キメラ

ツヨシ

本編

木田教授がうやうやしく教科書を閉じ、教壇の前に、こっけいなほど堂々と胸を張って出てくる。


それだけであちらこちらから、くすくすと小さな笑いが起きた。


しかし木田教授はどこ吹く風で、いつものように授業をすっ飛ばしての雑談、いや暴走を始めた。


「ええともうすぐ授業が終わりますね。そこで前回の授業の最後で少し述べましたフランケンシュタインの怪物の話をやりたいと思います。前にも言いましたが、あんなものはまるで現実的ではありませんね。では、どなたかその理由を説明できる人は、いませんか」


一人の男子学生が元気よく手を上げた。


「はい、あなた」


「はい先生、全く説明できません!」


教室内の一部で大きな笑いが起こる。


それ以外の生徒は、少しむっとしているか無反応だ。


教授がまるで判で押したような同じ表情で、そのまま続ける。


「そうですか。残念ですね。ではフランケンシュタインの怪物がどうして非現実的かと言いますと、まず複数の人間の体をくっつけるわけですが、当然拒絶反応があります。みなさん臓器移植の難しさを知っていると思いますが、ひとつの臓器の移植でもとんでもなく大変なのに、複数の体をつなぎ合わせて一人の人間の体にするのは、きわめて困難かと思われますね。でも実は、それ以上に難しいことがあります」


今度は一人の女学生が手を上げた。


彼女は教授の指名を待つことなく、わざとらしいほどに明るく元気に言った。


「先生ぇ、それはいったいなんなんですか。ぜひぜひ教えてくださぁい」


再び起こるいくつかの笑い。


しかし教授は何事もなかったかのように、涼しい顔だ。


「はい、それはフランケンシュタインの怪物は、死んだ人間の肉体を使っているからです。この場合、肉体の鮮度のことを言っているのではありません。それは精神、すなわち心のことを言っているのです。なにせフランケンシュタインの怪物は、死体をつなぎ合わせているのですから。心とか感情とかいったものが、あるわけないのですから。ところで皆さんは人間の心と言うものが、体のいったい何処にあると思っていますか」


「はい、先生。それは脳です。間違いない」


別の学生が手も上げずに答えた。


手を上げなかったのは、口の前に両手でメガホンを作っていたからだ。


三度目の笑いが起こったが、教授はあいかわらずの様子だ。


「はい脳ですか。確かに臓器の中では、唯一心があると考えても不思議ではないところですね。しかし、結論から言いますと、脳には心はありません。脳は精密なコンピューターです。体の臓器の中では、最も複雑で謎に満ちていると言えましょう。しかし人間の考えによって体を動かす命令をだしたり、感情を認識させたりする機能はあるようですが、脳自身が感情を生むわけではありません。皆さんの自宅のパソコンがいかに高性能であったとしても、パソコンに感情はありません。それと同じです。で、つまり人間の体の中に心や感情と言ったものを生み出す場所とか臓器といったものは、一切存在しないわけですね。で、フランケンシュタイン博士の造った怪物は、死んだ人間をつなぎ合わせて創っています。死体に心がありますか。死体が怒ったり悩んだり、恋患いにかかったりしますか。ありえませんね。したがって、小説のフランケンシュタインの怪物は、全くナンセンスということになりますね」


また木田教授の脱線が始まった。


授業終わりの短い時間ではあるが、毎回のように解剖学とは全く関係のない話をする。


長瀬康樹はいいかげんいやになっていた。


ところが教授の〝おたわむれ〟を歓迎している学生がいることも事実だ。


彼ら彼女らは面白がって、教授をあおるようなことを言うので、単純な教授が図に乗ってますます話を続けているのが現状だ。


――たまらないなあ。


そんなことを思っていると、終業のチャイムが鳴った。


明らかにまだしゃべり足らない様子の教授だったが、再び胸を張って授業の終わりを告げると、背筋をぴんと伸ばして、軍隊が行進するかのような歩みで教室から出ていった。




長瀬が学食で一番安い定食を食べていると、なんの前触れもなく、突然向かいの席に木塚保が座った。


その手には缶コーヒーが握られている。


木塚は一言で言うと、無口で目立たない長瀬の同級生だ。


見た目もまわりの学生達から見て印象が薄かった。


身長が低い上に小太りで、いつもよれよれのジーンズに、無地で地味な色のTシャツかトレーナーを着ている。


少し長めの髪を七三に分け、その上に今どき太い黒ぶちの大きなめがねをかけていた。


目も鼻も口も小さくて顔全体の凹凸が少なく、強いフラシュをあてて写真を撮れば、いとも簡単にのっぺらぼうの写真がとれそうな顔だ。


ただ少しつりあがった小さな眼は、よく見るとやけに鋭くて、常人では持ち得ない独特の威圧感をその奥に宿した眼である。


しかし木塚の眼を間近でじっくりと見るような機会のあるような親しい人間は、誰一人としていなかったし、木塚自身がそれを望んではいないようだ。


意味もなく群れたがる学生の多い中で、自らそれを拒絶するオーラを発していた。


誰かとしゃべるでもなく、いつも一人でいる。


よくも悪くも自分の世界観を持っている。


そういう印象を長瀬は彼に対して持っていた。


その前から少しばかり気になる存在であった木塚が、いきなり自分の目の前に座ったのだ。


たまたま座ったのではない。


その証拠に木塚は座ると同時に、興味深げに長瀬の顔を見つめている。


しかし何も言わなかった。ただ長瀬をじいっと見ているだけである。


しばらくたってその沈黙に耐え切れなくなり、長瀬が口を開いた。


「何か用かい」


木塚は無表情という表情を、全く変えずに言った。


「はい、そうです」


医科大に入学して三ヶ月近くなるが、長瀬が木塚の声を聞いたのは、これが初めてだ。


その声は小さくて、長瀬が木塚のおたく系な外見から想像していたものとは反対に低い声だったが、張りのある力強い口調で、はっきりと聞き取ることのできる声だ。


そして同級生の長瀬にたいして、なぜか敬語を使っている。


「で、何の用だい」


「さっき授業で、木田教授が言っていたフランケンシュタインの怪物の創造についてですが、長瀬さんは、どうお考えですか」


長瀬には〝長瀬さん〟と言う木塚のもったいぶったような言い回しが、かなり耳障りに感じたが、気にしていないふりをした。


「教授も言っていたけど、あんな怪物を造り出すことは、少なくとも現在の医学では無理だと思うな」


「ほう、長瀬さんもそう考えていましたか。それは少し意外でしたね」


「意外? どうしてそう思うんだい」


「あの教授の話は、たいへん興味深く聞かせていただきました。それと同時に、まわりの学生の反応を観察していたのですけど、他の学生達は上の空で聞いているか、あるいは面白がってふざけて聞いていただけなのですが、長瀬さんだけは真剣に聞き、なおかつ深く推考していたように見受けられましたので。てっきりフランケンシュタインの怪物を現実的な話と捉えられているのかと思ったしだいですが」


「真剣に聞いていた覚えは全然ないけど。それでは木塚はあの怪物が、現実的な話だと思っているのか」


「現実問題となると、それはそれはかなり難しい話になるでしょうね。でも完全に不可能だとは、思ってはいませんね」


「不可能じゃないと言うのか。じゃ仮に造るとして、いったいどうやって造るんだい」


長瀬は不思議だった。


自分は今日初めて木塚と会話をしている。


それなのに、まるでずっと前から親しいもの同士のように、会話が進んでいる。


長瀬もそうだが、木塚の口調もそうだった。


彼が同級生の長瀬に対して、不自然に敬語を使っている点を除けばだが。


「どうやってと言われましても、それがわかれば苦労はしませんが。しかしフランケンシュタインの怪物は、今の現世界において実現不可能なものだとは、私は考えておりません。現実可能なものだと考えております。たいへんお騒がせいたしました。ではこれで失礼いたします。長瀬さんとお話ができて、本当によかった。今日の大きな収穫です」


木塚はそう言うと立ち上がった。


歩き始めた木塚に長瀬が声をかけた。


「ちょっと待ってくれ。どうして俺と話ができて、よかったんだい? 大きな収穫とか言っていたが、そんなたいした話はしてないように思うが」


木塚は能面の顔で、長瀬の顔をじっと見つめた。


しばらくは何も言わなかったが、やがて口を開いた。


「それは、あなたが他のバカどもとは違って、私の話を唯一理解できる人間である、と思ったからなのです」


木塚はそれだけ言うと、ふらり学食を出て行った。


木塚の座っていたテーブルには、彼の持ってきた缶コーヒーがひとつ、そのままぽつんと残されている。


そしてその缶コーヒーのふたは、まだ開けられてはいなかった。




その日を境に、木塚は時折長瀬に話しかけるようになってきた。


話しかける場所はいつも決まって学食であり、話の内容は常に新しい生命の創造についてだ。


木塚の言う新しい生命の創造とは、ファランケンシュタインの怪物がベースにあると思われる。


そしてその生命体の創造の可能性については、長瀬はほとんど否定的であり、木塚は自ら話しかけているわりには自分の意見は多くは語らないが、基本的には肯定的な話をしていた。


したがって二人の話し合いは常に平行線をたどっているのだが、その点に関して木塚はあまり気にはしていないように、長瀬には思えた。


そしてそう長く話をしないうちに、木塚は唐突に会話をやめて、すっといなくなるのだ。


それは長瀬から見れば、二人で話す会話の内容より、他に何か目的があるように思えてならなかった。


――あいつ、いったい何を考えているんだろう?


