千年狩り ドラゴンの子

ツヨシ

本編

その時、


不意に気配がした。


それ、が何かはわからない。


おまけに、それ、を何と説明していいかもわからない。


強いて言えば


嫌なもの、よくないもの、怖いもの、


〝死〟


そういったものを数限りなく集めて、一箇所に濃縮したような。


そんな何かが、確かに背に、べたりと張り付いてきたような気がした。


――なんなの?


女は振り返ろうとした。


そこに――ココン――と乾いた音が、フローリング床の八畳間の部屋に、小さく響いた。


女の全身が固まった。


背中をぞわぞわ怖気が這い登る。


――どうしよう?


そのまま見ないほうが、逆に怖い。


とても耐えられるものではない。


彼女はゆっくりと、ゆっくりと、振り返った。


……何もなかった。


ここは女の住む部屋。


市の中心から離れた郊外にある、若い独身女性専門のワンルームマンションである。


深夜、外出から帰ってきた彼女は、部屋の入り口近くにある小ぶりなクローゼットにコートを入れようとしていた。


そこからは部屋全体が隅々まで見わたせる。物の少ないこの部屋に死角はない。猫の子一匹が隠れる場所さえなかった。


でも何も見当たらないのだ。


ただ小さなガラステーブルの上にあったはずのコーヒーカップが、何故かフローリング床の上に転がっていた。


――あら、なんでカップが落ちてるのかしら?


彼女は不思議に思いながらも手にずしりと重いコートを、とりあえずクローゼットに押し込めることを優先した。


そしてしまい終えると、何気に振り返った。


部屋の隅に男が一人立っていた。


見も知らぬ白人男性だった。


そして獲物を狙う肉食獣を思わせる眼で、彼女の全身をなめるように見ていたのだ。


――うそっ!


彼女は声に出して叫ぼうとした。


しかしその前に男が動いた。


それは信じられないほどに速かった。


一瞬で彼女の目の前まで来ると、そのまま彼女の体に覆いかぶさった。




その場に立つ二階堂進は、不機嫌を大々的に宣伝しているかのような顔をみんなの前にさらしていた。


二階堂が不機嫌な理由はただ一つ。


こんな夜中に呼び出しをくらったからである。


殺人課の刑事と言う職業柄、夜中にお出かけしなければならないことは、別に珍しいこととは言えない。


それでも二階堂は、新人の頃から真夜中に出かけることは、理由がどうであれ大嫌いだったのだ。


「おい、もう夜中の二時前だぜ」


隣にいた笹本刑事に愚痴る。


「はあ? なんですか」


笹本のその気の抜けた返事に、二階堂は笹本にそう言ったことが、全くの無駄であることをあらためて悟った。


ついこの間刑事になったばかりのこの若い男は、容姿もその性格も、一昔前の青春ドラマからまんま抜け出してきたような男だった。


バカがつくほど生真面目で、刑事という仕事に熱い熱い情熱を燃やしているようなタイプである。


好きな言葉は、「青春」と「汗」と「友情」であるにちがいない。


そんなわけで夜中の二時に現場に出向いて行くことなど、休みの日にちょっと近所をぶらつくのと同じ労力、とくらいにしか考えてない。


その上大好きな仕事ができるなんて至福の喜びだと思っているという、救いようの無い天然ぶり。


んな男に愚痴をこぼしてもとても共感など得られるはずもなく、現に笹本は二階堂の言ったことの意味を、ものの見事に理解していなかった。


「なんでもない。それより現場を見るか」


「はい!」


実に明るくさわやかで、ついでに言えば元気よく気持ちのいい返事だった。


それがさらに二階堂の気分を害することになった。




部屋に入ると、すでに鑑識があちらこちらを調べていた。


被害者の死体はもう運び出されていて、玄関の床に白いテープが荒く人型に貼られている。


聞きもしないのに、別に聞きたくもないのに笹本が言った。


「隣の住人、二十一歳の大学生ですが、居酒屋のアルバイトから帰ってきた時に、時間は十二時半を少し回ったぐらいだそうですが、自分の部屋に入ろうとしたら、西野さやか、ガイシャの名前ですが、ガイシャの部屋から、ドスン、と大きな物音がしたので声をかけてみたけれど、返事がなかったそうです。それでガイシャの部屋のドアに手をかけてみると、鍵はかかっていなくて、中を覗きこむと、ガイシャが玄関のところに倒れていたそうです。その時彼女はすでに死んでいたようですね」


「そうか、わかった」


二階堂は部屋を一瞥した。


それだけで十分だ。


――これ以上ここにいても、なにもでないな。あとはまかして本署にもどるか。


彼がそう考えた根拠は、二階堂のカンにあった。


二階堂は、お世辞にも仕事熱心な刑事とは言えなかった。


むしろ逆であると言ったほうが正しいほどだ。


それでも署長からの信頼は厚かった。


それは彼が今までに、いくつもの難事件を解決したからにほかならない。


基本的にあまりやる気のない二階堂にそんな芸当ができたのは、彼の持つ独自で人並みはずれた第六感、その能力よるところが大きかった。


その二階堂のカンが――おい、ここにはなにもないぞ――と彼に告げていた。


「笹本、行くぞ」


「えっ、今来たばっかりなのに、もう行くんですか」


二階堂が笹本を眼で射た。


「つべこべ言わずに、ついて来い!」


笹本は、明確な不満の表情をその顔に浮かべていたが、言われたとおりに、つべこべ言わずについて来た。


――なんて、わかりやすい奴なんだ。


二階堂は思った。




本署に着くと二階堂は、笹本を無理からその場に残し、一人真っ先に検死官のところに向かった。


死因が単純な場合は、もう検死の結果は出ているはずだ。


そして二階堂は、すでに結果が出ていると考えていた。


その根拠はもちろん彼のカンにあった。


それ以外には、あるはずもない。


二階堂は、検死室がひたすらお気にめさなかった。


独特の照明による無機質な光沢、そして何よりあの臭いが、何度嗅いでも好きになれない。


人間の死せる匂いと、人工的な薬品の匂いが、水と油のごとく混じりあっているのだ。


おまけに明るいくせに、陰々滅々としていることおびただしい。


そんな不自然極まりない場所は彼の好むところではなかったが、もちろん今は、そんなことを気にしている場合ではない。


顔なじみの検死官のところに行くと、検死台の上に西野さやかの死体がのせられていた。


二階堂があいさつもなしに、すかさず聞く。


「死因は?」


白衣を着た小太りの検死官が、黒ぶちメガネの奥から、いつものように舐めるようなまなざしで二階堂を上から下まで見た。


そして同じくあいさつ抜きで答える。


「出血死です」


「出血死?」


その返答はさすがの二階堂も、全く予想できていなかった。


何故なら西野さやかの倒れていたあたり、そして部屋の中の何処にも、血は一滴も見当たらなかったからである。


「ええ、出血死です。と言うよりガイシャの体の中に血は、ものの見事に一滴も残っていませんでした。おまけにこれです」


検死官はさやかの首を指さした。


そこにははっきりと、獣の噛みあとと思われる歯形が残されていた。


「これは、いったい」


検死官が冷めた口調で答える。


「犬ですな。……多分」


「犬?」


「詳しく調べてみないとわかりませんが、どう見ても犬、それも大型犬の噛みあとのように見えますね。ただ犬にしては、たとえ大型犬だとしてもやたらとばかでかいのが、気になると言えば気になりますが」


「それじゃあガイシャは……犬に噛まれて死んだと」


「それは正確とは言えませんね。確かに犬に噛まれたことは事実ですが、首の傷はそんなに深いものではありません。この傷だけで死に至るようなものではないですね。さっきも言ったように、死因は出血死です」


「しかしガイシャの部屋には、全く、血の跡はなかったが」


「だとすると、他の場所でやられたのではないですか?」


「……いや、それはありえないな。ガイシャは確かにあそこで殺されているんだ。それは絶対に間違いないさ」


検死官は二階堂の顔を興味深く見つめた後に言った。


「どうしてわかります、二階堂さん」


二階堂はそれに答えずに、部屋の出口のほうへと歩き出した。


そして出口のすぐ手前のところで、検死官の方に振り返った。


「カンだよ、カン」


「カン……そうですか」


検死官の口元だけが、にたりと笑った。


「そうだ!」


二階堂がそのまま部屋を出る。検死官がそれを見送った。


そこにはねずみ色のよれよれのコートを着た、前後左右何処から見てもかたぎにはみえない四十過ぎ男の後ろ姿があった。


二階堂が出て行った後も、検死官はやけに嬉しそうにその出口を眺めていた。


が、やがて鼻歌まじりに振り返り、血をぬかれて文字通り透き通った白い肌となった西田さやかの裸体に、視線を落とした。




部屋の中に二人の男がいる。


部屋は暗くて、床は土がむきだしになっている。


壁もいくつも細長い板を打ち付けてあるが、その板のすきまから真っ黒い土が顔をのぞかしている。


天井からは裸電球が三つほどぶらさがっていた。


ホラー映画に出てくる連続殺人鬼の隠れ家――そんな様相の部屋だった。


どうやらどこかの地下室のようである。


男は二人とも白人の男性だった。


一人は二メートルを超える長身で、もう一人は白人男性としては、かなり低い身長の男だ。


背の低いほうの男は上半身裸で、下半身も下着一枚だけである。


両手を後ろ手に縛られ、土の床の上に裸の両膝をついて座っていた。


背の高いほうの男は、その手に黒皮のムチを持っていた。


そして男のむきだしの背中に、容赦なくそのムチを振り下ろした。


ピシッ


乾いた音がして、男の白い肌の上に、赤くみみずばれが描かれた。


皮膚が裂けて赤い血が滲み出している。


ピシッ


もう一度ムチを振り下ろした。


「うっ!」


ムチを振り下ろされた男の顔が苦痛にゆがみ、小さなうめき声をあげた。


ピシッ


さらに振り下ろした。


ムチを持った男が口を開いた。


「死体を残してくるなんて、なんという失態だ!」


それは日本で生まれ育った人間の使う日本語であった。


ピシッ


再びムチが振り下ろされた。


「うっ……」


「伯爵様はお怒りだ」


ピシッ


「ううっ……」


また振り下ろされた。




その時、磯山一美は、限りなく黒に近い灰色に染まった道を、一人家路へと急いでいた。


二日後に迫ったクリスマスイブのために、彼氏に送るプレゼントを選んでいたのだが、迷ったあげくにすっかり遅くなってしまっていたのだ。


そのため近道をしようと、細い裏路地を足早に歩いていた。


ともに高いブロック塀で囲まれた工場と倉庫の間にあるその道は、一見暗くて不用心に見えるが、普段は夜に人が通ることは、皆目と言っていいほどなかった。


したがって物取りなどがうろつくこともなく、かえって安全であることを近所に住んでいる彼女は知っていた。


だから時々ではあるが、今夜のように早く帰りたいときには、そこを利用させてもらっていた。


今まで何か危ない目にあったことはなく、それ以前に夜にこの道で誰かに出くわしたことも一度もない。


しかし今夜はいつもの夜とは少しばかり違っていた。


もうすぐ主要幹線道路に出るというところの曲がり角を曲がると、そこに男が一人立っていたのだ。


その男の姿は、後方の道の街灯や車のヘッドライトの明かりによって完全なシルエットとなっていて、顔は全く見えなかった。


身長は二メートル近くありそうだ。


そしてがっちりとした筋肉質の体つきをしているのが、シルエットながらはっきりと見てとれた。


男はその大きな体で、幅が一メートル余りしかない狭い裏道をふさぐようにして、磯山一美のほうを向いて立っていた。


両手を軽く左右に広げ、右と左の掌を左右のブロック塀を押すようにそえてある。


彼女は考えた。


そのまま何事もなかったかのように男の横の狭い空間を通りすぎるか、それとももと来た道を引き返すか。


ただ一美には、その男の態度が――彼女がこの道を通るのをあらかじめ知っていて待ち伏せていた――かのように見えた。


だとすれば、ふりかえって男に無防備な背中を見せるのは、どう考えても危険だ。


かといってそのまま男の横を通るにしても、すんなりと通してくれそうな雰囲気は、男の姿からは微塵も感じられない。


――いったいなんなのよ? あの人。


彼女は立ち止まり、必死で考えようとした。


しかし恐怖のためか頭が酔ったように働かずに、いったいどうすればいいのか、何も浮かんでこない。


彼女は動くことも声を出すこともできずに、その場で固まっていた。


その間その男は、なん動きも起こさずただ彼女をじっと見ているようだったが、やがて両手をだらりと下におろすと、まるで何かを思い出したかのようにゆっくりと、彼女に向かって歩き始めた。


その時である。


「おい、待ちな!」


男のすぐ後ろから鋭い声が響いた。


その声は一美には、中学生くらいの男子の声に聞こえた。


一息おいて、前の男がゆるりと振り返る。


その時、それまで大きな男の影に隠れていたその声の主の姿が、彼女にも見えた。


その少年と思われる人物も、前にいる男と同様に姿がシルエットになっていて、顔を見ることはできなかった。


その身長は百七十センチを少し超えるくらいだろうか。


前に立つ男の筋肉質な体とは正反対に細身で、見ようによっては貧弱とも思える体をしている。


彼女には最初の男と比べると、その体重は半分もないように思えた。


少年らしき男が再び言った。


その声は男性にしては少し高めではあるが、張りのある力強い声だった。


「お嬢さん、こいつは俺に任せて、早く逃げな」


一美はその声を聞くとはじかれたように振り返り、そして走り出した。




イストヴァンは戸惑っていた。

若い女がこの道を通るのをかぎつけ、ここで待ち伏せしていた。


そこに予想どおりに女が来たので襲おうとした。


ところが、待ってましたとばかりに邪魔がはいったのだ。


状況によっては邪魔がはいることも、ある程度は予想していた。


この裏路地はほとんど人が通らないようだが、その先の幹線道路の交通量は比較的多い。


歩道を歩く人も時折見うけられる。


女を襲えば、特に女が悲鳴でも上げれば、通りがかりの人間でイストヴァンの邪魔をしようとする者が現れても、なんら不自然ではない。


しかしイストヴァンはまだ女に手をかけていなかったし、女も悲鳴はおろか、一声も発してはいなかった。


それなのにこのありさまなのだ。


しかもこの男、その姿は逆光でよくは見えないが、その体はイストヴァンよりもひとまわりは小さく、声もずいぶんと若いようだ。


――まだ少年――といった雰囲気である。


おまけにこの男、その態度と言い先ほど女に話した内容と言い、彼がここで女を襲うことを最初からわかっていた、としか思えない様相である。


――こいつ、いったい何者だ?


イストヴァンは、自分が目の前にいる少年とおぼしき人間にやられてしまうとは露ほども思ってはいなかったが、それでも何故か、一応は警戒したほうがいいような気がした。


イストヴァンがそんなことを考えながら少年のシルエットを見ていると、ずっと黙っていた少年が右手を上げ、口を開いた。


「その先の角を曲がれば、後ろの道からは俺たちの姿が見えなくなる。あんたもそのほうが、何かと都合がいいだろう」


少年の右手の人差し指は、イストヴァンの後ろを指差していた。


イストヴァンは少なからず驚いた。


――こいつ、この俺とやりあおうと言うのか。ただの人間が、この俺に勝てるとでも思っているのか。


そう考えた瞬間、イストヴァンの中に、粘っこくて残虐なものが、ぞわりこみあげてきた。


「いいだろう」


イストヴァンは流暢な日本語でそう言うと、先に路地の奥に向かった。


そして歩きながら少年が後からついて来るのを、背中でしっかりと感じとっていた。




イストヴァンが適当なところで立ち止まって振り返ると、少し離れたところに少年が立っていた。


イストヴァンは夜目がきいた。


さっきは後ろの光に邪魔されてこの男の姿がよく見えなかったが、今でははっきりと見ることができる。


イストヴァンはその男を、穴が開くほどにじっくりと観察した。


そいつは、やはり若かった。


東洋人の年齢は少しわかりにくいが、平均して白人よりは若く見えることを考慮すれば、その男の年齢は十六歳前後に見えた。


身長はイストヴァンより低く、しかもかなり細身の体をしている。


手足は普通の東洋人と比べると、ずいぶんと長い。


そしてこの寒空だと言うのに、体にぴったりとした薄地で長袖の黒いワイシャツと、これまた足にぴったりの細い黒い皮のズボンをはいているだけである。


男にしては髪が長く、後ろは見えないが、前も横も顔が十分に隠れるくらいの長さがあった。


前髪は真ん中より少し左のところで分けられており、そのまま左右に流している。


右目は前髪で隠れてほとんど見えず、唯一見える左目は東洋人にしてはかなり大きく、少しだけつりあがってはいるが、どちらかといえば西洋人の目に近い形をしていた。


そしてその眼の中の大きな黒い瞳からは、とても十六歳前後とは思えないほどの落ち着きと力強さ、そしてある種の経験からくる自信と聡明さのようなものが感じられた。


鼻は高くて鼻筋が通っており、口は少し大きめで唇も厚めである。


顔の輪郭は丸みを帯びて細長く、全体の印象を一言で言えば、鋭い眼光をのぞけばやや女性的な顔であり、美しいと表現してもさしつかえのない顔立ちである。


イストヴァンは考えていた。


人間、それもまだ子供といっていい年頃の少年に自分がやられるわけはないのだが、その態度があまりにも悠然としている。


特にその眼力の強さは、明らかに尋常ではない。


見たところ武器らしいものは、なにも持ってはいないようだ。


――こいつ、どうしてくれよう。


イストヴァンがそう考えていると、少年が先に動いた。


ゆっくりとイストヴァンに近づいて来る。


その両手はだらりとさげられており、なんの構えもしてはいない。


――バカめが。この俺に無防備に近づいてくるとは。こんなガキ一匹、あっさりと一発で決めてしまうか。


少年がさらに近づいて来た時、イストヴァンはいきなり少年の顔面に向かって右の拳を突き出した。


次の瞬間、イストヴァンの右手首あたりに痛みが走ったかと思うと、彼の体は見えない手に引っぱられでもしたかのようにように、左に流された。


そしてイストヴァンのその拳は、そのまま左にあるブロック塀を突き破った。


イストヴァンは思わず少年を見た。


少年は指を開いた左手を、軽く肘を曲げた状態で自分の顔の前に突き出していた。


イストヴァンは今何が起こったのかを理解した。


イストヴァンの右ストレートを、少年がその左手ではじいたのだ。


イストヴァンは心底驚いた。


彼の右ストレートは、たとえわかっていたとしても、たとえ相手がボクシングの世界チャンピォンだったとしても、避けることは限りなく不可能に近い。


そして避けることができなければ、人間であれば確実に死が訪れる。


ところがその右ストレートを、いきなり放ったにもかかわらず、それを避けるどころか、ついさっきまで肩からだるそうにぶら下がっていたはずの左手一本で、はじき飛ばしたのだ。


拳をブロック塀から抜き、イストヴァンが少し少年から離れた。


――なるほど。こいつ、やはりただ者ではないな。


イストヴァンを見る少年の顔は、少しにやけているように思えた。


イストヴァンは少年に向かって叫んだ。


「きさま、聖騎士団か!」


少年は小首をかしげて、軽く微笑みながらイストヴァンを見ている。


その態度は――幼い子供がなにかちょっと楽しいことがあって喜んでいる――そんな風に見えた。


少年はすぐには返事をせずに、そのまま黙ってイストヴァンを見ていたが、やがて答えた。


「聖騎士団だって? いったい何者なんだい、そりゃ。あんたんところの国では、そんなおもしろそうな奴がいるのかい? それは知らなかったぜ。そういう連中には大いに興味があるな。ぜひ一度お目にかかりたいもんだぜ。――と言ったわけで残念ながら、この俺は違うぜ。ここは日本だ。聖騎士団なんかじゃないぜ」


「聖騎士団でなければ、おまえ何者だ?」


「何者だと聞かれても、あんたに自己紹介するつもりはないね。そんなのただめんどくせえだけだし。どうせあんたはもうすぐ死ぬんだし。とにかく誰か来ると、いろいろとややこしいことになるんでね。さっさと決めさせてもらうぜ」


少年はイストヴァンに近づいて来た。


と同時に手を後ろにまわして、ズボンの後ろポケットから何かを取り出した。


それは短く、切り口が楕円形の棒であった。


木の棒に何種類かの鮮やかな色の糸を複雑に巻きつけた、長さが三十センチほどしかないしろものである。


とても武器としてはなんの役にもたちそうにないものに見えた。


イストヴァンは両ひざを軽く曲げて全身の力を適度に抜き、少年が近づいてくるのを待った。


そして少年が目の前まで来たとき、いきなり上に向かって飛んだ。


イストヴァンには自信があった。


自分の跳躍のスピードは人間の目ではついていけないと。


少年の目には、いきなりイストヴァンが目の前から消えたように見えるだろう。


そして慌てて周りを見わたして、イストヴァンを探すはずだ。


この時、とっさに前後左右を見わたしたとしても、上を見上げる人間は、まずいない。


そこを上から攻撃すればいいのだ。


イストヴァンはこの方法で、今まで何人もの聖騎士団の命を奪ってきた。


しかし十分にジャンプをした後、イストヴァンの身体が重力に捕まり落下し始めた時、それまでなにひとつ行動を起こさなかった少年が、なんの迷いもなく顔を上にあげてイストヴァンを見た。


その眼はしっかりとイストヴァンの姿を見据えていた。


――くそっ!


イストヴァンはかまわず、少年に攻撃を仕掛けた。


落ちながら少年のこちらを見ている顔面にむけて、右足を踏みつけるように蹴ったのだ。


しかしイストヴァンの足は、少年の顔面には当たらなかった。


少年が少しばかり体を後ろに避けたからである。


イストヴァンはそのまま地面に着地した。


気がつけばイストヴァンは、少年と向かい合わせの状態で立っていた。


その直後イストヴァンは自分の目の下に、強い紫色の光を見た。


それと同時に腹部に激しい痛みを感じた。


おもわず腹を見ると、自分のみぞおちあたりに、鈍く銀色に光る金属の刃物が深々と突きささっている。


それは少年が先ほど持っていた短い棒から飛び出した刃物で、それを少年が右手で持ち、イストヴァンの腹に突き刺していたのだ。


そしてその刃先は、イストヴァンの背中を突き破っていた。


――なんだって? さっきまであんな刃物は、なかったはずだ。


しかしイストヴァンは、すぐさま冷静さを取り戻した。


――確かに腹は痛いが、致命傷と言うにはほど遠いな。だいたいこの俺は、腹を貫かれたぐらいでは死にはしない。こいつはもう勝った、もう勝負はついた、と思っているだろう。その油断をつけばいいのだ。逆に今がチャンスだ。


イストヴァンはわざと全身の力をしばらく抜いた後、いきなり自分のあごの下にある少年の頭を、両手でわしづかみにした。


「バカめ。このまま頭をひねりつぶしてくれるわ」


その時イストヴァンは、少年の頭をつかんだその両手から、力が急速に抜けていくのを感じた。


――何?


手だけではなかった。


イストヴァンの全身の力が、どんどん抜けてゆくのだ。


イストヴァンは気がついた。


――俺の力が……俺の力の源が……吸いとられている。


イストヴァンは思わず自分の腹に突き刺さった刃物を見た。その刃物は真っ赤に染まっていた。


それはイストヴァンから流れた出した血が表面に付着したからではなかった。


内側から赤く染まっているのだ。


そのただの金属にしか見えないその刃物は、イストヴァンの血を次々と吸いとっているのである。


――バカな。こんな金属の塊が、この俺の血を吸いとるなんて。……そんなことは……ありえない。


イストヴァンの力の源、それは彼自身の血にほかならない。


イストヴァンは最後の力を振り絞って、少年の両肩に自分の両手をかけた。


少年の体を押して刃物を腹から引き抜こうとしたのだ。


しかし時すでに遅かった。彼の両の手は少年の肩に手をかけた後、ぴくりとも動かなくなってしまった。


「助けて…く…れ……」


蚊のなくような声で言った後、イストヴァンの動きが完全に止まった。


少年はしばらくイストヴァンを見ていたが、やがて一気に刃物を引き抜いた。


少年の右手には刃の部分が全て真っ赤に染まった日本刀が握られていた。


刃の長さが普通の日本刀より長い、大太刀である。


やがてイストヴァンは、その場に崩れるように倒れた。


「やったな」


突然に声がした。


少年の声ではない。


それはかなりの年齢を経たと思われる男の声である。


低くて多少しわがれてはいるが、よく響く力強い声だ。


「ああ」


少年が返事をした。


しかし少年のまわりには、誰一人その姿を見かけない。


ややあって少年が再び口を開いた。


「なにかわかりそうか?」


老人の声がそれに答える。


「まあ待て。わかるには少し時間がかかる。知っとるだろう、おぬしも」


「それじゃあ質問を変えよう。こいつはわかりやすいほうか?」


「そうじゃなあ。今のところ感じるには、わかりにくいほうじゃな」


少年が、あからさまに不快な顔をした。そしてぶっきらぼうに言った。


「そうか、残念だぜ。でもなにかわかったら、すぐに教えてくれ」


「ああ、わかったわい。いつもそうしとるじゃろうが。おぬし若いわりには、ちょっと話がくどいのう」


会話は続いているが、やはり少年の姿しか見当たらない。


「じじい、とりあえずもう帰るか」


「それがいいじゃろう」


少年は歩き始めた。


そして日本刀の柄をズボンの後ろのポケットに無造作につっこんだ。


その柄の先には、ついさっきまであったはずの真っ赤な日本刀が、完全になくなっていた。


少年はそのまま幹線道路に出ると、夜の闇に紛れてその姿を消した。




仄暗く、そしてかなり広い部屋である。


天井もそうとうな高さがある。


そしてその部屋は、まさしく中世ヨーロッパの宮殿を思わせるものだった。


もし部屋の明かりが充分だったならば、さぞかし豪華な内装をはっきりと見ることができただろう。


その部屋の奥の中央に大きな黒い革張りのソファーがあり、そこに男が独り座っていた。


その部屋には男がかけているソファー以外は、奥の両隅にある二本の高いろうそくの燭台があるだけで、ほかには何の家具も見当たらない。


そこにろうそくが一本ずつとりつけてある。


だだ広い部屋の明かりは、その二本のろうそくだけである。


男は白人の男性だ。


眠っているのか目をとじたままで、その背にもたれかかるようにしてソファーに座っていた。


その時、部屋の入り口である高さも幅も充分にある観音開きの扉が開いて、男が二人入って来た。


その二人も白人の男性だった。


右の男が言った。


「伯爵様、大変です!」


左の男が言った。


「イストヴァンが、殺されました!」


それは完璧な日本語であった。


ソファーの男がゆっくりと目を開ける。


そしてしばらく宙を見つめた後で、視線をその男たちに移した。


「なんだと? まさか聖騎士団か」


やはり日本語である。


今度は左の男が先に答えた。


「わかりません。ただいまリリアーナが調べております」


続いて右の男が答える。


「いずれわかると思われます」


「そうか。何かわかったら、すぐに我に知らせるのだ」


二人の男がほぼ同時に答えた。


「はい、わかりました伯爵様」


「おおせのとおりに伯爵様」


二人の男は深々と一礼をすると、静かに部屋を出て行った。


ソファーの男は再び宙を見つめたが、やがてすうっと、その目を閉じた。




磯山一美の通報を受け、近所の派出所の巡査が現場に駆けつけたころには、そこにはもう誰もいなかった。


ただ裏路地をすこし入った所に、何故だかはわからないが、真っ白い灰の塊が残されていた。


巡査は、女性が襲われそうになったことは署に報告をしたが、灰の塊のことまでは伝えなかった。




そこは古い日本家屋。


ゆうに二十畳はあろうかと思われる日本間の奥に、少女が一人正座をしていた。


その少女の身につけているもの、それは神社の巫女が着る服と基本的には同じであるが、上着の袖のところに二本の赤いラインがあり、さらに全体に小さな赤い牡丹の刺繍がいくつもほどこされ、普段見慣れた巫女の衣装よりも少し派手な印象を受けるものである。


黒髪はきれいなおかっぱ頭をしていた。


そしてその顔立ちはまだ子供ながら、かなりの美形である。


大きくて吸い込まれそうな眼に大きな黒い瞳、つんととがった形の良い小さな鼻、そして十分すぎるほど柔らかさと暖かさを感じさせるつやのある唇が、神秘的ともいえるバランスで配置されている。


年齢は十歳くらいであろうか。


背筋をりんと伸ばし、両手を重ねて足の上に置き、軽く薄目を開けて静かに前を見ていた。


その時、正面の障子が乱暴に開かれた。


そこには先ほどイストヴァンと闘った少年が立っていた。少年が言った。


「ゆづき、何かわかったか」


ゆづきと呼ばれた少女が答える。


「いえ、まだ詳しくはわかっておりませぬ。もう少し探ってみませんと。ただ相手はかなりの力を持っているようです。そして、強大な力を持ちながらも、同時に己の存在を隠す術を心得ている。そんな相手と思われます」


少女の声は、仮に十歳だとしたら、そのわりには少し幼い声だ。


しかしその語り口調は、まるで長い人生経験を積んできた女性のようであった。


その声の響きには人としての深みとか、品格いったものが感じられる。


少年が言った。


「あのくそじじいも、わかりにくいとかほざいていたな。どうやら今回は、ちょっとやっかいな相手みたいだぜ。とにかくどんな小さなことでもいいから、今判っている範囲でいいから、今すぐに教えてくれ」


少女は眼を閉じた。


そしてしばらく黙っていたが、やがてその眼を、そして口を開いた。


「今度の相手は、六、七人いるように思われます。そのうち一人は女性です。みな、遠い国からやって来たようです。先ほど龍夜様が倒された相手が、その中では一番力なき者でしょう。残っている五人か六人は、あの者よりは強いようです。とても強い力を持っております。ただどんな相手なのか、どんな力を持っているのかは、今のところよくわかりかねます。再びさらに念を集中して、より深く探っていきたいと思います」


「そうか。相手の人数が判ったのは、大きな収穫だ。いつものように何かわかったら、すぐに教えてくれ」


「はい、わかりました、龍夜様」


龍夜と呼ばれた少年は出て行った。


残された少女はなにごとかを小さく呟きながら、両手で印を結んだ。


そして再び目を閉じた。




薄暗く、そして広くて中世の宮殿を思わせる豪勢な部屋。


そこにある黒い大きなソファーに男が独り座っている。


そこに女が一人、しずしずと入ってきた。


まだ若い白人の女性である。


年齢は二十歳くらいであろうか。胸のところが大きく開き、体のラインが一目でわかる黒いドレスを着ていた。


胸のⅤ字に開いた部分から、零れ落ちそうな二つのふくよかな乳房が作りだす深い胸の谷間が見える。


挑発的とも言える肉感的な肉体の持ち主である。


顔もかなりの美人であり、そしてその肉体以上にエロスを感じさせる顔立ちをしていた。


女が座っている男に言った。


「伯爵様、少しわかりました」


女もやはり日本語である。


「言ってみろ」


「相手は若い男性です。まだ推測ですが、十五、六歳のようです。日本人です。そしてここが一番重要なのですが、そいつは並の人間ではありません」


伯爵と呼ばれた男が、軽く右手を上げた。


「言わずとも、それは判っていた。並の人間では、とてもイストヴァンは殺せない。いったいどんな奴だ」


「まずその男自身、不思議な力を持っています。とても強い力です。そしてさらに重要なことですが、その男の周りから別の強い力を感じます」


「別の力だと? そいつには仲間がいるのか」


「仲間と言ってさしつかえないでしょう。二つの力を感じます。一つは人間です。そしてもう一つは、人間ではありません」


「人間ではないだと?」


男が少し身を乗り出す。


「はい、力の一つは人間ではありません。まず先に人間の方の一人ですが、少女のようです。年は十歳になるかならないかぐらいだと思われます。まだ子供といったほうがいい年齢です。そして闘う力はあまりないようです。しかし、彼女は別の力を持っています。同じ力です。つまり……この私と」


