運び屋

きしま たわ

運び屋

 山と空とあわいの不鮮明なままに、白鼠色はどこまでも遠くへ続いていく。ひとけのない雪山はその白に飲み込まれないよう、鮮明な蛍光色で辺りを囲まれている。斜面には幾本もの車輪の跡が刻まれていた。

 ギシ、ギシ、と新雪を踏み固める音が次第に大きくなる。コンクリートを踏んだ硬い音が、屋根つきの停留場へ響いた。その音の主は靴に付いた雪を落とすように、足を踏み鳴らしてから外しておいた板を再び装着する。

 それが誰であるか私はすぐに理解したが、機械を止めることなく作業を続けた。

「もう直にオープンだよ」

 私はその声に返事をするように緑のランプを点灯させる。聞こえ始めた苦しげな稼働音は徐々に末端へと伝わり、2人乗りの鉄椅子を動かした。彼と私は動き始めたリフトにタイミングを合わせる。


 彼は一息ついてから、おもむろに口を開いた。

「僕が入社して以来だから……30年ってところかな。世話になったよ」

 敢えて32年だとは訂正しなかったが、彼はおぼろげな表情で、あくまで微笑みながら彼自身の昔を振り返った。


 彼――松下さんは登茅とかやスノーパークで整備士として私と共に働いている。私より遅れて入社したにも関わらず、その能力はとどまることを知らず、出世、出世を続けた。

 現在では会社経営に携わるほどの役職に就いているらしい。らしい、と言うのも、私には関係のない話で、関心がなかったため詳細を知ることはなかった。私はあくまでこの仕事を追求することだけであって、他のことには興味さえ抱かなかった。

 いや、憧れても無意味、と言った方が正しいか。


 眼下に広がる雪化粧したスキー場をぼんやりと眺めていた。その横顔は慈愛に満ちた温かく悲しげな表情であった。私は入社当初の彼を重ねる。

 彼はスキーの一大ブームにあやかり大量雇用された1人だった。決して積極的に目立とうとするタイプでは無かったが、最新の技術を学んでくる姿勢は光るものがあったと言う。

 短く切りそろえられた黒髪に、きりりとした目元、しっかりと着こなした作業服。真剣に取り組むその姿は、私にとっても非常に好意的なものだった。

 今、私の前に居る松下さんは、白髪まじりの優しげな眼をしたおじさんだ。しかしながら整備する様子は、若いころと変わりなく、時々タイムスリップしたかのような感覚に襲われる。角の取れたその人の本質は、環境が変化してもまっすぐに貫いている。



 早朝からの好天により、雪は表面が解け鉱物のように美しくきらめいていた。肌に当たる冷たい風は刺すようであるが、雲からうっすらと見せる太陽の暖かさをどこかに感じる。

 松下さんはそのゲレンデに視線を向けながらこう言った。

「僕のこの庭は素晴らしいものだった。――当然、素晴らしいキャリアも力になりましたよ、あなたのね」

 私は突然の称賛に驚きながらも、松下さんに感謝の意を伝えた。


 往復路数分の旅路で、興味深い話を聞いた。普段の松下さんの口数は決して多くなく、物腰穏やかであるが、今日という晴れの日は不思議と言葉に楽しげな感情が乗っている。

 なんたって、今シーズンの締めくくりの1日なのだ。夏場、従業員は山を下りるのが一般的で、松下さんもまたその例外に漏れず、私と離れ事務作業を行っているのだそうだ。

 今日が特別なのはそれだけではない。

「皆が僕の退職祝いをしてくれるそうだよ。ははは、愉快なものだ。定年なんて、いつか来るものなのにね」

 松下さんの笑顔は私たちを微笑ませるのに十分すぎた。

「あなたの還暦は来年だね。お疲れさま」

 私はつなぎ目の駆動音にかき消されないように、お疲れさまでした、と言おうとする。


 その時リフトは山頂に到着し、車輪に沿ってぐるり半回転した。降りることなくそのままリフトは下りとなる。通常下る人はいないが、高い位置からゲレンデを見渡せるのだと、松下さんには少しの興奮が見られた。

 松下さんの声がいつの間にか消えていく。気付けば、解けた雪面をコーティングするのにちょうど良い粉雪が振りだしてきた。薄雲からの日光でスキーウェアに積もった白も、小さなゲレンデも、木々に積もった雪が散る様子も、空で耀う雪の結晶も、全て、何もかもが一斉に煌めいていた。私たちの脳内には、これまでの記憶が一つ残らず蘇った。停留場へ着くまで、松下さんは静かに涙を零していた。


「社長! 松下社長が居ないと最終日オープン出来ません。早く入場口へ行きますよ」

 停留場へ到着するや否や、待ち構えていたベテラン従業員の女性がただならない形相で出迎えた。女性の声に急かされるように、私から上手に地面へと降りる。

 松下さんは、はっとして時計を見る。忙しないその女性は早口で何を言っているのかあまり理解は出来なかったが、彼を探し回っていたとか、そんなところだろう。

「きっとまた、来るからね。あなたには夏も今まで以上に働いてもらうことに決まったのですから」

「これだから機械屋は困るんですよ。まるで人格を持っているかのような……」

 松下さんは半ば連れ去られるような格好で停留場を後にした。

 私は施設へ戻っていく松下さんを、いつまでも見送っていた。



    *



 時は流れ2年後の8月のこと。

 平地ではアスファルトからの熱にも負けず、サラリーマン達は汗を流す。室内では環境問題などお構いなしに、クーラーを効かせた部屋で小学生はせっせとゲームに勤しんでいる。


 そんな彼らをよそに、夏山の私は装いも新たに避暑地としての営業は最盛期にきていた。60年働き続けたことから、新しいスキー場の形を引き出したのは昨年のことだった。リフトの下に広がる斜面には、無数の花々が色とりどりに咲き誇っている。


 何もかも松下さんのおかげである。私に通年に渡って働く価値を見出してくれた。

 1つここで追記をしておくなら、今後とも松下さんが私に話しかけに来てくれることは無かった。今後も無いのだと従業員から言伝に聞いた。

 しかし、私が彼と最も近い位置に常にいることができる、ということは確信していた。冬は白銀に染まる雪山と、夏は多種多様な花と緑で溢れる青山と、私は共にある。


『あなたは素晴らしい運びキャリア――』



おわり

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