グっと削った『記念日』

 高柳たかやなぎ宗太そうたは、通勤バスに乗り込み、左右を見渡した。座れる席などありはしない。かろうじて右手奥に立っていられる隙間があるだけだ。

 ふいに後ろから誰かに押され、手すりに掴まる乗客にぶつかってしまった。

 ほとんど反射的に、首を小さく上下していた。

 深く息を吸い込み、目を閉じる。暖気のせいか、車内は、家と汗の臭いがした。


 ――俺が悪いわけじゃない。


 むしろ率先して謝ることで無用な争いを避けたのだ。たいしたものじゃないか。

 窓から差し込んでくる日の光に目が眩む。陰に入った一瞬、窓に、不機嫌そうに眉を寄せる宗太の姿が映った。謝るべきだっただろうか。


 ――今朝も。


 宗太は脳裏をよぎった考えに、思わず苦笑してしまった。

 宗太の妻・真奈は、朝食を終えるまで機嫌が良かった。

 コーヒの濃さについて「ちょっと濃すぎじゃない?」と一言つけたのが失敗だったのだろうか。

 しかし真奈はマグカップを両手で包み込み、微笑んだ。


「そう? 宗太の淹れるコーヒーが薄いんじゃなくて?」

「そうかな? そうかもな」


 と、頷きかえしていた。

 宗太は、め息をいてしまった。

 ベージュのコートを着た若い女が宗太を見て、声を押し殺すようにして笑った。大学生だろうか。

 と、同時に。

 隣席の男が宗太をちらと見て、女になにか言った。女は憮然として座りなおした。


 宗太も、真奈を叱ったことがある。

 仕事で使う書類を汚されたときだ。たしかにあのとき、声を荒げてしまった。

 それでも、宗太は謝った。

 

 仕事で使う書類を持ち帰ったのは宗太自身である。汚れる可能性のあるところに置きっぱなしにしたのも同じ。真奈が謝ることになった原因は自分にもあったのだ。

 声を荒げてしまったことも含めて、悪かった、といった。

 

 視界の端で、さきほどの若い男が女の髪を撫で、一言か二言つぶやいた。小さく頭を下げる。女もうなづき返していた。

 バスが急制動ブレーキをかけた。

 宗太は乗客の背中にぶつかった。ダウンを着ている。

 ダウンを着た乗客は、目だけを動かし、宗太を睨んだ。

 

「すいません」


 宗太は頭を下げた。不可抗力だからなんだというのだ。

 カップルと思しき二人に目をやると、互いに気遣いあっていた。

 宗太は鼻で息を吐きだし、車内前方の電光掲示板に目をやった。表示されている時間からすると電車を遅らせることになりそうだった。


 掲示板の表示が切り替わった。×月××日。

 宗太は前に向き直り――慌てて見直した。


 ――結婚記念日、だっけか?


 正直、確信がもてない。だとしたら大失敗だ。

 宗太は今朝、食事を終えてすぐ、真奈に言った。


「悪いんだけど、今日、遅くなるから。夕飯いらないし、先に寝てていいからね」


 真奈が不機嫌になったのは、その瞬間からの気がする。いや、そうに違いない。

 宗太は、籍を入れた日の夜に、約束をしたのだった。


「結婚記念日くらいは一緒に過ごすことにしようか」

「一緒に過ごすって、どれくらい?」

「どれくらいって、そうだな。えっと、睡眠時間を含めて十二時間以上、とか?」

「なにそれ。八時に宗太が家をでたとして、帰ってから四時間? 残業あったら?」

「そんときは、えーと、風邪でもひくよ」

「本気で言ってる? まぁ、私はいいけど。っていうか、ちょっと嬉しいけども」


 鮮明によみがえる頬を染めた真奈の笑顔に、血の気が引く。自分で取りつけた約束を、自分で破ってしまうとは。

 そう思った次の瞬間には、宗太はバスを飛び降りていた。

 歩き出し、足を速め、駆けだしていた。

 階段を昇り、我が家のドアを力任せに開いた。


「真奈!」

「えっ? なに!? どうしたの!?」


 部屋の奥から声がした。

 小走りででてきた真奈は、肩で息をする宗太の耳を、両手で覆った。


「うわっ、冷た!」

 

 すぐに引っ込めた手に、ほ、と吐息を吹きかけ、宗太の耳をつまんだ。


「どうしたの? 忘れもの?」

「ちがくて、そうじゃなくて」


 宗太は真奈の手を握り、顔をあげた。


「ごめん、忘れてた。ちゃんと、定時で帰ってこれるようにするから」

「へ? そんなこと言うために帰ってきたの? 電話は?」

「えっ」


 真奈の閉じられた唇の端がじわじわとあがる。ついにはこらえきれなかったか、噴き出した。


「もう。宗太は昔っから、変なことばっかりするよね」

「なんだよそれ。慌てて帰ってきたのに」

「っていうか、定時って? なんで? なにかあったっけ」

「はぁ!? いやほら! 今日、結婚記念日だろ!?」

「は?」


 真奈の眉が、露骨に寄った。明らかに怒っている。

 いやそれよりも、違ったのなら――、


「じゃあ、なんで今朝は不機嫌だったんだよ」

「えっ?」

 

 しばし考えていた真奈は指先を揃えて、宗太の頭に手刀チョップを落とした。

 宗太は頭を押さえた。


「なんだよ。朝、機嫌悪かったじゃんか」

「もう、バカだな。そっちは憶えてるのに、こっちは忘れるんだ?」

「だから結婚記念日に――」

「そっちじゃないってば」


 そう言って、真奈は不満そうに宗太を見下ろした。


「二人で約束したよね? 結婚記念日は宗太の約束を守って――」

「あっ」


 宗太は結婚記念日の約束をした会話、その続きを思いだした。

 あの日、真奈は、しばらく考えてから言った。


「じゃあさ、結婚記念日から半年後は、我儘デーにしよっか?」

「はぁ? なにそれ?」

「一緒にいてくれるのはいいけどさ。それだと、宗太ばっかり大変でしょ?」

「そうか?」

「そうだよ。だからさ、ちょうど半年後は我儘デーにして、宗太は気をつかったりしないで、我儘いってもいい日にしよう?」

 

 そう言って、真奈は頬を寄せてきたのだった。

 真奈はにんまりと笑い、力なく落ちた宗太の肩を叩いた。


「思いだした?」

「思いだした」

「それじゃあ、問題。なんで私は、不機嫌だったのでしょう?」

「……俺が、悪いんだけど、って言ったから」

「正解!」


 弾むような声をあげ、真奈は宗太を抱きしめた。

 

「いつもありがとう。宗太」

「もういい。俺、今日は風邪ひくわ」

「我儘デーは、会社の人には通用しないよ?」


 真奈は、愛おしそうに、宗太の背を撫でた。 

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