「おまえと同じだと。〝視る〟力か」


「はい、私と同じ視る力です」


「そうか、それで判った。奴が何故いきなりイストヴァンの前に現れたのかわからなかったが、ようやく謎が解けた」


「はい、この少女がイストヴァンの存在を感じとり、それで少年が現れたのです」


「それで、その少女はいったいどのくらい〝視る〟力を持っているのだ」


「詳しくは判りません。この者達はとても強い力を持ちながら、同時にその力を隠す技を持っているようです。しかし私の見立てによりますと、この少女は私とほぼ同等の力を持っていると思われますが」


「おまえと同等の力か。それはなかなかのものだな。あなどりがたい存在だ。それで、もう一つの人間でないものとは、いったい何だ」


「そいつ、と言うよりも、これ、と言ったほうがいいでしょう。これは人間ではありませんが、イストヴァンを殺した少年と同じくらいの力を持っています。そして常にそいつといっしょに行動しているようです。その正体は、これまたはっきりとはわかりませんが、この国の言葉で言えば、妖怪、あるいはもののけと呼ばれるたぐいの存在のようです」


「妖怪、もののけ、か」


「はい、これもなかなか油断のならない相手のようです」


「わかった。他にはなにかないのか」


「残念ながら今のところ、これくらいです、伯爵様」


「そうか、わかった。それではさらに視てくれ。早急に頼むぞ」


女は返事をしなかった。


男の顔を見ながら、何かを考えているようである。


男も何も言わずに、そのまま女の顔を見つめていた。


長めの沈黙の後、女がようやく口を開いた。


「伯爵様。先ほども言いましたが、この者達は、自らの存在を隠す技を持っています。このまま水晶玉を見つめていても、これ以上の成果はあまり期待できないと思われます。そこである提案をしたいと思いますが、よろしいでしょうか?」


「どんな提案だ?」


「はい、少々危険ではありますが」


「危険だと! どんな危険があると言うのだ」


「はい、この方法を使えば、やつらのことがかなりわかると思います。しかし私達の方において、少しばかり犠牲を伴うかもしれません」


男の口元が、微かに笑った。


「犠牲か。犠牲なら、すでにイストヴァンがやられておる。多少なら仕方がないわ。仲間はいつでも増やせるしな」


「わかりました」


女は男の傍にそっと寄った。


そしてこの広い部屋に二人っきりだというのに、まるで内緒話でもするかのように男の耳に手をあてて、その耳元で何事かをつぶやいた。


聞いた男の目が一瞬けわしくなる。


「なるほど……わかった。おまえの言うとおりに、やってみることにしよう」


「はい、ありがとうございます、伯爵様」


「ではリリアーナ、もうさがってもよいぞ」


「わかりました、伯爵様」


リリアーナと呼ばれた女は男から離れると軽く一礼をし、部屋を出て行った。


男は女が出て行った先を見ていたが、やがて視線を移し、そのまま宙を、もの思いにふけるように見つめた。




黒いドレスを着た若く美しい白人の女性が、暗く陰気な廊下を歩いている。


やがて一つのドアを開けて、その中に入った。


そこは窓がなく、壁も床も天井も真っ黒な小さな部屋であった。


その部屋の真ん中に、粗末な木製の小さな丸いテーブルがひとつと、テーブルに比べるとかなり豪華なアンティークの椅子があった。


部屋の奥には、申しわけ程度の小さなクローゼットが備え付けてある。


そしてテーブルの上に太い一本のろうそくと、直径三十センチほどの水晶玉が置かれていた。


女は椅子に座ると、ふわり水晶玉に両手をかざした。


そして静かに目を閉じた。




広い日本間に少女が座っている。


少年にゆづきと呼ばれた少女である。


目を閉じて、その小さな口で何事かをつぶやいている。


不意に目の前の障子がさっと開けられた。


そこに少女に龍夜と呼ばれた少年がいた。


龍夜はゆづきの前に胡坐をかいて座ると、すかさず言った。


「ゆづき、何かわかったか」


「はい、わかりました。あやつらが動きます」


「いつ、どこで」


「今夜です。今夜あやつらが行動します。場所は港です。港のはずれの大きな倉庫です。一番南にある倉庫です。間違いなく動きます」


「港のはずれにある一番南の倉庫だと? そんなところに襲うような女がいるのか」


「それはわかりませぬ。女がいるのかどうかまでは、残念ながら視ることができませんでした。しかしそこに行けば、確実にあやつらに会うことができるでしょう。ただ一つ心配な点がございます」


「心配な点。何だそれは」


「前にも言いましたが、あやつらは自分達の力を隠す術を持っております。ところが今回はあえて隠さずに、この私に見られるがままになっているようでございます。それはわざと見てくれといわんばかりの態度に見えます。まるで龍夜様を自ら呼んでいるかのように、私には思われますが」


龍夜の眼がけわしくなる。


「罠……いうわけか」


「はい、おそらくは罠でございましょう。しかしそのおかげで、あやつらの人数がわかりました。あやつらはあと六人おります。そして今宵はその倉庫に、そのうちの二人がやってくるように思われます。一人づつならおそらく、龍夜様が勝つことができるでしょう。しかしたとえ一人づつだとしても、そうあっさりと勝たしてくれる相手ではございません。そのような者が二人も待ち受けているとなれば、かなりの危険を伴います。そのうえにもう一つ、気になる点がございます」


「気になる点だと」


「はい、気になる点でございます。それは奴らの仲間の中に一人、同じ力を持っている者がおります。つまり、この私と」


「ゆづきと同じ力だと! 〝視る〟力か」


「はい、〝視る〟力でございます。それゆえに私たちのことは、ある程度はあやつらに知られていると考えたほうが、よろしいかと思われます。そこにもってきてこのようにわざと、自分達の力を見せつけてきました。当然何か思惑があってのことだと、考えられますが」


「まあ、どっちにしても罠には違いないな。それで言いにくいことを聞くが、俺は奴らが待っているところに行ったほうがいいのか、それとも行かないほうがいいのか、いったいどっちなんだ。はっきり答えてくれないか」


「……それは、わかりませぬ」


ゆづきが恥じるかのように、うつむく。


龍夜はそんなゆづきを慰めるように、やんわりと声をかけた。


「わからないのか。……お前ほどの者がわからないと言うのは、珍しいな。それほどまでに今度の敵は、やっかいだと言うことだな。心配するなゆづき。お前のせいではない。たまたま相手が悪かっただけだ。しかし今のお前の一言で決まった。俺は行く」


ゆづきはおもわず顔を上げた。


そしてその大きな黒い瞳で、龍夜を見つめながら言った。


「お行きに、なるのですか?」


「ああ、もちろん行くさ。もしゆづきがはっきりと〝行くな〟と言えば、俺は行かなかっただろう。ゆづきの言うことだからな。もちろん〝行け〟と言われても、行くだろう。そして今回は〝わからない〟ときた。俺が行かないのは、ゆづきが〝行くな〟と言った時だけだ。だから俺は行くぜ」


「……わかりました。龍夜様、充分にお気をつけくださいませ」


「わかった。お前の言うとおりに、充分に気をつけよう。なあに大丈夫だよ。そんなに心配するなって」


龍夜はそう言うと立ち上がり、部屋を出て行った。ゆづきはまだ開いている障子を見つめて、一人つぶやいた。


「龍夜様。なにとぞ、ご無事で」




二階堂は何かを感じていた。


それもとてつもなく強く。


しかし何を感じているのかは、二階堂自身がまるでわかっていなかった。


――これはいったい、なんなんだ? こんなことは今まで一度もなかったが……。


二階堂が第六感で何かを感じる時は、それを強く感じれば感じるほど、その内容や感じたものが詳細にわかることができた。


それとは逆に、感じる強さが弱い時は、その内容もわかりにくかった。


それは、彼自身が子供の頃、自分の力を意識しはじめたその日から、始終一貫してきたことである。


ところが今回は違っていた。


何かを強く感じていた。


それも半端ではないほどの強さで。


それなのにその内容が、その感じたものが、全くわからなかったのだ。


わかったのは〝場所〟と〝時間〟、それだけである。


このふたつだけは、何故かはっきりとわかった。


だというのにその時間にその場所で、はたしていったい何が起こるのかは、皆目見当がつかないでいた。


これは彼の人生において初めての経験である。


――これ以上やっても、何もわかりそうにないな。


二階堂は目を閉じて、もう一度だけ意識を集中することにした。


それは二社選択である。


その時間その場所に〝行く〟のか〝行かない〟のか。


それだけを探るために、そのまま意識を集中し続けた。


数瞬後、二階堂は目を開けた。


おもむろに椅子から立ち上がり、自分のアパートの部屋を出ると階段を降りて、すたすたと駐車場へと向かった。


そして一台の車に乗り込んだ。


車は静かに動きはじめた。




一台のバイクが走っている。


大型のヨーロピアンタイプのバイクである。


バイクには真っ黒いワイシャツに黒の皮のズボン、黒い靴に黒い手袋、そして真っ黒のフルフェイスのヘルメットをかぶった、全身黒づくめの男が乗っていた。


バイクは幹線道路をそれて、海沿いの道を走っていた。


そしてしばらく走った後に急にハンドルを右に切って道から外れ、少し進んだ後でその場に止まった。


バイクから男が降りてきてヘルメットをぬいだ。


男は龍夜であった。今彼の見つめている先には、古くて大きな倉庫が二つ並んで建っている。


龍夜は迷わず奥の倉庫に向かって歩き始めた。




龍夜は倉庫の入り口に着いた。


入り口を見ると、鍵はすでに開いていた。


と言うよりもその鍵は、何か強い力で叩き壊されている。


龍夜は何のためらいもなく入り口に手をかけると、ドアを一気にひき開けた。


そして中に入った。


外は乾燥した真冬だというのに、中は少しばかり湿気ていた。


そのうえやけにほこりっぽい。


古いコンクリートの粉をあたり一面にぶちまけたような匂いがした。


ずいぶんと長い間、閉鎖されたままでいたようだ。


湿気た床の上に湿気たほこり、その上に今はまだ乾燥している塵のようなほこりが上積みされている。


そして外観以上に広く感じられる内部には、明かりがついていた。


その明かりは倉庫の中央付近だけはまるでスポットライトのようにはっきりと照らしていたが、それ以外のまわりの空間は全て闇に沈んでいた。


少なくとも明かりの照らされている範囲には、何の荷物も置かれておらず、誰一人見当たらない。


龍夜がライトのところまで歩き、立ち止まった。


細かいほこりが下から小さく砂塵のように舞い上がる。


龍夜はそこで、顔を少し上にあげて強く息を吸い込むと、倉庫じゅうに響きわたるほどの大きな声をあげた。


「この暮れの忙しい時に、わざわざ出向いて来てやったぞ! おい、そこにいるんだろう。俺はおまえらみたいに、お暇じゃないんだ。さっさと出てきやがれ!」


すると奥の暗がりの中から男が一人出てきた。


白人の男性である。見た目の年齢は四十歳くらいであろうか。


深く頬のこけた顔は、髑髏を連想させる大きな丸い目以外にこれといって特徴のない顔立ちをしていたが、その体つきは異様であった。


身長はどう見ても二メートルをゆうに超えており、そして手足を中心に胴体も含めて体の全てが、異常なほどに細かった。


おまけにその細い手足が、冗談かと思えるほどに長い。


別に身をかがめることもなく真っ直ぐに立っていたが、左手首から先が膝の関節のすぐ横にまで伸びている。


そしてその右手には、鎌が握られていた。


それはまさしく、西洋の伝説に出てくる死神が持つ鎌そのものである。


おまけにその鎌は柄の部分もかなり長いが、それ以上に刃の部分がとてつもなく長かった。


鎌を持つ長身の男の背丈に、負けないくらいの長さがある。


まさに骸骨のような男が死神の大鎌を持っているのである。


男は能面のような顔で黙って龍夜を見ていたが、やがてにやけた笑いを浮かべた。


「よく来たな。このあほうが。罠とも知らずにのこのことやって来て。ほんとにおめでたいことだ。この国のことわざであったな。確か――飛んで火に入る夏の虫――だったかな。おまえは今まさに、そのとおりになってるんだぜ」


それを聞いて龍夜が、男に負けじとにやけた笑いを浮かべ返した。


「ふん、何を言ってやがる、偉そうに。このバーカ。これが罠だってことは、俺ははなから知っていたぜ」


「何だと?」


「罠だとわかっていて、それでもわざわざ出向いて来てやったんだぜ。ちっとはありがたく思いやがれ、この野郎。それでよお、もちろんそれなりに楽しませていただけるんだろうな。ええっ、どうなんだい?」


男は少しばかり動揺の色を見せたが、それはほんの短い間だった。


龍夜を不気味で怖いものが宿る眼で見ると、大鎌を両手で持って頭上に構えて、龍夜にむかって威圧するようにじりじりと近づいてきた。


龍夜がズボンのポケットから、糸で派手に装飾された棒を取り出した。


そして両手で強く握りしめると上段に構えた。


「いでよ、魍魎丸!」


その声に答えるかのように、柄の先が棒状に光った。


激しい炎を連想させるその光は、紫色に強く光り輝いていた。


やがてその光が消えると、そこには長い日本刀が姿を現わした。


それと同時に老人のしわがれた声が聞こえてきた。


「――いでよ、魍魎丸――じゃないじゃろうが。この大馬鹿者が。そんな時代がかった大げさなせりふをはかんでも、すんなり出てくるわい」


「でもかっこいいだろう。そうは思わないかい、えっ、じじい。前々から一度言ってみたいと思ってたんだぜ」


「まったく、このお子ちゃまが」


白人の男は歩みを止めて立ち止まり、大鎌を上段に構えたままでそれを見ていたが、やがて口を開いた。


「ほほう、それだな。その日本刀が、イストヴァンを殺した武器だな。とは言え、ただの金属の塊ではなさそうだ。生きている。妖怪か何かは判らないが、とにかく生きていることだけは確かなようだ。おまけに何か不思議な力をも持っているようだな。なるほど、まさにリリアーナの言ったとおりだ」


「ほほう、その女はリリアーナと言うのか。確か〝視る〟力を持っているとかいう話だが」


「そうだ、小僧。よく知っているな。そう言えば貴様らのところにも、視る力を持つ者がいると、リリアーナが言っていたな。そいつが言ったのだな。でも貴様らは俺たちのことは、それほどわかってはいないはずだ。ところがこっちはリリアーナのおかげで、貴様らのことはなにからなにまでわかっているのだ。貴様らは強力な力を持ちながら、同時に自らの力を隠す技を持っているようだが、リリアーナにかかれば、そんなものは全てお見通しだ。だから全力でかからないとこの俺は倒せないぞ。わかったか、小僧!」


龍夜が首を右、左と強く倒し、こきこき鳴らせながら言った。


「黙って聞いてりゃ、さっきから自分の手の内を、べらべらとよくしゃべる野郎だな。よほど自信があるのか、それとも単なるおバカさんなのか。それにしてもリリアーナとか言う女が、そんなことを言ったのか。うちのゆづきと同じようなことを言うな。奴らは強大な力を持ちながら、それを隠す術を持っていると、ゆづきが言っていたが」


「ほう、その少女の名は、ゆづきという名前なのか」


龍夜の顔からにやけた笑いが消えた。


「おいおいおい、ゆづきが少女という事までわかっているのか。そのリリアーナとか言う女、はったりじゃなくて、なかなかの力を持っているようだな」


「だから言っただろう。貴様らのことはリリアーナが全て視たと。何からなにまでだ。だからさっきも言ったように全力でかからんと、お前死ぬぞ」


「……」


「それにしても、実に面白いものだな。お互いに〝視る〟力を持つ女が一人いて、お互いに自分の力を隠す技を持っている。こんなやつらは初めてお目にかかるが、案外俺たちは、似たもの同士かもしれんな」


「おいおい冗談じゃないぜ。あんたみたいなさえない中年男に似たもの同士と言われても、嬉しくもなんともないぜ。若くてきれいなおねちゃんならともかくよお。そんでさっきも言っただろう。もう忘れたのか。俺は忙しいんだ。これ以上のおしゃべりは無駄なだけだ。さっさとおっぱじめようぜ」


龍夜はそう言うと、魍魎丸を上段に構えて走り出した。


そして男に向かって何のフェイントもないままに、魍魎丸を振り下ろした。


男は大鎌を両手で持ち、その刃を受けた。


カン


乾いた大きな音が倉庫じゅうに木霊した後、二人は全く動かなくなった。


いや、動かないのではない。


動けないでいるのだ。


男の鎌を押す力と、龍夜が魍魎丸を押す力が全く同じであるがために、お互いに全力で踏ん張っているにもかかわらず、二人とも動きが止まっているのである。


その時、高い天井のはりのところで、何かが動いた。


龍夜からは死角になっていて見えない位置である。


男が一人いた。背が低く、小太りな男だ。


その顔は白人に近い顔立ちをしていたが、太い眉もオールバックの長い髪も、まるで東洋人のように黒い。


そして男はその手に木の棒を持っていた。


そしてその棒の先には、鋭い刃物がつけられていた。


それは槍であった。


男は槍を両手で下に向けて構えると、高いはりの上からから飛んだ。


男の身体は糸を引くように、龍夜へ向かって一直線に落ちていった。


そしてその槍の先が龍夜の体を貫こうとしたまさにその瞬間、龍夜が真横に飛びのいた。


鎌を持つ男は、押していた龍夜が目の前から急にいなくなったためにバランスを崩し、体が少し前のめりになった。


その直後、槍を持つ男がそこに落ちてきた。


その槍は鎌を持つ男の左耳を真上から貫いて、そのまま地面に刺さった。


男は慌てて槍を、地面と鎌男の耳から引き抜いた。


「いてっ! なにをする、このバカ。気をつけろ!」


鎌男が怒鳴る。


「すまない、悪かった」


槍男が頭を下げた。


「すまない、じゃない。いったい何処に目をつけているんだ」


「だから悪かったと言ってるだろう。あの小僧が急にいなくなったから、こうなったんだ。あの小僧が悪いんだ」


「……そうだな、おまえの言うとおりだ。あの小僧が全部悪い。とにかく今は仲間同士で言い争いをしている場合ではないな」


二人は大鎌と槍を構えなおし、龍夜の方に向きなおった。


鎌を持った男が耳からだらだらと赤い血をたれ流しながら言った。


「おい、よく避けられたな、小僧。まるでドゥシャンが隠れていたことが、最初からわかっていたみたいに」


「ヘイ、ユー、何を言ってやがる。いくら外国人だからと言ってもさあ、あんた日本語は正しく使うもんだぜ。最初からわかっていたみたいに、じゃなくて、最初からわかっていたさ。ゆづきが相手は二人だと言っていたからな」


「なんだと? 俺はわざと自分の気配を強く発し、このドゥシャンは逆にその気配を完全に消しさっていたというのに。それでも二人だとわかっていたのか。……なるほどそのゆづきとかいう少女、確かにリリアーナが言ったとおり、なかなかの力を持っているようだな。しかし小僧、安心するのはまだ早いぞ。これからが本番だ。俺とドゥシャン、俺たち二人を相手にして果たしておまえは、生きて帰ることができるかな」


ドゥシャンと呼ばれた槍を持つ男が言った。


「俺は左に行く。カルロスは右へ行け」


カルロスと呼ばれた鎌を持つ男が答える。


「わかった」


二人は走り、左右に分かれた。


ドゥシャンが龍夜の左に、そしてカルロスが右側に立った。


龍夜を中心にして三人の男が一直線上に並んだ。


龍夜は首を横に向けると、まず左にいるドゥシャンを見て、次に右にいるカルロスを見た。


――さあてどっちのほうが、やりやすいかな?


二人がじりじりと確実に龍夜に迫ってきている。


龍夜はもう一度素早く二人を見比べた。


そしてカルロスの方に目を留めた。


――この背の高い男に決めたぜ。


龍夜はドウシャンの方に体を向けると、魍魎丸を右手で高くさし上げた。


そして魍魎丸をドゥシャンめがけて投げた。


ドゥシャンがとっさに反応し、魍魎丸を槍の先で叩き落とした。


龍夜の後ろでカルロスが高笑いをはじめた。


「このバカめ。あせったな小僧。たった一つのえものを、投げてしまうなんて」


すると龍夜はくるりとカルロスの方へ振り返った。

そしてカルロスめがけて走った。


そのスピードは、とても人間とは思えないほどの速さであった。


瞬時に龍夜とカルロスの距離が縮まった。


「ぬうっ!」


カルロスはすぐ目の前にまで迫ってきた龍夜に向かって、大鎌をふりおろした。


しかし猛スピードで真っ直ぐ自分にむかって来る者に対して、その距離感はつかみ難いものだ。


カルロスの鎌はむなしく空を切った。


その時すでに、龍夜はカルロスの懐に飛び込んでいた。


龍夜は全く止まることなく、そのまま全体重を乗せた右拳をカルロスのみぞおちあたりに叩きこんだ。


その動きは空手の正拳突きに似ていた。


「げほっ」


苦悶の表情を浮かべて、カルロスの体が前のめりに折れた。


そこをすかさず龍夜が、すばやく体を回転させながらの左アッパーを突き上げた。


その拳はカルロスのとがったあごの先端を、的確にとらえた。


「ぐふっ」


カルロスが今度は後ろにのけぞった。


「カルロス!」


ドゥシャンはそう叫ぶと、慌てて二人に向かって走った。


その時ドゥシャンの腹を、激しい痛みが襲った。


「ぐわっ!」


見ればドゥシャンの腹から、長い金属の刃物が突き出していた。


それは、さっきドゥシャンが叩き落したはずの日本刀である。


その日本刀がドゥシャンの背中から腹に突き抜けていたのだ。


低くてしわがれた力強い声が聞こえてくる。


「ほんにおぬしたちも、バカじゃのう。この武器は生きている、と自分で言っておいて。そうよ、わしはこのとおり生きておるわい。生きていればこそ、こうやってしゃべることもできるし、飛ぶこともできるし、そしておぬしの腹を突き破ることもできる。それくらいは思いつかんかったかのう。まことにおろかな奴じゃ。さてと、そろそろその血をいただくとするか。この間と違ってもう一人おるもんでな。さっさと吸わせてもらうぞい」


魍魎丸と呼ばれた日本刀は、ドゥシャンの血を吸いはじめた。


それは以前にイストヴァンの血を吸った時とは、比べものにならないほどの速さである。


たちまちのうちにドゥシャンの血は全て吸いとられた。


カルロスは全てを見ていた。


龍夜の左後ろ回し蹴りをその顎に、右ストレートをその顔面に受けながらも、しっかりとドゥシャンの断末魔を見ていた。



「ドゥシャン!」


ダメージはあったが、かまわずカルロスは半ば闇雲に、大鎌を龍夜に向かって振り下ろした。


しかし大鎌は龍夜には当たらなかった。


龍夜が大きく後方に飛びのいたからだ。


龍夜はさらに二度ほど連続して後ろにふわりと飛ぶと、ドゥシャンの横に立った。


そしてカルロスから視線をはずことなく、ドゥシャンの体から日本刀を右手一本で引き抜いた。


ドゥシャンの小太りの体が力なく床にどたりと倒れる。


そして龍夜が見ている目の前で、ドゥシャンはあっと言う間に真っ白い灰の塊となった。



龍夜が言った。


「さあて、やっとお邪魔虫がいなくなったな、死神の大将よ。さあ二人っきりで、思う存分やりあおうぜ」


「きさま、よくもドゥシャンを!」


カルロスは走った。


真っ直ぐに龍夜に向かって。


そして怒りを込めて大鎌を振り下ろした。


龍夜は魍魎丸でそれを受けた。


カルロスはかまわずに鎌を振り回し続けた。


上から下から、右から左から、死神の大鎌がたて続けに龍夜をおそう。


まさにかまいたちを思わせるものすごい速さで、そして巨大なハンマーを振り回しているかのようなとてつもない力で、龍夜にむかって息もつかせず攻撃をし続けた。


しかし龍夜はその攻撃の全てを受けた。


そしてカルロスが大鎌に力を込めすぎて体のバランスを崩し、一瞬攻撃の手を緩めた時、龍夜が真後ろに飛んだ。


それは通常の人間ではありえない距離である。


つっ立った状態からそのまま後ろにぽんとジャンプしただけだというのに、軽く十メートルは飛んでいた。


驚くカルロスをしりめに龍夜が言った。


「あんた、ものすげえ速さだな。それ以上にほんと、とんでもないバカ力だ。いやーっ、腕がしびれてきたぜ。そこで提案があるんだけど、いいかな。ほんの少しだけでいいから、ちょいと休憩させてくれないかい?」


それを聞いてカルロスは、怒りとも笑いともつかない表情をし、そしてどちらともとれる口調で言った。


「休憩だと。ふざけるな小僧! 死んでたっぷり休憩しやがれ」


カルロスは走った。


そして再び龍夜にむかって大鎌を振り下ろした。


龍夜は両手を上に上げ、魍魎丸を真横にしてそれを受けた。


全身の力を込めて大鎌を上から押すカルロス。


それを下から受ける龍夜。二人の動きが再び止まった。


両者の力が完全に同じだ。


龍夜が言った。


「最初の状態にもどったな。しかし今度はもう、加勢してくれる仲間はいないぜ」


「やかましい! そんな奴いなくとも、きさまをばらばらにしてくれる」


「あんたにそんなこと、果たしてできるかな。あんたはとてつもない速さとパワーを持っている。それは素直に認めよう。しかし残念ながら、一つだけ大きな欠点があるぜ」


「なんだと、小僧。ほざくな。そんなはったりなど聞く耳もたぬわ」


「はったりなんかじゃないぜ。それを今から証明してみせるぜ」


龍夜は力を込めて魍魎丸を持つ両手のうち、刃物側にある右手の力を少しだけ抜いた。


すると魍魎丸の刃先が、するりと下がった。


全体重をのせて魍魎丸を押していた大鎌の刃は、魍魎丸にそって斜め下に流れて、そのまま床に突き刺さった。


と同時にカルロスの体が前につんのめる。


一瞬の間をおいて龍夜が、すでに大鎌の力を受けなくなった魍魎丸を、そのまま真横にはらった。


魍魎丸の刃がカルロスの首にあたり、そしてその後ろへと抜けた。


カルロスの首が床の上にぼとりと落ち、その切り口から血が吹き出してきた。


龍夜がその顔に、冷たく、同時に美しいとも言える笑みを浮かべた。


「おまえの欠点はその大きな鎌さ。そんなバカでかくて小回りのきかない武器は、実践では何の役にもたたないんだよ。だから言っただろう。はったりなんかじゃないって」


そう言いながら龍夜は、魍魎丸の刃をカルロスの首の切り口に突き刺した。


「やめろーーーっ!」


転がっているカルロスの首が、まさに絶叫した。


しかし魍魎丸はすでにカルロスの血を吸いはじめていた。


「おっ、お願いだ。頼む。助けて…く…れ……」


龍夜がカルロスの首を見る。


その首は口を大きく開けてはいたが、そこからはもう何も聞こえなくなっていた。


やがて魍魎丸が血を吸うのをやめた。


カルロスの血を全て吸い尽くしたのだ。


龍夜が魍魎丸を引き抜いた。


カルロスの体が床に倒れる。


そしてその体と首が、別々の場所で同時に白い灰の塊となった。


それを待っていたかのように、しわがれた声が言った。


「おう、またやったな」


龍夜が答える。


「ああ、やったな。第二ラウンドのハンディキャップマッチ、とりあえず完全KОで終了と言ったところかな。……ところで」


龍夜が倉庫の入り口近くの闇溜まりに目を移した。


「さっきからそこに隠れて黙って見ている奴。今すぐ出てきて、姿を見せろ!」


龍夜は目線の先を魍魎丸で指した。


するとその暗がりから、音もなく鋭い眼つきの男が出てきた。


その男は二階堂進だった。


その手にはしっかりと拳銃が握られている。


二階堂が言った。


「おいおいおいおい、いったいぜんたいなんなんだ、あいつらは。……一瞬で灰になるわ、落ちた首がしゃべるわ。……それ以前にあいつら、とても人間とは思えない動きをしていたぜ。もちろんおまえもな。お前はいったい何者なんだ」


龍夜が二階堂に、刺すような視線をむけた。


「……見たな」


それを受けて、ただでさえ鋭い二階堂の眼が、さらに怖々いものになった。


「ああ、見たさ。途中からだが。お前が男に日本刀を投げたところからだが。お前たち三人がやりあうのを、ずっと見てたさ。……本来なら止めにはいるところだが、あまりのことに見入ってしまって、止めるのも忘れて最後まで見てしまったぜ」


龍夜は二階堂の顔をじっと見つめた後に言った。


「おまえ、刑事だな」


その言葉に二階堂は、軽い驚きの表情をその顔にうかべた。


しかしすぐさま、深くきつい眼で龍夜を見返した。


「おう、刑事だ。よくわかったな」


「そんなやばい眼つきの奴は、この日本では刑事かやくざしかいないぜ。そんであんたはさっき、〝本来なら止めるところだが〟とか言ったな。やくざは他人の争いを面白がって見物することはあっても、わざわざ止めたりなんかはしないぜ。すると残りは刑事しかないだろう。……それはさておいて、俺もあんたに少々びっくりしているところなんだ。あんたはあんなものを見たもんで、

充分に驚いている。充分に驚いてはいるが、全く怖がってはいない。普通ではとてもありえないよな。よっぽど肝が据わっているのか、あるいはおつむのどっか大事なところが、一本抜けているのか。それとも――」


「それとも……なんだ」


「いや、なんでもない。まさかそんなことが、あるはずがない」


「そんなこととは、なんだ? いやその前に、あの灰になった白人はなんなんだ。それ以前にお前はいったい何者なんだ。答えてもらおうか」


「そんなことに答えるつもりはないな。俺はもう、お家に帰らせてもらうぜ。良い子はとっくに寝る時間だぜ」


二階堂が拳銃を構え直した。


「待て。お前には聞きたいことが、山ほどある」


「ほほう、その拳銃でどうするつもりだ。この俺を撃つのか。いったい何の罪で? 白人男二人を灰にした、殺人罪でか」


「お前の返答次第では、そうなるな」


龍夜が――おもしろくて仕方がない――という顔つきになった。そして言った。


「へへえーーっ、殺人罪ね。それじゃあ死体はいったいぜんたい、何処にあるんだ? 二人とも全部ただの灰になって、血の一滴すら残ってないぜ。それにあんた報告書には、いったいどう書くつもりなんだい。――白人の男二人と日本人の少年一人の三人が、武器を持って争っていました。三人とも、てんで人間ばなれした動きをしていました。そのうちにその少年が持っていた日本刀が勝手にぴゅぴゅんと飛んできて、槍を持った男の背中に突き刺さりました。すると日本刀が、その男の血を全部吸ってしまいました。血を吸われた男の体は全て真っ白い灰になりました。少年はその次に、鎌を持った男の首をはねました。その首はぽとんと床に落ちても、まだ未練たらしくしゃべっていました。少年がその男の体に日本刀を刺すと、またもやその日本刀が男の血をおいしくいただいて、その男の体も灰になりました。ついでに落ちた首も、お手手つないで仲良くいっしょに灰になりました。以上がこの私が、この目ではっきりと見た全てです。神に誓って真実です。間違いありません。私、絶対、嘘つかないアル。お願いです。どうか信じてください――とでも、書くのかい?」