長瀬にはわからなかった。




この日も、いつものように木塚が話しかけてきた。


そして相変わらずフランケンシュタインの怪物の話になっていたが、不意に木塚が言った。


「やはり長瀬さんは、私の思っていたとおりの人間のようですね」


突然思いもかけないことを言われて、長瀬が黙って木塚の顔を見ていると、木塚がくすくす笑いはじめた。


「いやはや……私はごらんのとおりの、いわゆる変わった奴ですが、それゆえに同じ匂いのする人間と、出会ったことがありませんでした」


「同じ匂い?」


「そう、匂いです。人間にはそれぞれ匂いがあります。それは人によって違います。もちろん身体的な体臭のことではありません。長瀬さんなら、そんなこと言わずとも判っているとは思いますが。その人の人格、個性、思考、信念、感情、価値観とかいったものです。ですが、さきほど人それぞれあると言いましたが、大きく区分すれば、ほとんどの人間が、所謂――その他大勢――の中にはいってしまいます。凡人、あるいは烏合の衆、バカども、俗物、とるに足らない輩。まあ、他にもいろんな言い方がありますが。で、私は幼い頃からそんな人間を、いやと言うほど見続けてきました。本当にいやになりましたけど。でもごくまれにではありますが、他の人間とは違う匂いのする人物に出会うことがありました。しかしそれは、ある種の狂気であったり、そこまでいかずとも、はた迷惑な変人だったりしたものです。ですから生まれてこのかた私は自分と同じ匂いのする人間に、一度も出会ったことがありませんでした。このまま一生ただの一人も会わないままで孤独に死んでしまうのかと、わが人生を呪ったこともありました。ところが何も期待しないでこの大学に入ったのですが、そこで生まれて初めて、私と同じ匂いのする人物に出会えました。驚くと同時に嬉しくもありました。それが長瀬さん、あなたですよ。見れば長身で手足が長く、モデルのようなスタイルで、顔もなかなかに甘いマスク。その甘さの中に、同時に男らしさまでありますね。ちょっと野性的なジャニーズ系とでも言いましょうか。うらやましいほどに見た目は私とまるで正反対ですが、中身は私の分身と言ってさしつかえないかと、思われますね」


長瀬は何も言わなかった。


いや、言えなかった。


そのまま木塚の顔を見ていた。


そのうちに、自分がわきの下から変な汗をかいていることに、気がついた。


木塚もそれ以上何も言わずに、黙って長瀬の顔を見ていたが、やがてくるりと体を反転させると、そのまま静かに学食を出て行った。




木塚からそんな話を聞かされた数日後に、カレンダーは七月となった。


ここの大学の夏休みは早い。


七月十日にはもう夏休みだ。


学科によっては、前期の試験がもう終わっている学生もいた。


したがって大学に来る学生の数が、目に見えてどんどん少なくなっている。


試験が終われば大半の学生が帰郷する。


土地代が安いと言う理由だけで、市の中心からかなり離れた大きな山の中腹に建設された大学に、実家から通っている学生などほとんどいなかった。

 



長瀬がその日の試験を終えて下宿に帰って来ると、下宿の大家に出くわした。


五十歳を超えたばかりの女性で、その体にかなりの脂肪をなみなみと蓄えているこの大家は、いったん話を始めるとなかなか止まらないと言う特殊技能を持っていたので、長瀬はできるだけ避けることにしていた。


しかし狭い階段の途中出会ってしまっては、どうあっても無視するわけにはいかなかった。


「長瀬君、元気にしてる」


大家の会話はいつもこの言葉で始まる。


たとえ一時間前に会って、同じ言葉をすでに言っていたとしてもだ。


そしてこちらの返事を待たずに、すぐに本題に入るのだ。


「ところで心配だわね、長瀬君」


「心配って、何がですか?」


「何を言っているのよ。犬よ、犬」


「犬が、どうかしましたか?」


「長瀬君、どうかしましたか、じゃなくてえ。ほらほら、ここ一ヶ月くらいの間ご近所の犬が、次々に行方不明になっているじゃないの。この間は小川さんちのゴールデンレトリバーだったし、その前は、えっと確か木下さんちの秋田犬だったっけ。たった一ヶ月ばかりで、七、八匹もいなくなっているのよ」


――そういえば。


長瀬は気付いた。


この間から「うちの犬見かけませんでしたか」と訪ねてきた人が、何人もいた。


おまけに電柱の――尋ね犬――の張り紙が、日を追って増えていっている。


長瀬は学生で、それも勉強に追われている正味の医学生なので、ご近所つきあいも程々にしているため、たいして気に留めていなかった。


しかし大家にそう言われてみると、さすがにおかしいと思い始めた。


「もう警察にも言ってるそうよ。近所に殺人鬼がいると騒いでる人もいるみたいだし。殺人鬼といっても、殺人じゃなくて、殺犬だけど」


しかし長瀬は犬よりは猫のほうが好きだし、結局のところ、自分にはまるで関係がないことのように感じていた。


「そうですか。とにかくそれは大変ですね」


それだけ言うと、まだ何か言いたりなそうな顔の大家を振り切って、そそくさと自分の部屋に入った。

 



次の日大学に行くと、今日は昨日にもまして学生の数が少なくなっていた。


もう一週間あまりで夏休みだ。


当然試験期間になった時点で授業もないため、試験のある学生が試験のある時だけ学校にやって来る。


そして試験が終わるとさっさと帰ってしまうのだ。


長瀬は試験の最終日に受けなければならない試験があるため、物理的には七月十日までは、故郷に帰れない。


しかし長瀬は、夏休みに入っても、故郷へ帰るつもりは全くなかった。

 



長瀬は実家の家族、特に母親と姉との折り合いが悪かった。


母親は長瀬が小学校一年生の時から毎日のように「勉強しろ。もっと勉強しろ。さっさと、せんか!」と言い続けてきた。


「いい高校に入れ。いい大学に行け。いい会社に入れ。お金をいっぱい稼げ!」とも言い続けてきた。


口では間違っても言わないが、長瀬が子供の頃から大人になった彼の稼ぎを、あてにしているのだ。


性格や考え方が完全に違うとはいえ、親子である。


母親の考えていることなど、長瀬には全ておみとうしだ。


まだ大学一年生である彼の就職後の初任給はおろか、とりあえず向こう三年間の給料を何に使うか計画をたてていることを、彼は知っていた。


親だから子供の稼ぎを全て自由に使えるのが、一点の疑いもなく当然のことだと思っている。


自分は母親らしいことを、ほとんどしなかったにもかかわらずに。


後ろで姉が糸を引いているのも、わかっていた。


父親は母や姉には逆らえず、何かあると息子のせいにしたり、ただ八つ当たりをするだけだった。


四人家族で長瀬康樹を除く三人が、敵であり、疫病神であり、貧乏神であると言えた。


長瀬は大学を卒業したら故郷には帰らずに、親兄弟の縁を切ろうと考えていた。


完全に他人となるのだ。


今は学費と生活費の一部を、親が負担している。


他の学生と比べると半分以下の金額なので、足らない分は長瀬がアルバイトで補っていた。


母親の性格からみて、それは先行投資なのだろう。


仕事でお金を得るようになれば、母の言うことは決まっている。


「今まで育ててやった恩を忘れたのか」


長瀬がその言葉を最初に聞いたのは、小学校一年生の時だった。


親戚のおじさんやおばさんにもらったお年玉を、母親が全て取り上げたのだ。


文句を言った長瀬に、初めてそう言ったのである。


おまけに何発か殴られた。そのお年玉は一部が母の小遣いに、一部は姉の小遣いになった。


その後長瀬は、同じ言葉を何度も何度も繰り返し聞く羽目になった。


そのくせなにかあると決まり文句のように、


「おまえなんか、産むんじゃなかった」


とまで言うのだ。


――今度の夏休みは今のアルバイトを続けて、実家には帰るまい。


そしておそらく、今度の夏休みだけではなく、アルバイトを理由に、ずっと帰らないことになるだろう、とも考えていた。


そうすれば、二度とあの悪鬼と悪魔の顔を拝むことなく、一生を終えることが出来る。




長瀬がそんなことを考えていると、不意に声がした。


「あのう、すみません。ここ、いいですか」


顔を上げると目の前に小柄な一人の女性が立っていた。


その女性は、長谷川奈津子だった。


長瀬とは同級生ではないが、同じゼミを受講している間がらである。


「ああ、いいよ」


長瀬がそう答えるやいなや、長谷川奈津子はいそいそと長瀬の前に座った。


同じゼミを受講してはいるが、長瀬と彼女は、これまでほとんど会話をしたことがなかった。


それなのにこの人のほとんどいない学食で、彼女は長瀬の前に座ってきた。


――何か俺に用でもあるのだろうか? それとも、ただ知った顔の近くで食事がしたいのだけなのだろうか?


長瀬が疑問に思いつつ長谷川奈津子を見ていると、彼女は何も言わずに持ってきたカレーライスを食べ始めた。そこで長瀬も、たまたま注文していたカレーライスを食べ始めた。二人とも食べている間は、何もしゃべらなかった。長瀬が食べ終わり長谷川も食べ終えると、長谷川が声をかけてきた。


「カレーライス、お好きなんですか」


「まあ、嫌いじゃないかな」


「私は好きかな。でもここのカレーは、もうひとつかもしれませんね」


「それでも食べてるね」


「他に食べるものがなくて。……で、長瀬さんには夏休みは故郷にかえるんでしょ。ご出身は何処ですか」


長谷川奈津子は同級生の長瀬に、まるで先輩に話すような言葉を使っている。


その点が、長瀬には少し奇妙に思えた。


――木塚と同じだな。


そう考えた長瀬だが、木塚から受ける印象とはまるで違っていた。千塚の敬語は違和感がありしごく耳障りなだけだが、長谷川奈津子の敬語は、小鳥のさえずりのように耳に心地よく聞こえる。


「夏休みは実家には帰らないよ。ここでアルバイトを続けるんだ。出身は四国だよ」


「四国の何処ですか」


「香川県」


「香川県の何処ですか」



「高松市」


「高松市ですか。私は行ったことはないけど、きっといいところなんでしょうね」


「そうでもないよ」


「そうですか。でも一度行ってみたいですね」


――彼女はいったい、何を言ってるんだろう?


長瀬はこれまであいさつ程度にしかしゃべったことのない長谷川が、いろいろと聞いてくることに、すこし戸惑いを覚えていた。


彼女の真意を、つかみかねていた。


でも彼女の顔を改めて見てみると、今までじっくりと見たことは一度もなかったが、愛らしい顔をしていることに気がついた。


目は大きくて二重まぶたで、色白の顔も全体的に小さくきれいにまとまっている。


一言で言うと、アイドル顔である。


それも長瀬が夜遅くアルバイトから帰ってきて、惰性で観ている深夜番組に出てくるアイドル予備軍達とくらべれば、彼女達より格段にかわいい顔立ちをしている。


おまけに笑うと無邪気な少女のような顔になる。


大学生なのに化粧を全くしていない。


眉も剃っていなかった。


来ている服も白いTシャツとジーパンで、マニュキュアもつけず、ピアスもしていない。


地味な服を着ている以外は、生まれたままの姿で長瀬の前に座っている。


でもそれが長谷川奈津子という女性で、彼女にはそれが一番似合っているように思えてきた。


長瀬は長谷川奈津子に、少し興味を持つようになった。


気がつけば、長谷川は長瀬の顔を少し不安げにじっと見つめている。


長瀬はそれが、自分が彼女の言ったことに返事をしないためだということに気がつき、あわてて答えた。


「たいした所じゃないから。高松市なんて人口四十二万の、ただの地方都市だよ。狭くて都会でもないし、大きな山や自然といったものもない。ほんとになんにもないところだね。実際に来たら、がっかりするかも」


