一瞬で終わる『記念日』

*またの名を『未来想像型の失われたときをもとめて』方式

――


 高柳たかやなぎ宗太そうたは、玄関に腰を下ろし、靴ひもを結んでいた。眉間には深い皺が刻まれている。今朝がた、妻の真奈まなが不機嫌だったため、宗太自身も機嫌が悪かったのだ。

 目の前には、寒空続く外界へとつながるドアがある。

 もしも、ついさっき真奈が不機嫌でなかったなら、宗太は声をかけて家を出ていただろう。


 なじまパークサイドを出た宗太はバス停を目指し、のろのろと歩きだすだろう。少し行ったところで、我が家を見上げる。結婚を機に、少し無理をして買った一室だ。

 きっと思わずにはいられない。


 ――俺が何したってんだよ。

 

 と。

 心の裡ではあっても、口にしてしまっては、もうダメだ。冬の早朝の日差しは、無駄に明るく照りつけてくるくせに、温かさなどありはしない。目を閉じて顎をあげたれば、早朝の街中など静かなものだ。

 黙したまま、冷たいアスファルトを蹴りつけることになる。

 そうしてバス停にたどり着いたら、想像よりも多くの人が待っているはずだ。出かけ間際のちょっとした諍いは、宗太の足を遅くするのだ。


 当然、宗太は列の最後尾に並ぶ。両手をポケットにつっこみ躰を揺する。たいてい調子の悪い時には運も悪い。陽だまりは目の前で途切れているだろう。中年男の背中までの人々だけが、恩恵を受けている。きっとそんな光景だ。

 温もりなど感じられない陽光であっても、陰の下から白日光を見ると、やるせなくなるのは必然である。

 宗太はロウ引きの靴ひもを乱暴に締めあげ、肩越しにリビングをのぞき込んだ。


「行ってきます」


 いつもなら妻の明朗な返事がある。真奈まなは、まだ機嫌が悪いらしい。

 このまま家を出れば、バス停で寒さに震えることになるだろう。

 しかし、肩をすくめて躰を揺すったところで温まりはしない。ただ突っ立って寒風に耐えるのに比べれば、空気の冷たさに抵抗しているような気分になれるというだけだ。ついでに思うかもしれない。こんな日も文句も言わず頑張っているのに、とも。


 きっとバスはいつもより遅れてくる。薄い油膜が張られているかのようにヌメり気のある車窓の向こうで、疲れた顔をした若い女性が座っているはずだ。頭越しに着ぶくれた会社員たちの姿を見つけて、諦念のまじった表情かおの理由を察する。


 乗り込んでからもまた地獄だ。左右を見渡しても座れる席などありはしない。かろうじて右手奥に立っていられる隙間があるだけ。

 宗太はいつもそうしているように、できるかぎり他の乗客に触れないように気を払うだろう。だというのに、ふいに後ろから誰かに押され、手すりに掴まる乗客にぶつかってしまうのだ。もちろん、そんなとき、宗太は頭を下げる。


「すいません」


 と、言って、ほとんど反射的に、首を小さく上下する。謝罪というほどの意思はないのである。反抗期の若者でもあるまいし、すすんで他人ひとの肩にぶつかりはしない。不可抗力だ。後ろから押し込んできたやつのせい。

 深く息を吸い込み目を閉じる。きっと車内は暖気によって、家と汗の臭いがする。


 ――俺が悪いわけじゃない。


 むしろ率先して謝ることで無用な争いを避けたのだ。たいしたものじゃないか。そう思いつつ、吊革を握りしめて、腕に体重の二割ほどを任せる。

 最悪な未来だ。

 

 宗太は目元を押さえて首を左右に振った。立ち上がり、玄関に置かれた姿見に自分の姿を映す。トレンチコートの襟を引き寄せ整え、真奈が選んでくれたネクタイに触れる。自分では、深い赤色を選ぶことはできなかっただろう。

 思い返せば、真奈とは結婚するより前から、ケンカをした記憶がない。

 

 険悪な雰囲気が醸成されれば、宗太の方から謝ってしまう。いつもそうだった。

 もちろん、真奈も宗太に気を使っているはずだ。それは夫婦だからというより、互いを尊重するためには当然のこと。言うまでもない。真奈も、分かっているはず。


 ――じゃあ、今朝のあれはなんだ。

 

 朝食を終えるまでは、いつもとまったく変わらなかった。コーヒの濃さについて「ちょっと濃すぎじゃない?」と一言つけたのが失敗だったのだろうか。

 しかし真奈は「そう? 宗太の淹れるコーヒーが薄いんじゃなくて?」と返した。

 マグカップを両手で包み込み、微笑みながら言ったのだ。怒ってはいない。


 ――むしろこっちがムッとしたんだ。


 けれどそれを口にしたところで、どうなるというのか。

 宗太は「そうかな? そうかもな」と頷きかえしていた。

 真奈に遠慮したのは、なにも今朝にはじまったことではない。家事だって任せっきりじゃ自分の時間がとれないだろうと、率先して引き受けてきた。もしかしたら、慣れていないのもあって、迷惑をかけたかもしれない。しかし、いつだって宗太の方から謝ってきたではないか。

