星空に沈む夢を見よう

明鹿

第1話

カモメの声が遠くから聞こえる。

波の音はすぐ近くで寄せては引いていく。

女は屋根を叩く雨音に目を覚ました。

起きあがって窓の外を見ると、細やかな雨粒がさざめくように降っている。


薄暗い室内で女は白い息を吐きながら手探りでランプを探し当てた。

マッチを擦って、慎重に火を灯す。

暖かい光がぼんやりと室内を照らし出した。

枕元に置いてあった懐中時計は7時を示している。

女はそっとガウンを羽織り、柔らかい室内履きに足を入れると、寝室から出てリビングにある石炭ストーブに火を入れた。

ストーブの上に置いた鉄製のポットの中を覗いて、部屋の隅に置いてあるタンクから水を足す。


お湯が沸くまでの間に寝室へ戻って身支度をする。

ランプはリビングに忘れてきてしまった。

ネグリジェから質素なモスグリーンのドレスへ。

柔らかい室内履きから丈夫な革の編み上げのブーツへ。

下ろしていた髪は後ろでアップに纏める。

濡らしたタオルで顔を拭くと、乾燥しないようにクリームを塗り、身支度は終わった。

どうやらお湯はまだ沸かないらしい。


リビングで昨日の夜に洗った食器を片付けていると、ポットの蓋がカタカタと鳴った。

女はティーポットとティーカップを取り出すと、茶葉を入れ、沸いたお湯を注いでゆく。

蒸らしている間に、戸棚から取り出した堅いパンを薄く切る。

パンを戻すついでにジャムの瓶を取り出して、切ったパンと共にテーブルに置いた。

何も入れない紅茶と二切れの薄くて堅いパン、そしてジャムがいつもの女の朝食だ。


テーブルにつき、紅茶を一口飲むと女は一息ついた。

なんともなしに窓の外を眺める。

暗く淀んだ灰色の空から降る雨はここ数日ずっと見ている気がする。

あかぎれのできた指でパンをつつきながら女はぼんやりと物思いにふけった。


この崖の上に立つ石造りの家は女のものだ。

海がすぐ傍にあるから波の音が絶えず聞こえる。

住み始めた頃は海など滅多に見なかったから物珍しかったが、十日もすれば慣れてしまった。

文句をつけるとすれば潮風で洗濯物が塩っぽくなるのは少し頂けないし、村と井戸が遠くにあって不便であるところだ。

それと、冬に雨が多いことぐらいか。


食欲はなかったが、惰性に任せてパンに齧り付く。

堅くてぱさぱさとしたパンは女の舌に僅かな酸味を残して女の腹に消えた。


ランプの炎が揺れる。

もうすぐ中の蝋燭が燃え尽きそうだ。

新しい蝋燭を出さなければ、と思うがそれすらも億劫で女はテーブルに頬杖をついて皿に残ったパンを眺める。

手持ち無沙汰にスプーンでジャムを掬っては落とし、掬っては落とす動作を緩慢に繰り返す。


夕食は何を食べようか。

昨日の晩に作ったスープが残っているはずだから、それにさっきのパンをつければ充分だろう。

どうせ午前も午後も大してすることはないのだ。

この雨では洗濯物を干せない上に、食料と水はしばらく籠城することができるくらいはある。

本を読むことは好きだが新しい本は街に出ないと買えないし、他に娯楽などないから刺繍か繕い物をする他ない。


こんな風な退屈な生活を女はもう一年も続けていた。

働く必要があるほどお金には困っておらず、家事を怠けても文句を言う人は誰もいない。

だが、娯楽や煌びやかな物を求めて街へ出ることはできないのだ。

それが、女が働かずにこの家に住むことのできる条件だからだ。


女は一つ、溜息を吐くと残っていたパンにジャムを塗ってもそもそと咀嚼した。

このパンは街で売っている中で一番安くて堅いパンだ。

ジャムは自分で作ったものだが、それまでは何が入っているかかわからないようなジャムだった。

紅茶も味が薄く、お世辞にも美味しいとは言えない安いものだ。

この三つは女の家に一週間に一度、必ず届けられる。

その他の野菜や肉、卵などは歩いて1時間半ほどかかる村まで行って調達しなければならない。

パンもジャムも紅茶も村で買いたいのだが、最低限ではあるが食料の面倒を見ている、ということにしたいらしい。


女はふと義父母を思い浮かべた。

人の良い顔が申し訳なさそうに歪む様子が瞼をよぎる。

血縁者でもない自分など放っておけばいいのに、と何度も思ったがかわいがってくれていた2人を突き放すことはいくら冷たいと自覚している女にも難しいことだった。

とりとめもなく2人のことを思い出しながらパン屑を集め、部屋の隅に置いてある屑籠にいれた。


針を持ったこともない女に優しく刺繍を教えてくれた義母、花の名前を教えてくれた義父。

優しい記憶はいつしか女が一生添い遂げるはずだった夫の顔を思い出させていた。

義父母に似た優しい夫。

家事もなにもできない、顔だけが取り柄の女に求婚してくれた夫。

女が夫を好きでもなんでもないのを知りながら養ってくれた夫。

下手だった料理を美味しいと食べてくれた夫。

いつしか女は夫のことを愛していた。

きっとこの人とならばどんなに辛いことがあっても乗り越えられると思っていた。

それなのに、逝ってしまった。

まるで眠っているかのような夫の死に顔を思い出して目の奥が熱くなる。


女は胸が引き絞られるような心地がして衝動的に寝室へ駆け込み、ベッドに潜り込んだ。

布団に残っていた自分の体温がまるで夫に抱きしめられているようで、女はひっそりと泣いた。







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