彼女は無邪気に笑った。


「がっかりなんかしません。長瀬さんの生まれ育った町なら」


「で、長谷川さんは、どこの出身なの」


「私は東北です」


「東北の何処」


「秋田県です」


「秋田県のどこ」


「秋田市です」


長瀬は、さっきと同じ会話だなと思いながらも、そのまま続けた。


「秋田市か。きっといい所なんだろうね」


「はい、いい所ですよ。長瀬さん、ぜひ一度遊びに来てくださいね」


屈託がなく、素直だ。


長瀬は、彼女は自分とは違っていい家庭に生まれ育ったのだろうと、想像した。


その時長谷川は、ちらと腕時計を見た。


彼女は一瞬残念そうな表情を浮かべたが、そのまま席を立った。


「ごめんなさい。試験の時間が。もう行かないと」


明らかに名残惜しそうな表情を浮かべている。


「それじゃあ。またお話してくださいね」


そう言うと彼女は、小走りに食堂を出て行った。


長瀬はその後ろ姿を、見えなくなるまで見つめていた。

 



浦野静代の家は、近所ではかなり有名だった。


と言うより、間違いなくその界隈では一番有名であると言ったほうが正しいだろう。


それは彼女が、三十六匹もの猫を飼っていたからに、ほかならない。


猫の軍団は浦野静代の家を中心にその周りを毎日徘徊し、そこに住む住人達のテリトリーを、なんの遠慮もなく犯していた。


そこいらじゅうに糞尿をする。


植木で爪を磨ぐ。


洗濯物をひっかく。


時には他人の家の台所から食料を盗む。


さかりの時期には、一斉に夜通し泣き続ける。


一度だけだが、幼い子供をひっかいたという事件まであった。


当然のことながら、まわりの住人達の苦情は常に絶えることがなかったが、浦野静代に悪びれた様子は微塵も見受けられなかった。


と言うより、逆に苦情を訴える住人達を、心のそこから憎悪していたのだ。


客観的に観れば完全に彼女が加害者で近所の人たちが被害者なのだが、彼女自身は自分が唯一の被害者で、まわりの住人は自分と自分のかわいい猫ちゃん達を理由もなく攻撃してくる鬼か悪魔のように考えていて、その考えに何の疑いも持っていなかった。


お互いのそんな思惑の中で真っ当な話が成立するはずもなく、双方の話し合いはいつも平行線のままとなり、おまけに徐々にそして確実に険悪さが増していくばかりだった。

 



そんなある日夕方のこと、浦野静代は食事を食べにくる猫の数が、いつもより少ないことに気がついた。


ただ毎日決まった時間に、全ての猫が食べに来るとはかぎらない。


どこかの家の台所から食べ物をかっぱらってきて、お腹がもう満腹のものもいるだろう。


ちょっと遠くのほうに遊びに行っているものもいるし、オス猫のなかには他のオス猫と争っていて帰ってくるのが少し遅れる猫もいる。


だから彼女はその時は、特に気にはしてはいなかった。


ところが翌日の夕方にいつもの場所に餌を出したところ、集まってきた猫はほんの数匹しかいなかった。


いくらなんでもこれはおかしい。


十年も前の時のように猫の数が少ない頃の話ならともかく、ここ最近はこんなことは一度もなかった。


――間違いない! 誰かがうちのかわいい猫ちゃん達に、何かをしたに違いない。誰だ。いったい誰がやったんだ!


彼女の怒りは尋常ではなかった。


その時彼女の脳裏に、ある男の名前が浮かんできた。


大滝文雄。


彼女の家から四軒ばかり西にある大きな家に住んでいる男だ。


年齢は五十代前半で、何かの会社の経営者という男である。


そして近所の住人の誰よりも、浦野に猫のことについて苦情を強く言い続けてきた人物であった。


二人の仲の悪さは、ご近所の暇な奥様方の井戸端会議において、ここ最近はいつもトップニュース扱いになっている。


――あいつだ。あいつが私のかわいい猫ちゃん達を。間違いない。あいつがやったんだ。あの悪魔め、絶対に許さない。

 



長瀬が起きると、すでに太陽は昇っていた。


とは言っても、それはいつものことである。


夜のアルバイトが終わって家に帰って寝るのは、毎日午前一時くらいだからだ。


いつもの習慣で新聞に軽く目を通すと、テレビをつけて朝のワイドショーを見た。


その日はある事件について、キャスターと長瀬の知らない若い女性ゲストが話をしていた。


なんでも浦野静代という初老の女性が、近所に住む大滝文雄と言う男の家に放火をしたと言う事件だ。


逮捕された浦野の話によると、原因は彼女の飼っていた猫を数十匹も大滝に殺されたからだそうだ。


しかし大滝は、猫など一匹も殺してはいないと証言している。


大滝の大きな家はほぼ全焼したが、幸いなことに大滝自身とその家族は、逃げて全員無事だということだった。


――この近くだな。


大滝の家は、大学が造られた時とほぼ同時期に山の中腹に造られた大きな新興住宅街にあり、それは長瀬の下宿からはそれほど離れていない場所にあった。


ワイドショーではまだこの事件に関してキャスターやゲストが、あれやこれやと何も実にならない話をまじめくさった顔で続けていた。


しかし長瀬は浦野や大滝のことなどよりも、猫が一度に数十匹もいなくなったことの方が、気になっていた。

 



川口雄大はあせっていた。


今日は娘の誕生日だと言うのに会社でトラブルがあり、帰るのがすっかり遅くなってしまっていたのだ。


駅を降りれば山の中腹に、一戸建ての住宅がずらりと並ぶ住宅街がある。


その北奥に川口の家があった。


ここから普通に歩いて二十分といったところだが、もう時刻は午後十一時を過ぎていた。


家で鎮座まします妻と高校生の一人娘。


女ども二人は待っている。


川口ではなく彼が持って帰ってくるであろう誕生日のプレゼントを。


この誕生日プレゼントをすみやかに遅れることなく娘にうやうやしく奉納するのが、今日彼にかせられた使命なのだ。


もちろんいかなる事情があろうとも、失敗など絶対に許されない。


早足で、ぜいぜいと肩であえぎながら、川口はようやくのこと我が家に着いた。


いびつに変形した造成地の奥にあるがために、まわりの家からはほとんど見ることのできない、孤独な一軒家である。


彼は門を押し開けようとした。


その時何かを感じた。


無防備な背中を誰かにじいっと見つめられているような、そんな気配である。


それもかなり粘着質で嫌な視線だ。


川口はゆっくりと振りかえった。


街灯が家の反対側にあるため、そこは真っ暗な闇となっている。


彼の視界には、何も映らなかった。


しばらく暗闇を見つめていた男は、一息つくともう一度門に手をかけた。


すると突然、川口の鼻と口を何かが覆った。


彼がわけもわからないままに抵抗していたのは、ほんの短い時間である。


やがて川口の意識は、はるか遠くへと旅立った。

 



長瀬は午前中の試験を終えて、いつものように学食でお昼を食べていた。


試験はもう最終日の最後の時間にひとつあるだけだ。


試験の結果も上々で、長瀬は少し浮かれた気分になっていた。


――やはり医者の国家試験に受かって、首尾よく医者になれたら、高松に帰らずにこの近くの総合病院でも就職しよう。そして親兄弟とは一切縁を切ろう。そのためには、何が何でも医者にならないと。


長瀬が想いにふけっていると、学食の入り口で明るい声が聞こえてきた。


「長瀬さん」


長谷川奈津子だった。


奈津子は小走りで長瀬のところに来ると、そのまま長瀬の横にちょこんと座った。


「長瀬さん、今日も試験だったんですか」


「ああ、今日も試験だよ」


「もう試験は終わりですか」


「いやまだ、最終日に試験があるよ」


「そうですか。私はもう、今ので全部終わりました。長瀬さんも、今日の試験は全部終わったんですね」


長谷川奈津子はそう言うと、突然黙ってしまった。


長瀬の顔から視線をそらし、時々ものすごく恥ずかしそうに、ちらちらと長瀬の顔を盗み見るように見ている。


長瀬はどう対応していいのかわからないままに、そんな彼女をただ見ていた。


すると長谷川が、おもむろに口を開いた。


「長瀬さん……今日はこれから……何か予定でもあるんですか」


「いや別にないよ」


「そうですか。私ももう、今から何もすることがなくて。……それで……もっと長瀬さんと……お話してもいいですか」


「ああ、いいよ」


長瀬がそう言うと、長谷川は満点の笑みで長瀬を見た。


「ありがとう、長瀬さん」


長谷川の頬は、薄く染まっていた。


そんな長谷川を長瀬は、心の底からかわいいと思った。


彼女の純で無垢な気持ちを、痛いほど感じた。


長瀬は彼女の為に、どんなことでもいいからとにかく話そうと思った。


「長谷川さんは秋田出身だったね。秋田って、どんなところ?」


「前にも言いましたけど、とってもいいところですよ」


嬉しそうに言う長谷川を見て、長瀬はおもわず口に出した。


「きっといい家庭に、生まれ育ったんだろうね」


それを聞いた長谷川の顔が、明らかに曇った。


しばらく長瀬の顔を、何かを訴えるように真剣なまなざしで見た後、床に視線を落とす。


それを見て長瀬はあることを強く感じた。


――彼女も俺と同じだ。


長谷川奈津子はけっして恵まれた家庭環境には、育ってはいないことを。彼女の明るさ純粋さは、あくまで彼女自身が持って生まれたものであり、いい家庭環境に育ったためではないことを、長瀬は理解した。やがて長谷川が顔をあげた。そして長瀬の顔を見た。その顔は少し悲しそうに見える。


その長谷川の顔を、長瀬は大きな優しさが満ちあふれる顔で迎えた。


すると長谷川の顔に、明らかな驚きの表情が浮かぶ。


彼女にとって長瀬のその表情は、かなり意外なものだったに違いない。


おそらくそんな反応を示した人間は、彼女のこれまでの人生において、一人もいなかったのだろう。


長瀬と長谷川はそのままなにも言わずに、お互いに見つめ合っていた。


しばらくすると長谷川の表情に、深い安心感のようなものが浮かんできた。


彼女も感じていた。長瀬が長谷川に感じたものと、同じものを。


恵まれないな家庭環境で生まれ育った者だけが感じることができ、不幸な子供時代を過ごした者だけが理解できる共有感。


それが二人を包み込んでいた。


この時二人は二人ではなく、一つになっていた。


長瀬が静かに言った。


「長谷川さん」


「お願い……奈津子と……呼んでください」


長谷川奈津子の顔は真っ赤に染まっていた。


「奈津子」


その時、奈津子の携帯電話が鳴った。


彼女は一瞬困惑の表情になったが、結局そのまま電話に出た。


少しばかりの会話をおえた後、携帯電話を切ると長瀬に言った。


「お友達が、なんか大変なトラブルに巻き込まれたみたいで。私、助けてくれるように、言われちゃって。ごめんなさい。私、行かないと。長瀬さん、またお話してくださいね。もっともっと、お話してくださいね」