「……」


二階堂は力なく拳銃を下におろした。


「ようやくわかったようだな、このど石頭の公務員が。この件に関して刑事さんの出る幕なんか、一幕もないぜ」


龍夜はそう言うと、すでに刃物の部分が消えている魍魎丸の柄を、後ろのポケットにねじ込んだ。


そして残っていた大鎌と槍を鼻歌まじりに拾うと、倉庫を出ようとした。


その時二階堂が声をかけてきた。


「おい、そいつを、どうするつもりだ?」


「そんなこと、聞くまでもないだろう。こんなものがこんなところに残っていたら、ちょっとした騒ぎになる。まあ結局は何がなんだかわからないままにうやむやにはなるだろうが、よけいな騒ぎは起こさせないに越した事はないからな。こっちで勝手に処分させてもらうぜ。文句無いだろう。刑事さんよ」


「……」


「返事は!」


「……ない」


「よしよしいい子だ。それじゃあ失礼させてもらうぜ」


「ちょっと待て」


「おいおいまだ何かあるのか。全く公務員と中年男は、しつこいぜ。中年の公務員とくれば、なおさらだな」


「とにかく、一応お前の名前だけでも聞いておこう。名前は何と言う」


「名前か。名前くらいなら、いいかな。俺の名は、九龍龍夜。数字の九に、龍神様の龍。複雑で字数の多いほうの龍だぜ。で、もひとつ龍に、真夜中の夜。くりゅうりゅうやだ。アー・ユー・アンダスタンド?」


「九龍龍夜か。……変わった名前だな」


「おう、もちろん本名だ。芸名じゃないぜ。俺は芸能人なんかじゃないからな。ごくごく平凡でどこにでもいる、人畜無害な小市民さ。おっと刑事さん。住民票で調べても無駄というもんだぜ。住民登録してないからな。ついでに税金も今まで一度も払ったことがないんだけど。そんな訳で俺は、刑事さんのお給料には一切関係の無い人間なのさ。それじゃあもういいだろう。行かせてもらうぜ」


九龍龍夜は倉庫を出ようとした。


しかし数歩歩いたところでふと立ち止まり、振り返った。


「ところで刑事さんよ。あんたいったい、ここになにしに来たんだ」


「ただのカンだよ」


「カン?」


「そう、カンだ」


龍夜は、興味ありありと言った真剣なまなざしで、二階堂を見た。


「カン、とは?」


二階堂は龍夜のやけに力のあるその大きな〝眼〟を、吸い込まれるように見た。


そして二階堂は龍夜の眼を見ているうちに、何故だかわからないが、自分のカンに関する――全て――を話さなくてはならないような気がしてきた。


それはまるで催眠術にでもかかっているかのようだった。


「……ええと……なんと言っていいか……とにかく俺は、子供の頃から人並みはずれてカンが鋭かったんだ」


「ほう、カンが鋭かったってか。……例えば?」


「例えば? ……そうだな、最初に気がついたのは……そう小学一年のときだ。俺のお気に入りだった女の子が、クマのブローチがなくなったと泣いていたんだ。その時、突然視えたんだ」


「視えた……とは?」


「その子と仲の悪い女の子が、ブローチを体育館の裏にある植え込みの中に隠しているところが、まるで今見ているかのように視えたんだ」


「視えたのか……それで」


「それで? ……それからも、何度もそういうことがあった」


「どんなことが?……いや、それよりあんた、いつも〝視える〟のかい?」


「視えることが多いが……他には感じたりとか……文字や数字が頭に浮かぶこともある。まあ、いろいろだ」


「……」


「おかげで刑事になった今では、ずいぶんと重宝させてもらっている。と言うか刑事になってから、ますますカンがさえるようになったような気がする」


「なるほどな」


「それで今夜もそのカンが、この時間にこの場所に行けと、俺に告げたんだ。だからやって来た。まさかあんなにもわけのわからないものを見せられることになるとは、夢にも思っていなかったがな」


「そうか、よくわかったぜ」


龍夜は射抜くような眼で二階堂を見ていたが、やがて言った。


「異能力者だな」


「異能力者?」


「まあ、超能力者と言ったほうが、わかりやすいかな、一般的には。だいたいあんたのその能力、〝カン〟の一言で片付けられるようなレベルじゃ、全然ないぜ。……それにしても、まるでうちの、ゆづ……おっと、この話は、いいか」


「おい、今何を言いかけたんだ。〝ゆづ〟とか。……それはなんだ?」


龍夜が右手を――なんでもないよ――とでも言いたげに振った。


「そんなことどうでもいいじゃないか。こっちの話だよ。あんたには関係ないことだぜ。で、あんたの話に戻るとだな、たまーーにいるんだよな、あんたみたいな人が。で、もしあんたが本当に異能力者なら、俺たち、又会う機会があるかもしれないぜ」


「……出来ればお前なんかとは、もう二度と会いたくないものだな」


「おいおい言うなよな、そんなこと。もし実際にこの俺と付き合ってみたなら、案外気の合ういい奴かもしれないぜ。て、自分で自分のこと、いい奴って言ってるけど。……おっと、話が無駄に長くなってしまったようだな。もうそろそろ帰らないと。お家で心配しながら待っている、愛しい愛しい人がいるもんでね。早く帰ってやらないと、彼女がかわいそうなんでね。それじゃあせいぜい達者でな、刑事さん」


龍夜はそのまま武器を抱えて倉庫を出て行った。


二階堂はしばらくその場に残っていた。


その様子は、何かを深刻に考えているようである。


しかしおもむろに歩き出すと倉庫を出て、前に停めてある車に乗り込んだ。


そして車は走り出した。




闇の中に薄っすらと浮かび上がる、広く豪華な洋館の部屋。


その奥の黒革張りのソファーに、男が独り座っている。


その前に三人の人影があった。


二人は男、一人は女である。


ソファーの男以外は三人とも立っている。


四人はソファーの前に置かれた一つのテーブルを囲んでいた。


小さくて丸くて、足が一本しかない質素なテーブルだ。


その上に大きな水晶玉が置かれていた。


妖艶な若い女が目を閉じて、水晶玉に両手をかざしている。


周りの三人の男がその水晶玉を覗き込んでいた。


水晶玉には映像が写っていた。


それはまるで映画かテレビでも見ているような、はっきりとした映像だった。


今その水晶玉には、港の倉庫の前を走り去る一台の車が写っていた。


二階堂の乗った車である。


女が両手をかざすのを止めて、ゆっくりと腕をおろす。


すると水晶玉に写っていた映像が、かき消すように消えた。


女が、ふうっ、と大きな息を一つ吐く。


ソファーの男が目を閉じ、ソファーに深くその身をあずけた。


女と二人の男は何も言わずに、ソファーの男をただ見ていた。


やがてソファーの男がもったいぶったようにやんわりとその目を開けた。


「改めて聞くまでもないが、一応聞いておこう。みんな、今のを見たか」


右の男が言った。


「はい、伯爵様。確かに見ました」


左の男が後に続く。


「私も確かに、この目で見ました」


しばしの沈黙の後、再びソファーの男が言った。


「カルロスとドゥシャンの二人で戦えば、奴らの力がわかると提案したのは、リリアーナだ。我が自らの判断で、その提案を採用した。その結果として、残念なことにカルロスとドゥシャンの二人の仲間を失うことにはなったが。……そこで、この件に関して我に何か異議があると言う者は、遠慮なく申し出てみよ」


右の男が言った。


「いえ、異議など一切ございません」


左の男が再び続いた。


「伯爵様に異議の申し立てなど、めっそうもございません」


それを聞いてソファーの男はわずかに微笑むと言った。


「できればあ奴を、カルロスとドゥシャンの二人で倒して欲しかったが、本当に残念なことだ。ただ二人の尊い犠牲によって、重要な情報を得ることができた。奴らの力が全てわかった。もう恐れることは何も無い。我々の勝利は目の前だ」


今度は左の男が先に言った。


「はい、伯爵様」


そして右の男が続く。


「おっしゃるとおりでございます。伯爵様」


「それでは二人とも、それぞれ部屋に戻って奴らへの対策を考えるように。我は我で考えてみる。二人とも、もう下がってもよいぞ」


二人の男がほぼ同時に答えた。


「わかりました、伯爵様」


「仰せのとおりに、伯爵様」


二人の男は深々と一礼をすると、部屋を出て行った。


部屋には一人の男と一人の女が残された。


ややあって、男が女の顔をのぞきこむように見た。


「どう思う、リリアーナ」


リリアーナと呼ばれた女が答える。


「あいつらの力を見ました。あれがあいつらの力の全てであれば、ヴォルフガングとクリフトフの二人で、十分倒すことができるでしょう」


「おまえもそう思うか。我もそう思うぞ」


「それに仮に、何かの間違いであの二人がやられたとしても、ここには伯爵様がおられます。伯爵様にかかればあんなやつらなど、赤子の手をひねるがごとく、あっさりと殺すことができるでしょう」


「おまえもそう思うか。我もそう思うぞ」


「なにしろ伯爵様は〝ドラゴンの子〟なのですから」


「そうだな」


伯爵様と呼ばれた男は、リリアーナの顔に自らの顔を近づけた。


しばらく二人で見つめ合った後、リリアーナがその目をゆっくりと閉じる。


伯爵は自分の唇を、リリアーナの柔らかくて厚い唇にあてた。


二人はお互いにお互いの唇を激しく求め合った。




二階堂は自分のアパートに帰った。


もう午前二時を過ぎている。


十分に疲れていた。


そのまま風呂にも入らずに、寝巻きに着替えてベッドに入った。


明日は早くに署のほうに顔を出さなくてはならない。


もしも遅れようものならば、あの若くうすらバカの笹本刑事に、何を言われるかわかったものではない。


二階堂は、何故だか自分でもよくはわからないが、あの笹本に文句を言われるとひどく気分を害する自分がいることを知っていた。


それは笹本が、二階堂がとっくの昔に、おそらくまだ幼少といって言いころに無くした何かを、大人になった今でも後生大事に抱えて生きているからかもしれない。


しかしはっきりとしたことは二階堂にもわからなかったし、わかりたいとも思わなかった。


そういった訳で二階堂は、無理やりにでも早く寝て早く起きようと考えていた。


ところがついさっき、あんなとんでもないものを見たばかりだ。


体は十分に疲れていたが、その精神は極度の興奮の中にある。


とてもすんなりと眠りにつける状態にはほど遠い。


二階堂はベッドの中で何度となく寝返りをうち、しばらく無駄な努力を重ねていたが、やがてその努力を放棄した。


――こうなったら、酒でも飲むか。


彼はベッドから起きて、いかにも重たそうに台所へむかった。


冷蔵庫の中にいつも冷やしている冷酒がある。


自分用ではなくめったに来ることのない来客用だが、とりあえずそれで一杯やろうと思っていた。


ところが台所に通ずる短い廊下を歩きはじめた時、突然に声がした。


「おい、刑事さんよ」


それはあの九龍龍夜の声だった。


二階堂は慌ててまだ点けていなかった廊下の明かりのスイッチを押した。


明かりがつくとすぐ目の前に、九龍龍夜が立っていた。


「なんだお前! いったいどうやってここに入った」


やや興奮ぎみの二階堂をなだめるように、龍夜が言った。


「まあまあまあ、そんなに怒りなさんなって。どうやって入ったかと聞かれれば、玄関のドアを開けて入りました、としか答えようがないけど」


「そのドアには、確か鍵がかかっていたはずだが」


「カギぃ? ああ、あのカギね。あんなちゃちなカギなんか、この俺は二秒で開けられるけど。それはともかく刑事さん、いますぐ来てくれ」


「来てくれって、いったい何処に?」


「俺たちの住みかさ。で、なんでこんなおっさんを呼ばなきゃならないのか、俺にもさっぱり判らないんだがな。でもゆづきが刑事さんを呼んでくれと言うものだから。それで仕方なくおっさんを呼びに来たんだ」


「ゆづき? それは人の名前か……ああ、おまえたしか前に、ゆづ、とか言っていたな。あれだな。それで、ゆづきとは誰なんだ」


「ゆづきは俺の仲間さ。とは言っても、まだ十歳の女の子だけどな。でもおっさん、だだの女の子とは、全然ちがうぜ。普通の人間にないすごい力を持っているんだぜ。まあ、なんと言うか、おっさんの持っている異能力に近いかもな。とは言っても、どう考えてもまるで違うけどな。なんせおっさんの持っている力より、はるかに強力で、上等で、上品で、可憐で、華麗だからな。ものが違うぜ、ものが」


「えっ? なんだと。それでそのゆづきとかいうほんの十歳のガキが、この俺を呼べと言っているのか」


龍夜がその顔を、二階堂の顔におもいっきり近づけてきた。


「おいおいおい! 俺の愛しい愛しいゆづきをガキ呼ばわりとは、とんでもねえ野郎だぜ。全く。本来ならそんなたわけたことを言う奴は、たたんでのしてしまうんだが、ゆづきが何事も無く無事に連れて来てくれと言うものだから、それはできないな。残念だけど。……えっと、それはそうと。……まあそんなにごちゃごちゃ言わずに、とにかく来てゆづきに会ってくれよ。ゆづきはかわいいぜ。あと十年もたたないうちに、超絶世の美女になるだろうな。町中の男がひれ伏すようないい女にな。で、おっさんがもしロリコンだったなら、もう一発でゆづきの虜になっちゃうぜ。……そんでもって、おっさん……ひょっとしてロリコンかい?」


「なにをバカな事を言ってる! とにかくそのゆづきとか言う女の子が、俺を呼んでいるという事はわかった。それでその子は、なんで俺を呼んでるんだ」


二階堂が負けじと、さらに顔を近づけた。


あまり身長の変わらない二人の鼻が、ほとんど触れ合う直前になっている。


「おい、それはさっきも言っただろう。人の話はちゃんと聞きやがれ! このボケナス野郎が。そんで、それがさっぱりなんだよな。とにかく早く連れて来いの、一点ばりなんだぜ。本当なら二人っきりのうれしはずかし我が家のはずが、ただでさえ魍魎丸がいつもいつも邪魔をしていることろなのに。そこにもってきて、こんな超むさくるしいおっさんをプラスするなんて。いったい何を考えてんだか、あいつは。……で、話をもとに戻すとだな、とにかくそんな訳なんで、四の五の言わずに大人しくさっさと来てくれないかい。おっさん、ゆづきが待っている。あまり待たせたら、ゆづきがかわいそうだぜ」


「魍魎丸とは何だ?」


お互い少し離れた。


「魍魎丸は、俺の持ってる日本刀さ」


「やっぱり。あの血を吸う日本刀か」


「そうさ。あの血を吸う日本刀さ。おっさんなら、細かいこと言わなくてもわかるよな。そう、あいつは生きている。なんで生きているかを説明すると、話がとてつもなく長くなるんで今は止めとくけど。で、その魍魎丸が俺とゆづきが仲良くしていると、いい年こいてやきもちを焼いて、いっつも邪魔をするんだよなあ。あのくそじじい、困ったもんだぜほんとに。あの野郎、いつかぎっちょんぎっちょんにしてやるぜ。覚えてろよ。……おっと、話がほんのちょっとだけそれたみたいだな。とにかく何べんも言うけど、今すぐゆづきのところに来てくれないか」


「さっきから来てくれ来てくれと言ってるが、俺がそんなところへ行かなければならない義理とか義務でも、あるのか」


龍夜が西洋人のように両手をひろげ、肩をすくめた。


「またあ、義務とか義理とか。これだから公務員はいやなんだよな。すぐに小難しい言葉を、意味もなくいっぱい並べたがる。そのくせ話の中身はほとんどないか、てんででたらめときたもんだ。政治家どもがいい例だよな。……よしわかった。俺が悪かった。そんなに言うなら、恥を忍んでここはお願いする。おっさんお願いだ、今すぐゆづきのところに来てくれ。頼む」


龍夜はちょこんと頭をさげたが、すぐに上げ、二階堂の顔をのぞきこむように見た。


「おい、この野郎。この俺が人に頭をさげるなんて、めったにないことなんだぞ。ちゃんとわかってんのか。ちょっとはありがたく思いやがれ」


二階堂が龍夜のまねをして、両手をひろげ肩をすくめた。


「こいつだけは、ほんとに。それで人に頭を下げているつもりか。……まあそれはいいか。実は俺もお前たちには大いに興味がある。その住処とやらに連れて行ってくれるというなら、こっちは大歓迎だ」


「なんだよ。それならそうと、さっさと言えよ。おかげで無駄に長くしゃべっちまったじゃないか。大体俺は口下手なんだ。しゃべるのは大の苦手なんだよな」


「……いったいどの口が口下手なんだ。まあそれはさておいて、すぐに承諾しなかったのは、お前からいろいろと聞きたかったからさ。今度はそのゆづきという女の子から、面白い話が聞けるかもしれんな」


「おおっ、いやと言うほど聞けるさ。よし、そうと決まれば、早速行こうぜ」


龍夜は二階堂の手を引っ張って玄関にむかおうとした。


二階堂が足を踏ん張る。


「おい、ちょっと待て。俺はまだ寝巻きだぞ。着替えさせろ」


「おいおいおっさん、何をそんな小さなこと言ってるんだ。そんなんじゃ大物になれないぜ。そんなこと気にしない気にしない」


龍夜は再び二階堂の手を引っ張り、外に出た。


そしてそのまま階段のほうへと向かう。二階堂が慌てて言った。


「おい、玄関の鍵、まだ閉めてないぞ」


「またあ。刑事の部屋に入るどろぼうなんて、世界中探しても何処にもいないさ。そんな小さなこと気にしない気にしない」


そのまま階段を降りると、階段を出たところにバイクが停めてあった。


カワサキの900CCのヨーロピアンスタイルバイクである。


龍夜はバイクにまたがるとヘルメットをかぶり、後ろに乗るように二階堂にあごで指示をした。


二階堂がバイクにまたがると、龍夜はバイクのエンジンをかけた。


二階堂が龍夜の背中を数回叩いた。


「おい、ちょっと待て。俺のヘルメットはどこだ?」


「ヘルメット? そんなもん、ひとつしかないぜ。今俺がかぶってるやつだけだ」


「おい、冗談じゃないぜ。この俺がノーヘルでバイクになんか乗れるか」


「そんなあ、また小さいことを言って。そんなこと気にしない気にしない」


龍夜は二階堂の頬を軽く叩くとバイクのギアを入れ、スロットルを思いっきり回した。バイクは急発進してそのまま道路に出た。


「ばかやろう! 俺を誰だと思ってるんだ。俺は刑事だぞ。おまえ、わかってんのか。これでも法の番人なんだぞ」


「まったく。これだから公務員てやつは、いやなんだよな。ほんと小さい小さい」


バイクはそのまま猛スピードで走り去って行った。




伯爵がふと、その動きを止めた。


「どうかしましたか? 伯爵様」


リリアーナが聞いた。


「……いや、ちょっと気になることがあってな」


「何でしょうか?」


「あの男だ」


「あの男?」


「あの男だ。最後に車で走り去った男だ」


二階堂のことだ。


「ああ、あの男ですか」


伯爵はリリアーナの目を、強く見た。


「リリアーナ、あの男はいったいなんなのだ? 何故あそこにいたのだ?」


彼らはリリアーナの水晶玉を通じて、龍夜たちの映像は視ていた。


しかし姿を写しとるだけの水晶玉では、龍夜たちの会話を一切聞くことが出来なかったのである。


「さあ? わかりませんが」


「わからないだと……お前がか? ……何か問題はないのか」


「問題ですか? そうですね。……あの男からは、何の力も感じませんが」


「感じないのか」


「はい、見事なくらいに何の力も危険も、まるで感じません。こんなにも感じない人間は、逆に珍しいくらいです。というよりここまで何もない人間は、今までに一人も見たことがありません。ごくあたりまえの人間でさえ、わずかばかりの力は感じ取れるというのに。あの男はあまりにもその力がないがために、私が何者かわからないのだと思われますが」


「問題はないんだな」


「はい、あんな力なき男、たとえ千人いたとしても、何の問題もありません」


伯爵の目が和らぐ。


「そうか。それを聞いて安心したぞ」


「安心しましたか」


「うむ、何故かちょっと気になったのだが、今の話で憂いはなくなったぞ」


「そうですか。……それでは、伯爵様」


二人は見つめ合った後、再び互いの唇を求め合った。




バイクは市の中心を大きく離れて、郊外に出た。


そしてそのまま山間部の方へとむかって走って行った。


山に入ったバイクは、しばらくは車が対向できるくらいの道を走っていたが、突然横のわきの坂道に入って行った。


一応舗装はされているが、普通乗用車一台がやっと通れるくらいの幅しかない道である。


おまけに急な上がり坂のうえに、大小のカーブが連続してうねうねと目の前に現れる。


バイクのライト一つでは十分には見ることが出来ないが、どうやら道の片側は深い崖になっているようだ。


おまけにガードレールもどこにも見当たらない。


車はもちろんのこと、二人乗りのバイクではさらに危険なその道を、龍夜の運転する大型バイクは信じられないほどのスピードで走っていた。


「……」


二階堂は何も言わなかった。


いや、言えなかった。


崖から落ちたら命が無いことは想像がつく。


だからといって、危険な運転を続けている龍夜に何かに声をかけたら、それが原因で事故を起こしてしまうような気がしたからだ。


ただひたすら龍夜の背中に、しっかりとしがみついているだけである。


そして単純な原始的恐怖を感じ続けている二階堂を乗せた荒馬バイクは、二階堂が感じる時間からすればかなりの時間が過ぎたと思われる頃、なんの前触れも無く急にスピードを落とした。


そこはちょっとした平地になっていた。大きなカーブの内側に、車が二、三台止まれるくらいの土のスペースがある。


バイクはその中心あたりに停まった。


その平地の奥に石段があった。


バイクのライトしか明かりがなかったが、それはずいぶん昔に造られたもののように、二階堂には見えた。


そして石段のすぐ手前に、小さな鳥居があった。


これもまた、ずいぶんと年季がはいったものだった。


かつては真っ赤に塗られていたであろうその鳥居は、今はその赤かった部分がほとんど剥げ落ちており、その大半が永年風雪にさらされてきた木の黒茶色で占められている。


おまけにあちらこちらで木の表面が、哀れなくらいにえぐられていた。


特に地面に近い部分は――おそらく白蟻にでも食われたのだろう――その太さが半分近くになるくらいまで周りを食い散らかされていた。


今建っていることが不思議に思えるほどの状態である。


二階堂がそれらをぼんやりと見ていると、龍夜がバイクのエンジンを切った。


とたんにあたりが真っ暗な闇につつまれる。


龍夜がバイクを降りると言った。


「おい、おっさん。いつまで後生大事にバイクにしがみついているんだ。さっさとゆづきのところへ行こうぜ」


二階堂もバイクを降りた。


「暗くて何も見えないぜ」


「もうほんとに、これだから公務員は。って、これは公務員とは関係ないか。しょうがねえなあ。引っ張ってやるから、ついて来い」


龍夜は二階堂の手をつかむと、すたすたと歩き出した。


二階堂が半ば引ずられるような形のまま、ついて行く。


二階堂は足元のよく見えない石段で何度か転びそうになったが、そのたびに龍夜が手を引いて助けてくれた。


恩着せがましく文句を言いながらだが。


その石段は神社に通じる石段としては、そんなに長くはなかった。


十数段ほど登ったと思われた時、開けた場所に出た。


そしてその奥に明かりが見えた。


その明かりはそこに建っている古い神社からもれていた。


その神社は、神社としてはかなり小さいほうだろう。


その大きさが、一般的な民家より少し大きいくらいの大きさしかない。


そして本堂の横に小さな古びた蔵のようなものがあるだけで、他には何の建造物も存在しない。


狛犬とか灯篭とかといったものもなかった。


あきれたことに、神社には、たとえそれがどんなに寂れていたとしても違いなくあるはずの賽銭箱さえ、どこにも見当たらなかった。


敷地の面積もさして広くはない。


龍夜はじっと神社を見ている二階堂を無視して、本堂の左側にある扉を開けて、中に入った。


二階堂が慌てて龍夜の後を追う。


中には幅の狭い土間があり、その先には同じく幅の狭い広縁があった。


柱や天井などを含めた全体の様子から、かなり年月の経ったもののように思える。


広縁の先には六枚の障子が並んでいた。


龍夜は靴を脱ぐと広縁にあがり、真ん中にある二枚の障子を左右に開けた。


そこは日本間となっていた。


その二十畳以上ある日本間の真ん中の奥に、巫女が着る衣装を身にまとった少女が正座をしていた。


その少女が龍夜ごしに二階堂を見た。


二階堂はあっけにとられていた。龍夜から〝かわいい〟とか〝絶世の美女になる〟とか聞かされてはいた。


しかし身内の欲目がかなりあると考えていたので、まさかこれほどまでとは思ってもいなかったからだ。


日本中、いや世界中のどこにだしても遜色のない、完全無欠で正真正銘の美少女である。


そのうえに二階堂を見るその大きな黒い瞳の中に、広い知性と強靭な意志、そして大きくて深い母のような愛が宿っていることが、二階堂には瞬時に理解できた。


もって生まれた奇跡的ともいえる顔立ちのよさ、それに加えてその内面の強さと美しさを、彼は痛いほどに理解した。


決してロリコンの気はない二階堂だったが、今目の前にいる少女を、心の底から〝美しい〟と感じていた。


ゆづきの顔を、穴が十個も二十個も開くほどじっと見つめている二階堂を見て、龍夜があからさまに不機嫌な口調で言った。


「おい、おっさん。さっきから何、ゆづきに見とれているんだ。このおっさん、やっぱりロリコンだったんだな。危ねえ危ねえ。おい、おっさん、ゆづきに会うのはこれっきりだぞ。もう二度と会わせねえからな。わかったか!」


龍夜をなだめるように、ゆづきが柔らかく言う。


「まあまあ龍夜様、もうそれくらいにしてくださいませ」


「……」


龍夜がおとなしくなったのを見とどけてから、ゆづきが二階堂に目を向けた。


「ようこそおいでくださいました二階堂様。遠路はるばる本当にご苦労様でございます。さあ遠慮なさらずに、どうぞお上がりくださいませ」


その声にあやつられるかのように、二階堂は日本間に上がった。


そしてすでに用意されていた二枚の座布団のうち、右側に座った。


龍夜が、子供がふてくされたような顔で二階堂を睨みつけながら、左側の座布団に座る。


二人が座り終えると、ゆづきが言った。


「では二階堂様。二階堂様におかれましては、いろいろとこのゆづきにお聞きになりたいことがございましょう。何なりと遠慮なさらずに、聞いてくださいませ。出来る限りお答えいたしましょう」


二階堂はしばらく黙ってゆづきを見ていたが、やがて口を開いた。


「じゃあ聞こう。何故俺をここに連れてきたんだ?」


「その質問には残念ですが、今はお答えすることができません。誠に申しわけありませんが。しかしその疑問については、そのうちにわかる時がくるでしょう。それまでしばしの間、お待ちくださいませ」


「では聞くが、お前達はいったい何者なんだ?」


「それについてはお答えできます。私達は……」


龍夜が突然声を荒げた。


「おいおい、ゆづき。こんな一度会っただけの公務員で国家権力の犬のおっさんになあ、俺たちの正体を明かしていいのかよ」


ゆづきが龍夜の顔をじっと見つめた。


その顔はまるで、母親が幼い我が子を優しくあやすような、そんな表情である。


「はい、龍夜様。それに関しましては、全く憂いはございません。龍夜様はこのゆづきが、他の誰よりも慎重で用心深い性格であることは、よくご存知のはずでしょう。それにいまさら言うまでもないことですが、私には〝視る〟力があります。そのことも含めて、この私が大丈夫だと判断して言っているのです。いらぬ御心配をなさらずに、このゆづきに全てをまかせていただけないでしょうか」


「……ああ、わかったよ。ゆづきがそこまで言うのなら、仕方がないな。おまえの好きなようにしていいぞ」


「はい、お言葉に甘えまして、そうさせていただきます。では二階堂様、お答えいたします。実は私達は、九龍一族です。龍の一族とも呼ばれております。そしてもう一つの名を、〝もののけ狩り師〟と、言います」


「もののけ狩り師?」


その時龍夜が、またいらぬ口を挟んできた。


「おい、もののけ狩り師、だってよ、おっさん。だっさいネーミングだろう。ほんと、だせえぜ。言ってて恥ずかしくなるぜ、まったく。でもってこの俺としてはだな、こんなださださじゃなくて、もっと気の利いたかっこいい名前に変えたいんだが。例えばおっさん、横文字なんか、かっこいいと思わないかい?でも先祖代々使ってきた由緒ある名前だからだめだとゆづきが言うもんで、それで仕方なく……おいおいゆづき、そうにらむなよ。はいはい、わかりました。静かにしてますよ。九龍龍夜は、とってもいい子ですよ」


「おさわがせいたしました、二階堂様。申しわけありません。どうかお気になさらないでくださいませ。いつものことでございますから。こう見えても龍夜様は、美しい心の持ち主でございます。確かにその口は、少々悪いところがあるかもしれませんが、決して悪気はないのでございます。本当はとてもお優しい心をお持ちになっております」


「よせやい。体中が痒くなるぜ」


ゆづきは龍夜を見て軽く微笑むと、再び二階堂に視線を移した。


「では二階堂様。先ほどの話の続きでございますが、私達はもののけ狩り師として、そして九龍一族として千年もの長きにわたって、妖怪、もののけ、悪霊、あやかしといった悪しき存在と、戦ってまいりました。龍夜様とこの私はその末裔でございます。申し遅れましたが私の名は、九龍ゆづきと申します」


