屋上のチェリーズ

大塚めいと

屋上のチェリーズ





 9月上旬の肌寒くなり始めた夜の空気が、剥き出しになった私の腕を締め付けて鳥肌を作る。

 お気に入りのトートバッグから取り出した携帯電話で只今の時刻を確認すると、液晶画面は0時39分だというコトを私に教えてくれた。




「もう39分……」




 私が今いる場所は、ちっぽけな蛍光灯だけを光源とする寂れた駅から徒歩12分の場所にある7階建てのアパート[メゾン清水] その屋上。




 私は今日、人生を終わらせる為に、そして復讐を遂げる為にこの場所にいる。

 まぁ、簡単に言えば私はここから飛び降り自殺をしようと考えているワケ。




 でも屋上のフェンスを越え、何とか正座で座れる程度の狭いスペースに立っている私は、あと一歩。たったの一歩を踏み出すだけで怒りと憎しみの所業を完遂出来るというというのに……その直前になって怖じ気ついてしまったらしい。なかなか踏ん切りが付かず、右膝を上げては下ろし、上げては下ろしの繰り返しを続けてかれこれ39分も経っていた。




「ハァ……」




 第三者が今の私の体たらくを見たら「どうせ死ぬ勇気なんてないんでしょ? 」だとか言って鼻で笑うんだろうけど、私は言ってやりたい。私が飛び降り出来ないのは別の理由があるんです! ってね。





「やっぱり駄目ですかね? 」





 コンビニで両替を頼んだけれど、低調にお断りされた時のような緊張感の無い男の声が私の耳に入り込んできた。そう……[コレ]こそが私の自殺行動の決意を鈍らせる存在……




「うるさいなもう! 今飛び降り出来そうだったのに! 横から声掛けないでよ! 」




 私はその呑気な口調にイラついて、ついつい声を荒げて怒鳴ってしまった。




 ああ……なんたって私はいつも[タイミング]ってヤツに恵まれないのかな? あろうことか、私が飛び降りようとこの場所に立った時、すぐ左隣に[先客]が同じように飛び降り自殺の体制を図っていたのだから……




「……すみません……」




 [先客]は太り気味の体型で、どこか腹立たしいツーブロックのオールバックに髪を整えている。文系なのか体育会系なのか判断しづらく、全てにおいて中途半端な印象を抱かせる20代後半位の男。




 彼もまた、この場所で自らの人生を終わらせようと逡巡のステップを踏み続けていた。




「全部あんたのせいだからね! 私がどれだけこの機会を待ちわびたか分かってんの? 」




「……はぁ……」




 謝罪しているのかバカにしてるのか判断し辛いため息のような返答に、私のムカツキ指数はどんどん上昇していく。




「あんたもどうせ死ぬってんならさっさと飛び降りたらどう? 私より先にここに来てたんでしょ? 」




「そんなコト言われたって……あなたこそ先に逝ったらどうですか? レディファーストですよ」




 こういうタイプの男は都合の良い時だけそういう言葉を使うんだろうなって思った。きっとコイツは女からモテない系統ね。




「……ちょっと休憩。1時になったら飛び降りるから」




 なんだか体が疲れてしまった私は、屋上の縁に座り込み、足を空中にプラプラさせて自殺の為の英気を養うコトに決めた。




「……あの……」




「何!? 」




 [先客]が急に声を掛けてきた。一体何の用だっての? ちなみに私と彼は2m程の距離を空けている。暗い闇夜で表情がよく見えないので感情を読みとるコトが出来ず、それがまた腹を立たせる。かといって彼の近くに寄る気も起きない。




「……質問……いいですか? 」




「だから何!? 」




 [先客]は私の首の辺りをじっと凝視している。それだけで彼が私にどんな質問をしたいのかが大体分かった。




「なんで……首にロープを巻いているんですか? 首吊り自殺なら何もこんな場所じゃなくてもいいじゃないですか? 」




 [先客]の質問はもっともだ。私はこの屋上から飛び降り自殺をするのは間違いないけど、あくまでも[高所から飛び降りて地面に叩きつけられて]死ぬことを目的にしているワケではなく。[高所から飛び降りつつ首に巻いたロープで締め上げられながら]死ぬコトを目的としたハイブリッド自殺を計画しているのだ。




 そのコトを彼に説明してあげたら再び「……はぁ……」と小バカにするような態度をとったので、ムキになった私は何故こんな面倒な方法を取ったのかを丁寧に説明してあげるコトにした。