「ああ、いいよ」


奈津子は長瀬の言葉を聞いたあと、一点の邪気もない笑みを浮かべた。


それはまるで、無垢な幼い少女が笑っているかのような笑顔だ。


そして彼女は体を反転すると、そのまま小走りで食堂を出て行った。


長瀬は奈津子が出て行きその姿が完全に消えた後も、彼女の消えたあたりをずっと見つめ続けていた。

 



長瀬が最後の試験を終えたのは、正午をすっかりまわっていた時だった。


長瀬が試験を終えると同時に、大学も前期試験の日程が全て終了した。


大学は明日から夏休みである。


長瀬がいつもより遅い昼食をとろうと学食に行くと、学食の入り口に長谷川奈津子が立っていた。


彼女は何かを強く思いつめたような表情をしていたが、長瀬を見つけると安堵の顔を浮かべ、小走りで彼に駆け寄ってきた。


「長谷川さん、よかったやっと会えた。もう会えないかと思った。本当によかった。でももう時間がないんです。私、今日秋田に帰らないといけないんです。もう電車の時間が」


奈津子はそう言うと、両手で長瀬の右手を強く握りしめた。


「夏休みが終わっても、また会ってくださいね。いっぱいいっぱい、お話してくださいね」


「うん、わかった。約束するよ。いっぱいいっぱい、お話をしよう」


長瀬の答えを聞くと奈津子は、長瀬がこれまでに何回か見た満開の少女の笑顔になった。


彼女はしばらく長瀬の手を握りしめていたが、やがてその手を離すと軽く頭を下げ、食堂の裏のほうに走っていった。


その先にはバイクと自転車の駐輪場がある。今はほとんどバイクも自転車も止められておらず、おそらくこの寂しくなった大学の中でも一番寂しいと思われる場所となっている所だ。


――たしか彼女はスクーターで通っていたな。


長瀬はそう考えながら、そのまましばらく長谷川奈津子が姿を消した後を見ていた。


その時の長瀬は、頭の中が奈津子で満ちあふれていた。

 



町田和夫は一人、暗い夜道を歩いていた。


彼はまだ新婚五ヶ月であった。


おまけについ最近、妻が妊娠していることがわかったばかりだ。


本来なら幸せの絶頂と言っていい状況であるはずである。


しかし彼の勤める町工場の業績が急に悪くなった。


そして今日会社に行くと、そこはものの見事にもぬけのからとなっていた。


呆然としている町田に近所の主婦が、関係のない第三者特有の好奇心と興奮を伴った表情で、社長とその一族が昨日の真夜中に夜逃げをしていた、と伝えてきたのだ。


彼には、家に帰れば身重の妻が待っていると言うのに。


町田は結婚後初めて妻に何の連絡もいれずに、会社の帰りに居酒屋に寄ってお酒を飲んだ。


携帯の電源も切って。


そして深夜と言う時間帯になって、ようやく家へと足を向けた。


なんとか最終の電車に乗り込み、いつもの駅で降りた。


普段ならそこからバスに乗って家に帰るところだが、もうバスの最終便はとっくに終わっている。


歩いて家まで帰れば、どこをどう歩いても一時間以上かかるだろう。


しかし歩くしか選択肢は残されていない。町田は力なく歩きはじめた。


普段、長い時間歩くことをしない町田にしてはずいぶんと歩いたと思われたころ、突然彼の後ろで――コン――と音がした。


それは彼には、石か何かがアスファルトの上に落ちた音のように思えた。


町田がおもわず振りかえる。


目の前に街灯があり視界は悪くなかったが、そこには誰もいなかった。


次の瞬間、彼の鼻と口を何かがふさいだ。


軽い心地よさと深い眠気を感じたような気がしたが、その後のことは町田の意識から一切消えてしまった。

 



夏休みに入り、一週間ほどたったある日のこと。


長瀬はいつものように学食で昼食をとっていた。


学生のほとんどが故郷へ帰ってしまい、数少ない地元の学生もそのほとんどが学校に来なくなっていたが、それでも食堂は日曜日をのぞくと、毎日開いていた。


夏休みでも先生や教授と呼ばれる人たちが何人かは大学に顔を出すし、大学院生を中心に、研究などのために学校にやって来る学生も一部にいるからである。


長瀬がお昼を毎日のように学食で食べているのは、値段が安くてボリュームがあるからにほかならない。


これだけ安くて量の多いところは、他の民間の食べ物屋では、おめにかかれない。


学生食堂は営利を第一目的としておらず、学生の福利厚生施設のひとつであるからだ。


それに長瀬は、料理というものを苦手としていた。


全く興味がないと言ったほうが正しい言い方であろう。


そんな長瀬の前に、突然木塚が姿を現した。


そして例によって食事をしている長瀬の前に座った。


「長瀬さんは夏休みだと言うのに、実家に帰らないんですね」


長瀬が答える。


「ああ、帰らないよ。そっちもまだ帰らないんだな」


「私は地元ですよ」


その答えに長瀬は少し驚いた。


実家から通っている地元の学生は数が極めて少なく、それだけの理由で本人の意向とは関係なく、ほかの学生より少しばかり噂のタネになることが多いからだ。


しかしその話題のときに木塚な名前があがったことは、長瀬の知っている限り一度もなかった。


もともと木塚は友人が一人もいないし、長瀬をのぞいて他の誰ともしゃべらない。


それでも地元の人間であれば、本人が言わなくてもまわりの人間の誰か、特に同じように地元から通っている希少な学生の口からそのことが広まる可能性がある。


と言うより、広まる可能性のほうが、かなり高い。


地元の人間であることを他の学生、特に同じ地元の人間に知られていないということは、きわめて不自然なことだ。


長瀬は、ふと思った。


――こいつ、いったいどうやっているのかはよくわからないが、なんでそんなことをするのかもわからないが、なんだかの手を使って自分が地元の人間であることを、故意にかくしているんじゃないのか?


長瀬がそんなことを考えていると、木塚が口を開いた。


「もう一度聞きますが、長瀬さんは、フランケンシュタインの怪物を創りだすのは、やっぱり無理だと思っているのですか」


今までに何回も議論されてきたことだ。


長瀬は迷わず答えた。


「ああ、前にも言ったが、他の生命体を拒絶する反応を完全に抑えるのはかなり難しいことだと思う。それに、違う生物の神経をうまくつないだとしても、ひとつの生命体のように機能させるのは、不可能だろうな。たとえば人間の脳を使ったとして、その一つの脳からの伝令で、複数の人間の体をまるで一人間の体のように動かすのは、やっぱりどう考えても無理だと思うけどね」


それを聞くと木塚は、目を吊り上げ、口も両端を吊り上げて、にたり、と笑った。


その顔は、まるで般若の顔に見えた。


「やはり長瀬さんは意見を変えないですね。私の意見を全て聞いたうえで。とは言っても、私の言うことを全て最後まで聞く人間自体、今まで一人も存在しませんでしたが。もっと正確に言えば、私がここまで詳しく話そうと思った人間も、一人も存在しませんでしたが。それは前にも話しましたが、長瀬さんが私と同じ匂いを持つ男だからです。逆に言えば同じ匂いを持つからこそ、他の誰にフランケンシュタインの怪物のことをバカにされてもなんとも思いませんが、長瀬さんに言われると、体中の血がたぎってくるのを感じますね。モチベーションが高まりますね。良いことです。本当に良いことです。……で、話を戻して、それに対して私の意見を述べますと、拒絶反応や神経系統の繋がり、あるいは脳の命令系統の問題は、怪物をつくるうえにおいて、実はたいした問題ではないのです。そんなことはこの研究においては、ほんの些細なことにすぎません。とるに足らないちいさな問題、と言ったほうがいいでしょうね。そんなことよりも、もっともっと大きな問題があります」


「もっと大きな問題?」


「そう、もっと大きな問題です。それは生命力の問題です」


「生命力?」


「そう、生命力です。フランケンシュタインの怪物が、人間をベースに創られるとするならば、避けては通れない問題です。人間が文明と言うものを築いてから、その文明と言うものに甘やかされて、本来持っていた野生の生命力というものを失ってしまいました。その野生の生命力をつけ加えない限り、怪物は生き続けることはできないでしょうね。あくまで机上の論理からいけばですがね」


「それがもし本当だとしたら、机上の論理から言って、どうやって野生の生命力を付け加えるんだい」


「それは机上の論理から言えば、しごく簡単なことです。長瀬さんは、人間も含めて生物の生命力の源は、どこにあると思いますか。と言うか、脊椎動物の体の中で一番生命力にあふれているところは、いったい何処だと思いますか」


長瀬は考えた。


そして思いついたことを言おうとした時、木塚が先に口を開いた。


「残念、時間切れです。そんなことでは、千年かかっても、フランケンシュタインの怪物は、創れませんよ。もっとも、創る気もさらさらないようですが。……とりあえず、今のところは。……で、答えは脳です」


「脳だって?」


「そう、脳です。意志や感情や思考などは、脳とは全然別のものですが、意志や感情や思考を思い浮かべた本人に理解や確認をさせるのも、それを体に忠実に命令するのも、脳です。脳がなければ、あるいは脳を破損するようなことがあれば、意志や感情のない下等生物と、なんら変わらない行動をとるしかないのですから。微生物や昆虫とか下等な生命体ではなく、ある一定レベルの高級生命体は、判りやすく言えば脊椎動物ですが、脳が体の中で一番重要な器官であり、最も複雑な器官であり、最も生命力があふれている器官なのです」


木塚がそう言ったあと、長瀬はしばらく考えてから言った。


それは長瀬が、ここのところ木塚に言おうか言うまいか、ずっと考えてきたことである。


それを今、思い切って言ってみた。


「ところで、ここ最近は俺とお前はずっとフランケンシュタインの怪物の話をしてきたわけだが。それで木塚はフランケンシュタインの怪物の存在には、肯定的なようだが。ぶっちゃけた話、お前はフランケンシュタインの怪物の研究について、具体的に何か研究しているのか。机上の論理以外で。どうなんだ? はっきりと答えてくれないか」


木塚はそれを聞くと、長瀬の顔をあからさまに覗きこみ、ものすごく嬉しそうな顔でにたり、と笑った。


「長瀬さん、やっと聞いてくれましたね。ずっと待っていましたよ。ええ、待っていました。あなたがその質問をし、私が答えるその瞬間を」


木塚はそう言うと、黙ってしまった。


能面の顔に戻り、なにも言わず、眉ひとつ動かさない。


仕方なく長瀬が聞いた。


「もう一度聞くが、さっきの話、どうなんだい。怪物について、具体的に何か研究をしているのか。どうなんだ?」


木塚が再び嬉しそうに笑った。


「どうしても聞きたいようですね。良いことです。本当に良いことですね。仕方ないですねえ。それならご期待にお答えいたしましょう。ええ、私は具体的に研究していますよ。机上の論理ではなくて実際にね。とは言っても今のところ、そんなにたいした研究ではありませんが。研究していることは、間違いがないですね」