「二人は兄弟なのか」


「いいえ、兄弟ではございません。二人とも九龍の血を継ぐ者ではありますが」


二階堂が、ゆづきの右に置かれている刀掛けの上の日本刀を見た。


「それはわかった。ところで、その魍魎丸とは、いったいなんなんだ」


「はい、この者のことですね。者という言い方は、あまり正確とは言えませんが。お話しするととても長くはなりますが、申し上げましょう。魍魎丸はもともとは、龍夜様のおじいさまが造られたものです。この姿になる前は、四国のとある集落の土地神様と妖怪でした。最初はその土地で、ある妖怪が暴れたことから始まりました。困り果てたその土地のものが、みなで古くからその地で信仰されていました土地神様に熱心にお願いしましたところ、土地神様がそのお姿を現わしになられて、妖怪を退治しに向かったそうでございます。ところが妖怪と土地神様が戦っている最中に、その二人といいましょうか二匹といいましょうか、とにかく体がくっついてしまいまして一つになってしまったそうです。おそらく〝気〟が合ったのでございましょう。この場合の〝気〟とは、気持ちや人格などのことではございません。一方は悪しき妖怪で、一方は善なる土地神様なのですから、この双方の気持ちが合うわけがないのです。ところが、体のほうの〝気〟が合ってしまったのでございます。気と言うものは人間とっても大変重要なものですが、神様や妖怪といったある意味において人間以上ともいえる存在にとっては、人間よりもさらに大事なものでございます。例えば人間は、たとえ気がなくなって死んでしまっても体は土になるまで残りますが、神様や妖怪などは気が無くなると、途端にその存在自体が消滅してしまいます。体を構成する上においてそれほどまでに重要な気が合ってしまったわけですから、妖怪と土地神様はひとつになってしまわれたのでございます」


「それで一つになって、日本刀になったのか?」


「いえ二階堂様、まだ先がございます。ふたつはひとつになりましたが、それでみなが救われたわけではございません。ふたつがひとつになったが為に、その力はより強力になりました。それも二倍になったわけではありません。お互いの力の相乗効果で、最初に比べて数倍もの力を持つようになりました。そして土地神様の精神が勝っているときは、良かったのですが。なにせふたつの力は非常に拮抗しておりましたので、妖怪の心が勝るときがありました。そうなればより強力な力で、暴れることになるのです。人間も善と悪のふたつの心を持っているといいますが、そんななまやさしいものではございません。なにせ完全な善と、そして完全な悪なのでございますから。困り果てた人々を、修行の旅で偶然通りかかった一人のもののけ狩り師が、お助けいたしました。その人が龍夜様のおじい様です」


「そして、魍魎丸になったと」


「いいえ、まだでございます、二階堂様。おじい様は最初、その怪物を退治しようといたしました。ところが怪物があまりに強力なものですから、今度は封印することにしたのです。そしていつものように自分の持っているひょうたんに、封印しようとしたのでございます。今までに幾多の悪しき者達を封印してきたひょうたんでした。しかしこの怪物は今までの妖怪たちとは、その力が全然違っておりました。何十年もの長きにわたって数々の妖怪たちを閉じ込めてきたそのひょうたんを、内側から破壊しようとしたのです。このままではひょうたんが壊されてしまうと判断したおじい様は、急ぎ一振りの日本刀を作り、そのなかに怪物を封印したのです。それがこの魍魎丸です。一度お会いになったことがあるかと思いますが」


魍魎丸の中心部分が、わずかに紫色に光った。


「そうわしが魍魎丸じゃ。会うのはたしか二度目かのう、刑事さん」


口もないのに人間のようにしゃべる刀にむかって、二階堂が言った。


「確かに二度目だな。しかしこの年になって刀と会話することになるとは、全く想像してなかったが」


「おい刑事さんよ。刀、刀と気安く言うな。これでもわしは、もともとは強力な妖怪と力強い土地神が一つになった、この広い日本においてもまれにみる貴重で高貴な存在じゃぞ。もうちょっと敬わんかい。この未熟者めが!」


「これ、魍魎丸。もうそれくらいにしなさい」


「……」


「二階堂様、大変失礼をいたしました。それで日本刀に封印された魍魎丸ですが、刀から抜け出すことも刀を破壊することもできませんでしたが、その心ねは、最初はかわりませんでした。つまり善と悪との二つの心を持っていたのでございます。そこでおじい様が一日も欠かさず毎日気の通った念を送り、悪しき心のほうだけを消そうといたしました。おじい様が数年間もの長きにわたって、毎日一心に念じ続けたおかげで、ほとんど土地神様の心だけが残るようになったのです。正義にあふれる強く美しい心です。ただし悪しき妖怪の心と言うかその性格の一部分が、少しばかりではありますが残ってしまいましたので、そのなんと申しましょうか……はっきり申し上げてしまえばその口だけは、先ほどのようにあまりよろしくない結果となってしまいました。その点におきましては、龍夜様と全く同じでございます」


「おいおいゆづき、それは違うぜ。俺は確かに他の人と比べるとほんのちょっとだけ口が悪いかもしれないが、そこのくそじじいみたいに、いじわるじゃあないぜ」


「なにをぬかす。このわしがいじわるじゃと? いじわるなのは、おぬしのほうじゃ」


「なんだとぉ、このくそじじい」


「おやめなさい、二人とも」


「……」


「……」


ゆづきにそう言われると、二人とも借りてきた猫のように、大人しくなる。


二人、いや一人と一匹とでも言ったほうがいいのかもしれないが、ともにゆづきには完全に尻にひかれているようだ。


二階堂にはそのやりとりが面白くてしかたがなかった。


笑いをかみ殺すのにかなり苦労していた。


ゆづきはしばらくの間、龍夜と魍魎丸を交互に見ていたが、やがて二階堂に目を移した。


「他に何かございますでしょうか」


「うーん、そうだな。重要な質問がある。それはここにいる龍夜とやりあった、表面上の姿形は人間の姿をしているあいつらは、いったいなんなんだ?」


「あやつらでございますか。あやつらは一言で言うと、吸血鬼でございます」


「吸血鬼だと!」


「はい二階堂様、吸血鬼でございます。今風に申し上げれば、ヴァンパイアということになりましょうか。全部で七人いたようでございますが、そのうちの三人は、龍夜様がすでに倒しております。ヨーロッパから来たようです。国籍もさまざまで、ヨーロッパではありますが、一人一人違う国で生まれた人間のようです。人間と言いましたが、もともとはみな人間であった存在でございます」


「吸血鬼ということはわかった。おそらく間違いないだろう。発見されたガイシャの体には血が一滴も残っていなかったからな。それで、あいつらはヨーロッパ人なのに、なんであんなにも流暢に日本語がしゃべれるんだ」


「それは日本人の血を吸ったからでございます」


「日本人の血を吸っただと?」


「はい、そうでございます。吸血鬼は人間の血を吸うと、その者の知識を得ることが出来るようです。この場合あくまで知識であって、その者の思い出とか記憶とかいったものではございません。おそらく血を吸った人間の記憶をいちいち自分の頭に取り込んでいたのでは、自らの記憶と交じり合って混乱をきたすために、自然とそういうふうになったのだと思われます。そして血を吸った者のなかでも最後に吸った者の知識が、より強く記録されるようでございます。あやつらは全員日本に来て日本人の血を吸いました。最後に血を吸った人間が日本人なのです。ですからあやつらは自然と日本語を使っているのです」


二階堂の眼がきつくなった。


普段はどちらかといえば不真面目な彼が、真剣になっている。


その針のようなまなざしでゆづきを見た。


「やつらは全員日本人の血を吸っているのか。すると元は日本人で、今は吸血鬼になっている者がいるのか」


ゆづきが二階堂の鋭いまなざしに臆することなく答える。


「いいえ、それは心配におよびません。今のところそんな者は、誰一人いないようでございます。あやつらはヨーロッパで数百年にもわたって、人の血を吸い続けてきました。もちろん最初は一人でした。しかし聖騎士団と呼ばれている者たちにたおされた数名を加えましても、吸血鬼は全部で十人くらいかと思われます。ただ数名の吸血鬼をたおすために、数百人もの聖騎士団の方々が、尊い犠牲となってしまいました。とても悲しいことでございます……話を元にもどしますと、あやつらは基本的には、空腹を満たすために人間の血を吸っています。食料というわけです。それ以外で誰かを仲間にするには、条件があるようでございます」


「その条件とは?」


「はい、その条件とは一言で言いますと、強い、と言うことでございます。例えば弱い人間を吸血鬼にした場合ですが、それでも普通の人間とは比べものにならないほどに強くはなりますが、吸血鬼としては弱い存在にしかなりません。あやつらの首領は独特の美学を持っているようです。仮に弱い仲間だとしても、その数を増やせば増やすほど全体の力は強くなりますが、それを決してやらないのです。――弱い吸血鬼を生み出すぐらいなら組織が強くならなくてもよい ――と考えているようでございます。ですから首領自らが選んだ強い人間のみが、あやつらの仲間になっていくようです」


「被害者の死体は俺が知っている限り、今のところ一人しか見つかっていない。他の被害者は、いったいどうなった」


「あやつらは人間の血を吸った後、その〝精〟も吸いつくします。精もあやつらの食料というわけでございます。精を吸い尽くされた人間は、からからのミイラのようになってしまいます。そしてそれは持ち帰り燃やしてしまいます。まるで紙のようによく燃えるようでございます。証拠隠滅というわけです。まことに恐ろしいことでございます……あやつらがそうするのは、いくらあやつらでも、死体が見つかって騒ぎが大きくなれば、いろいろと都合の悪いことがあるからだと思われます。そのためにあやつらの存在が公になったことは、一度もございません。ただ秘密裏にあやつらと戦っている組織が、一つだけございます。それが〝聖騎士団〟と呼ばれる人々です。私が〝視た〟ところによりますと、それは古くからカトリック教会に属する、非公式の組織のようでございます」


「見つかったガイシャの首のところに、犬の噛み跡があったが」


「特に強い人間を吸血鬼にしますと、ある種の変身能力をそなえるようでございます。大コウモリであったり、大型の猫科の動物であったりしますが、その中でも特別に強い力を持つ者は、狼に変身するようでございます」


「狼……か」


「はい、狼でございます。でも完全に狼になりきってしまうわけではございません。半人半獣のような存在になるようです。ただ獣人化した吸血鬼は、首から上は完全な獣の姿になるようでございます」


「それで大型犬、つまり狼の噛み跡があったのか」


「はい、そのとおりでございます」


今まで黙っていた龍夜が、口をはさんできた。


「でもよお、ゆづき。今まで俺と戦った三人は、人間の姿のままだったぜ」


龍夜がそう言うと、ゆづきは深刻なまなざしで龍夜の顔をじっとみつめたまま黙り込んでしまったが、ややあってようやく口を開いた。


ただその口調はさっきまでと比べると、ずいぶんと弱く重々しい口調である。


「それは今までは龍夜様が、あやつらの中でも、弱きほうの三人と戦ったからでございます。残りの四人のうち視る力を持つ女を除く三人は、みな狼に変身することができます。三人とも人間の姿のままでも、今までの三人に比べればはるかに強うございます。そのうえに狼に姿を変えたならば、さらにその強さが増していくことでしょう。今後龍夜様がその者たちと戦ったならば、あやつらは最初から獣となって戦いを挑んでくることでしょう」


「……」


ゆづきは、無意識のうちに唇を強く噛んでいる龍夜をじっと見ていたが、やがて二階堂に話しかけた。


「他に何か聞きたいことはございますか、二階堂様」


「やつらをたおす方法は」


「テレビや映画などでは、十字架、にんにく、聖水、木の杭などといった物を使いますが、それは物語の中だけの話でございます。あやつらにそのようなものは一切通用いたしません。太陽の光だけは苦手なようでございますが、それはただたんに嫌っているだけでございます。あやつらは暗がりが好きなだけでございます。太陽の光でその肉体が傷ついたり、ましてや死んだりするようなことは、全くありません。あやつらを倒す方法は、二つしかありません。魍魎丸がやったように、あやつらの力の源であるその血を全て吸い尽くしてしまうか、あるいは再生が不可能なほどまでに、その肉体を大きく破壊しなければなりません。そのどちらかのみで、あやつらを倒すことができるのでございます」


「切られて落ちた首が、まだしゃべっていたが」


「はい、首を切られたくらいでは、あやつらは死には至りません。もっと大きく体を損傷すれば、別でございますが」


「そうか。やはり人間とは根本的に違うようだな」


「はい、仮に人間が首を切られた場合のことを考えれば、その生命力の大きさの違いがわかるかと思われます」


「わかった。では、答えにくいことを聞くが、いいか?」


「はい、なんでございましょうか。ご質問の内容にもよりますが、出来る限りお答えしたいと思います」


二階堂が身を乗り出し、より大きな声で言った。


「では聞くぞ。吸血鬼どもはあと四人いると言ったな。そのうちの三人は狼になれるわけだ。つまり今までの三人より、少しは強いわけだな」


「少しではございません。これまでの三人と残りの三人では、その強さにかなりの開きがございます」


「やはりな。で、ここからが肝心なところだが、その三人をここにいる龍夜と魍魎丸で、倒すことができるのか?」


龍夜はおもわず二階堂を見た。


そしてゆづきを見た。ゆづきはしばらく黙っていたが、やがて二階堂に言った。


「本当にお答えしにくいことをお聞きになるのですね、二階堂様。それは今まで以上に厳しい戦いとなると、申し上げておきましょう。首領を除く二人でさえかなりのものですが、あやつらの首領、この一連の出来事において全ての根源となる存在ですが、他の者とは比べものにならないほどの脅威だと思われます」


「その奴らの首領とは、いったいどんな奴なんだ」


「先ほど申し上げましたように、全ての源となった者です。仲間、というより下僕達と言ったほうがよろしいのですが、その者たちからは普段は伯爵様と呼ばれているようでございます。しかしもう一つの呼び名がございます。普段はあまりにも恐れ多くて下僕達でさえ口に出すのをはばかる、半ば封印された呼び名でございます。その呼び名は〝ドラゴンの子〟でございます」


「ドラゴンの子! ……だって」


龍夜が叫ぶような大声をあげた。


二階堂が思わず龍夜を見る。


その表情には明らかな驚きの色が現れていた。


ゆづきがゆっくりと噛みしめるように言った。


「はい、龍夜様。ドラゴンの子、でございます」


思わず中腰になっていた龍夜だが、やがてどたりと床の上に腰を下ろした。


そして力なくつぶやいた。


「ドラゴンの……子。……よりによって……ドラゴンの子……ってか」


二階堂が激しく首を振り、龍夜とゆづきを交互に見た。


「おいっ、いったいなんなんだ、そのドラゴンの子、とか言う奴は?」


ゆづきが努めて静かに答える。


「それに関しましては、いくら二階堂様でも、申し上げることはいたしかねます」


龍夜が、強く吐き出すように言った。


「ドラゴンの子は、ドラゴンの子さ」


二階堂は何も言わなかった。


いや言えなかった。


あのふてぶてしさを絵に描いたような龍夜が、尋常でなく動揺している。


そして表面上はあくまで静かながらも、その内面においては何かを押し殺して必死に耐えているように見える、十歳の少女であるゆづき。


その二人の雰囲気に完全に飲まれていた。


ややあって、何かを思い出したかのようにゆづきが言った。


「他に、何か質問がございますか、二階堂様」


「……いや、ない」


「そうですか。わかりました。誠にお手数をおかけいたしました……龍夜様、二階堂様を、お送りしてくださいませ」


「……わかった……おっさん、もうおうちに帰るぜ」


龍夜は立ち上がるとまだ座っていた二階堂の手を取って、大根でも抜くようにその体を引き上げ、有無を言わさず外に引っ張って行った。


後にはゆづきが一人残された。その黒い瞳は涙で濡れていた。




バイクが二階堂のアパートに着いた。


二階堂がバイクから降りると、龍夜は何も言わずにその場を走り去った。


二階堂はそのまま龍夜の後ろ姿を見送っていたが、やがて自分の部屋へと戻っていった。




洋館にある広く仄暗く、中世ヨーロッパの宮殿を模した部屋。


湿気に満ちた部屋に存在する優雅さや華やかさを隠す乾いた闇は、この世のものでない者の住処にふさわしい雰囲気をかもし出している。


男が独り黒いソファーに深々と座っている。館の主だ。突然扉が開かれて女が入ってきた。リリアーナである。


「伯爵様、大変です」


「なんだ騒々しい。いったい何があった」


「あいつらの力が、変わりました」


伯爵の眼が大きく見開かれた。


「変わった。それはいったいどういうことだ。どう変わったと言うのだ。まさか、強くなったとでも言うのか?」


「それが全くわかりません。とても信じられないことですが、変わったということははっきりとわかるのですが、何がどうかわったのかは、私には何もわからないのです。しかしあいつらの中で何かが確かに、それも大きく変わりました。それだけは間違いありません」


「なんだと! リリアーナ。あいつらが変わったという事はわかるのに、なにがどうかわったのかが、まるでわからないと言うのか……こんなことは今まで一度もなかったことだな。実に由々しきことだ」


伯爵が何かを懸命に考えている。そのまま心配そうに見ていたリリアーナが、おそるおそる声をかけた。


「どうしましょう。伯爵様」


伯爵がリリアーナをしっかりと見た。


「このままほおっておくと、事態がややこしいことになるやもしれぬ。そういう事にならないよう、何か早急に事を起こさねばなるまいな。そうと決まればこの事態の決着は、案外と早いかもしれぬぞ」


そう言うと伯爵は、にまり、と笑った。それは氷のように冷たい笑みだった。




龍夜のバイクが、住みかである神社に戻った。


龍夜はバイクから降りると、そのままものすごい勢いで石段を駆け上がり、その勢いのままゆづきの前まで来て、尻からドンと大きな音をたてて座ると言った。


「ゆづき、お前に聞きたいことがある。正直に答えてくれないか」


「……はい、龍夜様」


ゆづきは返事をしたが、それは消え入りそうな声である。


龍夜がそれにかまわず続けた。


「言いにくいとは思うが、あいつらの残りとこの俺と魍魎丸、いったいどっちが強いのか、はっきりと答えてくれないか」


「……残りの三人は、先ほども申し上げましたように、今まで戦った相手より、数段強いようでございます」


「俺がカルロスともう一人……名前なんだったっけ? ……いや名前なんてもうどうでもいいが、その二人と戦う前に、この戦いがどうなるかとお前に聞いた時、お前は確か〝わからない〟と言ったな」


「はい、そのように申しました」


「なら今度の戦いは〝わからない〟のか〝だめ〟なのか、いったいどっちなんだ。正直に答えてくれないか」


「……勝負は時の運、とも申します。最初からどちらが勝つと決まっている戦いなど、ほとんどございません。それは相当の実力差があるときだけでございます。ただもう龍夜様もお気づきになっているとは思いますが、私の〝わからない〟という言葉には、いろいろな意味がございます」


「そう、その意味のことを、詳しく聞きたい」


「前に戦った二人ですが、その戦いはよほどのことがない限りにおいて、おそらく龍夜様が勝つと思っておりました。もちろん絶対に、ではありませんでしたが、龍夜様と魍魎丸の力が上回っているとは思っていました。ただ圧倒的と言うには、力の差がそれほどはありませんでした。龍夜様たちが負けても、おかしくはありませんでした。ただ私が見抜けなかったことが、一つありました。龍夜様はあの場に相手が二人いるということを知っておりました。ところがあの二人はそのこと知りませんでした。二人は龍夜様が相手は一人だと思い込んでいる、と考えておりました。これについて私は、視ることができませんでした。ですからあの戦いは私が思っておりました以上に、龍夜様が優位に戦うことができたのです。しかし残る三人ですが、おそらく最初に龍夜様がお相手をいたすのは首領を除く二人かと思われますが、その二人の力は正直に申し上げれば、龍夜様と魍魎丸の力を上回っております」


「……」


「ただ、圧倒的な実力差ではありません。ですから龍夜様たちが勝つ可能性もございます」


「じゃあ聞こう。正確に確立で言うと勝つ確立はどのくらいだ」


「確立ですか。それは……数学的なことは、正確にはわかりかねますが……おそらく一割くらいではないかと思われます」


「ふーん、そんでもってドラゴンの子は、その二人より強いわけね」


「はい、その二人よりさらに強い存在でございます」


「それじゃあ、そいつにこの俺が勝つ確立は、いったいどのくらいだ」


「……全くないわけではございませんが」


「ほとんどゼロに等しいと」


「……はい」


「わかった。言いにくいことを、よく正直に言ってくれた。悪かったな。さぞつらかったろうな、ゆづき」


龍夜はゆづきに体を寄せると、その体を優しく抱きしめた。


「はい、つろうございました、龍夜様」


ゆづきは龍夜に強く抱きついた。


そしてその大きな瞳から、大粒の涙を流し始めた。


「泣け。今は好きなだけ泣くといい」


「はい、龍夜様」


ゆづきは嗚咽を繰り返しながら、ひたすら泣き続けた。


龍夜はそのゆづきを、黙って抱きしめていた。




「事を起こすのですか?」


リリアーナが伯爵に聞いた。


「そうだ」


伯爵が答える。


「それはどのような……」


「あわてるなリリアーナ。その前に必要な情報があるのだ」


「どんな、情報ですか?」


「もちろん奴らのことだ。特にその住処に関する情報が、真っ先に必要だ」


「奴らの住処ですか。それならもうつきとめましたが」


伯爵の表情が変わった。


黒い怒りをそこに含んでいた。


「何故、それを早く言わないのだ!」


「いえ……いえ伯爵様、言おうと思っていたのです。奴らの変化を告げた後に……」


伯爵の顔が少しだけ和らいだ。


ただ眼は変わらず、きつくリリアーナを見ている。


「そうであったか。なるほどな。それなら話が早いな」


「それともうひとつ」


「もうひとつ……なんだ?」


「実は……」


そういった後リリアーナは、前と同じく内緒話でもするかのように、伯爵の耳元で何かをささやいた。




二階堂はとりあえず署に戻った。


自分のデスクで椅子に重く身を預けていた。


彼は考えていた。


――吸血鬼か。


同時に悩んでもいた。


――今回の事件は、おそらく迷宮入りだろうな。


まさか吸血鬼を捕まえて――こいつが犯人です――と引っ張ってくるわけにはいかない。


――署長にどう言ったものか。


捜査にはいろいろな事がある。


あれこれあるが署長は、最終的には二階堂が何とかしてくれると思っているようだ。


実際に二階堂は、今まで一つ残らず何とかしてきた。


二階堂は署に親密な者は一人もいない。


個性が強すぎて並の人間ではついていくことが出来ないからだ。


二階堂も並の人間には興味がなかった。


しかし署長だけは別だ。


上司という以前に何か惹かれるものがある。人間的に。

そんなことを考えていると、新人の婦人警官が二階堂を見ながらこちらに歩いてくるのが、目の端に写った。


彼が若くして結婚していたなら、これぐらいの娘がいても不思議ではないくらいの年齢だ。


彼女が何か言う前に二階堂が言った。


「なんだ?」


「二階堂さん。署長がお呼びです」


「……わかった」


婦人警官は軽く一礼をすると、背を向けた。


二階堂は天井を見上げた。


――こっちがごまかす前に、むこうから言ってきたか。


二階堂は椅子から力なく立ち上がると、ゆるりと歩き出した。




「入れ!」


ノックすると、間髪いれずに返事があった。


相変わらず力強い声だ。


「二階堂です。入ります」


「おお、待ってたぞ」


中にはいると、署長は両手をデスクの上に置き、身を乗り出しついでに首も突き出して二階堂を迎えた。


そして一度見たら二度と忘れられないほど見事にまんまるい眼で、じっと二階堂を見た。


そのギョロ眼には、凡人にはない眼力があった。


その眼を含めた彼の顔を一言で言うと、異相である。


それは子供が見たら、ひきつけを起こしそうなほどだ。


そして恰幅のいい体格に加え、心身ともにみなぎるエネルギーが人並み外れている。


エネルギッシュと言う言葉をそのまま人間に変換したら、こうなるのではないかと思えるような男だった。


おまけにキャリア組みとは思えないほど融通が利き、その懐も深い。


現場の苦労もよくわかっている。


――ここで二人っきりになるのは久しぶりだが、相変わらずだな


二階堂は軽く微笑んだ。


ゴマすりではなく、署長の顔を見るとついついそうなってしまう自分がいる。


署長が言った。


「早速だが、例の件はどうなった?」


「西野さやかの件ですか」


「他にないだろう」


「そうですね……」


署長が机を、どすん、と叩いた。


「前置きはいい。単刀直入に話せ」


「……実は、何もわからないのです」


「何もわからない? おまえがか?」


「はい」


「……」


署長は渋い顔をした。


沈黙の後、二階堂がやや小さな声で言った。


「あまりわからないことは時々ありますが、何もわからないというのは、実は初めてなんです」


「……そうだろうな」


「そこで考えたんですが。犯人はもう死んでる可能性があります」


「死んでるだと?」


二階堂は嘘を言った。


そして――自分のつく嘘は誰にも見抜かれることはない――と二階堂自身は思っていた。


「ええ、ここまで何も視えない、何も感じない、何もわからないとなると、もう死んでいる可能性が高いと思いますが」


「……そうか。もしおまえの言うとおりなら、仕方がない。……でも捜査はこのまま続けるんだ。わかったな」


「わかりました。でもこうなると、捜査というより、お守りになると思いますね」


「お守り? それは笹本のことか」


「はい」


「じゃ、お守りを続けてくれ。笹本は訳あっておまえにつけている」


「どんな訳ですか?」


「決まってるだろう。あの単細胞馬鹿正直は、このままではまるでものにならん。だからまるっきり正反対のおまえにつけた」


「……そうですか」


「とにかく、今すぐに笹本のお守り……じゃなかった捜査を続けろ」


「わかりました」


二階堂は一礼すると部屋を出た。


署長は二階堂が去った後もそのドアを鋭い眼で見続けていたが、やがてそろり視線を落とした。


――あいつ……。


彼はペン立てにささっているペンを、人差し指で軽くはじいた。


――どういう訳かはまるでわからんが、悪意があるともとても思えんが……この俺に初めて嘘をついたな。


署長は眠るように目を閉じた。


――今回があいつの初黒星になりそうだ。


その姿は、寂しがっている幼子のように見えた。




広く暗く、そしてヨーロッパの宮殿を思わせる豪勢で無機質な部屋。


大きな革張りのソファーに男が独り座っている。


そこに二人の男が入ってきた。


「何かご用でしょうか、伯爵様」


「何かご用でしょうか、伯爵様」


伯爵が座ったままで、二人を上目づかいに見る。


「お前たちを呼んだのは他でもない。あいつらのことだ。リリアーナがついに、あいつらの居場所をつきとめたぞ」


「それでは、あいつらを殺しに行くのでございますね、伯爵様」


「必ず仕留めてまいります、伯爵様」


二人は相変わらず交互にしゃべる。


伯爵が右手を上げて二人を制する。


「いや、仕掛けにいくのではない。あいつらをこちらに来させるのだ。あいつらの死に場所ははここだ」


「いったいどうなさるおつもりなのでございますか、伯爵様」


「なんなりとお申しつけください、伯爵様」


「それについてはリリアーナが説明する。リリアーナ、入ってまいれ」


リリアーナが入って来た。


リリアーナは伯爵と二人の男の間に立つと、二人の顔を淫靡な眼で見比べた後、言った。


「明日の夜、あいらの家は、十歳くらいの少女が一人きりになる。その子をここに連れて来ればよいのです」


「わかった、リリアーナ」


「おまえの言うとおりにしよう」


リリアーナが、二人に言って聞かせるように言う。


「必ず連れて来るのです。ただし、決してその子を傷つけてはなりません。無傷で連れて来るのです。わかりましたか」


「わかった。そうしよう」


「なるほど。その娘を餌に、あいつらをここに呼び込むのだな」


伯爵がソファーからゆっくりと立ち上がる。


そして二人の男たちを見回した。


「おそらく明日が奴らとの最後の戦いとなるであろう。お前たち二人の力は、あいつらを上回っている。自信をもってあたれ。しかしくれぐれも油断をするな」


「わかりました、伯爵様」


「仰せのとおりにいたします、伯爵様」


「ではもう明日に備えるように。二人ともさがってよいぞ」


「はい、伯爵様」


「はい、伯爵様」


二人は深々と一礼をすると、素早く部屋を出て行った。


伯爵はそれを見とどけると黒ソファーに座り、リリアーナに顔を向けた。


「これでよかったのかな、リリアーナ」


「はい、これで全てが解決することでしょう」


「そうか、おまえがそう言うなら、間違いはないな」


「とにかく私はその少女に会ってみたいのです。私と同じ〝視る〟力を持っているという、その少女に」


「慌てなくても明日になれば、いやでも会えるというものだ。で、その少女に会って、いったいどうするつもりなのだ」


「あの二人が少年と仲間の妖怪を倒したならば、私がその少女の血をいたたぎます。その上で私の〝精〟を注ぎ込みます。それでよろしいですか、伯爵様」


伯爵の目が大きく見開いた。


「精を注ぎ込むだと? おまえの仲間にするのか」


「はい、そうです。もし仲間にしたならば、その少女が私のよき右腕になることは間違いありません。なにせこの私と同じ〝視る〟力を持っているのですから。このような人間には、めったなことではおめにかかれません。私とその少女、二人の力をあわせれば、これまで以上の成果が期待できることでしょう」


「そうか、そうなれば私も嬉しいぞ、リリアーナ」


「はい、伯爵様」


「明日が楽しみだな」


「はい、とても楽しみです、伯爵様」


「とにかく今夜は、明日に備えて早く休むとしよう。もう下がってよいぞ、リリアーナ」


「はい、伯爵様。それでは失礼します」


リリアーナは軽く一礼すると、部屋を出た。


伯爵はしばらく宙を眺めていたが、やがてぞっとするような氷の笑みを浮かべるとソファーに横になり、その目を閉じた。




二階堂は嫌な予感を感じていた。


それもとても強い予感である。


最初は、龍夜がドラゴンの子と呼ばれる存在に殺されてしまうからかと思ったが、やがてこの嫌な予感は、龍夜には関係が無いことに気がついた。


二階堂はゆるく椅子に座った。


一旦気持ちを落ち着かせると、そこでさらに神経を集中させる。


龍夜でないとしたら、悪い予感の対象が魍魎丸ではないかと考えたが、それも違うような気がする。


しかし二階堂が探れば探るほど、それは危険を意味する予感であると、確信が増していくばかりだ。


――危ない。


ある種の大きな危険が、二階堂の知っている誰かに迫っている。


それは間違いない。


しかし龍夜でも魍魎丸でもない。


――危ない。それは確かだ。間違いない。でも龍夜でも魍魎丸でもない。するといったい、誰が危ないというのだ?


二階堂はさらに意識を集中させた。


そのうちに何かが視えてきた。


――なるほど。そういうことか。


二階堂は椅子から立ち上がった。




ゆづきはいつもの日本間で、一人静かに座っていた。


正座をし、両手で印を結び、感覚を研ぎ澄ませていた。


ゆづきは探っていた。


その相手はもちろんドラゴンの子である。


――なんとしてでも、あやつの弱点を探り当てなければ。


その一点に集中していた。


ゆづきは徐々に、これまで以上にドラゴンの子を、その力を感じるようになっていた。


そして知れば知るほど、驚きと恐怖が増すばかりだった。


――強すぎます!


ゆづきがドラゴンの子を感じれば感じるほど、その力の強大さ、そして異様さを知る事になる。


なにしろその底がまるきり視えない。


強いと言うことははっきりとわかるが、あまりにも深すぎて、何処まで強いのかさえ掴みきれないでいるのだ。


一度はその強さをある程度わかっていたつもりだったが、それが完全に間違いであることに気がついた。


それはまるで、冥界へと続く果てしない地獄の底を覗いているかのように、ゆづきには感じられた。


――弱点どころではありません。あまりにも強すぎます!