 宗太は扉に手をかけ、もう一度くりかえした。


「行ってくるよ!」


 ほんの少し、待ってみる。やはり返事はない。口の中には、濃すぎるコーヒーの苦みが、まだ残っているような気がする。

 宗太は、真奈を叱ったことがある。

 いつだったか仕事で使う書類を汚されたときと、学生時代から持ち続けてきた靴を捨てられたときだ。たしかにあのとき、声を荒げてしまった。非は真奈の方だ。


 それでも、宗太は謝った。

 仕事で使う書類を持ち帰ったのは宗太自身であるし、汚れる可能性のあるところに置きっぱなしにしたのも同じだ。

 靴にしたって、宗太なりに大事にしてきたつもりではあるが、ろくに手入れや修理もせず、履くこともなかった。傍からみればゴミに見えても仕方がない。


 バランスの問題だ。声を荒げてしまったことも含めて、悪かった、といった。それは、眦に涙をためて謝る真奈の姿に、同情したわけではない。

 真奈が謝ることになった原因は自分にもあったのだ。


 宗太は腕時計に目を落とした。困ったことに、時計は午前七時三十分を指して止まっていた。舌打ちしたくなるような思いを抱えて、鞄を開き、スマートフォンを取り出す。時刻は七時三十二分。時計がとまったのはついさっきらしい。やはり、不運というのは続くものだ。

 

 宗太は、今度こそめ息をいてしまった。

 と同時に、日付に気付いた。×月××日。

 宗太は扉を見つめて――慌てて見直した。×月××日。見直したところで日付は変わるわけがない。


 ――結婚記念日、だっけか?


 正直、確信がもてない。だとしたら大失敗だ。

 宗太は今朝、食事を終えてすぐ、真奈に言った。


「悪いんだけど、今日、遅くなるから。夕飯いらないし、先に寝てていいからね」


 真奈が不機嫌になったのは、その瞬間からの気がする。いや、そうに違いない。


 ――やっちまった。


 真奈は、どこか宗太と似ているところがある。互いに譲り合ってしまうのだ。できることなら、真奈に気を遣わせたくはない。だからこそ、籍を入れた日の夜、二人で約束をしたのだった。


「結婚記念日くらいは一緒に過ごすことにしようか」

「一緒に過ごすって、どれくらい?」

「どれくらいって、そうだな。えっと、睡眠時間を含めて十二時間以上、とか?」

「なにそれ。八時に宗太が家をでたとして、帰ってから四時間? 残業あったら?」

「そんときは、えーと、風邪でもひくよ」

「本気で言ってる? まぁ、私はいいけど。っていうか、ちょっと嬉しいけども」


 鮮明によみがえる頬を染めた真奈の笑顔に、血の気が引いた。自分で取りつけた約束を、自分で破ってしまうとは。

 だが、待て。

 宗太はスマートフォンの上に指を滑らせ、スケジュール表を出した。結婚記念日には真奈に入れられたハートのマークがあるはず。

 今日の日付にマークはない。

 

 が。

 と設定されている。

 宗太は記憶を探った。結婚記念日の約束をした会話、その続きを思いだす。

 あの日、真奈は、しばらく考えてから言った。


「じゃあさ、結婚記念日から半年後は、我儘デイにしよっか?」

「はぁ? なにそれ?」

「一緒にいてくれるのはいいけどさ。それだと、宗太ばっかり大変でしょ?」

「そうか?」

「そうだよ。だからさ、ちょうど半年後は我儘デイにして、宗太は気をつかったりしないで、我儘いってもいい日にしよう?」


 宗太は、鼻で息をつき、リビングに向かって怒鳴った。

  

「真奈!」

「えっ? なに!? どうしたの!?」


 部屋の奥から声がした。

 小走りででてきた真奈は、目を丸くしていた。怒鳴られたのだから当たり前だ。

 つい謝りたくなってしまう。だが、今日は我儘デイだ。黙っておく。

 真奈の眉が寄った。不満そうに両手を腰に当て、宗太を見下ろすかのようにして、たん、たん、とスリッパでリズムまで取っている。

  

「どうしたの? 忘れもの?」

「ちがうよ」


 宗太は真奈の手をとり、顔をあげた。

 

「俺、今日は風邪ひくわ」


 真奈は驚いたように目を瞬き、しばらくして、微笑んだ。

 

「我儘デーは、会社の人には通用しないよ?」

「分かってるよ。でも、真奈は俺の我儘、聞いてくれるだろ?」

「うん。今日だけは特別だからね」


 宗太は靴紐を解いた。


 ようするに実時間の経過は一瞬で、ただひたすら手がかりから妄想したり思い出したりする形式。

 前回のと合わせて応用すると話型に変換できる。

 たとえば、冬の朝の寒さを感じると、つい最近のことのように、あの日を思い出す、みたいな書き出しにする。あとは文中の語尾に注意するだけ。簡単でしょ?

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