――やっぱり。


長瀬は思った。


日ごろの木塚の口調から、長瀬はそれをずっと感じていた。


そこで長瀬はさらに聞きにくいことを、木塚に聞いた。


「具体的に言うと、それはどんな研究だい。実際にはどんなことをやってるんだ。ぜひとも答えて欲しいんだが」


すると木塚の顔から笑みが消え、また冷たい能面となった。


ただその目だけは無表情とはいえないほど、激しいものとなっていたが。そしてその顔のままで、今まで以上に長瀬の顔に自分の顔を、男同士としては明らかに不自然な距離まで近づけた。


「そのことに関して、今はまだ言うことができませんね。まあ、またのお楽しみと言うことに、しときましょうか。楽しみに待っててくださいね」


木塚はそれだけ言うと、ゆっくりと食堂を出て、向かいにある研究室のある建物に入って行った。


――そういえば、木塚は学食を出ると、いつもあの建物に入っていくな。


長瀬は考えた。


木塚はあそこで、フランケンシュタインの怪物とやらを、研究しているのだろうか。


長瀬もあそこには何度か入ったことがある。


確かにあそこは最新式の設備があり、ある種の研究には十分役立つだろうが、フランケンシュタインの怪物の研究などという物理的に大きな研究は、とてもじゃないができそうにはない。


ちいさな細胞や病原菌の研究に適しているところだ。


それにまだ一回生である木塚に、それほどの研究設備が与えられているとは思えなかった。


しかし木塚は間違いなく、フランケンシュタインの怪物の研究をしていると言った。


すると彼はあの研究室で、いったい何の研究を、どんなふうにやっているのだろうか。


長瀬には想像がつかないでいた。

 



やがて暑い七月は暑い八月となり、日々は何事もなく過ぎていく。


長瀬は八月になっても大学が休みの日以外は、昼食だけを食べに大学へと毎日のように通っていたが、あの日以来木塚に会うことはなかった。

 



そんなある日のこと、いつものように大学へ行き学食に顔を出すと、その入り口は閉められていた。


そして入り口のところに、一枚の張り紙がしてあった。


その張り紙には〝十二日から一六日までお休みさせていただきます〟と書かれている。


長瀬が全然気にしていない間に、世間はもうお盆に入っていた。


――あてが外れたか。


長瀬は仕方なく少しでもお腹のたしにしようと、学食前の自動販売機で缶コーヒーを買って飲み始めた。


するといつの間にか木塚が長瀬のすぐ後ろに、まるで背後霊かなにかのように、静かに立っている。


長瀬が気付き、振りかえって木塚を見ると、彼はなんの前ふりもなく強い口調で言った。


「長瀬さん、あなたに是非とも見てもらいたいものがあります。私について来てください」


「見てもらいたいもの?」


「私がフランケンシュタインの研究をしていることは、言うまでもなくご存知ですね。その研究を、研究の成果を、あなたに少しばかり見てもらいたいのです」


長瀬が何も言わずに木塚の顔を見ていると、不意に木塚が長瀬の右手をつかんだ。


「来てくれますよね」


そう言うと長瀬の手を引っ張り、歩き始めた。


その力はそんなに強い力ではなかったが、木塚はその全身から、拒否することを許さない強いオーラを発している。


長瀬は少し不安を覚えたが、そのまま木塚についていった。


それは木塚の発するオーラのせいばかりではなかった。


もともと木塚の話すフランケンシュタインの怪物には、十分に興味がある。


それは医学を志す者の、好奇心とか探究心といったものから来ていた。


二人は何も言わずに歩いた。

 



木塚が長瀬を連れて行ったのは、学生用の駐車場だった。


駐車場は広かったが、止まっている車は、今はもう数台しかない。


木塚はその中で一番大きな車のところへとむかった。


それは長瀬にはちょっと意外であった。


普段の木塚とそんないかつい車は、長瀬の頭の中では全然結びつかなかったからだ。


その車は車高がかなり高く、車に関してあまり興味も知識もない長瀬から見れば、大型の4WD車と軍用ジープを足して割ったような車に見えた。


木塚は先に車に乗り込むと、中から助手席側のドアを開けた。


「さあ、長瀬さん、早く乗ってください」


木塚はかなり強い口調でそう言った。


長瀬が言われるがままに車に乗り込む。


長瀬が乗りこむやいなや、車は急発進で走り出した。

 



車は大学の前の坂に出ると、その坂を上り始めた。


長瀬は少しばかり驚いた。


車が坂を下るものだとばかり、思っていたからだ。


大学は山の中腹に建てられている。


そして大学より上には、長瀬の知っている限り一軒の建物もなかった。


坂道を頂上まで登り、反対側に下ってしばらく走れば、再び民家などの建物がちらちら見えてくる。


しかしそこにたどりつくまでには、一時間近く走らなければならない。


それよりなにより、そこまでいけば隣の市に入ってしまう。


坂の頂上が境界線なのだ。


――木塚は確か、大学と同じ市に住所があったはずだが。


木塚が地元であると知った後、学生課に行き、同級生名簿で木塚の住所を見た。


木塚の住所は大学のある市と同じ住所になっていた。


長瀬の困惑をよそに、車は迷うことなく山道を登り続けている。


すると突然、木塚がブレーキをかけた。


急ブレーキと言っていいほどのブレーキングである。


そして減速した車を左に切り返すと、木々の間に狭くて舗装のされていない急な登り坂が現れた。


――こんなところに、こんな道があったのか。


長瀬も車で数回この道を通ったことがあったが、この森の間を通る道には全く気がつかなかった。


それはこの坂道が急で狭いこともあるが、それよりその坂道の一番手前のところに、左右一本ずつ特に大きくて太い木が生えていることのほうが大きかった。


その木でこの道が、本道からは隠されている形になっているために、見つけられにくくなっているのだ。


その二本の木は、まるでこの道を他の何かから守っているように感じられる。


そして正面から見れば、その二本の木は大きな門柱にも、あるいは神社の鳥居のようなものにも見えなくもなかった。


長瀬がそんな思いをめぐらせているうちに、車は荒々しく上り坂に乗り上げた。


その道はただ木が生えていないというだけで、その路面にはかなりの凹凸があった。


普通の車なら車の底を地面ですってしまうだろう。


そしておそらくは車体が浮きタイヤが空回りをして、最後まで上りきることはできないだろう。


かといって大型トレーラーでは、道幅が車幅より狭そうだ。


現に木塚の車でさえ、本当にぎりぎりの幅しかなかった。


まさにこの車は、この道を登るために木塚が所有しているのであり、この車以外でこの坂道を登れる車は、そうそう見つからないだろうと、長瀬には思えた。

 



車はそのまま坂道を登り続けた。


坂の角度は登るにつれてどんどん急になっていく。


長瀬が大げさでもなんでもなく、このまま走り続けたらそのうちに車が後方にでんぐり返るのではないかと心配し始めた時、車は急に水平になった。


視界が開けていた。


そこは大きな広場となっていた。


そして何千坪もありそうな綺麗に整備された広場の一番奥に、その建物はあった。


それは巨大な洋館だった。


古い洋館で、外国、それもヨーロッパを舞台にしたホラー映画にでも出てきそうな深く不気味な雰囲気を、妖気のようにその全体から漂わせている。


木塚はその洋館の入り口の前に車を止めると、先に車を降りた。


後から降りてきた長瀬に向かって、木塚が言った。


「びっくりしましたか、長瀬さん。この屋敷はもともと私の曾祖父が建てたものです。当時は避暑が目的の別荘として建てたようですが、いろいろあって祖父の代からは、ここが本宅になりました。私もここで生まれ育ちました。ここが私の家です」


何も言えずに古びた洋館を見つめている長瀬をよそに、木塚は入り口のかなり大きな開き戸を押した。


戸は静かに開いた。


戸を開けると、そこは大広間だった。


外国映画で、このような場所でダンスパーティーをしているのを、見たことがある。


そんな空間だ。


そして玄関の戸の横に一人の男が立っていた。


「ようこそいらっしゃいました。長瀬様ですね。お話はいつもおぼっちゃまから、受けたまわっております。どうぞ、お入りください」


男はそう言って、深々とお辞儀をした。


それは老人としか言いようのない年齢の男だった。


きれいにオールバックに整えられた紙は真っ白で、日本人にしては鼻が高く、大きな目は二重で、少しばかり外国人を連想させる顔立ちである。


そして顔に深く刻まれた多くのしわとその声から、年齢は八十歳を超えていると思われた。


しかしその年齢にしては背筋がりんと伸びていて、着ているモーニングもずいぶんと様になっている。


長瀬は、若い頃からずっと体を鍛え続けている、という印象を受けた。


「藤本です。私の祖父の代から我が家に仕えている執事です」


木塚は長瀬にそう言った後、藤本に向かって言った。


「もういいから、さがっていなさい」


「かしこまりました、お坊ちゃま」


藤本はそう言うと一礼をした後歩き出し、大広間の右の大きな扉の横にある小さなドアを開けてその中に入り、こちらを向いて再び深く一礼をすると、そのドアを音もなく閉めた。


「それではさっそく、私の研究の成果を見てもらえますか」


藤本の姿が見えなくなってから木塚はそう言うと、大広間の奥に向かって歩きだした。


広間の奥には大きな階段があった。


それは途中で左右に分かれて、両方とも二階の広い踊り場へとのびている。


木塚はその階段の裏側にまわった。


階段の左右に分かれる手目の、まっすぐ上に延びている部分である。


その階段の裏に、小さなドアが一つあった。


階段の幅はゆうに五メートルはあり、そこの壁も同じ幅があったが、そのドア自体は小さくて、幅が一メートルもない。


階段の幅が広いがために、余計に小さく見える。


「地下室です。ついてきてください」


木塚はそう言うとドアを開け、中に入って行く。


長瀬が後に続いた。


そこは地下に通ずる階段だった。


そこを降りると狭い廊下があった。


木塚が明かりをつけると、廊下の左右と奥に、全部で三つの扉が見える。


「まずはここからですね」


木塚は階段から一番近い右側のドアを開けた。


木塚が明かりをつけるとそこは二十畳くらいの部屋で、壁のすべてが本棚になっていた。


それは背表紙を見ると、ほとんどが英語とドイツ語の本である。


部屋の中央には大きな古い木の机がおいてあり、その上には膨大な数の書類が山積みになっている。


長瀬が興味深く見てみると、それは主に日本語で書かれており、時折英語とドイツ語で書かれているものが混ざっていた。


中にはは文字ではなく、人体の解剖図が描かれているものもあったが、その絵はプロのイラストレーターでもなかなかこうは描けないと思えるほどに詳細で、正確で、なおかつ上手に描かれていた。


紙質から判断して、わりと最近書いたり描いたりされたもののように見える。


――これは全部木塚がかいたものなのか?