ゆづきの心は、折れる寸前まで追い詰められていた。


しかしそれでもゆづきは、ドラゴンの子から自らの意識を離さなかった。


――なんとしてでも……なんとしてでも。


ゆづきの顔からは尋常でない汗がとめどなく流れている。


おまけにその小さな体が、小刻みに震えていた。


ドラゴンの子にむけて、自分の全ての意識を、全身全霊でぶつけていた。


――なんとしてでも……なんとしてでも……龍夜様のために!




外では強い風が吹き荒れていた。


その強風の中、神社の外で影が動いた。


影は二つあった。


大きな影と、小さな影。


その二つが静かに神社に忍びよっていた。


しかしゆづきは、近づくその影に全く気づいていなかった。


吹き叫ぶ風のせいもあるが、それ以前に、その意識の全てをドラゴンの子に奪われていたためである。


やがて二つの影は神社の前に立った。




その日、龍夜がちょっとした用事をすませて神社に帰ったころには、真夜中に近い時間となっていた。


前の戦いで龍夜が魍魎丸を投げた時に、魍魎丸の柄の部分が少し壊れてしまったので、なじみの刀匠のところへ行って直してもらっていたのだ。


龍夜と魍魎丸を何故かえらく気に入ってくれているその刀匠が、気を利かせて特に念入りに直してくれたのはありがたいが、そのおかげで家に帰るのが予定よりもずいぶんと遅れてしまったのだ。


龍夜はいつものように石段の下にバイクを停めて、いつもなら歩いて登る石段を、今日は二段とばしで駆け上がった。


ゆづきが心配していると思ったからだ。


そして庭に出て神社を見た時、龍夜の動きが止まった。


――ない?


なにもなかった。

 いつもならここまで来れば、何もせずとも自然に、ゆづきの大きくて優しく暖かい気を感じることができる。


ところが今は、その龍夜の大好きなゆづきの柔らかい気が、全く感じられなかった。


龍夜は走った。


そのまま入り口の戸を蹴破って、ゆづきがいつも座っている部屋に入った。


ゆづきはやはり、そこにはいなかった。


龍夜はあたりを激しく見回した。


するといつもゆづきが座っている場所の後ろの壁に、一枚の貼り紙があることに気がついた。


龍夜は荒々しくそれを引きはがして読んだ。


そこには達筆な字で、こう書かれていた。

 


 〈小僧へ。


 娘はあずかった。返して欲しければ、我が屋敷に来るがいい。もし来なければ、娘の命はなきものと思え。


                         ドラゴンの子〉



『ドラゴンの子』。そう書かれた文字を見た瞬間、龍夜の体の中に激しい怒りがこみ上げてきた。


龍夜は魍魎丸の柄を高々とさしあげると、大きく叫んだ。


「魍魎丸! 出て来い!」


「おう」


激しい紫の炎とともに魍魎丸が姿を現わした。


龍夜が再び叫ぶ。


「探せ! ゆづきの気を探せ!」


「わかった」


龍夜もある程度はゆづきの気を感じ取ることができる。


しかしその点においては、土地神と妖怪が合体した魍魎丸のほうが、一枚も二枚も上手である。


「まだか! 魍魎丸、早くしろ!」


「ちょっと待て。意識を集中させんといかんのじゃからな。早く見つけてほしくば、ちっと静かにしておれ」


龍夜は待った。


龍夜には一分が一時間にも感じられていたが、何も言わずに魍魎丸を高々とさし上げたまま、体をぴくりとも動かさずにいた。


魍魎丸を握る手に汗が浮き出してきている。


そしてその顔にも、粘っこい汗が滲み出ていた。


そして龍夜にとってはとてつもなく長い時間が過ぎたと思われた時、魍魎丸が叫んだ。


「見つけたぞ!」


「どこだ!」


「西じゃ。ここから真っ直ぐ西の方角じゃ」


「でかした。行くぞ」


神社を出て走る龍夜に、魍魎丸が言った。


「行くのはいいが、果たしておぬしとわしとで勝てるのかのう」


「行く。たとえ勝てないとしても、俺は行く。俺は死んでもいい。しかしゆづきはこの命に代えても、必ず助ける!」


「……わかった。仕方がないのう。おぬしがそう言うのならな。こうなれば、このわしもとことんつきあうぞ」


「じじいも死ぬかもしれないぜ」


「なに、おぬしとなら、わしはかまわんぞい」


「なに言ってやがる。こんなくそじじいと心中なんて、まっぴらごめんだぜ」


「ぬかせ、こいつめ」


龍夜はバイクにまたがった。


魍魎丸の刃が、そのすがたを消す。


龍夜は魍魎丸の柄をズボンの後ろのポケットに力強く刺しこむと、そのままヘルメットもつけずにバイクを急発進させた。


バイクは夜の闇の中を爆走した。




暗く湿っぽく、それでいて豪華な宮殿のような部屋。


男が独り大きな黒いソファーに座っている。


伯爵である。


突然女が入ってきた。リリアーナである。


リリアーナが言った。


「あいつらが来ます!」


「来るか」


「はい、もうすぐです」


「そうか、わかった。今すぐにヴォルフガングとクリフトフを呼んで来い」


「はい、伯爵様」


軽く一礼してリリアーナが部屋を出る。


伯爵はその後ろ姿をじっと見送った。伯爵は冷たく笑っていた。




ややあって、二人の男が部屋に駆け込んできた。


「お呼びでしょうか、伯爵様」


「なんなりとお申し付けください、伯爵様」


伯爵はソファーから立ち上がり、二人を交互に強く指さしながら言った。


「よいか、二人とも。一度しか言わないから、よく聞くのだ。あいつらがもうすぐやって来る。決っして油断するな。最初から全力であたれ。そしてどんな手段を使ってもよいから、必ずやつらを一人残らず殺せ!」


「わかりました、伯爵様」


「必ず殺します、伯爵様」


二人は深く一礼をすると、走って部屋を出て行った。




一台の大型バイクが、中世ヨーロッパの宮殿のような大きな洋館の前に停まった。


龍夜である。


その長い黒髪が激しく乱れていた。


龍夜はバイクから降りると、手ぐしで軽く髪を整えた。


魍魎丸が言った。


「こんなところに、こんな大きなお屋敷があるとはのう」


「この屋敷は前にテレビで見たことあるぜ。名前は忘れたが、どっかのごりっぱな財閥の御曹司とやらの家だぜ」


「そうか、ちっとも知らんかったわい」


「ああ、働きもせず親の脛を出っ歯でかじりまくり、親の金で建てた屋敷を自慢げにマスコミに披露していたお坊ちゃまの屋敷だ。間違いない」


「さすればそのお坊ちゃまとやら、殺されてしまったのかのう」


「それはないぜ。そんなことをすれば、今頃大騒ぎになってるぜ」


「と言うことは……」


「おそらく今は奴らの仲間だ。ただやつらに住処を提供するだけの駒だぜ」


「そうか」


「ああっ、お坊ちゃまのことはどうでもいい。それよりゆづきだ。ここまでくればさすがに俺でもゆづきの気が十分感じ取れる。間違いなくこの中にいるようだな」


「ああ、おるわい。しかも無傷でいるようじゃな。心の気はさすがに少し乱れておるようじゃが、体の気は全く乱れておらんな」


「そのようだな。やつらゆづきを連れ去ったが、荒っぽい真似は一切しなかったようだな。その点だけはとりあえず感謝しておこうか」


「なにをのん気なことを言っておる。やつらそのうちに、ゆづきを殺すやもしれんぞ」


「わかってるさ。それじゃあ行こうか」



龍夜は屋敷の真ん中にある一番大きな扉、正面玄関と思われるところに向かって歩き出した。


魍魎丸が慌てる。


「おいおぬし、正面から行くつもりなのか?」


「どうせ俺が来るのは、わかっているさ。奴らが呼んだんだからな。今さらこそこそしてもはじまらんぜ」


「まあ、そうじゃな。おぬしの言うとおりじゃ」


龍夜がズボンの後ろポケットから、魍魎丸の柄を取り出す。


「はなから全開でいくぞ。おまえももう出て来い」


柄の先から紫色の炎と共に、魍魎丸がその姿を現わした。




龍夜は魍魎丸を右手に持つと、正面玄関の前に立った。


そしてその大きな扉を押した。扉は音もなくゆっくりと開いた。


龍夜は中に入って行った。


正面は広い吹き抜けのホールとなっていた。


中央に二階に上がる幅広の階段が見える。


右に一つ大きな扉があり、左に二つ小さなドアがあった。


「左だな」


龍夜が言った。


「そうじゃ」


魍魎丸が答える。


龍夜は左に向かって歩き出した。その時である。


階段の裏から、一人の男が出てきた。


いかにも高級品といった感じのスラックスに、これまた値だけは張りそうなド派手なトレーナーを着ていた。


それは龍夜には、人が服を着ているというよりも、人が服に着せられているように見えた。


「うわさをすればなんとやら。さっき言ったお坊ちゃまだぜ」


「あいつがそうか」


「ああ」


その御曹司は、顔色が少し青白いことを除けばごく普通の若い男に見えた。


そしてこちらに向かって静かに歩いてくる。


そしてその顔に恐ろしいまでに表情というものがない。


まるで蝋人形が歩いているようである。


しかし二人の前まで来たとき、その顔が一変した。


眼がつり上がり、それ以上に口の両端が限界を超えてつりあがる。


そしてその口からは、何か獣の唸りに似た声が漏れてきた。


――ああいうの、昔見たことあるぜ。


龍夜は思い出していた。


――あの時のあいつと、同じだ。


その昔、龍夜が八歳のことである。


山からの帰りに、見るからに異様な犬に出くわした。


歯をむき出して低く唸り、よだれをだらだらとたれ流しながら近づいてきた大型犬である。


それが狂犬病に冒され、飼い主をかみ殺した雄のセントバーナードであると龍夜が知ったのは、後のことである。


その犬に似ているのだ。


表情、特に眼が。


そして身体全体から発するオーラが驚くほど似ていた。


そこにあるのはただひとつ、野性的な狂気のみだった。


――同じ失敗を繰り返すわけには、いかないな。


あの時、龍夜は剣の修行のため、山に入っていた。


手には選りすぐりの硬い樫の木から作られた木刀を持っていた。


子供用ではなく大人が使うもので、祖父の代から三代にわたって受け継がれてきたものだ。


そして突然襲いかかってきたセントバーナードの眉間めがけて、龍夜は全体重を乗せた木刀を振り下ろしたのだ。


並の子供、いや並の大人でも勝負は明らかだ。


木刀一つでは狂犬病のセントバーナードに、まず勝つことはできない。


だが龍夜は並の八歳児ではなかった。


その一撃で龍夜より大きなその犬は地面にぶったおれ、二度と起き上がることはなかった。


しかし龍夜はあの時、無駄に犬を殺してしまったことを後悔していた。


――こいつは吸血鬼になりたてだ。だったら何とか助けられるかもしれない。


見れば御曹司はいつの間にか両手を床につけ、四つんばいになっていた。


「がるるるるるる」


顔は人間だが、声は畜生だった。


そして二本の手で床を強く叩き、同時に二本の足で床を蹴った。


人間ではとうてい不可能な高さまで飛び上がると、そのまま龍夜に向かってナイフのようにすとんと落ちてきた。


龍夜はほとんど動かなかった。


ほんのわずかだけ身体を左に避け紙一重のところでかわすと、御曹司が着地した瞬間、その首に向けて魍魎丸をすぱんと振り下ろした。


御曹司はそのままうつ伏せに床に倒れ、動かなくなった。


魍魎丸が言った。


「まだ息があるようじゃな」


「ああ、みねうちだ。気絶させただけだぜ……で、じじい、こいつの気だが、どんな感じだ? 特に今までの奴らに比べて」


「うむ、人間でない邪悪なものに操られてはおるが、まだほとんど人間の気じゃな。そこがいままでの奴らと、大きく違うようじゃな」


「やっぱりそうか。で、こいつは吸血鬼になってまだ日が浅い。親玉を倒したら人間に戻ると思うか」


「必ずとは言えんが、戻っても不思議ではないのう」


「そうか」


龍夜は再び、あの犬を思い出していた。


――あいつの代わりといっちゃあなんだが、こいつだけは助けてやりたいぜ。


龍夜はそのまま御曹司を見ていた。


その時である。


――来る


龍夜が飛んだ。


次の瞬間、何かがさっきまで龍夜のいた場所を、一瞬で駆け抜けた。


それはとてつもない速さで移動したかと思うと急に止まり、龍夜のほうに振り返った。


それは狼であった。


いや正確には狼ではない。


そいつは首から上は完全に狼となっていた。


しかもその頭は通常の狼よりもひとまわりは大きものであった。


しかし顔以外の裸の上半身は、狼と言うよりほどんど人間と言ってよい姿である。


ただ人間と大きく違うところがひとつあった。


それは全身に濃い灰色の深い毛がはえていることだ。


そしてその体の中でも、胸板の厚さと首と肩まわりの筋肉の発達が、尋常ではなかった。


それは人間がいくらボディビルで鍛え上げたとしても、これほどの筋肉を身につけることは、到底不可能であろうと思えるほどの筋肉の量である。


下半身には黒い皮のズボンをはいていたが、その上からでも上半身と比べると、ほっそりとしていることが見てとれた。


その足の丸みは人間の足に近い膨らみ方をしていたが、その関節の曲がり方は、明らかに四足動物の後ろ足のそれである。そして何よりその身長が、ゆうに二メートルは超えていた。それほどの巨体でありながら、先ほどは疾風のような速さで龍夜の横を駆け抜けて行ったのだ。


そしてその巨大な狼の右手には、一振りの剣が握られていた。


それは西洋流の両刃の剣で、それもバスタードソードと呼ばれている剣である。


バスタードとは私生児を意味する。


刺突型の剣と切斬型の剣との両方の特性をもち、雑種、混血の剣ということからその名がついた。


名が示すとおり両手でも片手でも使用でき、斬るにも突くにも適している。


それだけに自分の手足のように使いこなすにはかなりの熟練を要するが、もし使いこなすことが出来れば、これほど実践的な武器は他に無い。


前に戦ったカルロスと言う男が使った大鎌とは対極にある武器である。


それを構えて狼男が言った。


「やはり弱い人間を吸血鬼にしても、戦力としては役に立たないようだな。伯爵様のおっしゃるとおりだ」


「出やがったな」


「おうっ、我が名はヴォルフガング。きさまとあい交えること、楽しみにしていたぞ。小僧、神妙に勝負しろ!」


龍夜がその半獣半人の男を鋭い眼で見据えた後、にやりと笑った。


「一対一でか」


「一対一だと言いたいところだが、もうわかっているだろう。もう一人いることを」


「うん、僕ちゃん、それ知ってるよ」


「こいつ、ほんとにふざけた野郎だ。その減らず口、きけないようにしてくれるわ。クリフトフ、出て来い!」


その声に答えるように、上から何かが音もなく落ちてきた。


そして亡霊のようにふわりと移動し、龍夜の後ろに立つ。


ヴォルフガングの立っている位置とは真反対の方だ。


そいつは姿かたちはヴォルフガングとほぼ同じだった。


ただわずかばかりだがヴォルフガングに比べると、体が全体的に丸みをおびている。


人間で言うと、やや小太りといったところか。


そしてさらに違うところは、その身長である。


ヴォルフガングと比べてかなり低く、仮に日本人の女性と比べたとしても、低いほうにあたるくらいの身長しかなかった。


そしてそいつは右手にはモルゲンスタイン、左手にはマン・ゴーシュを持っていた。


モルゲンスタインはモーニングスター(明けの明星)とも呼ばれている武器で、鉄の棒の先に無数の棘がはえた鉄球がついている武器である。


相手の体にあたれば棘が肉にささり、同時に鉄の玉で骨を砕くというしろものだ。


そして左手のマン・ゴーシュは、龍夜にとってはさらに注意を要する武器である。


基本的には鋭利な刃先で相手を貫く短剣であるが、刃のつけねの両側に、日本の十手の根元にあるような敵の剣を受け止める特殊なくぼみが、左右に二つついている。


敵が下手に切りつけてそのくぼみに刃先が入れば、そのままひねって相手の剣をへし折ることができるという、異形の武器だ。


使いこなすには、双方ともにバスタードソードと同様、かなりの熟練を要する武器である。


しかしクリフトフと呼ばれるその男は、それを右手と左手に一つずつ持っているのだ。


龍夜が二人を交互に見た。


「前回に引き続き、あいも変わらずまたデコボココンビかい。しかし体力勝負の前の奴らと違って今回は、二人とも構えが見事にさまになっているな。どう見ても、強ええぜ。まいったなあ。勝つのはそうとう厳しいかも」


魍魎丸が言った。


「龍夜よ。人間はどうせみな、一度は死ぬんじゃから。でもその前に、やることはちゃんとやっとかんとのう」


「いいこと言うぜ、くそじじい。ほんと、そのとおりだぜ。ここは当たって砕けろだ。気合入れて行くぜ!」


そして龍夜は、魍魎丸にだけ聞こえるように、小さな声で言った。


「俺の考えていることは、わかっているよな。チャンスは一度しかないぞ。失敗すれば二人ともあの世行きだぜ。くれぐれもタイミングを間違えるなよ」


魍魎丸が答える。


おう、わしにまかせとけ――


龍夜は体をクリフトフの方にむけた。そして走った。


「クリフトフ、行ったぞ」


「まかせろ」


クリフトフはモルゲンスタインとマン・ゴーシュを構えなおした。


――さて、どうくる。


基本的には、マン・ゴーシュで魍魎丸を受け止めた後、マン・ゴーシュをひねってその刃を折り、それと同時にモルゲンスタインを龍夜の頭に叩き込むのが定石である。


決まれば龍夜と魍魎丸を同時に倒すことができる。


しかしクリフトフは考えた。


――あの小僧は、すでに仲間を三人も殺している。それも自分は何のダメージを受けることなく。身体能力はもちろんのこと、その剣術の腕の方もなかなかたいしたものだ。あいつならそれくらいの戦術など百も承知だろう。


ヴォルフガングはしばらく走る龍夜を黙って見ていたが、ふと勝機を感じ、龍夜に向かって走った。


龍夜がクリフトフとやりあっているその隙に、後ろから攻撃をしかけようと考えたからである。


龍夜は魍魎丸を上段に構えると、真っ直ぐにクリフトフに突っ込んで行った。


そしてそのまま魍魎丸を、クリフトフの頭上めがけて思いっきり振り下ろした。


――なんだと、バカな。いや、バカかこいつは。


クリフトフはマン・ゴーシュで魍魎丸を受けた。


魍魎丸はマン・ゴーシュの刃上を火花を発しながら滑り、根元にあるくぼみの中にすぽりとはまった。


と同時に、龍夜が魍魎丸でマン・ゴーシュを力強く押した。


マン・ゴーシュは魍魎丸に押されかけたが、クリフトフが踏ん張り、魍魎丸を下から力いっぱい押し返した。


一瞬、龍夜が魍魎丸を押す力とクリフトフがマン・ゴーシュを下から突き上げる力が、同じとなった。


――今だ!


クリフトフはマン・ゴーシュをひねって、魍魎丸の刃を折ろうとした。


それと同時にモルゲンスタインを龍夜の頭をめがけて横殴りに振った。


次の瞬間、魍魎丸がマン・ゴーシュを押す力が、突然なくなった。


マン・ゴーシュを下からめいいっぱい押し上げていたクリフトフの体が、マン・ゴーシュとともに軽く浮いた。


下を向いたクリフトフの目の端に魍魎丸が見えた。


それは刀の柄の部分だけとなっていて、刃の部分が完全に消えていた。


龍夜はクリフトフと逆に、マン・ゴーシュを押していた魍魎丸の刃がなくなったために、その上半身が前のめりに倒れていった。


そしてクリフトフより身長が高い龍夜の頭が、クリフトフのあごの下まで下がってく。


クリフトフが力強く振り回したモルゲンスタインが、龍夜の頭上をかすめて空しく通りすぎた。


その時クリフトフの目の下で、紫色の光が強く輝いた。


次の瞬間、クリフトフの腹を激痛が襲った。


――なにっ?


見れば、さっきは完全に消えていたはずの魍魎丸の刃が再びその姿を現わし、クリフトフの腹を真っ直ぐ貫いていた。


――しまった!


クリフトフは気がついた。自分の油断をつかれたことを。


マン・ゴーシュの使い手にとって一番隙が出来る時、あるいは喜びに体が震える瞬間は、敵を倒した時でもなく、相手の武器をへし折った時でもない。


それはマン・ゴーシュで相手の刃物を完全に捕らえた時なのだ。


クリフトフはリリアーナの水晶玉を通して、龍夜がカルロスとドウシャンの二人を相手に戦っているのを見ている。


その時、魍魎丸の刃の部分が現れたり消えたりするのを、その目でしっかりと見ていた。


――あの奇々怪々な武器には、十分注意をはらわなければならない。


そう心に強く刻んでいたはずだった。


ところがマン・ゴーシュで魍魎丸を捕らえた瞬間、そのことを完全に忘れてしまったのだ。


魍魎丸が言った。


「あとがつかえているんでのう。さっさとに吸わせてもらうぞい」


その言葉のとおり魍魎丸は、クリフトフの血を全て一気に吸いとった。


龍夜が素早く魍魎丸を引き抜く。どたりと倒れたクリフトフの体は、数瞬後真っ白い灰へと変化していった。


龍夜は振り返り、猛スピードで迫り来るヴォルフガングに備えて、魍魎丸を構えなおした。龍夜は思った。


――やったぞ、うまくいったぜ。これで残るはあと一人だ。


次の瞬間ヴォルフガングが龍夜に追いつき、バスタードソードを両手で持ち、全体重を乗せて振り下ろしてきた。


「きさま! よくもクリフトフを」


龍夜がバスタードソードを魍魎丸で受ける。


ガツン


龍夜が予想していた以上の大きな音がした。


そして龍夜の体は振り下ろされたバスタードソードの衝撃に押され、上半身が後方に流れた。


龍夜はバランスを崩し、後ろに倒れそうになった。


そこをヴォルフガングがバスタードソードで、たて続けに攻撃をしかけてきた。


その動きは龍夜には、剣術というよりもなにかしらの舞踊を踊っているかのように見えた。


見ようによっては、一級の大道芸人が道具を使って見せるパフォーマンスにも、見えなくもない。ヴォルフガングはバスタードソードを右手、左手、両手と、目にも止まらぬ速さで次々と持ち替えながら、右から左から、上から下からと、矢継ぎ早に剣を振ってきた。おまけに時折不意に、突きも混ぜてきている。


龍夜はその連続攻撃を、魍魎丸で受けることで精一杯だった。


崩れかけている体のバランスを立て直す暇など、まるでなかった。


反撃など論外である。


後方に倒れるぎりぎりの状態で、さがりたくもないのに徐々に後ろに後退し続けている。


まさに防戦一方であった。


――これはものすごく、やばいぜ。このままではやられてしまう。


そう不安がよぎった龍夜は、ふとあることに気がついた。


それは自分がクリフトフと同じ過ちを犯してしまっていたことである。


クリフトフの最大の敗因は、マン・ゴーシュで魍魎丸を捕らえた瞬間に喜びのあまりに心に隙が出来たことだが、龍夜はそれと同様の過ちを繰り返していたのだ。


一対二で戦う時、一人しかいない戦力の側の人間が一番気を抜くのは、二人を倒した時ではない。


二人のうち一人を倒した時である。


クリフトフを倒した瞬間ほんの一瞬ではあるが、龍夜の心の中にわずかな隙ができた。


そのごく小さな隙を、今目の前にいるヴォルフガングにつけ込まれたのだ。


――自業自得かい。とかなんとか言ってる場合じゃないぜ。このまま好き放題に攻撃されているだけじゃあ、いつかは本当にやられてしまう。


一流のダンサー、あるいはパフォーマーのように素早くそして華麗に動くヴォルフガングを見て、龍夜は考えた。


――こうなったら、一か八かしかない。失敗したら確実に殺されるが、このままでも結果は同じだぜ。


龍夜はヴォルフガングがバスタードソードを両手で上段に構えた瞬間、力を込めて上半身を強く固めた。


そして下半身のほうはそれとは逆に、全ての力を抜いて脱力状態にした。


そこへヴォルフガングがバスタードソードを力強く振り下ろして来る。


バスタードソードと魍魎丸が激しくぶつかった。


次の瞬間、ヴォルフガングが我が目を疑う事が起きた。


ヴォルフガングはバスタードソードが魍魎丸で受けられるところは、はっきりと見た。


ところがその直後、龍夜の姿が一瞬にして目の前から消えたのだ。


――なにっ?


次にヴォルフガングが見たものは、二本の棒のようなものが、下からせり上がってくるところである。


ヴォルフガングは一瞬、それがいったいなんであるのか、まるでわからなかった。


そしてそれが龍夜の二本の足が逆さまになっているものだと気がついた時には、すでに龍夜が魍魎丸を構えた状態で目の前に立っていた。


――おのれっ小僧、こしゃくなまねを。


この時になってはじめて、ヴォルフガングは龍夜がどう動いたのかがわかった。


下半身の力を全て抜いていた龍夜は、バスタードソードの振り下ろされた力を利用して、床に向かって背中から一気に倒れた。


そしてそのまま背中、肩、頭を使って体を一回転させて、ヴォルフガングの前に再び立ったのだ。


龍夜が言った。


「ふう、これでやっと最悪の状態は、まぬがれたな。危なかったぜ」


「おい、小僧、なかなかあじなまねをしてくれるじゃないか」


「へえーっ、俺が今何をやったのか、もう気がついたのかい。あんたやっぱり、才能あるわ。でも俺が一回転している間は、さすがにそれがわからなかったようだな。あの瞬間に見抜かれたら、何も出来ずに一方的にやられていただろうな。あんたの背が高くてほんと助かったぜ」


身長が高い者が自分より低い者を攻撃するときは、やや見下ろすかっこうになる。


しかしそれでも目の前の相手が瞬時に床に倒れればそれを目で追うことは、背の低い者と比べればやはり難しいであろう。


身長のある者は背の低い者より、下方に対して基本的に死角が大きいからである。


龍夜はそのことを言っているのだ。


ヴォルフガングは龍夜の言った意味を、全て瞬時に理解した。


――うれしいぞ、うれしいぞ、この小僧。ここまでこの俺を楽しませてくれるなんて。思ってもみなかったぞ。


ヴォルフガングの全身の血が、熱くたぎっていた。


彼は遠い昔を思い出していた。


吸血鬼となるその前は、ヴォルフガングは彼の祖国のドイツにおいて、王からも国民からも厚い信頼を受けていた地位も名誉もある騎士だった。


それは勇者と呼ばれて、生きる伝説となっていたほどだ。


敵と正々堂々と戦い、正々堂々と倒す。


一度もおくれをとったことはなかった。


騎士としての自分に大きな誇りを持っていた。


そのナイトの誇りが何百年かぶりに、今よみがえって来ている。


――こいつとは剣だけで、フェアな勝負を貫きたいものだ。


しかしヴォルフガングは伯爵から、〝どんな手段を使ってもいいから、やつらを必ず殺せ〟と命を受けていた。


今の彼の主は、残念なことに祖国ドイツの王ではない。


伯爵が今の彼の主なのだ。


不幸にして吸血鬼となった者は、伯爵に逆らうことが出来ない心と体になってしまうのである。


それがヴァンパイア一族の犯すことの出来ない掟なのだ。


彼の心の中にある種の悲しみのようなものが芽生えはじめていた。


それは彼が吸血鬼になって以来、久しく感じたことのなかった人間らしい感情である。


しかしヴォルフガングは鉄の意志で、その湿った心を振り払った。


そして龍夜の目を鋭い眼で見据えた。


「おい小僧、お前は本当にたいした奴だ。尊敬に値すると言っても、決して過言ではない。私のこれまでの人生においても、お前が最高の剣の使い手だ。お前のような奴とは正々堂々と剣だけの勝負がしたかった。しかし伯爵様は言われたのだ。どんな手を使ってもお前を殺せと。私は残念なことに伯爵様の命令には逆らえない。どんな手を使っても、剣以外の手段を使ってでも、お前を必ず殺す。……どうかこんな私を許してくれ」


龍夜は少なからず驚いた。


仮にも吸血鬼と呼ばれる存在が、こんなにも真っ当なことを言うとは想像もしていなかったからである。


しかもこの男は今、剣だけではなくそれ以外の手を使ってでも龍夜を殺すと、自ら言っているのだ。


剣だけでもよく言って龍夜と同等、へたをすれば龍夜より勝っているかもしれないのに、その上に剣以外のなにかの攻撃をプラスすると宣言しているのである。


――こいつはおそらく吸血鬼になる前は、ひとかどの人物だったのに違いない。その男が剣以外の何かを使うと、わざわざ敵であるこの俺に言っている。しかし剣以外の、いったい何を使うと言うのだ。


龍夜にはわからなかった。


見たところバスタードソード以外の武器はどこにも見当たらない。


隠剣のようにどこかに隠している可能性もあるが、いくら探してもやっぱりその様なものは何も目にとまらなかった。


「では小僧、まいるぞ」


龍夜がそんなことを考えていると、ヴォルフガングが言った。


そしてバスタードソードを構えて龍夜にむかってきた。


それは先ほどと同じく、惚れ惚れするほどの見事な連続攻撃である。


すでに下半身が安定している龍夜だったが、それでもヴォルフガングの攻撃をしのぐだけでせいいっぱいであることに、なんら変わりはなかった。


――くそっ、さっきよりはずいぶんましにはなったが、それでもやっぱりそう簡単には反撃の隙を与えてくれそうにはないな。しかしこいつこの状態から、いったい何をどう仕掛けるつもりなんだ?


