけで立ち上がり、もだえ苦しみながら舞台の奥へと、ふらふら歩き始めた。


奥には天井から分厚い暗幕のようなものが吊り下げられていたが、そこにぶち当たり、再びたおれた。


もう子犬ほどの大きさしかない。


それも見る見る縮んでいき、とうとう何も見えなくなった。


そこには小さな火が、未練がましく燃えているばかりとなった。


しかし暗幕に移った火はそうではなかった。


火は暗幕を喰い散らかしながら成長し、次々とその勢力を広げてゆく。


ケムンは慌てて宴会場を飛び出した。




そのまま正面玄関へ行き、扉を開けようとした。


が、それは開かなかった。


鍵が四箇所もかかっている。


さっき確かに開いたばかりだというのに。開ける鍵は、何処だかわからない。


思わず力づくで引き開けようとしたが、むろん開くわけもない。


ケムンがとっさにあたりを見回すと、お手洗い、という表示板と、矢印が目に飛び込んできた。


わずかな希望を胸に、それにむかって走った。




トイレに入ると、一番奥に小さな窓が見えた。


月が浮いている。


小さな窓に縁取られた満月は、額縁に入った絵のようだ。


鍵はかかっていたが、内側からなら簡単に開けられそうだ。


ケムンは鍵を開けると、顔の高さほどの窓によじ登り、狭い空間に無理やり身体を押し込んで、外の草むらに飛び出した。


肩から落ちて、痛みをこらえながらホテルを見ると、窓から見える炎の赤がどんどん大きくなっているのが、見てとれた。


ケムンは慌てて自分のハウスに戻ると、頭から布団をかぶり、がたがたとふるえていた。




「おい、ケムン、起きろ!」


カンさんの声だ。ケムンはとぼけた。


「うーん、どうしました? こんな時間に」


「たいへんだ。ホテルがもえているぞ」


「えっ」


ケムンは外に出た。


一階宴会場から出火したホテルは、その時には三階まで火が燃え移っていた。


カンさんが他人事のように呟いた。


「しゃあないなあ。消防に連絡するしかないか。おいケムン、ご苦労だがひとっ走り町まで行ってくれ」


その時、いつの間にかそばに立っていたボンちゃんが、気の抜けたような声をあげた。


「あれえ、今度はサムソンさんがいないぞ」




消防車はすぐにやってきた。


火は四階まで燃え移ったところで、消し止められた。


当然のことながら、残った四人のホームレス達は、警察から事情徴集を受けた。


カンさん、スーさん、ボンちゃんの三人は「何も知らない」と本当のことを言い、ケムンは「何も知らない」と嘘を言った。


結局のところ、警察はホームレスの誰かが火をつけたとは、微塵も考えていなかった。


そんなことをしても彼らの得になることは、何ひとつないし、普通の人間以上に〝生きる〟ことにシビアな彼らが、そんな〝お遊び〟をするとは、とても考えられないからである。


最初から「誰か不審な者を見なかったか?」という問いである。


トイレの窓が開いていたことには気付いたが、火元に近いそれは熱風ですっかり焼けこげていて、残っていたであろうケムンの指紋を、この世から消し去っていた。


幸いにもホテルの火災と関係のないところで、最近温泉街において、二件の連続放火事件があったばかりだ。


警察は犯人が――たまたま――開いていたトイレの窓から侵入し、中で火を放ち、再び出て行ったと見ている。


得体の知れない死体及びなにかよくわからないものの焼け残りなどが見つかった、という話も流れてこなかった。


おそらく燃えやすい狭間の者の身体は、すべて焼きつくされてしまったのだろう。


これから本格的な捜査がはじまるだろうし、連続放火魔も捕まるかもしれないが、どちらにしても、ケムンに嫌疑がかかる恐れはなさそうだ。


〝ついでに〟行方不明のホームレス達の捜索も、そのまま引き継がれるみたいだが、この町ではよくある酔っぱらいの起こす傷害事件のほうが、本腰をすえそうな雰囲気である。




警察書からホテルに帰り、一応平穏が訪れた。


一人だけになったリーダーのカンさんが静かに言った。


「さあ、もう晩いな。みんな寝るか」


三人は黙ってうなずき、それぞれの城へと帰っていく。




ケムンはハウスに戻ると、どかと胡坐をかき、右手をロングコートのポケットにつっこみ、何かを取り出した。


そこにはソフトボール大の白くて鈍く光るもの、あの狭間の者の卵が握られていた。


ケムンは片隅に投げ出してあった座布団のうえに、卵をそっと置いた。


そして上から丁寧にタオルをかけて、それを隠す。


――カンさん、スーさん、ボンちゃん……とりあえず今、三人いるな。


ケムンの口もとに、いびつな笑みが浮かぶ。


白い卵から、するすると見えない手が二本伸びてきて、ケムンの頭の中を、しっかりとつかんでいた。


       


       終

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

狭間のもの ツヨシ @kunkunkonkon

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