長瀬がそう思いながら食い入るように見ていると、まるで長瀬の心の中を覗いたかのように、木塚が答えた。


「そうです。これは全部私が書いたものですよ」


長瀬は正直驚いたが、心の動揺を見透かされまいと、それほどでもないと言った感じでふるまった。


「それにしても、ものすごい量だな」


「そうですね。この六十年の集大成と言ったところですか」


――六十年? 木塚は確か今年で十九歳のはずだが。


怪訝そうに木塚を見る長瀬にたいして、木塚が言った。


「そこにあるものは全て私が書いたものですが、フランケンシュタインの怪物の研究は、かれこれ六十年前、私の祖父の代から始まっていたのです。祖父が未完成のまま死んだので私の父が受け継ぎました。その父も十年前に亡くなったので、今度は私が受け継ぎました」


「十年前。それじゃあお前は、九歳の時からやっているのか」


「そうです。九歳の夏からやっています。今年でちょうど十年ですね」


――六十年もの長い間、フランケンシュタインの怪物の研究を続けていたのか。それも親子三代にわたって。


長瀬がある種の驚愕を覚えながら山済みの書類に目を通していると、下のほうから長瀬の知らない言葉で書かれた書類が出てきた。


紙質から見て、それだけは特別古いもののように思える。


長瀬がそれをじっくりと見ていると、木塚が言った。


「それはサンスクリット語です。実はそれが一番重要だったのです。その忘れ去られた古文書を偶然に発見し、解読したことでこの研究が大いに進みました。もちろんその前に祖父や父が五十年も研究を重ねてきてくれたからこそ、その古文書が役に立ったのです。私の十年だけは、とても無理な話でした」


――サンスクリットの古文書?


長瀬は今までの知識を酷使して考えたが、それに該当するような古文書は、なにひとつ思い浮かばなかった。


再び木塚が見透かしたように言った。


「いくら考えても無駄ですね、長瀬さん。その古文書は、私の父が偶然に手に入れたもので、日本人で読んだことのある人間は、私と私の父の二人だけです。他には誰もいません。とても古い医学書なのですが、全て複雑な暗号で書かれていまして、父は死ぬまでにそのほとんどを解読できませんでした。私も最初はそれほど重要視していませんでしたので、しばらくは無視してたのですが、去年ふと思い立って苦労して解読してみると、これが実に素晴らしいものでしてね。なんとフランケンシュタインの怪物を創造するにあたって一番難解だった問題点が、この古文書ひとつで全て解決されましたよ」


「一番難解な問題点? それはなんだ」


「それは教えられませんね。苦労してやっと見つけた企業秘密です。おっと、長瀬さんにこれ以上ここの書類を見られるのは、あんまりよろしくないような気がしますね。もうそろそろ、出ましょうか」


そう言うと長瀬の手を引っ張って、木塚は部屋を出た。


廊下に出ると木塚は、今度は左側のドアを開けて入った。


長瀬が中に入ると、そこは真っ暗だった。


廊下の明かりがもれているが、手前の床の一部がぼうと見えているだけで他は何も見えない。木塚が言った。


「見えないでしょう」


長瀬が黙っていると、さらに続けた。


「最初に言っときますが、明かりをつけてもけっして驚かないで下さいね。大げさでも、なんでもなく」


長瀬がまだ黙っていると、鋭い声が部屋中に響きわたった。


「わかりましたか! 返事は?」


「わかった」


長瀬が思わず返事をすると、部屋の明かりがつけられた。


そこは研究室だった。


最初に入った部屋より広く、中央に置かれた細くて長い木の机の上には、赤や黄色や紫といったさまざまな色の液体が入ったビーカーやフラスコが所せましと置かれていた。


中には怪しげな白い蒸気を漂わしているものまである。


メスなどの医療器具がいくつも無造作に置いてあって、壁といわず天井といわず、部屋中のいたるところに電気のコードやなにかのチューブが、幾重にも張り巡らされている。


右側の壁にある棚の中には、マウスをはじめ何種類かの小動物の体全体あるいは体の一部がホルマリンづけにされたビンが、何十と置かれてあった。


見たところ、そこはまぎれもなく研究室と呼ばれる所ではあったが、最新式の医療器械や機材といったものは、一切見当たらない。


そこはまるで、セピア色のホラー映画に登場するマッドサイエンティストの研究室そのものである。


長瀬が呆然と見ていると、木塚がいつの間にかすぐ横に立っていた。


「ここは主に、祖父と父が使っていた部屋ですね。どちらかといえば、祖父の方になりますが。父も私も少しは使っていますね。ところで見て欲しいのは、これではありません。奥にあるあれです」


部屋の奥に、古く小さな机がある。


その上には黒い布をかけられた何かが置いてあった。


布の下からは何本かの細いビニールのチューブが出ていて、全て横にある年代物の機械に差し込まれていた。


その機械は、医学生の長瀬が見ても何かわからないしろもので、小型のブラウン管テレビくらいの大きさがあり、中に真空管でも入っていそうな機械である。


表面には古いタイプのメーターが四つあり、その下には小さな押しボタンが十ほど横に並んでいた。


明らかに一世代は前のものだ。


木塚が長瀬の耳元でささやいた。


「その機械は私の父が作ったものです。父が死んだ時はまだ未完成でしたが、私が完成させました。その機械は大変重要なものですが、見てもらいたいのはこちらです」


木塚は黒い布に手をかけると、一気に引きおろした。


そこには水槽が一つ置かれてあった。


ごくありふれた水槽の中は、なんだかわからないうすい緑色の液体で、いっぱいに満たされていた。


水槽の横に置いてある機械から延びている数本のチューブが、水槽の上から中にさし入れられ、そのチューブは水槽の真ん中にそなえられているあるものに差し込まれていた。


それは猫の首だった。


黒い猫の首が、水槽の底に沈められている銀色の金属板から飛び出した木の棒の先に、無造作に突き刺さっている。


そしてチューブは木の棒と同じように、猫の首の切り口からその首に刺しこまれていた。


かすかだが、何かの腐敗臭のようなものが、長瀬の鼻にまとわりついてきた。


猫の首は目と口を閉じていて、全く動かない。


長瀬は全身が凍りついた。その目は猫の首に、釘付けとなっていた。


「長瀬さん、しっかり見ててくださいね」


木塚はそう言うと、水槽のふちを指先で軽く数回たたいた。


次の瞬間、猫の首はその目を、そして口を、大きく開いた。


そして緑色の液体に邪魔をされて何も聞こえなかったが、その口は明らかに鳴いていた。


長瀬は反射的に後方に飛びのき、後ろの机で腰をしたたかに打った。


長瀬は痛みでうめきながらも、思わず言った。


「生きてる!」


「そう生きています。これを創るのに祖父の代から、いったい何匹の動物を使ってきたことか。とても数え切れないですね。もちろん数える気も、さらさらないですが。でもこれが完成したことで、フランケンシュタインの怪物の創造が、大きく前進しました。さて長瀬さん、いよいよ最後の部屋です。さあ早く行きましょう」


木塚は長瀬の顔を覗きこんだ。


その顔は前に見た、不気味な般若の笑い顔となっている。


木塚は長瀬の手をひっぱると廊下に出て、その先にあるドアの前に連れて行った。


地下室の廊下の一番奥にあるドアだ。


そのドアは、今までのようなありふれたドアとは違い、大きくて古く、ところどころに黒い鉄の鋲が打ってある、錆びた鉄製の扉だった。


扉には木の札がかけられている。


そしてその札には〝キメラ〟と黒い墨でふとぶとと書かれていた。


「長瀬さんなら、もちろんキメラのことはご存知でしょうね」


長瀬はキメラを知っていた。


長瀬は昔、ギリシャ神話を読んだことがある。


その中でもキメラは、特に印象に残った怪物のひとつだ。


獅子の体に顔は右半分がドラゴンで、左半分が獅子。


尾は大蛇で、背中から大きなコウモリの羽が生えている。


書物によっては記述が異なり、ドラゴンの顔ではなく山羊とかかれていたり、コウモリの羽ではなく背中からドラゴンの首が生えていたり、体が獅子ではなく山羊とされているものもあるなど様々だが、どちらにしても複数の生命体の合成体であることには、かわりがない。


ギリシャ神話最強の怪物と言われたテュポーンと、数々の怪物の母となったエキドナが両親である。


ケルベロス、オルトロス、スキュラ、ラドンを兄弟にもち、異父兄弟に、スフィンクス、ネメヤの獅子などがいる。


キマイラとも呼ばれており、口から火を吐いて国中を暴れまわった怪物だ。


ついでに言えば、性別は雌である。


長瀬がキメラのことを思い出している間に、木塚はいつの間にか鉄製の大きな鍵を取り出し、それをこれまた大きな鍵穴に差し込んで回した。


ガチャン


とやけに仰々しい音がした後、木塚が力を込めて扉を押した。


金属製の重い扉は、


ギッギギーーッ


といやな音を長瀬の頭に絶え間なく響かせながら、ゆっくりと開いた。


長瀬が木塚に促されて部屋に入る。木塚が後から続いた。


そこは広くて奥に細長い部屋だった。


部屋の奥は、暗くて全く見えない。


再び重く大きな音がした。


木塚が扉を閉めたのだ。


木塚は扉を閉め終えると、両手を上にむかって差し上げ、宙を見つめながら言った。


まるで主役をはる舞台役者のごとく。


「さああの奥に、私の最高傑作のキメラがいます。人類が有史以来初めて創造したフランケンシュタインの怪物です」


木塚のその言葉を聞き、長瀬は目を見開いた。


長瀬はただ木塚の研究を見に来ただけである。


フランケンシュタインの怪物がすでに完成しているとは、全く想像していなかった。


怪物を創りだすことはとうてい不可能だと思っていたし、それ以前に木塚の言うフランケンシュタインの怪物は、あくまでも人間の体がベースになっていたはずだ。


それが完成したとなれば、その人間の体は、いったい何処から持ってきたと言うのか? 