ヴォルフガングは両手でバスタードソードを上段に構えると、力強く振り下ろしてきた。


龍夜が魍魎丸でそれを受ける。


二人の動きが一瞬止まった。


その時である。


なにかが横から飛んできて、龍夜の左側頭部に当たった。


強い力だ。


龍夜はその勢いに負けて、よろけて再び体のバランスを崩した。


そこへヴォルフガングが待ってましたとばかりに、バスタードソードの連続攻撃を仕掛けてきた。


龍夜は下半身のバランスをくずしたまま、ヴォルフガングの嵐のような攻撃を受け続けた。


――なんてこった! せっかく捨て身で体勢を整え直したのに、あっと言う間にもとに戻っちまった。これはまじでやばいぜ。……いやそんなことよりも、さっき俺の頭を横から叩いたもの。あれはいったいなんだったんだ。


そう考えながらも防戦一方の龍夜に対して、今度は右側頭部を何かが強く叩いた。


龍夜はさらにバランスを崩して、床の上に倒れた。


「死ね!小僧」


ヴォルフガングが龍夜にむかって、バスタードソードを突きたててきた。


龍夜は床に転がったまま体を横に回転させて、その刃をなんとか避けた。


そしてそのまま床の上を素早く転回し、その体勢のまま片手で床をはじくと、すっくと立ち上がった。


龍夜は少し離れた場所で硬い石の床に突き刺さったバスタードソードを抜いているヴォルフガングを見た。


それは一見前と、どこも変わっていないように見える。


しかし一つだけ前とは大きく変わっているところがあった。


それはヴォルフガングの尻尾である。


通常狼の尾はそれほど長くはない。


ヴォルフガングの尾も最初はそれほど長くはなく、とても攻撃に使えるようなしろものではなかった。


ところが今のヴォルフガングの尾は、まるでムチか何かのように長く延びていた。


今のその尾の先端は、ヴォルフガングの頭の上よりかなり高いところにある。


そしてその尾の先端が、ゆらゆらと左右に揺れていた。


「尻尾か! この狼野郎」


その龍夜の声を聞いたヴォルフガングが笑った。


顔が狼なのでその表情はわかりにくいはずなのだが、その時のヴォルフガングは確かに笑っていた。


「そうさ小僧。この俺には剣での攻撃に加えて、尾での攻撃が可能だ。そのことが何を意味するかは、おまえなら言わずともわかっているだろう。もう遊びは終わりだ。決めさせてもらうぞ。覚悟しろ!」


ヴォルフガングが向かって来た。


相変わらずのバスタードソードによる連続攻撃であるが、龍夜はやはり受け専門で、反撃の機会をつかめないままであった。


――くそっ。こんなことしているうちに、尻尾の攻撃が必ずまた来る。


攻撃はすぐさまやってきた。


ヴォルフガングの太く長いその尾は、今度は龍夜の脳天めがけて、真っ直ぐに振り下ろされた。


それは先ほどとは比べ物にならないほど強烈な一撃だった。


龍夜の身体に電気が稲妻のように走り、その全身がしびれる。


龍夜の手から魍魎丸が離れて床に落ちた。


「とどめだ!」


ヴォルフガングがバスタードソードで突いてきた。


龍夜はまだ思うようにならない体をなんとか回転させてその刃をかわしたが、避けるのでせいいっぱいだった。


龍夜は回りながら床にうつ伏せに倒れた。


「龍夜!」


床に落ちていた魍魎丸が飛んだ。


そしてヴォルフガングの体を貫こうとした。


しかしその魍魎丸を、十分にしなっていたヴォルフガングの尾が、上から垂直に襲ってきた。


「ぐわっ」


魍魎丸は激しく床に叩きつけられた。


「くそっ」


魍魎丸は再び飛ぼうとした。


しかし、するりと伸びてきたヴォルフガングの尾が、すばやくその柄に巻きついた。


「くそっ、離せ! こいつめ」


魍魎丸は必死で暴れたが、ヴォルフガングの尾が柄にしっかりと絡みつき、全く動くことが出来なくなっていた。


「いくら暴れても、無駄なあがきだ。おまえは後でゆっくりと始末してやる。まずはこの小僧からだ」


ヴォルフガングはそう言うと、まだ不自由な体ながらもなんとか起き上がろうとしていた龍夜の背中の上に、どすん、と馬乗りになった。


「おまえは本当にたいした奴だった。おまえとは剣のみで真剣勝負をしたかったと、心の底から思ったぞ。しかしこれも運命だ。しかたがない」


ヴォルフガングはバスタードソードを両手で逆手に持つと、それを龍夜の背にむけて構えた。


「それじゃあ小僧。今度こそ、死ね!」


その時である。


バン、バン、バン、バン、バン、バン


重く乾いた音が、連続してホールじゅうに響きわたった。


「なにっ?」


ヴォルフガングはその体のバランスを崩した。


そして倒れそうになりながらなんとか踏ん張っているヴォルフガングの腰と龍夜の背中との間に、隙間ができていた。


――今だ!


龍夜は右手で床を強く叩いた。


龍夜の体はくるりと反転し、仰向けとなった。


その時すでに、龍夜は両手を構えていた。


その拳は軽く握られ、両手の人差し指だけが、ぴんと真っ直ぐ伸びていた。


そして龍夜は上半身を起こすと同時に、その両の人差し指をヴォルフガングの両目の中に、思いっきり突っ込んだ。


「ぐわーーーっ!」


龍夜の二本の人差し指は、根元まで完全にヴォルフガングの目の中に入っていった。


そしてその指先は、ヴォルフガングの脳にまで達していた。


魍魎丸を捕らえていたヴォルフガングの尾の力が、すっと抜けた。


「今じゃ! きさま、よくもやってくれたな」


魍魎丸は飛んだ。そしてヴォルフガングの背中から腹へと突き抜けた。


その時魍魎丸の刃先が、龍夜の右頬をかすめた。


傷は浅かったが、龍夜の頬から血が少し流れだしている。


――おいおい、このままじゃ魍魎丸が、俺の血まで吸ってしまうぜ。


龍夜が指を抜き、頭を左にかわす。


「死ね!」


魍魎丸はそう叫ぶと、ヴォルフガングの血を一気に吸った。


クリフトフの血を一気に吸ったのは、後ろからヴォルフガングが迫ってきていたからであったが、今回は腹いせに一気に吸ったのだ。


血を吸い尽くされたヴォルフガングは、やがて灰の塊となった。


その灰が崩れて魍魎丸とともに龍夜の体の上に落ちてきた。


龍夜は魍魎丸を右手で持つと立ち上がり、残った体の灰を左手で払いのけながら、魍魎丸に向かって怒鳴った。


「このバカ! くそじいい! おまえもう少しで、俺の顔面を貫くところだったぞ。ちっとは気をつけろ!」


「すまん、すまん。少しばかし、慌てていたもんでのう」


「今度やったら、ただじゃすまないからな。わかったか!」


「わかった、わかった。悪かった。そう怒るな」


「本当に気をつけろよな。……で、それはさておいて」


龍夜は首だけを動かして、横を見た。


そこには男が一人立っていた。


その手には拳銃が握られている。


二階堂進である。


「やっぱり、あんたか」


二階堂が龍夜に歩み寄ってきた。


「ああ俺だ。危ないところだったみたいだな」


「おおっ、うそ、大げさ、まぎらわしい抜きで、危ないところだったぜ。あんたが助けてくれなかったら、こんな色気のないくそじじいと心中事件になっていたところだ。礼を言う。本当にありがとう……おいこら魍魎丸、こちらにおられるお方は、おまえの命の恩人だぞ。黙ってないでおまえも、さっさとお礼を申し上げないか」


「わかった。確かに命の恩人じゃ。二階堂さんとやら、お礼申し上げる」


「よしよし、魍魎丸はいい子だ……で、おっさん、こんなところに何しに来たんだ」


二階堂は苦笑いした。


「命の恩人になっても、おっさんは変わらんのか……まあそんなことはいいとしてだ、カンだよ、カン」


「聞くだけやぼだったな。さすが異能力者だ。俺の身に危険が迫っていることを、察知したわけだな」


「おまえじゃない」


「へっ? 俺じゃないって」


「なんじゃあ、わしかあ。残念じゃったのう、龍夜。刑事さんはおまえなんかより、わしの方が好きみたいじゃな」


「魍魎丸でもない」


「なんじゃと、わしじゃないじゃと」


「だったら、誰だい?」


「残るは一人しかいないだろう」


龍夜と魍魎丸が同時に言った。


「ゆづきか!」


「そうだ、ゆづきだ」


「おっさんはゆづきの身の危険を感じて、こんなへき地の山奥深いド田舎の字大字まで、わざわざやって来たって言うのか」


そう言った龍夜は、二階堂には何故かとても嬉しそうに見えた。


「そうかあ、そうだったのかあ。おっさんやっぱり俺の思ってたとおり、ロリコンだったんだな。危ねえ、危ねえ……ちょっとお、冗談だよ。そんなににらむなよな。そんなことより、とにかくこれはものすごくいいことを聞いた。おっさんはゆづきの危機を感じ取れるというわけか。いやあーっ、ほんとによかったぜ」


龍夜がぽんぽんと二階堂の肩を叩く。


二階堂が聞いた。


「何がそんなに、よかったんだ?」


「まあ、その話は後だ。今はゆづきを助けるのが先だ」


「で、そのゆづきは何処にいる?」


その二階堂の言葉を聞いた龍夜は、なぜかひどく驚いているように見えた。


ややあって龍夜が言った。


「……おっさん、ゆづきの危機は感じ取れるのに、ゆづき自身の気は感じ取れないのかい?」


「そうだが……それがどうかしたか?」


「あっちゃーっ、まったくなんて異能力なんだ」


「なにが、あっちゃーっ、だ。いったい何をそんなに驚いている」


魍魎丸が口をはさむ。


「まあ言ってみれば、一流の懐石料理はうまく作れるが、カップラーメンはうまく作れない、みたいなもんじゃな」


龍夜が続いた。


「そうそう、マウンテンバイクの競技で優勝するのに、ママテャリはうまく乗れない、みたいなもんだな」


「そういうものなのか」


「そういうものじゃ」


「うん、そういうもんなんだ……まっ、それはそうとして、俺も魍魎丸もおっさんと違ってゆづきの気は感じられるぜ」


「でもおぬしとわしとでは、ミサイルと竹やりくらい違うぞい」


「うるっせえなあ、じじい。こんだけ近ければ、ほとんど変わらないだろうが……って、こんな事でもめてる場合じゃなかったな。それじゃあゆづきを助けに行くぜ」


龍夜は歩き出した。


玄関ロビーの左のほうに二つの扉が見える。


龍夜はその奥の扉の方に歩いて行った。


二階堂が何も言わずに龍夜の後について行く。


龍夜は扉の前に行き、その扉を開けた。


そこは暗く細い廊下である。


龍夜はその廊下を進んで行った。


二階堂が後に続く。龍夜は一つめの扉の前を通り過ぎ、奥にある二つめの扉の手前で立ち止まった。


「うーん、ここだな」


龍夜は壁の一点を見つめると、そこに向かって魍魎丸を突きたてた。


「ぎゃっ!」


壁の向こうから、高く短い叫び声が聞こえてきた。


龍夜は何事もなかったかのように、ドアノブに手をかけた。


「うんっ? なんだあ。いっちょまえに、鍵がかかっているじゃないか。偉そうに。そういうことなら、せーので、はい」


掛け声とともに、ガテャリ、と鍵の開く音がした。


龍夜はただドアノブを掴んでいただけだというのに。


――なんだ? 今いったい何を、どうやったんだ……こいつ、こんなわけのわからん手品を使って、俺のマンションの鍵も開けたんだな。もしこいつが本気で泥棒しようと思ったら、まさにやりたい放題だ。


二階堂はそう思った。


龍夜は二階堂の思いに気づかないまま鍵の開いたドアを開け、部屋に入った。


続いて二階堂が中に入る。




そこはうす暗くて、この屋敷の大きさから見ればあまり広くない、と言うよりかなり狭い部屋である。


二階堂は部屋に入ってからまず、魍魎丸の突き刺さっているあたりを見た。


そこには女がいた。


胸のところが大きく開いた黒いドレスを着た、白人の豊満で若く美しい女である。


その女は壁を背にして立っていた。


そして魍魎丸がその女の胸のところを、後ろから真っ直ぐに貫いている。


魍魎丸の刃は先ほどよりさらに赤く染まっていた。


二階堂が見ている目の前でその女は白い灰となり、崩れて床の上に落ちた。


「おう、ゆづき。こんなところにいたのか。かくれんぼはもう終わりだぜ。この龍夜様が助けに来てやったぞ」


二階堂が龍夜の方を見ると、部屋の奥にある小さなクローゼットの中にいたゆづきを、龍夜が助け出しているところである。


ゆづきは手と足を縛られ、さるぐつわをかまされていた。


龍夜はいったん外に出て魍魎丸を引き抜くと、それを使ってあっという間に、手足の紐とさるぐつわを残らず切って落とした。


「龍夜様!」


ゆづきが龍夜に抱きつく。


「おうおう、ゆづき。さぞ怖かったろうな、かわいそうに。ごめんな、助けるのが遅くなってしまって。ちょっと農道が混んでたもんでな」


「龍夜様。必ず助けに来てくれると、信じておりました」


ゆづきはその大きな目から、大粒の涙を流していた。


その顔は、これまでに二階堂が見てきた十歳の少女らしからぬ大人びた顔ではなく、まるで三、四歳の子供のような幼く無邪気な顔で泣いていた。


龍夜は優しくゆづきの背中をさすっている。それはまるで優しい父親とそれに甘える幼子のように、二階堂には見えた。


しばらくすると、龍夜がしっかりとしがみついているゆづきをゆっくりと体から離し、その顔を覗き込んでにっこり笑った。


「ゆづき、あと一人残っている。とんでもない化け物がな。お前だけでも逃げろ」


「いやです! ゆづきはけっして龍夜様のおそばを、離れませぬ。死ぬ時はいっしょでございます!」


「ばかやろう! もし仮に俺が死んで、お前まで死んでしまったら、九龍の血はどうなるんだ。お前だけは、なにがなんでも生き延びろ!」


「……」


ゆづきは何も言わなかった。


ただその大きな目にいっぱい涙をためたまま、龍夜の目を見つめている。龍夜がまた優しく言った。


「ゆづき、お前はいい子だ。俺を困らせるな。わかってくれるよな」


「……はい」


「そうか、わかってくれたか。ありがとう。おいおいそんな目をするな。俺は必ずあいつをやっつけて、お前のところに帰ってくる。必ずだ。俺を信じろ。それともゆづきは、この俺の言うことが信じられないのか」


「いいえ……ゆづきは龍夜様の言うことなら、全て信じます」


「よしそれじゃあ何も心配せずに、今すぐここから逃げろ」


「はい……龍夜様」


「それっ、行けっ、ゆづき!」


ゆづきはゆっくりと歩き出した。


そして入り口のところで涙を浮かべた目で龍夜の目をじっと見つめた後、部屋を出て行った。


龍夜はゆづきの出て行った入り口をしばらく見つめていたが、やがて言った。


「ふうっ、行ったな。とにかく最低限の目的は達成したぞ」


「ゆづきを助けることだな」


「おうよ。まあ、あとはおまけみたいなもんかな。って、そういうわけにもいかないんだよなあ、これが」


「おい、ちょっと聞いていいか。何故壁の向こう側から、あの灰になった女の立っていた場所がわかったんだ」


「気だよ」


「さっき言っていた、あれか」


「そうだ。ゆづきは視る力を持っている。そしてさっきの女も同じ力を持っていた。二人の気は、びっくりするくらい似ていたぜ。少なくとも〝視る〟力だけは、二人ともほぼ同じだったみたいだな。ただゆづきの気は柔らかくて優しくて暖かい。しかしあの女の気は、ほとんどゆづきの気と同じなのにもかかわらず、針のように鋭く、そして氷のように冷たかったんだ。だからすぐにわかったぜ」


「そうか、わかった。気を探る力とは便利なものなんだな。ついでに聞くが、ゆづきを逃がしたのはいいが、ここは人里からはかなり離れているぞ。十歳の少女の足で、一人で無事にこの夜の山道を帰ることができるのか」


「その点は全く心配はないさ。確かに十歳の少女だが、りっぱな九龍一族の娘だ。ああ見えても走るのはべらぼうに速い。普通の大人が全力で百メートル走るよりずっと速いだろうな。おまけに何時間でも疲れることなく、走り続けることが出来るんだ。フルマラソンを走らせたら、軽く二時間を切るだろうな。だからここからなら一時間も走れば、無事にお家に帰ることが出来るだろう」


「なるほどな。九龍一族とは、やはりたいしたものだな。……って言うか、フルマラソンで軽く二時間を切るだと! 十歳の少女がか。そんなに速いんなら、オリンピックにでも出たほうがいいんじゃないのか」


「おっさん、何をバカなことを言ってるんだ。それなら俺のほうが断然速いぜ。二時間どころか楽に一時間を……いやいやそんな問題じゃなくて、九龍一族はそんなものには全然興味がないんだ。もののけ狩りが全てなんだ。だいたい有名人なんかになったら、もののけ狩り師としてはあれやこれやどれやと、いろいろと差し障りがあるだろうしな」


「そうか、残念だ。日本の金メダルが一つ増えると思ったんだが」


「おいおいおっさん、まだわかっていないようだな。ゆづきもそうだが、もし俺がオリンピックに出たなら、金メダル一つどころか十や二十は楽勝でいけるぜ。もちろん全部ぶっちぎりの世界新記録でな。それが九龍一族というものさ。もう一度念のために言っとくが、九龍一族は金メダルなんかとはまるで違う次元に生きているんだ」


「わかった。九龍一族がどういうものか、少しばかりわかったような気がする。で、お前、これからどうするんだ」


「決まってるさ。ここの親玉を、ぎっちょんぎっちょんにしてやるぜ……そんで、おっさんはどうするんだ」


「お前につきあうさ」


「やっぱりな。おっさんはそう言うと思ってたぜ。ただし命の保障は全然出来ないけどな。それでもいいのかい」


「それでもいいさ。俺は今、猛烈に血がたぎってるんだ。こんなことは生まれて初めてだ。もし今逃げたら、仮に生き延びたとしても、一生後悔し続ける人生になるだろう。そんな人生を送るくらいなら、ここで命がけの大勝負をやるほうがずっとましだ。その結果、たとえ死ぬことになってもな」


「いってくれるぜ、おっさん。かっこいいじゃん。ロリコンの公務員のくせによ。じゃあいっしょにやっつけに行くか。あの化け物を」


「おう、行こうか」


二人は部屋を出た。


そしてそのまま玄関ロビーに向かった。




龍夜はロビーの中央で立ち止まり、目の先にある大きな扉をじっと見つめている。


二階堂が小声で聞いた。


「あの中にいるのか」


龍夜が扉を見たまま答えた。


「ああ、あの中にいるな」


「いったい何者だ?」


「だから言ったろう。ドラゴンの子、だって」


「そのドラゴンの子、がわからん」


「そうだな。おっさんも、もうすぐ死ぬかもしれないし。言っておいたほうがいいだろう」


「そう、俺には聞く権利がある」


「またあ、権利だなんて。これだから公務員は……って、今はやめとこうか。あいつはドラゴンの子。そんでもってルーマニア人だ。この二つでわからないかい?」


「全然わからんなあ」


「もう一度だけ言うぜ。ドラゴンの子、そんでルーマニア人。これだけ聞けば、ホラーマニアなら誰でもすぐにわかるぜ」


「俺はホラーマニアなんかじゃないぜ」


「あれっ? そうだっけ? ロリコンでスプラッターホラーマニアで、女子高生のブルマフェチだとばっかり思ってたけど」


「おいおい、今はそんな軽口はどうでもいいから、早く教えろ」


「せっかちだなあ。せっかちは女の子に嫌われるぜ。で、話を戻すと、おっさんもあいつのことは十分知っているはずだが」


二階堂がその首を小さくかしげた。


「……いや、最初にドラゴンの子、と聞いてからさんざん考えたが、皆目わからん」


「実は日本人なら、と言うより日本だけじゃなくて世界中で有名だけど、知らない人はほとんどいないだろうぜ。なにせ映画やテレビや小説なんかで、いやというほど出てくるし。とは言っても映画なんかに出てくるあいつと、実際あの扉の向こうにいるあいつとでは、ずいぶんと違うけどな。現実のあいつのほうが、比べものにならないほどはるかに強力で凶悪で、とことんやばい存在だぜ」


「そんなにやばいのか」


「ああ、とんでもなくやばいな。まさに怪物やもののけの、王の中の王だぜ」


「それで、そいつはいったいなんなんだ」


「おっさん、ドラゴンの子をルーマニア語で言うと、なんて言うか知っているか」


二階堂は彼の癖なのか、また小首をかしげた。


「……知らん。俺はルーマニア語なんて、一言も知らんしな」


「俺だってルーマニア語なんて、ほとんど知らないさ。ただ一つ、ドラゴンの子だけは特別だ。いやでも知っている」


「だからそのドラゴンの子とは、どういう意味だ」


龍夜は二階堂に近づいた。そして耳元で小さな声で言った。


「ドラゴンの子をルーマニア語で言うと、〝ドラキュラ〟さ」


「ドラキュラ!」


「そう、その名は〝ドラキュラ〟さ。怪物やもののけの、王の中の王だぜ。最も邪悪な存在ただ一人だけが名乗ることが出来る、まさに悪魔の名前だぜ」


「……」


「これでわかったろう。さっきも言ったけど、映画のドラキュラなんかより、はるかに強力で凶悪で、とことんやばい存在だぜ」


「そいつが、あの扉のむこうにいるのか」


「ああ、いるさ。あそこにな。まったく、東洋の東の端にある島国で、地道に小さなことからこつこつともののけ狩り師をやっていたって言うのに。なにを好き好んでヨーロッパのもののけの王の中の王と、戦わなきゃいけないんだ。ほんと運が悪いぜ。……って、愚痴ってる場合じゃないよな、今は。おっさん、とにかく行くぜ」


「ちょっと待て」


二階堂が、マグナム44の銃弾を補充しはじめた。


「おっさん、ちょっと聞いていいか。なんで日本の刑事がそんなぶっそうなものを、持ち歩いてるんだい」


「ある組織から押収した、大事な証拠物件だよ。もちろんみんなには内緒で持ってきたものだがな」


「なるほど。おかげで助かったぜ。日本の刑事が普段持っているようなちゃちな銃弾では、あのバスタードソード野郎の体を、あそこまで動かすことはできなかったろうな。で、それを持ってきたのも、ありがたい夢のお告げってやつかい?」


「そうだ。正確に言えば、夢ではなくて起きている時のカンだが」


「そんなことはどうでもいいだろ。いちいち人の冗談に律儀に反応するなよな。これだから公務員ってやつは。ただ一応言っとくけど、さっきはそのマグマムのおかげで助かったが、ドラキュラ相手に果たしてどこまで通用することやら」


「ないよりは、少しはましだろう」


そう言いながら二階堂は銃弾を詰め終えた。


「まあ、ないよりはほんのちょびっとだけ、ましかもしれないな。で、準備はできたようだな。おっさん、そろそろ行くぞ」


「おう」


龍夜は扉の前に立った。


黒く大きな観音開きの扉がそびえ立っている。


二階堂が続いて扉の前に立つ。龍夜は力を込めて扉を押した。


扉は音もなく開いた。



そこは暗くて広くて湿っぽく、なおかつ豪華な部屋だった。


中世ヨーロッパの宮殿を思わせる豪勢な内装で、ドーム形の天井の高さもそうとうに高い。


正面にあきれるほど大きな窓はあるが、そこは黒く分厚いカーテンで覆われている。


そしてその広い部屋の中にあるものは、奥の隅に高さが三メートルはありそうなろうそくの燭台が左右に二つ、そして奥の真ん中に――おそらく皮製だろう――真っ黒な大きなソファーが一つ。


ただそれだけだった。


そしてそのソファーの真ん中に、白人の男が独り座っていた。


そしてそれは、老人としか言いようのない男だった。


あれが仮に人間だとしたならば、その年齢はゆうに百は超えているに違いないだろう。


その顔には深いしわが、鋭い刃物で切り刻んだかのように無数に走っていた。


そしてなにより問題なのは、その肌の色である。


透き通るように白いという言葉は、肌の美しい女性に対して使う言葉だ。


しかしそれとは全く違う意味で、その肌は透き通るように白かった。


その白は、たとえ白人の肌だとしても、異様な白である。


そしてその白は、まるで死人の肌のように白かった。


そしてその白は、生気というものを完全に捨て去った上に、相手の生気まで奪いかねない白だった。


男が立ち上がった。


身長は二メートルに少し足りないくらいか。


腕も足も胸板も体のありとあらゆるところが、人間としては不自然なほどに細い。


服は濃い赤色のワイシャツを着て、薄い灰色のスラックスのようなものをはいている。


靴は黒い革靴である。


男が言った。


「ようこそ我が屋敷へ、我が部屋へ。ところでおまえたち、本当にたいしたものだな。ここまでやって来るとは。特にそこの小僧。まさか我が下僕達が全て倒されてしまうとは、さすがのこの我も夢にも思っていなかったぞ」


低くて力強くて、そしていったいどのような声帯があのような声を発しているのかと考えてしまうほど、異様に大きく響く声である。それはまるで、巨大なスピーカーから聞こえてくるような声だった。


「……」


「……」


龍夜も二階堂も何も言わなかった。


いや言うことができないでいた。


目の前にいるドラゴンの子と呼ばれている男を、ただじっと見ているだけである。


気を感じることができる能力を持つ龍夜や魍魎丸はもちろんのこと、その能力についてはないに等しい二階堂までが、その男の体から発せられる強大で凶悪な何かを感じとっていた。


再び男が言った。


「お初にお目にかかる。我が名はもう知っているだろう。ドラキュラだ。ところでおまえたちの名は、なんという。ぜひとも聞きたいものだな」


「……俺の名は、九龍龍夜だ」


「二階堂進だ」


「くりゅうりゅうやと、にかいどうすすむか。それがおまえたちの名か。覚えておこう。その名は我が一族を苦しめたものの名として、今後長きにわたって伝えられることであろうぞ。とても名誉なことだぞ、おまえたち。喜ぶがいい。もちろんこの我が後世に、我の新たな下僕達に伝えるのだがな。ただ、まさか聖騎士団もいないこんな小さな島国で、おまえたちのような連中と戦うことになるとは、考えてもみなかったぞ」


龍夜が叫ぶ。


「きさま! 何故この日本くんだりまで、のこのこやって来た!」


「何故? だと。これはこれは異なことを聞くものだな。我は吸血鬼だ。人間の血を吸うために、決まっているではないか」


「そうじゃない! なんで自分の国を捨ててまで、この日本に来たのかと聞いているんだ」


「それはな小僧、ヨーロッパはもう何百年も住んだからな。いいかげん飽き飽きしてしまったという訳だ」


「いや、だから、そうじゃなくてえ、何でわざわざこの日本を選んだのかと聞いてるんだよ。このタコが!」


「どうして日本を選んだのか、だと。なんだ、そんなつまらぬことを聞いておるのか。その答えは実に簡単なことだ。地球儀を回して、それに向かって我がダーツの矢を投げた。たまたま矢が刺さったところが日本だったのだよ。しかしよくもまあこんな小さな国に刺さったものだと、我ながら感心しておったところだ」


「……」


日本を選んだ理由があまりにもくだらなく、あまりにも想像とかけ離れていたために、さすがの龍夜も何も言うことができなかった。


そんな龍夜を無視するかのようにドラキュラが一人で話を進める。


「で、他に何か聞きたいことは、あるのか……なにもないようだな。では話はもう終わりだ。とにかくおまえたちにはきっちりと礼を返してもらわないと、この私の気がすまないものでね。二人ともその礼は、その命で返してもらうぞ」


ドラキュラはゆっくりとワイシャツを引き裂いた。


そしてそれを投げ捨てると頭を上にあげて、両手を天に向かってさし上げた。


「ふうっ!」


ドラキュラが気合を入れると獣人化が始まった。


体じゅうからぞろりぞろりと太い狼の毛がはえてきて、顔を中心にどんどんその姿を変えていく。


二人が思わず見つめているその前で、ドラキュラが狼人間となるまでにそれほど時間はかからなかった。


その姿は、基本的にはヴォルフガングやクリフトフと、あまり大差はない。


ただ一つだけ大きく違っているところがあった。


それはドラキュラの体毛の色である。


その毛は、血のように真っ赤に染まっていた。


ドラキュラがゆっくりと顔を下ろし、二人を獣の眼で見た。


「さて、いよいよ決着をつける時がやってきたようだな。どちらからでもいいから、さっさとかかってくるがいい。それとも二人いっぺんに、お相手してやろうか。そのほうがてっとり早くていいかもしれんな」


「きさま、おとなしく黙って聞いてりゃいい気になりやがって。この野良犬が。これでもくらいやがれ!」


二階堂がマグナム44を構える。


そして一発撃った。


一発だけ撃ったのは、相手の出方を見ようと思ったからに他ならない。


しかしその一発の弾丸は、二人の予想をはるかに上回る結果をまねいた。


パシッ


何か音がした。


鋭くて部屋中に響く大きな音である。


龍夜も二階堂も、その音を何処かで聞いたことがあるような気がした。


見ればドラキュラが、いつの間にか右手を自分の胸の前に差し出している。


そしてその深く真っ赤な毛で覆われた長い五本の指は、全て閉じられていた。


おもむろにドラキュラがその指を開いた。


何かが指の間からぽろりともれる。


それは堅い石の床の上に落ち、小さな音をたてた。


それは信じられないことに、マグナム44の弾丸だった。


ドラキュラは放たれた44マグナム弾を、素手でつかんでいたのだ。


「……まさか。いくらなんでも、そんなことはありえない」


二階堂は焦った。


再びマグナム44を構え直すと、ドラキュラに向けてもう一発撃った。


パシッ


再びあの音がした。


今度はドラキュラの手は、その顔の前にあった。


二階堂にはその動きはあまりにも速くて、全く見ることができなかった。


そしてドラキュラの手はまた握られていた。


その指をドラキュラが開いた。


コン


と音がして、再び弾丸が床の上に落ちた。


激しく動揺している二階堂をしりめに、龍夜が口を開いた。


「なるほど、わかったぞ」


「何がわかったんだ?」


「あの音の正体さ」


「あの〝パシッ〟という音か」


「ああ、あの音は物体のスピードが、音速を超えた時に鳴る音だ」


「音速? ……だって」


「ああ、そうさ。おっさんだって、あの音はどこかで聞いたことがあるはずだ。テレビやなんかでな。俺が最初に聞いたのはまだ小さい頃に、たしか小一くらいだったが、近所に来たサーカスを見に行った時だったな」


「ムチの音か?」


「そうだ、ムチの音だ。そう俺の知っている限り、手動で音速を作りだすことのできる、唯一の道具だ」


「手動で音速を作り出すことの出来る唯一の道具か……」


「そのとおりだ。ムチ使いがムチを振る。そしてムチを逆にふり戻した時、ムチの先端が一瞬で向きを変える。その瞬間に先端のスピードが音速を超える。その時に、あの音がするんだ。あの音はムチで床を叩いて出していると思っている人もいるようだが、ムチで床を叩いてもあんな音はでない。あの音は空中で鳴っているんだ」


二階堂は何も言えなかった。


二階堂とて刑事である。格闘術はそれなりにマスターしている。


ドラキュラの動くスピードが音速以上、つまり時速千二百二十五キロを超えると言うこと。それが何を意味するのかは、十分すぎるほどわかっていた。


格闘技ではよく、「心」「技」「体」、という言葉が使われる。


まず「心」。――つまり精神力。闘争心を含むその人の性格、あるいは思考パターンや人間の器の大きさなども、その意味の中に含まれる。もちろん大事なことである。


そして「技」。――つまり技術、テクニック。これも欠くことのできない要素である。


そして一番基本的な要素である「体」。――これは普通三つの要素に分かれている。


第一に力、すなわちパワー。


重要な要素だ。


そして防御力、あるいはタフネスさ。


これも無視は出来ない項目である。


そして最後に速さ、すなわちスピード。


実は体の三要素の中では、この速さが一番大事な要素であるのだ。


いくらパワーがあったとしてもその攻撃が遅ければ、相手にその攻撃が当たることはない。


逆にスピードが速ければ、相手がその攻撃を避けることが出来ない。


そして攻撃する側の体の大きさが同じであれば、その攻撃が速ければ速いほど、そのパワーもまさに加速度的に増していくのだ。


つまりドラキュラが音速で動けると言うことは、少なくとも二階堂が戦った場合においては、二階堂の全ての攻撃は受けられるか避けられ、逆に二階堂はドラキュラの攻撃を全部受けることになるのだ。


しかも音速に伴って生まれたとてつもない破壊力を持った、その攻撃を。


この事実の前にはパワーやタフネスさはもちろんのこと、心とか技とか言った言葉ですら、何も意味をなさない。


二階堂は生まれて初めて心の底から戦慄していた。


強いということは龍夜から聞いてはいたが、ドラキュラ力は二階堂の想像をはるかに上回っていた。


あまりにも自分とドラキュラの次元が違いすぎる。


――こんな化け物と、いったいどう戦おうと言うのだ?


二階堂の足がわずかながら震え始めていた。


その時龍夜が言った。


「それにしても、やっこさん、ものすごくタフな体をしているぜ」


二階堂の足の震えが止まった。


「タフな体?」


「ああ、タフな体だ。なんだおっさん、知らねえのか。物体が音速を超える時、どういうことが起きるのかを」


「詳しくは、知らんな」


「物体が音速を超える瞬間、あるものを突き破らなければならないんだ」


「あるもの、とは?」


「空気の壁、音の壁、そのままずばり音速の壁。いろんな言い方があるが、その時、物体が音速の壁を超える時、超える物体は超高密度の空気の壁を、突き破らなければならないんだ。その時の衝撃は、かなりすさまじいものだ。ジェット戦闘機の初期の頃、音速の壁を超えた戦闘機はその瞬間に、のきなみ空中でばらばらになってしまったそうだ。普通の飛行機よりはるかに丈夫に造られていたはずの、金属の塊がだぜ」


「そうなのか」


「ああ。もし普通の体の人間が、音速を超えるパンチを放つことができたとしたならば、その代償としてその拳は、バラバラになっちまうだろうな」


「骨が折れるのか」


「折れるなんてそんな生易しいもんじゃないぜ。骨は細かく粉砕され、皮膚はズタズタになり、肉は小さくミンチになるだろうな。つまり拳そのものが文字通り木っ端微塵になって、なくなってしまうだろうな」


「そんなにすごいのか、音速の壁とは」


「ああ、音速の壁とは、それほどすごいものなんだ。ただの空気の壁なんだけどな。しかしあいつは、自らの体を音速で動かしているというのに、少しもダメージがない。だからタフだと言ったんだ。人間の体とはまるっきり造りが違うようだぜ」


「……」


絶句している二階堂を龍夜はしばらく見ていたが、やがて何事もなかったかのように話を進めた。


「で、おっさん、もう気がついているかい。あいつのことだけど」


「……うん? ああ、あれか。とっくに気がついているさ」


二人はドラキュラのその態度の事を言っていた。


ドラキュラは、自分の目の前で二人が一切行動を起こさずにただ延々と話をしているだけだと言うのに、攻撃はおろか、なんの動きも見せようとはしなかった。


両腕をだらりと下げたままで、一人静かにたたずんでいるだけなのだ。


「おっさん、あれ、どう思う」


「あれは……待っているな」


「なにを」


「俺たちが攻撃してくるのを」


「当たり。でもどうして」


「それは……」


「残念、時間切れ。椅子が回ってしまいました。おっさんには、わからないんだろうなあ。俺にはわかるぜ。日本のもののけにも、たまにだけどああいった輩がいるんだ」


「どういうやつだ?」


「仮に相手に好きなだけ攻撃をさせておいて、その攻撃を全て受けたとする。すると受けられた相手は、どうなると思う」


「……まいった、と、思うかな」


龍夜の声が思わず大きくなる。


「おいおい、いったいなに言ってんだよ、おっさん。ほんと、バカじゃねえの。これは全日本なんとか大会とかいった、試合なんかじゃないぜ。殺し合いだぜ。そのあまりにもリアルな戦いの中で、相手に対して自分の攻撃がまるで通用しないとわかれば、その時攻撃した側はどう思うかって聞いてんだよ」


二階堂が、ややあって答えた。


「……絶望感、かな」


「ピンポン、正解。淡路島日帰り旅行が当たりました。おめでとうございます。そう絶望感、そして恐怖心だ。ああいう輩は性格悪いもんで、人間の絶望とか恐怖とかいったものが、ものすごく大好きなんだ。人によっては奴にまだ何の攻撃もされてないのに、命乞いをする奴もでてくるかもしれないな。そうなればああいった奴には、至福の喜びだろうな。だから待ってるんだ。俺たちの攻撃を。そして俺たちの絶望感と恐怖心を」


「嫌な野郎だな」


「ああ、とことん嫌な野郎さ」


「攻撃してこないんなら……逃げたら……やっぱりダメだろうな」


「ああ、逃げた時点で、相手には絶望感と恐怖心があると思って、喜ぶだろうな。そうなればあいつにとって、目的は達成したわけだし、黙って見逃してくれるほどは優しくはないし、間違いなく後ろから一気に叩き潰されるだろうな」


「やはりな。……それじゃあ逃げてもダメだと言うんならあんな奴と、いったいどう戦おうというんだ」


「ああ、おっさんでは無理だ。残念だがてんで役に立たないな。こうなれば一か八かだが、俺と魍魎丸でやるしかない」


「なにを?」


「音速で動ける相手には、こちらも音速で対向するしかないんだ。それ以外の方法はありえないぜ」


ドラキュラを見ながら話していた二階堂が、思わず龍夜の顔を見た。


「えっ? お前、そんなことができるのか?」


「俺一人ではとても無理だ。魍魎丸の助けがいる」


魍魎丸が会話に加わる。


「つまり、こういうわけじゃな。龍夜は人間ばなれした速さを持っておるが、音速まではとうていいかん。このわしも、わしだけで動こうと思えば動けるし速さにも自身があるが、いくらわしでも音速は無理じゃろうな」


「だから二人で力を合わせるのさ」


「いったいどうやって」


「簡単なことさ。仮に俺が魍魎丸を右に振るとしよう。その時魍魎丸も自分自身の力で右に動くんだ」


「馬力が二つというわけじゃな」


「もちろん、俺と魍魎丸の息がぴったりと合わないと、できないけどな」


「それならだいじょうぶじゃろう。わしと龍夜の仲ならな」


「俺とじじいの仲だから、ちょっと心配なんだぜ」


「うるさいわい。おぬし、やるのかやらないのか。どっちなんじゃ」


「もちろんやるさ。正直言うと、あんまりやりたくはないんだけどな。でもこうなったら、仕方がないぜ」


龍夜の曇った顔を見て、二階堂が聞いた。


「本当は、やりたくないのか?」


「当たり前だぜ。いいか、音速を超えるのは魍魎丸の刃先、つまり円の一番外で俺からは一番遠い部分だけだが、それを根元で振り回しているのは、俺自身の両腕だぜ」


「まあ、普通の人間ならば一振りで、肩から先の骨が全部ばらばらになるじゃろうな」


「俺は普通の人間じゃないから、一振りでそうなることはないが、それでも相当なダメージをくらうぜ」


「そうじゃな。早いとこ決めないと、龍夜の腕がいかれてしまうじゃろう」


「でもほかに、これといって方法はないだろうし」


「ないじゃろうな」


「じゃ、そういうことで。おっさん、ちょっくら行って来るぜ。いい子にして待っててね」


浅く笑った龍夜に、二階堂は力なく返した。


「ああ……わかった」


龍夜はドラキュラのほうに歩み寄って行った。


ドラキュラのほうは相変わらず両手をだらりと下げたまま、人形のように立っている。


龍夜が魍魎丸を上段に構える。


しかしそれは、普通の上段の構えではなかった。


上段は通常は頭の上で構えるものだが、龍夜の腕は背中のところまでまわされており、魍魎丸の刃先は床の近くまでのびていた。


龍夜自身の体も後ろに弓のように大きく反っている。


それは〝これからそのまま上から打ち込みますよ〟と大々的に宣伝しているような構えであり、それ以外の行動は絶対にとることができない構えでもある。


それでもドラキュラは、ただ力なくつっ立ったままであった。


目は一応龍夜を見てはいるが――できそこないのオブジェをなんの興味もなくただ見ている――そんな印象だ。


それはどう見ても、軽く一休みしているとしか思えない態度であった。


龍夜が言った。


「よお、ドラキュラさんよ。こんな状態じゃフェイントもへったくれもねえぜ。これからあんたのどたまに魍魎丸を力いっぱい振り下ろすから、受けられるもんなら受けてみやがれ」


龍夜は体を前に倒すと同時に、魍魎丸をドラキュラの脳天めがけて振り下ろした。


パシッ


パシッ


音速を超えた音が二つした。


二階堂には魍魎丸が叩き込まれるところは、あまりにもそのスピードが速かったために、まるで見ることができなかった。


次に二階堂が見たものは、魍魎丸がドラキュラの額の一歩手前で止まっているところだった。


それはドラキュラがその右手一本で、振り下ろされた魍魎丸の動きを止めていたのだ。


龍夜は心底驚いた。


魍魎丸を避けることはあっても、まさかその手で受け止めようとは、頭の片隅にもなかったからである。


幾多のもののけの身体を切り裂いてきた魍魎丸である。


仮に手で受け止めようとしようとしたならば、その手はぶった斬られてしまうだろうと考えていた。


しかし目の前の現実は違っていた。


魍魎丸はなんの武器も持たないドラキュラのその右手で、いとも簡単に受け止められてしまったのである。


正確に言えば、それは手のひらや指ではない。


それは爪であった。


ドラキュラの長さが二十センチはあろうかと思われる黒く光る鋭い爪が、魍魎丸の動きを止めたのだ。


龍夜が言った。


「びっくりしたぜ、本当に。まさかよけもしないで受け止めてしまうとは、全く考えてなかったぜ。それにしてもあんた、えらく固い爪を持ってるな。魍魎丸でも斬れないなんて」


魍魎丸が続く。


「わしもほんとに驚いたわい。体の一部とは言え、このわしに斬れないもののけが存在するなんて、思ってもみなかったわい」


ドラキュラも続いて言った。


「我も今、少々驚いているところだ。まさかこの世に、我と同じ速さで攻撃してくるものが存在しようとは、思ってもみなかったわ。ただ残念なことに、我のほうがまだ少しばかり速いようだがな。でも嬉しいぞ。こんな戦いができるなんて。本気で戦える相手が今我の目の前にいるなんて。ドラキュラとして生を受けて数百年も経つが、こんなことは初めてだ。で、次はいったい、何を見せてくれると言うのだ」


龍夜は魍魎丸を構えたまま、少し後ろに下がった。


魍魎丸が聞く。


「龍夜、大丈夫か」


「うーん、正直ものすごく腕がいてえぜ。特に肩のところが。でもまだ少しは戦えそうだ。とりあえず、次は横回転でやってみるぜ」


「うまくいくかのう」


「体のひねりを加えられる分だけ、上からよりは速いはずだ。まっ、ぐちぐち考えてる暇があったら、とにかくやってみたほうがいいと思うぜ」


「わかった。やってみるか」


龍夜は魍魎丸を横に構えると下半身を踏ん張り、上半身をひねりはじめた。


その時二階堂は、龍夜のその細い身体が常人と比べて、異様と言っていいほど柔らかいことに気がついた。


まるで骨など存在しないかのようにも見える。


それはゴム人形をひねったものにも似ていた。


龍夜はそのまま野球のバットスイング、いやそれ以上の回転を加えて、魍魎丸を横に振った。


パシッ


パシッ


再び音速を超える音が二つした。


しかし魍魎丸は、またもやドラキュラの爪にその動きを止められていた。


「ふむ。小僧、確かにさっきよりは少しは速くなったぞ。もう少しで止めそこなうところだったわ。しかしそれでも、我よりはわずかばかりだが遅いようだな。それで次は、どうしようというのだ。いったいどのようにして、我を楽しませくれるというのだ」


龍夜が再び少し下がる。魍魎丸が言った。


「あれでもだめだったか。それで龍夜、腕のほうは大丈夫なのか?」


「えーん、、お父ちゃん、さっきよりももっと痛いよう」


「……そうか。それで、次の手はあるのか」


「バットスイングがだめなら、ゴルフスイングがあるさ。パワーだけならあれが一番だぜ。見てのとおり、相手は受ける気満々だしな」


「やるのか」


「やらいでかい! それじゃあファイト一発、いくぜ!」


龍夜は魍魎丸をゴルフのクラブのように構えた。


そして柔らかい体でプロゴルファー以上に体をひねると、十分に上半身を回転させてから、下から魍魎丸をドラキュラに向けて、思いっきり打ち込んだ。


パシッ


パシッ


再度、音速を超える音が二つした。


そして魍魎丸は、またもやドラキュラの爪で受け止められていた。


しかしさっきと少しばかり違う感触に気がついた龍夜が、魍魎丸の刃先を見た。


すると魍魎丸の刃先は、ドラキュラの爪にしっかりと食い込んでいた。


「なんだと!」


ドラキュラ思がわず叫ぶ。


その体は怒りのためか、わなわなと震えている。


「小僧! よくも……よくもこの我の大事な爪を、傷つけてくれおったな。許さんぞ!」


パシッ


音速を超える音がした。


それはドラキュラが左手で、龍夜が魍魎丸の柄をつかんでいる手を強く叩いた音である。


あまりの痛みと勢いに、龍夜は思わず魍魎丸をその手から離してしまった。


パシッ


再び音がした。


今度はドラキュラが、龍夜の胸のあたりをアッパー気味に殴りつけた音だった。


二階堂は目を疑った。


龍夜の身体がこちらに向かって飛んでくる。


そしてその体は二階堂の頭上を軽く越えて、入り口近くまで飛ばされて行った。


高さはゆうに七、八メートルはあっただろう。


とてもじゃないが、人間の身体が何かの衝撃を受けたために飛ぶ高さではない。


龍夜の身体はそのまま石造り床の上に思いっきり叩きつけられた。


「龍夜!」


二階堂が龍夜に駆け寄る。


「大丈夫か、龍夜」


「うーん」


龍夜はなんとか起き上がろうとしていた。


その時である。


パシッパシッパシッパシッパシッパシッパシッ


音速を超える音が、連続して聞こえてきた。


二階堂が音のするほうを見た。


龍夜も上半身を起こして、音のするほうを見た。


二階堂には最初、それはいったい何が起こっているのか、よくわからないでいた。


ドラキュラの胸の前あたりに魍魎丸が浮いている。


そして魍魎丸は浮いた状態のまま、ものすごい速さで上下に小刻みに動いていた。


さらに見続けて、二階堂はようやく気がついた。


それは魍魎丸がドラキュラの音速の攻撃を――正確に言えば硬く黒い爪による攻撃を――上からそして下からと連続して受けているところである。


魍魎丸が浮いているのは、自身の力で浮いているのではなかった。


下に落ちる暇もなく攻撃を受け続けているので、浮いているだけである。


パシッパシッパシッパシッパシッパシッパシッ


何回その音が続いたろうか。


時折小さな声ではあるが、鋭い悲鳴のようなものが聞こえてくる。


その声の主はまぎれもなく魍魎丸のものである。


龍夜がなんとか立ち上がり、細く搾り出すように言った。


「こいつは、いけねえ」


その時突然、音速を超える連続音が聞こえなくなった。


見ればドラキュラは攻撃するのをやめていた。


空中に浮いていた魍魎丸が床の上に落ちた。


それは刃の部分が消えて、柄の部分だけになっていた。


「あちゃーーっ、やばいぜ。魍魎丸がやられちまったぜ」


「まさか、死んだのか」


「いや、死んではいない。わずかばかりだがまだ気が感じられる。気を失っているだけだ。ただダメージがかなり大きいな。あの様子じゃ再び日本刀となって戦うまでには、ちょっとばかし時間がかかりそうだぜ」


「時間がかかるって、どれくらいだ?」


「うーん、二、三、ってところかな」


「二、三分か」


「いやいや、二、三日だな」


「そんなにかかるのか!」


「ああ、少なくとも今回の戦いにおいて、魍魎丸が再び参戦することは、じぇんじぇんなくなっちまったな。ドラキュラが二、三日待ってくれるんなら、話は別だけど。交渉しても多分無理だな、こりゃ」


「それじゃああの化け物相手に、どうやって戦うんだ。まさか……素手でか?」


「素手じゃあ絶対無理だ。百回やったら、百回負けるぜ」


「それじゃあーー」


「慌てるな、おっさん。まだ手がなくなったわけではないぜ」


「どんな手が?」


「武器を造る」


「武器を造る……だって?」


「そう、武器を造る……ただそれには、言いにくいんだけど、ちょっとばかし時間がかかるんだな、これが」


「ちょっとばかしって、どれくらいだ」


「それが、まるでわかんねえ」


「なんだって!」


「とにかく俺が武器を造っている間、なんとかあいつの動きを止めといてくれ」


「いったい……どうやって?」


「うーん、それはおっさんにまかすぜ」


「無茶言うな!」


「うるせえ! ごちゃごちゃうるせえぜ、おっさん。このままじゃあ二人ともお陀仏なんだ。これにかけるしか、他に方法はないんだぜ。やるのか、やらないのか、いったいどっちなんだ!」


「……わかった。自信はないが、できる限りやってみよう」


「よっしゃぁ、話は決まったな。それじゃあがんばってね。素敵なおじさま」


そう言うと龍夜は左ひざを床について中腰に座ると、右のひじを曲げて硬く握った拳を自分の額に当てた。


そして目を閉じると、小さな声でなにやら呪文のようなものを、ものすごい速さで呟きはじめた。


ドラキュラはその間、床に転がった魍魎丸の柄を見ていた。


倒したという実感がないことはないが、気を見る能力がほとんどないために自信が持てないでいたのだ。


この日本刀の刃物が突然現れたリ消えたりすることは、リリアーナの水晶玉を通して知っている。


おまけに飛ぶこともできる。


だから油断して魍魎丸に背を向けた時に、後ろから襲われることを警戒していた。


しかししばらく様子を見た後、ようやく魍魎丸が再びその姿を現わすことがないと確信した。


ドラキュラが顔を上げて二人を見る。


その眼の中には激しい怒りの炎があった。


ドラキュラはもともと凶暴で残忍だが、そのうえとてつもなくプライドが高かった。


自分はヨーロッパ一、いや場合によっては世界一の怪物だと自負していた。


自分を傷つける者など、この世に誰一人いないと考えていた。


ところが今夜龍夜と魍魎丸に、自慢の爪に傷をつけられてしまったのだ。


中には半分以上横に切れ目が入ってしまった爪もある。


――よくも我の体に傷をつけてくれたな。あいつら、絶対に許さん!


もうこれ以上遊ぶつもりはなかった。


絶望と恐怖を感じる暇もなく、一瞬で葬りさるつもりでいた。


二人は少し離れた場所にいた。


一人は立ってこちらを見ている。


二階堂である。


その二階堂の表情には、戸惑いと恐怖の色が見てとれる。


そしてもう一人、ドラキュラの爪に傷をつけた張本人は片ひざをついて目を閉じ、そして右手の拳を額に当てて何かを懸命に呟いていた。


――あの小僧、いったい何をやっているのだ? まあいい、どうせすぐに殺すのだから。何をやっていたとしても、もう関係あるまい。


ドラキュラが二人に向かってゆるりと歩き始める。


二階堂はドラキュラがこちらに向かって歩いてくるのを、ただ見ていた。


――どうする?


二階堂は思わず龍夜に声をかけた。


「おい、奴がやって来るぞ。まだか。早くしろ!」


その声に対する反応は、なかった。


龍夜は相変わらず目を閉じ拳を握りしめて、なにかをぶつぶつと呟くばかりである。


――ええいっ、こうなったら、もうやけくそだ。


二階堂は歩き始めた。


こちらに歩いてくるドラキュラのほうに向かって。


その手にはしっかりとマグナム44が握られていた。


ドラキュラは少しばかり驚いた。


明らかに怯えていたと思われた男が、こちらに向かって表面上は平然とした顔で歩いて来るではないか。


しかしドラキュラが戸惑っていたのは、ほんの短い時間である。


やがてドラキュラは鼻で笑った。


――こやつ、単なるはったりか。それとも我に勝てるとでも本気で思っているのか。どちらにしても、こいつは傑作だ。


ドラキュラはその歩みを止めなかった。


このままでは二人の対決はもうすぐかと思われた時、二階堂が真横に走った。


そして壁際まで来るとドラキュラに向かって叫んだ。


「やーいやーい、この野良狼、バカ狼。くやしかったら、ここまで来てみろ」


ドラキュラはしばしの間二階堂を横目で見ていたが、やがて龍夜に眼を向けた。


――ふん、やはりな。あやつにこの我と戦う力なぞ、微塵もない。あんなつまらん奴は後まわしだ。先に小僧のほうを始末してくれるわ。


ドラキュラがそのまま龍夜に向かって行く。


そしてもう少しで龍夜にたどり着けると思った時、ドラキュラの後頭部に何か冷たいものがあたった。


――なんだ?


その直後


バン


乾いた大きな音が、広い部屋中に響きわたった。


「ぐわっ!」


何か硬く小さなものがドアキュラの頭蓋骨を突き破り、その脳に傷をつけ、そして再び頭蓋骨に穴を開けて、外へと出て行った。


限りなく不死身に近いドラキュラのことである。


それぐらいでは死に至るようなことはない。


しかし全くダメージがないかと言えば、嘘になる。


強烈な痛みがドラキュラの頭を襲った。


「くそっ!」


ドラキュラは振り返った。しかしそこには誰一人見当たらない。


次の瞬間、今度はドラキュラの右目を何かが覆った。


バン


再び乾いた大きな音が響く。


「ぎやっ」


その時、ドラキュラの短かった尾が、急に長く伸びた。


そしてその尾が、ドラキュラの周りをなぎ払った。


「うわっ」


ドラキュラが声のほうを見ると、そこには二階堂が倒れていた。


――こいつ、いったいどうやって?


二階堂はすでに起き上がろうとしている。


そこをドラキュラの尾が上から襲った。


「ぐっ!」


二階堂は頭に攻撃を受けて、苦悶の表情を浮かべて床に倒れ、体をよじった。


その足にドラキュラの尾が巻きつく。


二階堂の体はそのまま上に落ち上げられた。


その高さはドラキュラの頭より高かった。


そしてドラキュラが、大きく反動をつけて尾を振った。


「わっ!」


二階堂は飛んだ。


人間の身体が飛んでいるとは思えないほどの激しい速さで。


その体は石造りの壁に強く叩きつけられ、床に落ちた。


二階堂はそのままぐったりと動かなくなった。


ドラキュラは少なからず驚いていた。


ドラキュラには気を感じる能力はほとんどなかったが、かわりに狼になったその耳は人間の何十倍、いや何百倍もの聴力があった。


ドラキュラが少し前に二階堂を見た時は、二人の距離はある程度離れていた。


その状態で二階堂が近づいて来たとしたならば、硬い石の床を革靴で歩くその足音が聞こえないはずはない。


百歩譲って、仮に特殊な技術かなにかでその足音を完全に消すことができたとしても、人間ほどの大きさのものが近づいて来たとするならば、その体が空気を切るわずかな音がドラキュラに聞こえてきたはずだ。


足音でもかなり困難と思えるのに、その上に空気を切る音まで消すことができる人間など、どこにもいるはずがなかった。


しかし現に二階堂は、足音をたてずにその上に空気を切る音さえも消して移動し、身をかがめてドラキュラの背後にまわっていたのだ。


――まさかこんな人間がこの世に存在するとは、全くもって信じられんことだ。本当に驚いたぞ。でもまあよいわ。あやつはもう死んだのだからな。あと小僧一人だ。それにしても頭が割れるように痛いわ!


無理もなかった。


ドラキュラの頭を44マグナム弾が、二発も貫通していたのだから。


おまけに右目を潰されてしまっている。


ドラキュラの怒りは頂点に達していた。


――まっておれよ、小僧。今すぐあの世とやらに、送ってくれるわ。


見れば龍夜は、相変わらずの姿勢でいた。


拳を額に当て、目を閉じて何事かを小さな声で呟いている。


それは周りの音は何も聞こえておらず、目を閉じているせいもあって何も見えておらず、ただ一心不乱に何かを念じている。


そういう様子に見えた。


ドラキュラは龍夜の前に立つと、左手を構えた。


その鋭く長い爪を龍夜の心臓に突き刺すつもりなのだ。


「小僧、いったい何をやっているかは知らんが、そんなことはもうどうでもよいわ。これで終わりだ。死ね!」


その時である。


「お待ちなさい!」


突然声がした。


ドラキュラは声のするほうを見た。


観音開きの大きな入り口のところに小さな人影が、一人ぽつんと立っている。


それは部屋の明るさよりも玄関ロビーのほうが明るいために、完全に黒くシルエットとなっていた。


やがてその影は部屋の中に入ってきた。


その影はゆづきであった。


ゆづきは龍夜を見た。


――龍夜様、何をやっておられるのかは、このゆづきにはわかります。でもまだなのですね。お急ぎください。ゆづきもなんとしてでも、できるだけ時間をかせぎます。


ドラキュラはゆづきをまじまじと見た。


そして思わず笑い出した。


ゆづきは何も言わずに、ただ笑うドラキュラを見ていた。


ドラキュラはそのうちに飽きてきてしまったのか、笑うのを止めた。


そして言った。


「誰かと思えば、こんな小娘がのこのこやって来るとは。この我も、とことんなめられたものだな。しかし小娘、覚悟するがいい。我にむかって来る者は、たとえそれが赤子であろうとも、遠慮なくひねりつぶしてくれるわ」


「言いたいことは、それだけですか」


「何だと?」


「覚悟をするのは、あなたのほうです」


「ほほう、おまえ、なかなか言うではないか。ほんの小娘のくせに。それならお手並み拝見といこうかな」


ドラキュラはゆづきが何かをしてくるのを待った。


しかしゆづきはその場に立ったままで何もせずに、ただじっとドラキュラを見ているだけである。


しばらくお互いに見つめ合った後で、ドラキュラが言った。


「くそう、まだ頭が割れるように痛いわ。おいっ、小娘! 我は今すこぶる機嫌が悪いのだ。お前が何もしてこないというのなら、こちらから行かせてもらうぞ」


ドラキュラがゆづきの方に歩いてくる。


龍夜のすぐ横を通りすぎて、さらにゆづきに近づいて行った。


その時ゆづきが右手を左袖の中に、左手を右袖の中に入れた。


そして両手を袖から出した時、ゆづきの手の中に何かがあった。


それはお札である。ゆづきは梵字の書かれたお札を、左右の手に一枚ずつ、人差し指と中指で挟んで持っていた。


それを見てドラキュラが言った。


「ほほう、それは確か、お札とかいうものだな。そんなただの紙切れを、いったいどうしようというのだ?」


「こうするのです」


ゆづきは二枚のお札を一度に投げた。


それは十歳の少女がただの紙切れを投げたとはとても思えないほどのスピードだった。


お札がまるで弾丸のように、ドラキュラに向かって飛んでいく。


しかしドラキュラのほうが速かった。


ドラキュラは、猛スピードで飛んできたお札を余裕で避けた。


お札はそのままドラキュラの後方に飛んで行った。


それを見てゆづきが言った。


「さすがは、ドラゴンの子、でございますね。この至近距離で放った九龍のお札を、いとも簡単に避けてしまうとは」


「ふん、あんなもの仮に当たったとしても、痛くもかゆくもないわ。わざわざ避けてやったのは、我の速さをお前に見せて、お前が我と戦って勝つことは万に一つも有りえぬということを教えてやったにすぎぬわ」


「確かにその動き、想像を絶する素早さでございます」


「とにかく外れて残念であったな、小娘」


「いいえ、まだ終わってはおりませぬ」


「何だと」


その時ドラキュラは、背中と腰に何かが張り付いたことに気がついた。


そしてその張り付いた何かが、突然大きな炎を発して燃え上がった。


「ぎゃぁ!」


ドラキュラはあまりの熱さに慌てて床を転がり、その炎を消した。


ドラキュラが起き上がるとゆづきが言った。


「ですから申し上げましたでしょう。まだ終わってはおりませぬ、と」


ドラキュラは唸った。


それの唸り声は狼の唸り声そのものであった。


そしてドラキュラが、今度は人間の声で吼えた。


「熱かったぞ! 本当に熱かったぞ! おのれ小娘、いったいどうしてくれようぞ」


ドラキュラはゆづきに歩み寄ろうとした。


するとゆづきが、再び両手でお札を取り出して構えた。


ドラキュラが叫んだ。


「投げてみろ! この小娘が」


ゆづきはお札を投げた。


ドラキュラがお札を楽々避け、そして振り返った。


猛スピードで飛んでいた二枚のお札は、ドラキュラに避けられた後も少しばかりそのまま飛んでいたが、やがて空中でぴたりと止まった。


そして再びドラキュラにむかって来た。


ドラキュラがそれを避けるとまたも空中で止まり、再度ドラキュラに向かって飛んでくる。


ドラキュラはもう一度お札を避けた。


「何度やっても同じだ、小娘」


お札は空中でまたもやぴたりと止まった。


ドラキュラはもう一度自分にむかって飛んでくるであろうお札を見ていた。


その時ドラキュラの背中にまた何かが張り付いた。


それは最初に張り付いたお札と同じ感触だった。


――しまった。


背中を向けているドラキュラに向かって、ゆづきが新たなお札を投げたのだ。


九龍のお札が激しく燃え上がる。


しかしドラキュラは目にも止まらぬ速さで床を転がって、その火を消した。


そして起き上がると、ゆづきをとてつもなく怖い眼で見た。


するとさっきまで空中で止まっていたお札が、今度はドラキュラの首に張り付き、再び激しく燃え上がった。


「ぎゃっ!」


ドラキュラはまたもや床に転がって、炎を消そうとした。


しかし今度ばかりは、首のところで燃えている火を、うまく消すことができなかった。


背中と肩の筋肉が異常に膨れ上がっているがために、首がうまく床に接しなかったからである。


ドラキュラはそれでもしつこく何回も床を転がっていたが、やがて無駄だと悟ると素早く立ち上がり、その火は自らの手のひらでごりごりと押し消した。


その時にはドラキュラは、腰、背中、首と、体の後ろの部分ばかりがかなり燃えていた。


ドラキュラはゆづきを見た。


ゆづきは再び両手を袖の中に入れて、構えている。


その眼は少しも臆することなく、しっかりとドラキュラを捕らえていた。


ドラキュラが再び叫んだ。


「投げてみろ! この小娘が。確かに熱いが、我の命を奪うまでにはほど遠いわ。何百枚と投げようと、無駄なあがきだ!」


ドラキュラの身体は激しい怒りにわなわなと震えていた。


そしてゆづきを追い込むかのように、わざとゆっくりとゆづきに近づいて行った。


やがてその距離はしだいに縮まり、ドラキュラはついにゆづきの目の前に立った。


ドラキュラはしばらく様子を見ていたがゆづきは動かず、両手を袖の中に入れたままである。


ややあってドラキュラが気づいた。


「……ほほう。おい小娘、きさまはもう、お札を持っておらぬな。その構えはただのはったりであろうが」


「……」


「やはりそうか。そういうことなら遠慮なくやらせてもらうぞ」


パシッ


音速を超える音がした。


ドラキュラの尾がムチとなって真上からゆづきを襲う。


その尾はゆづきの脳天と後頭部に、ばちん、と大きな音をたてて当たった。


膝ががくんと崩れて、ゆづきはそのまま棒ぎれのように床に倒れこんだ。


ゆづきは完全に意識を失っていた。


「ふうっ、いまいましい小娘め。とどめをさしてくれるわ」


ドラキュラは尾に力を込めた。


尾が、毛も筋肉もそして骨までもが収縮し、硬く密度の濃いものになっていく。


そしてその尾は、やがて針となった。


金属のように硬くて鋭い先端を持つ、長さが一メートルはあろうかというばかでかい針がその姿を現わした。


そしてその巨大な針は、ゆづきの心臓に狙いを定めていた。


ドラキュラが冷たく言い放つ。


「死ね、小娘」


その時である。


ドラキュラはその体に何か大きな衝撃を受けて、床に倒れた。


そして起き上がろうとしたドラキュラに向かって上から何か硬く細長いものが、再び襲ってきた。


「ぐわっ」


その衝撃を体に受けながらも、ドラキュラは自分を襲ったものが何であるかを、しっかりと確認した。


それは二階堂だった。


二階堂が部屋の隅にあった高さ三メートルはあろうかというろうそくの燭台の端を、両手でつかんで振り回していたのだ。


「まさか? 信じられん。きさま、さっき死んだはずではなかったのか」


二階堂が燭台を構え直した。


「うるさい! この野良犬野郎が。俺の身体は昔っから、人並みはずれて頑丈にできてるんだ。あれくらいで死んでたまるか」


二階堂は再び燭台を振り回した。


しかしそれはドラキュラには当たらなかった。


ドラキュラは燭台を避けると同時に、二本の足で立った。


「ふん、やっぱり避けやがったか。なにくそ」


二階堂は燭台を再びドラキュラにむけて振り回した。


ドラキュラは今度は避けなかった。


燭台の動きがドラキュラの手前でぴたりと止まった。


見ればドラキュラが、燭台の端を右手で掴んでいる。


「くそっ!」


二階堂は全身の力を込めて、燭台を動かそうとした。


しかし燭台は、大岩に埋まってしまったかのようにぴくりとも動かなかった。


逆にドラキュラが、右手一本で燭台を振り回した。


「うわっ」


二階堂の身体は、自分が力いっぱい掴んでいる燭台に振り回される形となった。


二階堂の手は燭台から離れ、身体はその勢いで床に強く叩きつけられた。


床に倒れた二階堂にむけて、ドラキュラが燭台を投げつけてきた。


二階堂は慌てて床を転がり、その燭台を避けた。


しかし気がついた時にはドラキュラが自分のすぐそばに立ちふさがり、二階堂を見下ろしていた。


「きさまも本当に驚かせてくれるわ。しかし今度こそ最後だ。二度と立ち上がることがないよう、さらに激しく叩きつけてやろうぞ。死ぬがいい!」


ドラキュラの長い尾が硬い針からしなやかなムチに戻り、大蛇のように二階堂の首に巻きついてきた。


二階堂の身体が尾によって高く持ち上げられる。


そしてドラキュラは尾を数回振って勢いをつけると、二階堂を天井めがけて投げつけた。


高さ十メートルはあろうかと思われるドーム型の石造りの天井に、二階堂のその身体は、まるで砲弾のごとく叩きつけられた。


そして天井の一部を壊した後、そのままの勢いで石の床に落ちてきた。


ゴオオオンンン


生身の人間の身体が硬い石の床の上に落ちてきた音とはとても思えないほどの大音響が、広い部屋の隅々にまで響きわたった。


そして二階堂はうつ伏せに倒れたままで、全く動かなくなってしまった。


「ふうっ。今度こそ本当に死んだだろう。もしこれで生きていたなら、それはもう人間ではない。それにしても、ただの人間が我にこれほどまでも手間をとらせるとは、まったくもっていまいましいわ! しかしこれでようやくあの生意気な小娘に、とどめをさせるというものだ」