死体も考えたが、このあたりはもちろん全て火葬だ。


もう一つの可能性は医療関係から提供されるという可能性だが、医学生である長瀬には、とてもじゃないがそんなことは全くありえないことに思えた。


長瀬は木塚を問いただすために振りかえろうとした。


その時長瀬の後頭部に強い衝撃が走った。


長瀬はそのまま床に倒れこんだ。


長瀬は痛みともうろうとする意識の中で、下から木塚を見上げた。


その木塚の手には、何かが握られていた。


鉄製の棒で、先端とその横に獣の爪のようなものがついている。


暖炉に使う火かき棒である。


「なにをする」


長瀬は床に横たわり満足に動かない体のままに、木塚に抗議した。


木塚は長瀬の抗議を無視して、ズボンの後ろのポケットから何かを取り出した。


それは小さな注射器であった。


そして素早く長瀬の腕に注射針を差しこんだ。


それほど時間がたたないうちに、長瀬の体から力が一気に抜けた。


そして全身がしびれてきて身体が全く動かなくなった。


「暴れられても困るものですから、しびれ薬を注入させていただきました。しばらくは指一本動かせないでしょうね。でも目も見え、耳も聞こえるはずです。薬をそういうふうに調合しましたからね。それでは長瀬さん、その目でとくとご覧ください。あれが、私が心から愛するキメラです」


木塚は部屋の明かりをつけた。


その明かりで部屋のほとんどが、明るく照らされる。


部屋の手前側には、さっき入った部屋と同じように細長い机があり、同じようにさまざまな色をした液体の入ったフラスコやビーカーが、乱雑に置かれていた。


その奥には、長瀬にとっては見覚えのあるようなないような最新式の医療機器らしきものが、何台か備え付けられている。


そしてその後ろ、部屋の一番奥のところに、〝それ〟はいた。


長瀬は〝それ〟を見た。


〝それ〟は全くもって信じられないしろものだった。


三人の人間がいた。


三人とも全裸で、二人は男、一人は女である。


しかし普通の人間が全裸で三人いたのではない。


その三人の身体は、ひとつに繋がっていたのだ。


真ん中の男の両腕と、むかって右側にいる男の左側の手が根元から切り取られ、胴体のところで完全にくっついていた。


さらに左側にいる女の右側の手も同様に切り取られ、同じように胴体が完全にくっついている。


右側にいる男の腕の下に、男と女の腕が一本ずつついており、左側にいる女の腕の下から、男の腕が二本突き出していた。


二人の男の腹と胸のところに上下にひとつずつ、そして女の胸のふくらんだ先に左右に二つ猫の首があり、こちらに向かって、にゃあにゃあ、鳴いていた。


六本の足には、何十匹というねずみの頭が、まるでキノコか竹の子のように生えており、これらも、ちゅうちゅう、とかん高い声を上げている。


そして三人の体の後ろから、これまた何十と言う数の蛇の体が伸びてきて、鎌首を持ち上げ、舌をちろちろ出してこちらを見ていた。


そう、それらの生き物達は、みんな生きていた。


生きていたのである。


長瀬は動けない体で、それを見ていた。


ただ、人間の首から上の部分には明かりが当たっておらず、暗くてよく見えないでいた。


「あれれっ? おやおやまあ、これでは全体像がよく見えませんですね。しかも一番肝心なところが、まるで見えてないですね。これはたいへん失礼いたしました。一番奥の電気をつけるのを、すっかり忘れていました。しばらくお待ちくださいね、長瀬さん。今すぐに、明かりをつけますからね」


木塚が壁のスイッチを押すと、奥の明かりがついた。


その淡い光によって、キメラの首から上が照らしだされる。


そしてそこに映し出されたものは、長瀬がこれまで見てきたものとは全然比べ物にならないくらい、衝撃的なものだった。


両端の男と女の首の上には、大型犬の首がついていた。


右側は茶色の犬で、左側の犬は真っ黒い犬である。


二匹とも口から舌をだらりと垂らし、はあはあと小刻みな息をしている。


鳴き声こそあげていないが、猫やねずみと同様に生きているのだ。


そして真ん中にいる男の首の上には、若い女の首がついていた。


しかもその首の主は信じられないことに、どう見ても長谷川奈津子だった。


そこには奈津子の首がつなげられていたのだ。


奈津子はその目を閉じて、まるで眠っているかのように見えた。


「どうですか長瀬さん、よく見てくださいね。特に真ん中の女性の首。彼女は、なかなかに美人でしょう。いいですね。ほんと、いいですねえ。私の好みですね。やっぱり女は美しくないといけませんねえ。ブスな女の首を付けた日には、私のキメラの見栄えというものが、だいなしになってしまいますからね。それを考えると、本当に運が良かったですよ。男一人捕まえたあとで、女も一人は欲しいなあと考えていた時、たまたま通りかかった大学の駐輪場で見つけたものです。見た途端、彼女だ、と思いました。おまけにあの時期は、あのあたりに人が誰もいなかったものですから、簡単に確保できましたよ」


長瀬は体中に激しい怒りがこみ上げてくるのを感じた。


そして考えられる限りのすべての力を使って、自らの体を動かそうとした。


それでも長瀬の体はでく人形のように、指の一本すら動かせなかった。


「もう十分見たでしょう、長瀬さん。さあそれでは、そろそろ終わりにしましょうかね。もうクライマックスです。で、ものは相談ですが、と言っても反論は一切許しませんが、と言うより、そんな状態では長瀬さん、したくてもとてもできないでしょうが。あのキメラに。キメラ……ああキメラ。……我ながら、なんていい名前を思いついたものでしょう。我がフランケンシュタインの怪物に、これ以上ふさわしい名前は、他には考えられませんですね。その美しき我がキメラに、ぜひとも長瀬さんの体を加えたいと思います。あなたこそが他の凡人どもと違って、我がキメラの一部になるにふさわしい人間であると、私は考えています。それは長瀬さんを最初に見た時から、ずっと考えていたことです。ねえ、いいでしょう長瀬さん。ものすごく名誉なことでしょう。この世に生を受けた者として、この地球上にこれ以上の名誉なことは、他にありえませんですね。さあどうですか、喜んでいただけましたか。……はい、そうですか。もちろん、そうでしょうね。わかっています。わかっていますとも。十分に喜んでいただけたようですね。長瀬さんに喜んでもらえて、私もまるで自分のことのように嬉しいです。……おっと、これはこれは、危ないところでした。今は長々とおしゃべりをしている場合では、ありませんでしたね。せっかくの薬がきれてしまいますね。では早急に始めたいと思います。薬が切れる前に、さっさと終わらせたいものですから」


木塚は火かき棒を両手で持って大きく振りかぶった。


「大丈夫です。ほんの一瞬でおわりますから。なんの心配もありません」


その時、音がした。


ずるっ、ずるっ


木塚は音のするほうを見た。


その前に体の動かせない長瀬は、いやがうえにもその音のするほうを見ていた。


その音はキメラの歩く音だった。


「えっ?」


木塚はそれを、全く信じられないといった表情で、見ていた。


「まさか、そんなはずは」


ずるっ、ずるっ


キメラはなおも歩き続ける。


ゆっくりと、六本の足を不器用に使って。まっすぐ木塚のほうに向かって来ていた。


その時、奈津子の目が開いた。


その眼は長瀬を見た後怖い目で木塚を見て、そして再び長瀬を見た。


その口がゆっくりと開いた。


「ナ・ガ・セ・サ・ン」


確かにそう言った。


木塚が明らかに平常心でない響きの声をあげた。


「ばっ、ばかな。……ちゃんとロボトミー手術をしたはずだ。稼動しているのは動物的な本能だけで、思考や意志や感情などを感じ取ったり、ましてや実行したりなんてことは、間違ってもできないはずだ。……こいつ、いったいなんでしゃべることが、できるんだ?」


キメラはさらに近づいてきた。


奈津子の眼は、今度は木塚を見た。


突き刺すような眼光であった。再び奈津子の口が開いた。


「ユ・ル・サ・ナ・イ……ナ・ガ・セ・サ・ン・ヲ……キ・ズ・ツ・ケ・ル・ヒ・ト・ハ……ワ・タ・シ・ガ……ゼ・ッ・タ・イ・ニ……ユ・ル・サ・ナ・イ……」


激しい驚きの表情で見つめる木塚をよそに、キメラはさらに近づいてきた。


キメラ、いや奈津子が、長瀬の顔を見て微笑んだ。


「ナ・ガ・セ・サ・ン……ナ・ガ・セ・サ・ン・ハ……ワ・タ・シ・ガ……ナ・ニ・ガ・ア・ッ・テ・モ……マ・モ・リ・マ・ス……」


「きさまら、知り合いか!」


木塚はそう叫ぶと、もう目の前にまで来ていたキメラに向かって、火かき棒を振り下ろした。


それば右側の犬の頭に当たった。


「ギャン」


犬が悲鳴をあげた。


しかしキメラはかまわず、六本の腕で木塚につかみかかった。


腕や肩をつかまれながらも、木塚はただ闇雲に火かき棒を振りまわした。


男の腕の一本がとれて床に落ちた。


しかしキメラが攻撃をやめることはなかった。


背中の何十匹という蛇が、木塚の体のいたるところに噛み付いた。


木塚の足とからんだキメラの足についているねずみも、その足に噛み付いている。


猫も泣き叫びながら木塚に噛み付こうとしていたが、その牙は木塚には届かなかった。


木塚はわけのわからないうめき声とわめき声を上げながら、左手で真ん中の男の胸を押し返し、右手であいかわらず火かき棒を振りまわしていた。


その棒は、何度も右側の男と真ん中の男のちょうど中間あたりに当たっていた。


やがて二人のくっついている上の部分がはがれだして、そこから血が大量に流れだした。


それでもキメラは止まらなかった。


やがて右端の男の体が完全にはがれて、どたりと床の上に転がり、そのまま動かなくなった。


するとキメラは残り三本腕のうち、男の腕二本で、木塚の首を絞めはじめた。


「うぎゃーっ、うぎゃぎゃぎゃーっ」


木塚は狂った奇声を上げると、その腕を火かき棒で、殴りつけはじめた。


男の腕の一本が床に落ちた。


しかしもう一本は、あいかわらず木塚の首を絞め続けている。


木塚はさらに激しく鉄の棒を振りまわした。


それはがつんと、奈津子の首に当たった。


その首は大きく傾き、下の男の体との縫い目の部分が半分ほどとれて、そこからも血が噴水のように噴出しはじめた。


奈津子は顔を真っ赤に染めながらも、鬼の面相で木塚を見た。


するとそれまで動かなかった女の手、おそらく奈津子の手だろう、が木塚の右目の中に、その指先をおもいっきりこじ入れた。


木塚は大きく口を開けた。


しかしその口からは、なんの音も発せられなかった。


えぐられた木塚の目から、血が流れはじめた。


木塚の火かき棒を振りまわす力が、明らかに弱まる。


追い討ちをかけるように大型犬の首が、木塚の首のところに噛み付いた。


木塚の首から血がごぼごぼとあふれだした。


男の大きな手は、あいかわらず木塚の首を、強い力で絞め続けている。


さらに奈津子の細い指先が、ナイフのように木塚の左目もえぐった。


木塚の火かき棒を振りまわす動きが完全に止まり、キメラを押し返す力もなくなっていた。


木塚の両手が、だらりと下に垂れ下がった。


火かき棒が硬い音をたてて、床の上に落ちた。


やがて木塚とキメラは、もつれあうようにふらふらと横に動き、長瀬の近くまで来ると、そのまま長瀬の上半身の上に倒れこんできた。


人間三人分の体重を頭に受け、床で側頭部を強く打ち、長瀬はそのまま気を失った。

 