ドラキュラはゆづきの前まで行くと、尾を再び巨大で鋭利な凶器と化し、ゆづきの心臓に狙いを定めた。


「死ね! 小娘」


ドラキュラの尾がゆづきの心の臓をめがけ、弾丸よりも早く突き進んで行く。


その時である。


パシッ


パシッ


音速を超える音が二つ響いた。


と同時にドラキュラは、その尾に強い痛みを感じた。


「何だ?」


見れば自分とゆづきの間に、いつの間にか龍夜が立っていた。


龍夜はまわりをゆっくりと見わたして、まず倒れているゆづきを見て、次に二階堂を見た。


そして最後にドラキュラの目をしっかりと見据えた。


「ふうっ、どうやらぎりぎり間にあったみたいだな。さあ、もののけの王の中の王よ。これで二人っきりになったぜ。悔いのないよう、心おきなくやりあおうぜ」


ドラキュラは驚いていた。龍夜の、そのあまりの変貌ぶりに。


龍夜の右肩のまわりと右腕全体が、淡い赤色の炎のようなものに包まれている。


そしてなによりも龍夜のひじから先の部分が、大きく変化(へんげ)していた。


それはもはや、人間の腕とは呼べないものになっていた。


その腕は一匹の龍となっていた。


龍夜のひじから手首までの部分が龍の首、手首から先が龍の頭と変化している。


細長い龍の頭の部分は、龍夜の頭ほどの大きさがあった。


その龍の顎がドラキュラの尾を捕らえていたのだ。


ドラキュラには、まるで悪い夢でも見ているかのように思えた。


人間の体の一部が龍になるなど、とても考えられることではない。


龍夜が言った。


「どうだ、かっこいいだろう。見てのとおり龍だぜ。そう言えばあんた、ドラゴンの子、だったっけな。これはまさに日本の龍とヨーロッパのドラゴンの戦いだぜ。歴代もののけ戦記においても、永遠に伝説となる名勝負になるぜ。それなのに観客が誰一人いないなんて。ものすごく残念だぜ。もしテレビで放送したなら、ボクシングの世界ヘビー級タイトルマッチなんかめじゃない、高視聴率まちがいなしの世紀のビックイベントになるのになあ」


「……」


「どうした、ドラゴンの子よ。あまりのことに驚いて声もでないか。黙ってつっ立っているだけじゃあ、つまらんぜ。それならこっちからいかせてもらぞ!」


竜の顎がドラキュラの尾を離した。


そして龍夜が赤い龍の右手を振り回した。


ドラキュラはそれを左手で受けたが、はじかれてしまった。


龍夜が再び振り回した龍の手を、ドラキュラが今度は右手で受けたが、これもまたはじかれた。


「ぬうっ」


次はドラキュラがしかけてきた。


巨大な針と化した尾を龍夜の頭に狙いを定めて、突き刺してきた。


しかしその尾も龍の右手で叩き落された。


その間、二人の動きが全て音速を超えていたため、――パシッ――という音速を超える音が絶え間なく響いていた。


二人は自然に距離をとり、相手を見た。


――この小僧の赤き龍の腕、我と同じく音速を超えて攻撃をしかけてきた。おまけにその速さ、わずかばかりだが我よりも速い。


ドラキュラは戸惑っていた。


こんなことはドラキュラの長い人生においても、初めてのことである。


しかしそのうちに、徐々に冷静さを取り戻していった。


――確かに龍の腕はかなりのものだ。しかしそれは一本しかないではないか。ならばこうしてくれるわ。


ドラキュラがじわり龍夜に近づく。


そして左手を思いっきり龍夜にむけて振り下ろした。


赤い龍の手がそれをはじいた。


ドラキュラの左手ははじかれたが、龍の手にドラキュラの左手が当たった時、ほんの一瞬ではあるが龍夜の右手の動きが止まった。


その時狙い定めたように、ドラキュラの右手が赤い龍の手を掴んだ。


そして次の瞬間、はじかれていたドラキュラの左手が赤い龍を掴んだ。


ドラキュラは両手で拝むようなかっこうで、龍の手をつかむことに成功していた。


龍夜は右手の赤い龍はもちろんのこと、全身の力を使ってドラキュラの両手を振り払おうとした。


しかしその手はぴくりとも動かなかった。


ドラキュラもおのれの全ての力を使って踏ん張り、龍夜の手を離すまいと死に物狂いでつかんでいた。


龍夜の龍の力とドラキュラの両手の力は、全くの互角だった。


龍夜が言った。


「俺の右腕とあんたの両手は、同じ力みたいだな。こう着状態だぜ。どうするよ、ドラゴンの子さんよ」


それを聞いてドラキュラが笑った。


その狼の顔は明らかに笑っていた。


「こう着状態だと。ふざけるな! お前にはもう武器はないが、我にはまだあるのだ。もう忘れたのか、この愚か者めが!」


ドラキュラの頭上に、巨大な針がその姿を現わす。


「あちゃーーっ。すっかり忘れてたぜ。おたく、かわいい尻尾があったんだな」


「そうだ。お前はもう動けまい。これが最後だ。死ね!」


巨大で鋭利な凶器が龍夜にむかって飛んでくる。


それは龍夜の顔面に狙いを定めていた。


龍夜がわずかながらなんとか体をひねり、首を傾けてそれを避ける。


しかし針の先が、龍夜の左の頬をかすめて行った。


龍夜の左の頬から血が流れはじめる。


それは偶然にも、ヴォルフガングとの戦いの際に魍魎丸によって傷つけられた右の頬と全く同じ傷が、左の頬にできていた。


それを見てドラキュラが言った。


「赤き龍の手は動けないようだが、そのほかは少し動けるようだな。これは大変失敬した。頭などという動きやすくて的の小さなものを狙った、我の失敗であった。では宣言しよう。今度はお前の胸を狙うことにした。果たしてお前に避けることができるかな」


鋭い凶器が再びドラキュラの頭上に現れた。


「それではいくぞ。今度こそ本当に最後だ。死ね! 小僧」


パシッ


パシッ


ドラキュラの大針が龍夜の胸めがけて走ったと思われた直後に、音速を超える音が連続して二つ響いた。


そしてドラキュラは、その尾に強い痛みを感じてた。


見れば針の尾が、何かに受け止められている。


受け止めていたものは、龍夜の左腕であった。


その腕は肩のまわりから腕にかけて、淡い青い色の炎に包まれていた。


そしてひじから先が、右腕と同じく龍に変化している。


龍はその顎で、その鋭い牙で、ドラキュラの尾をしっかりととらえていた。


龍夜が言った。


「あれっ、俺言わなかったっけ。それはそれは、大変失礼こいたぜ。見てのとおりなんとか一匹龍を造り出せたおかげで、そのコツが完全にわかっちまったんだ。もう一匹造るのはけっこう楽勝だったぜ」


龍夜がそう言い終えた途端、左腕の青い龍の顎がドラキュラの尾の先端を噛み切った。


「ぎゃっ」


ドラキュラの悲鳴をよそに、龍夜は青い龍をドラキュラの首にめがけて放った。


龍の大きく鋭い牙が、ドラキュラの首を捕らえた。


「ぐふっう」


ドラキュラの首から血が吹き出してきた。


ドラキュラの赤い龍をつかんでいる力が緩んだ。


赤い龍はドラキュラの両手を振り払うと、青い龍とは反対側からドラキュラの首を噛んだ。


「これで終わりだ、化け物め!」


肉が裂け、骨が砕ける音がした。


それは二匹の龍が左右から同時にドラキュラの首を噛み切った音だった。


その首は宙を舞い、そして床に落ちた。


次の瞬間――パシッ――という音がして、ドラキュラの尾が横殴りに龍夜を襲った。


龍夜はそれを赤い龍で弾き飛ばした。


「往生際がわるいぜ、このやろう。おとなしくしやがれ」


龍夜はドラキュラの太い首の切れ口のところに、二匹の龍の腕を差し込んだ。


二匹の龍の頭は、ずぼずぼとドラキュラの体の中に入っていた。


最初はもがいていたドラキュラの体と尾の動きが、やがてぴたりと止まった。


するとドラキュラの身体左側のいたるところから、細くて強い赤色の無数の光が、まるでレーザービームのようにその体の中から次々と飛び出してきた。


同様に体の右側から、何本もの強く輝く青の光が次々と現れた。


ドラキュラの体の中では赤い熱風と青い冷気が、激しく竜巻のように渦巻いていた。


「やめろーーーっ!」


床に落ちたドラキュラの首が叫ぶ。


龍夜がその首を鋭いまなざしで制した。


「うるせえ! きさまはこれで終わりだ。だから言っただろう。俺の名は九龍龍夜だと。九龍一族の中でも、その名の中に「龍」の文字を二つ刻む、唯一の男だ!」


龍夜は二匹の龍を大きく左右に振った。


ドラキュラの体が完全に右半身と左半身とに分かれて、大きく舞い上がる。


二つの体は遠く離れた右と左の壁にぶち当たり、そして床の上に落ちた。


やがて二つは残された首と共に、真っ白い灰となった。




男は目覚めた。


どのくらい眠りについていたのだろう。


かなり長い時間だったような気がするし、逆にほんの短い間だったような気もする。


目覚めたことには間違いはないが、なぜか頭がはっきりとしなかった。


まるでまだ深い霧の世界の中にでもいるような感じだ。


ここが何処なのか、わからない。


自分が誰なのかも、思いだせないでいた。


――ここはいったい何処なんだ? 俺はいったい誰なんだ?


男は思い出そうとしていた。


しかし何ひとつ思い出せないでいた。


そんな男の耳に声が聞こえてきた。


その声はこう言っていた。


「ゆづき、しっかりしろ。もう大丈夫だぞ。ゆづき」


男は声のするほうを見た。


そこには少年がいた。


両膝をついて座っている。


年は十五、六歳ぐらいだろうか。


長い黒髪で大きな眼の、そっとするほど美しい少年であった。


男は、この少年とは何処かで会ったことがあるような気がした。


しかし何も思い出せないでいた。


少年の呼びかける先に、少女がいた。


その少女は神社の巫女が着るような服を着ていた。


少年の腕に抱かれて、ぐったりとした状態で目を閉じている。


年は十歳くらいだろうか。


目を閉じているが、それでもその少女の美しさは十分に伝わってきた。


男はこの少女も、何処かで見たことがあるような気がした。


「ゆづき、安心しろ。ドラゴンの子はこの俺がやっつけたぞ。ゆづき」


少年のその声が耳に届いたのか、少女がゆっくりと目を開けた。


少年に勝るとも劣らない大きな眼に大きな黒い瞳である。


少女の目は最初ぼんやりと宙をさ迷っていたが、やがて自分を抱いている少年に気がついた。


「ああ、龍夜様。よくぞご無事で」


少女が少年の首に抱きつく。


少年はそのまま少女を、まるでお姫様のように抱き上げると立ち上がった。


「ゆづき、もう大丈夫だ。ドラゴンの子は、この俺がやっつけたぞ」


「ああ、龍夜様」


少女の目から、大粒の涙が流れ出した。


その時少年は、少女の唇に口づけをした。


男はその姿をとても美しいと思った。


心の底から愛し合う男と女に見えた。


そのまま二人はしっかり抱き合っていたが、やがて少年がゆっくりと少女を床におろした。


少年が言った。


「ところで、あのおっさんは、どうなった?」


そう言って男の方に顔を向けた。


少女も男を見る。


すると少年の頬がみるみる赤く染まっていくのが見えた。


少女にいたっては、顔中真っ赤になって下をむいてしまった。


少年がかん高い声で言った。


「なんだあ、おっさん。黙って見てたのか。おっさんも人が悪いぜ。このすけべぇ! ものすごく恥ずかしいじゃねえか」


少年が男に近づいてくる。


その時、男の頭の中にあるもやもやが、一気にすうっと晴れた。


――思い出した。ここはドラキュラの館。そしてこの俺は、二階堂進だ!




龍夜が二階堂に歩み寄った。


「おっさん、無事だったんだな。気が感じられたので、死んではいないとは思ってたけど。よくもまあーー」


龍夜は天井を見上げた。


石造りの高い天井の表面が軽く人型に壊れている。


次に龍夜は床を見た。


やはり硬い石の床が、わずかではあるが人型に押し込まれていた。


「よくもまあ、あれで生きてたもんだぜ。普通の人間なら、間違いなく十回は死んでるぜ」


「見てたのか」


「ああ、見てたぜ。武器ができて目覚めた時、ちょうどおっさんが天井に投げられているところだったんだ。そりゃもうものすごいスピードで天井にぶち当たり、その反動でこれまたとてつもない勢いで床に落ちてきた。これは絶対に死んだなと思ったが、それでも気がわずかに残っていた。だから死んでないとわかったんだ。こいつは人間じゃねえ、と思ったぜ」


「実は俺は、子供の頃から人並みはずれて体が丈夫なんだ。小さい頃だが、おじさんの家の裏山にある崖から落ちたことがあった。高校生の時に、酔っ払い運転の大型トラックにはねられたこともある。ともに普通の人間なら確実に死んでいたと医者に自信たっぷりに言われたが、一日で退院したんだ」


いつのまにかゆづきが龍夜の横に寄り添っていた。その顔はまだ赤みが少し残っていたが、それを隠そうともせずにゆづきが言った。


「やはり、でございますね」


二階堂が聞いた。


「何が、やはり、なんだ?」


「おっさんのことさ。ゆづきは最初からうすうす気がついていたみたいだが、俺は床に落ちても生きているおっさんを見て、ようやく気がついたんだよ」


「だから、何に気がついたんだ?」


「おっさんの家に、家系図はあるか」


「そんな上等なものは、うちにはないが」


ゆづきが言った。


「あれば、間違いのないことでしょう」


龍夜が言った。


「ああ、間違いないぜ」


二階堂が言った。


「だから、何が間違いないんだ」


龍夜がさらに二階堂に歩み寄ってきた。


そして言った。


「おっさんの何代か前の先祖に、間違いなく九龍の名前があるはずだ」


「?えっ!」


「はい、間違いございません、二階堂様。二階堂様は、九龍一族の力を受け継ぐ正統な末裔でございます」


「よかったなあ、おっさん。仲間ができて。俺も嬉しいぜ。でもできればこんな小汚いおっさんじゃなくて、若くてきれいなねえちゃんだったら、もっとよかったんだが……って、冗談だよ、ゆづき。そんなににらむなよ」


「……この俺が……九龍一族……」


「はい、二階堂様は九龍一族でございます」


「ほんとによかったな、おっさん。これでこれまでの退屈な人生と、おさらばできるぜ。今後ともよろしくな」


龍夜は右手を差し出した。


二階堂がその手をしっかりと握る。


「ああ、九龍一族としては新参者だが、末永くよろしくな」


「はーい、じゃあ新米君。これからは大先輩の言うことは、なんでも聞くんだぞ」


「もう、龍夜様ったら」


龍夜は笑った。


ゆづきも笑った。


そして二階堂も笑った。




部屋がノックされた。


「入れ」


「はい」


二階堂が入ってきた。


署長はいつものように、身と首を乗り出して迎えた。


「何だ」


二階堂が署長のすぐ目の前まで歩いてきた。


「署長、例の件ですが、解決しました」


「解決しただと?」


「はい、もう解決しました」


「で、犯人は、何処だ」


「いません」


「いない、だと?」

「はい、もう何処にもおりません」


「ひょっとして……もう捕まえられないのか――」


「はい、もういませんから、捕まえることはできません。したがって本件は、捜査続行が不可能になりました。捜査終了、したがって解決です」


署長のまんまる眼がさらに見開かれた。


「理屈は少々強引だが、どうやら――」


二階堂を凝視した。


「とにかく本当みたいだな」


「はい、本当です。間違いありません」


署長は椅子に深々と座った。


「……もう捜査は必要ないか」


「はい」


「でも、ふりだけはしとかんと、いかんぞ」


「わかっています」


「じゃ、お守りを続けてくれ」


「了解しました」


二階堂は頭を下げ、部屋を出ようとした。


それを署長が呼び止める。


「おい、二階堂君」


「何ですか?」


「なんと言っていいか……君は最近、何かいいことでもあったのか?」


「わかりますか」


「それぐらい、わからいでか。私を誰だと思ってるんだ! で、何があった?」


「まことに残念ながら、それは極度に個人的なことですので、署長にも申し上げることはできないのです」


「……そうか」


「申し訳ないのですが」


「……いや、別に謝らなくてもいい。じゃ、お守りを頼むぞ」


「はい、わかりました」


二階堂は再び頭をさげ、出て行った。


署長はほとんど毛のない頭をぼりぼりかくと、小さく呟いた。


「二階堂、おまえどうやら、いい仲間ができたようだな」


その顔はどこか嬉しげで、同時に寂しげだった。




その日も龍夜とゆづきは、龍夜の部屋である板張りの六畳間で、お昼のいわゆるワイドショーを見ていた。


二人は学校には行かない代わりに、普段からけっこうテレビを、特に報道番組をくまなく見ているのである。


それは、ごくまれにではあるが、もののけに関するものが流れることがあるからだ。


もちろんテレビ局はそうとは知らずに流しているが。


ゆづきが〝視る〟ことができるが、情報量は多いに越したことはない。


龍夜はぼんやりとテレビを見ていた。


今日もいつものようにもののけ関連のニュースはなさそうだと感じていた。


その時、その龍夜の目がテレビに釘付けになった。


「うん?」


ゆづきも気がついた。


「龍夜様、あの方です」


「そうだ、あいつだぜ」


龍夜が思わず微笑む。


画面には、左右に頭の悪そうな二人の若い女をはべらせて、大きな屋敷の前で馬鹿面さげて笑っている、あの御曹司が映っていた。




あの戦いからちょうど一週間が過ぎた。


龍夜達の住む古い神社の前に一人の男が立っていた。


二階堂進である。


二階堂は神社をみつめていたが、やがて中に入っていった。


日本間にゆづきが座っている。


「お待ちしておりました、二階堂様」


「おう、元気そうでよかった。ところで龍夜は? 魍魎丸もいないみたいだが」


「所用があり、でかけております」


「そうか。ひょっとしてもののけ狩りか」


「はい、左様でございます」


「また心配ではないのか」


「いいえ、今回は大丈夫でございます」


「そうか。まあ龍夜なら、心配させるほどの強い敵は、そうそういないかもしれんな。それにしても不在とは残念だ。会いたかったんだが」


「またいつでもお会いできます」


「そうだな」


「では早速、始めましょうか」


二階堂がここにやって来たのは、新人もののけ狩り師として学ばなければならないことが、いろいろとあるからだ。


とはいっても初日の今日は龍夜の不在もあって、いつのまにか雑談に近いものになっていった。




二階堂が明らかに言いにくそうに、ゆづきに言った。


「それで、ちょっと心配なんだが。俺は残念なことに、龍夜ほどは強くない。本当にもののけ狩り師として、やっていけるのか」


ゆづきが笑って答える。


「二階堂様、私ももののけ狩り師を名乗っておりますが、とてもとても龍夜様のように戦うことはできません。もののけ狩り師といっても、さまざまな人がおります。たとえば二階堂様は、龍夜様にない能力をお持ちでございます」


「たとえば? 体の丈夫さとか――」


「もちろん、それもございます。龍夜様も普通の人と比べるならば、その体は比べものにならないほどに丈夫ではございますが、おそらく二階堂様のほうがそれよりもさらに上でございましょう。それ以外に、もっと大事なことがございます。二階堂様は、ドラキュラの館におりました〝視る〟力を持つリリアーナとか申す女を、覚えておられると思いますが――」


「ああ、あの綺麗な女だな。もし吸血鬼でなければちょっとよろしくしたいくらい、とびきりいい女だったが。で、あの女がどうかしたか?」


「はい、あの女は視る力を持っておりました。それもそうとうに強い力だと思われます。それで龍夜様、魍魎丸、そしてこのゆづきのことは、あの女にかなり広きにわたって、視られてしまったのでございます。私達は、みな、おのれの力を隠す術を持っているにもかかわらずです。ところがリリアーナと申す女は、こと二階堂様に関しては、全く〝視る〟ことが出来なかったのでございます」


「えっ? そうだったのか?」


「はい、そうでございました。二階堂様が己の存在を、そして己の力を、完全に隠し通したからでございます。あの女が気づかずに、私が二階堂様の力に気がついたのは、ただ単に同じ九龍一族であったからにすぎません。でなければこの私も、二階堂様の力には一切気づくことができなかったでしょう」


二階堂の目が、少し泳いだ。


「……ええと……」


ゆづきは軽く笑うと、そのまま話を続けた。


「それともう一つございます。あの時、ドラキュラと戦っている時ですが、私は二階堂様が全ての気配を消し去って、ドラキュラに近づいていくのを感じました。気や足音はもちろんのこと、空気の流れすら一切乱すことなくドラキュラに近づいていきました。その力は、九龍一族の術としてはっきりと感じましたこの私が、最初素直に信じることができなかったほどに、実に見事なものでした。ともに己の存在を完璧に消し去る力でございます。私も龍夜様も、とてもあのような能力はもちあわせてはおりませぬ。二階堂様だけが持つ、摩訶不思議な力でございます」


「……そうだったかな……よく覚えていないんだが」


「無意識のうちにやったのでございます。意識をして修業をつめば、もっと高い能力となることでしょう」


「……そうか。では、また教えてもらうぞ」


「はい、承知いたしました。それにこれは、特に龍夜様が喜んでいることなのでございますが、二階堂様はこのゆづきの危機を感じとる能力がございます」


「そういえば、俺がゆづきの危機を感じ取ってドラキュラの館にやって来たと言ったら、龍夜がやけに喜んでいたのを覚えているが」


「はい、とても喜んでおりました。龍夜様は、魍魎丸もそうですが、気を感じる能力はございますが、〝視る〟力はございません。私には幸いなことに、微力ながら備わってはおりますが。しかし視る力を持つ者は、こと自分のことに関しては、残念ながら全くわからないのでございます。そういう宿命を持って生まれてきたのでございます。ですからリリアーナとか申す女も、自分の危機を感じることができないがために、あのようにあっさりと龍夜様に殺されてしまったのです」



「そうか、それでか。あの女は〝視る〟力を持っていると聞いていたのだが、それがなんであんなにも簡単にやられてしまったのか、少し不思議に思っていたこところだったんだ。これでようやくわかった。そういえばこの俺も、今までけっこう危ない目に会ってきたが、自分自身の身の危険を感じ取ったことはただの一度もなかったな」


「はい、龍夜様と魍魎丸の危機にかんしては、この私が多少なりともわかります。しかし私自身の危機を感じとる者が、今まで誰もおりませんでした。そこへ二階堂様が現れたので、龍夜様は喜ばれたのです。〝これでゆづきも今までよりは少しは安心してすごすことができる〟と申しておりました」


「龍夜はゆづきが心配なんだな」


「はい、龍夜様はご自分のことよりも、この私のことの方をより気にかけておられます。本当に心の優しいお方でございます」


「そうか。なんだかうらやましい限りだな」


「はい、とてもありがたいことでございます」


二階堂はそれ以上何も言えなくなった。ただ黙ってゆづきを見ていた。その視線が恥ずかしかったのか、ゆづきが珍しく慌てる。


「ええっと、あのう、その、……それで……二階堂様、他に何か聞きたいことはございますでしょうか?」


「そうそう忘れていた。龍夜がドラキュラを倒したのは知ってるが、いったいどうやってあの化け物をやっつけたのだ? 俺はあの時気を失っていたから、何があったのか皆目わからないんだ」


「龍夜様から、何かお聞きになっておりませぬか」


「いや、聞いたんだが。〝ひ・み・つ・〟とか言って、教えてくれなかったんだ」


「もうほんとに、龍夜様らしいですわね。とは言ったものの、あの時は私も魍魎丸も、みな気を失っていましたが。龍夜様の話によりますと、右手を火龍、左手を水龍に変化させて戦い、ドラキュラを倒したそうです」


「火龍? 水龍? とは」


「はい、九龍一族に代々伝わる秘術でございます。肉体の一部を、龍に変化させるのでございます」


「えっ! そんなことが、できるのか?」


「はい、そうです。とは言いましても、誰にでもできるという訳ではございません。龍夜様のお父様もおじい様も、もののけ狩り師としてかなり優秀な方でございましたが、その二人でさえこの秘術を成しとげることは、ついにかないませんでした」


「そうか、それほど難しいことなのか。それにしても体の一部を龍にするとは……とても信じられないが」


「その昔九龍の民は、本物の龍と交わったそうでございます。その時に龍の血が、一族の血と混じりあったと伝えられております。とは言っても千年も前のことですので、今となっては真実の程は確かめようはありませぬが」


「千年も前の真実の程はともかく、龍夜が九龍一族でも簡単にはできない龍への変化を成しとげたというのは、間違いないわけだな」


「はい、さようでございます。その昔、九龍一族の千年にもわたる歴史において、火龍もしくは水龍を出現させたという伝説のもののけ狩り師は、何人かは存在しておりました。ところが火龍と水龍、二匹同時に変化させたのは、私の知る限りにおいては、龍夜様ただお一人だけでございます」


「ふーん、聞けば聞くほどあいつ、ああ見えてたいしたもんなんだな。正直ちょっと悔しいな。でもそんな便利な秘術、どうして最初から使わなかったんだ」


「それは最初から使うことができなかったのでございます。なぜなら龍夜様は、龍変化の秘術を会得するための修行は積んでおりましたが、あの時まで一度も成しとげたことがなかったのですから」


二階堂の声が思わず大きくなる。


「なんだって! じゃああの時初めて、成功したのか」


「はい、左様でございます。それだけ龍夜様が、追い詰められていたということに、なるのでございましょう。その点につきましては、ある意味ドラキュラに感謝しなければならないかもしれません。あれほどまでに強大な敵と戦ったからこそ龍夜様も秘術を会得し、より強くなることが出来たのでございますから」


「そうだったのか。だからこの俺に〝武器を造るのにどれだけ時間がかかるのかわからない〟と言ったんだな」


「どれだけ時間がかかるかわからないと言いますより、時間をかけても出来るかどうかさえも、わからなかったのでございます」


「そりゃあ、完全な賭けだな」


「はい、完全に賭けでございました」


「わかった。いろいろ教えてくれて、ありがとう。とりあえず今日のところは、このくらいでいいかな。なにせ仕事を途中でおっぽりだして来ているものだから。早く帰らないと、また笹本君にぐちぐち言われるもんでね」


ゆづきが小さく笑った。


「あのお若い刑事さんですね」


「そう、あの若造の刑事だ。それもわかるんだな」


「そのくらいは、わかります」


「視る力か」


「はい、そのとおりでございます」


「まったく、ゆづきに隠れて悪いことはできんな。まっ、とにかく今日はこのへんでな。また来るからな」


「はい、お待ちしております、二階堂様。いつでもお好きなときに、おいでくださいませ」


二階堂が立ち上がり、入り口へと向かう。しかし入り口に手をかけたところで立ち止まり、振り返った。


「そういえば、もう一つ気になることがあった。聞いてもいいか?」


「はい、なんなりと」


「実は俺は、龍夜とゆづきが抱き合っているところを、二度ほど見ているんだ。で、最初見た時は、二人はとても仲の良い父親と娘のように見えた。ところが二回目に見た時は、心の底から愛し合う男と女のように見えたんだ。そこで質問なんだが、龍夜とゆづきは、いったいどういう関係なんだ?」


ゆづきは最初、黙っていた。


しかしややあってから、小さく搾り出すように言った。


「……それは……いくら二階堂様でも……お答えは……できませぬ」


そう言ったゆづきの顔は、耳まで真っ赤に染まっていた。




       終

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千年狩り ドラゴンの子 ツヨシ @kunkunkonkon

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