どれくらい気を失っていただろう。


長瀬はゆるりと意識を取り返した。


自分の体の上に木塚の体、そしてその上にキメラの体が乗っていた。


長瀬は自分の体を動かしてみた。


まだしびれてはいるが、何とか動かすことができる。


長瀬は木塚とキメラの体の下から抜け出した。あたり一面血の海で、長瀬自身も真っ赤に染まっている。


長瀬は木塚を見た。


木塚の両目と首、特に首のところから、かなりの血が流れ出している。


見た目にはとても生きているとは思えなかったが、念のために手首をとって脈を調べてみると、やはり脈はなかった。


長瀬は奈津子の手首もとって脈を診てみたが、こちらもなんの反応もなかった。


長瀬はその時、キメラの真ん中にあったはずの奈津子の首がなくなっていることに、気がついた。


「奈津子!」


長瀬は奈津子の首を捜した。


首はすぐに見つかった。


少し離れた床の上に転がっている。


長瀬は首を拾うと、奈津子に呼びかけた。


「奈津子、奈津子、奈津子」


しかし奈津子は眠ったような顔で、静かに目を閉じている。


長瀬は奈津子の顔に頬ずりをして、その名を叫んだ。


「奈津子! 奈津子! 奈津子―――っ」


いつの間にか長瀬の目から涙が溢れ出していた。


その時、突然〝ガチャリ〟と大きな音がした。


見ると部屋の鉄製の扉が、ギギと音をたててゆっくりと開いていく。


扉が完全に開くと、そこには藤本が立っていた。


手には銀製の盆を持っていた。


その盆の上には、ティーカップがひとつだけのせてあった。


藤本は驚愕の表情で血まみれの長瀬を見て、床に倒れこんだキメラを見て、その下にいる木塚を見た。


木塚を見た後、藤本の全身が小刻みにわなわなと震え始めた。


「おのれえっ! ……きさま……よくも……よくも……お坊ちゃまを!」


藤本は盆ごとティーカップを長瀬に投げつけた。


そして盆とカップが長瀬に当たるやいなや走り出し、長瀬に向かって体当たりをしかけてきた。


長瀬は一瞬避けようとしたが、体がいつもと違って素早く反応しなかった。


長瀬は藤本の体当たりをまともに受けて、床に倒れこんだ。


倒れこむ瞬間、長瀬はおもわず腕に抱えている奈津子の首をかばった。


その結果、もろに背中を床に叩きつけることになってしまった。


苦痛の表情を浮かべて床に転がっている長瀬の上に、藤本が乗ってきた。


そしてそのまま馬乗りになり、両手で長瀬の首を絞め始めた。


それはとても老人とは思えない、激しく強い力である。


長瀬は片手で奈津子の首をかかえたままで、もう一方の手で藤本の手を引き離そうとしたが、薬がまだ完全に抜け切れておらず思うように力が入らない。


藤本は、なおも強い力で長瀬の首を絞め続けている。


やがて長瀬の意識が徐々に遠くなっていった。


――もう、だめだ。


長瀬がそう思った時である。


「おわっ!」


突然藤本が大きな奇声を上げて、長瀬の首からその手を離した。


みると藤本の手に何かがくっついている。


それは奈津子の首であった。


奈津子が必死の形相で、藤本の指に噛み付いていたのだ。


長瀬はまだ馬乗りになっている藤本の胸を、両手で思いっきり突き飛ばした。


藤本は勢いよく床に仰向けに倒れて、後頭部を硬い床でしたたかに打った。


長瀬はふらつきながらも、起き上った。


その時、長瀬の視界の隅に、火かき棒が飛び込んできた。


長瀬は慌ててその火かき棒を拾った。


見ると藤本は、もうろうとした意識の中、それでも上半身を起こそうとしている。


長瀬は火かき棒を両手でふりあげ、藤本の顔面に向けて、全体重を乗せ遠慮なく振り下ろした。


棒は藤本の顔面に命中した。藤本は火かき棒を顔にくっつけたまま、床に倒れた。


そして両手をひくひくと痙攣させている。


よく見てみると、火かき棒の横にとがった爪の先が、藤本の目と目の間に突き刺さっていた。


長瀬は火かき棒を抜くと、もう一度藤本の顔面にむけて振り下ろした。


そしてもう一度。


さらにもう一度。


何度も何度もとりつかれたかのように、金属の棒を力いっぱい振り下ろし続けた。

 



長瀬はふと我に返った。


見れば藤本の顔はその大半が大きく陥没し、そこから多くの血が流れ出していた。


裂けた皮膚と割れた頭蓋骨の間から、潰れた白い脳も垣間見える。


あらためて脈を調べるまでもない。


どこからどう見ても完全に死んでいる。


――そうだ、奈津子は?


長瀬は奈津子を探した。


奈津子の首は、キメラのそばに無造作に転がっていた。


長瀬は奈津子の首を両手で優しくつかむと、それを自分の顔の前にさし上げた。


奈津子は目を閉じ、長瀬が指先で優しく頬をなでても、全く反応がない。


「奈津子、奈津子、奈津子、奈津子、奈津子――っ!」


長瀬は何度も何度も、その愛しい人の名を呼び続けた。


しかし奈津子の目は開くことはなかった。

 



夏休みが明けた。


故郷に帰っていた学生達も大学に戻ってきて、キャンパスは夏休み前となんらかわることない普段の騒々しい風景に戻った。


夏休みが明けて数日ほど経ったある日、長瀬が学食でいつもの安い定食を食べていると、同級生の松崎が声をかけてきた。


長瀬は特に松崎と親しいわけではない。


と言うより松崎は、長瀬があまり親しくしたくないと思っている人物である。


「よお長瀬よ、知ってるか。木塚が学校辞めたみたいだぜ」


「本当か」


「本当だ。実は俺は、学生課の人と親しいんだ。今日も学校に来るなり学生課に寄ってきたんだ。そこで聞いたんだよ。何でも手紙ひとつで学校を辞めたそうだな」


「それだけでか」


「ああ、そうさ。学校を辞めると言う内容の手紙が届いたそうだ。あいつの家は、今どき携帯どころか固定電話すらないんで、もう一度確認の手紙を出したら、同じ内容の手紙が届いたんだってさ。そのうえに、残りの授業料の返済はいらないとか、二度と大学には行かないとか、そちらもこちらに絶対に来ないでくれとか、長々といろいろ書いてあったそうだ。まるでこれを境に大学との付き合いは、今後一切しないと言っているみたいだった、とその人が言ってたぜ。それで終わりさ」


やけににやにやしながら嬉しそうに話す松崎に、長瀬が言った。


「そうか。ところで松崎は、さっきから何がそんなに嬉しいんだい?」


「あたりまえじゃないか。俺は木塚が大嫌いだったんだ。あいつ、普段はなんにもしゃべらないくせに、ふと気がつくと、この俺をバカにしているような目で見ていることが何回かあったんだ。なんか気分悪いよな、まったく。俺はあいつがいなくなって、せいせいしているところだぜ、ほんとに」


長瀬が小声で言う。


「まあ、木塚がバカにしたくなる気持ちは、わからないでもないけどな」


「えっ、なんだって。今何か言ったか」


「いや別に。独り言だよ」


「ふーん、そうか」


そのうちに長瀬は昼食を食べ終え、学食の出口に向かって歩き出した。


すると松崎が後からついてくる。


「なあ長瀬、今日はもう授業はないんだろ。これから二人で町へ繰り出して、かわいい子に声をかけに行かないか」


「いや、今日はもう家に帰る」


「そんなあ、水くさいぜ長瀬よお。俺とお前の仲じゃないか」


長瀬は――いったいいつから、俺とお前の仲、になったんだ――と思ったが、あえて口には出さなかった。


そのまま黙って、駐車場へと向かった。


松崎は懲りずについてきて、何度も「ナンパしに行こうぜ」「医大生はもてるぞ」などと言っていたが、長瀬は一切相手をしなかった。


駐車場に着き、長瀬が車に乗ろうとすると、松崎が言った。


「おい、おまえ。いつからこんなごつい車に乗るようになったんだ。たしか前は、軽自動車だったはずだが」


「前は軽だったが、今はこれさ」


長瀬はそれだけ言うと車に乗り込み、急発進させた。

 



長瀬の車は大学前の坂を登って行った。


そして、途中いきなり急ハンドルを切ると、大きな二本の木の間から延びている細い坂道を登りだした。


坂道を登った先には広い広場があり、その奥に大きな古い洋館が建っていた。


長瀬は洋館の入り口に車を止めると、慣れた手つきで入り口の鍵を開け、中に入って行く。


そしてそのままホールにある大きな階段の裏にまわり、地下室へと降りていった。


長瀬は地下に降りると、鼻歌を歌いながら手前から二番目のドアを開けて、中に入った。


その部屋の一番奥に、黒い布をかけられたものがある。


長瀬がその布を静かに取った。


そこにはどこにでもあるような水槽があり、中は薄い緑色の液体で満たされていた。


そしてその液体の中に、何かがいた。


それは長谷川奈津子の首であった。


その目は軽く閉じられており、その口はわずかに開いていて、一見死んでいるかのように見えた。


長瀬は、身をかがめて奈津子の顔を正面から見ると、水槽の表面を指先で優しく数回たたいた。


「ただいま、奈津子」


奈津子の目が、ゆっくりと開いた。


そしていつもの少女の笑顔でにっこりと笑うと、その口が開き、何かを言った。


その声は緑色の液体に邪魔をされて何も聞こえなかったが、その唇は間違いなく、こうささやいていた。


「オ・カ・エ・リ・ナ・サ・イ……ナ・ガ・セ・サ・ン……」

 



女は今日も帰りが遅かった。


大学近くにあるラーメン屋でアルバイトをしているのだが、お店が終わるのが午前二時で、それから清掃などをして、原付バイクで家に帰り着くのは、いつも午前四時くらいである。


真っ暗な中、駐輪場にバイクを止めて、自分の部屋へと向かう。


駐輪場が裏にあり、部屋へ続く階段のところに行くのに、アパートをぐるりと回らなければならない。


おまけにアパートの横のところが暗く沈んでいて視界がかなり悪い。


ほとんどなにも見えないと言ったほうがいい状況である。


女は、最初のうちは怖かったが、最近ではもうすっかり慣れてしまっていた。


そして彼女がいつものように、アパートの横の暗闇を通り過ぎようとした時である。


突然、彼女の鼻と口を何かがふさいだ。


その時女は、鼻につく薬品の匂いをかいだような気がした。


しかしそれが、彼女の最後の記憶となった。

 

     


      終

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キメラ ツヨシ @kunkunkonkon

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