「これはね……復讐なの……私を捨てたあのクソガキに対するね……! 」




 ■ ■ ■ ■ ■




 私は25歳の頃に、漫画家志望の18歳の男の子と付き合うコトになった。彼は羊を思わせる天然パーマの髪とダークカラーのファッションがよく似合う、痩身のスタイルが素敵な男の子だった。




 彼とは合コンで出会ったんだけど、私自身漫画好きだというコトで意気投合、何度かデートを重ねて、彼からの告白により付き合うことになった。




 私は彼の部屋に引っ越して同棲を始めた。何度も新人賞を逃している彼を励まし、アドバイスし、生活を支え、彼の為に尽くし続けた。




 アナログ派の彼の仕事を手伝う為、ベタ塗りやトーン張りだってやった。集中線や背景はそこいらのアシスタントが裸足で逃げ出す程上手に描けるようになった。




 そんな生活が5年続いた……彼の漫画は相変わらず賞を逃し続けていたけど、それでも私は幸せだった。私は彼が頑張っている姿を見守っているだけで満足だったから。




 でもね……[そう思っていたその時に]ってヤツだよ……。




 2ヶ月前、私は仕事の都合で二日間県外に出張する予定だったんだけど、移動中にクライアントに急用ができて出張がキャンセルになった。




 その日の夕方に帰宅出来るコトになった私は、彼に内緒でイキナリ家に帰って驚かしてやろう! って思ったの……でも、それがいけなかった。




 まぁ……ベタな展開だけどね。家には知らない女がいたのね……私とは干支一周分くらい歳が離れてそうな……あ、若いって意味でね。




 それでね、一応聞いたよ「その娘……妹なの? 」って。そしたら彼はいつもは細い目をアーモンドみたいに文字通り目一杯開いてね「そ……そうだよ……! 」って裏声で返事をしたの。私はその瞬間に全身の毛が逆立つような感覚に陥った。まぁ[怒髪天]ってヤツよ。




「てめぇらは兄妹でベッドの上に裸になんのかよコラァァァァッ!!!! このクソッタレ! 文字通りてめぇのベロを叩き割って二枚舌にしてやるわぁぁぁぁッ! 」




 そんでね、私包丁持って彼に襲いかかったの。コイツをゆっくり時間を掛けて皮膚をはぎ取ってその皮で悪趣味なブリーフを作ってソレを履かせて、苦痛と羞恥を与えてなぶり殺してやる! って思った。




 でもね、ブラック企業に勤めていて疲労が重なりまくった私の動きは予想以上にスローだったみたい……あっさり取り押さえられちゃった……彼の浮気相手に乗っかられてね……。




 マジで悔しかった……私が費やした5年間は何だったの? って……20代の大切な時期を犠牲にして得たモノがコレなの? 彼の為に料理を作って……パンツを洗って……仕事も手伝って……漫画のネタの為に恥ずかしいコトにだって色々協力してやったってのに……その時の私は全裸の小娘に動きを封じ込められて泣きわめいてジタバタしている醜態を晒していたんだから……その時に自分の舌を噛み切って自殺しなかったコトを激しく後悔してる……ちくしょう! 




 ついでにその小娘からメチャクチャいい匂いがしたのも悔しかった……オマケに胸もデカかったの……うぅ……。




 ■ ■ ■ ■ ■




「それで……それが[ハイブリッド自殺]とどう関係あるんですか? 」




 自分で言い出したには違いないけど、改めて[先客]からその造語を口にされると妙に恥ずかしかった。




「話を最後まで聞きなさい! その私と元カレが5年もの間同棲していたアパートってのがね、ココなの! このメゾン清水の6階、605号室ってコト! 」




「……はぁ……」




 [先客]はイマイチ私の言っている意味が分かっていないという反応。全くトロイ男、ここまで言えば大体察しがつくってモンでしょ? 




「よく見て! 私が今座っているこの下の下の階の部屋が605号室なの! 私がここから飛び降りればね、ちょうど元カレの部屋のベランダの目の前で首を吊る形になるの! ロープの長さをワザワザ計算したんだから! ……で、そうやって死ねばどうなると思う? 」




 [先客]は数秒間を置いてから「元カレはあなたの死体を見て……ビビる……」と、要点だけを呟いた。




「そうそう、それだけじゃないの! 今日はね、元カレの誕生日なの! 9月12日! ちなみに[宇宙の日]なんだけど」




「……はぁ……」




「つまりね……私は[呪い]を元カレにかけてやろうってコトよ! あの巨乳好きのクソガキは今後自分の誕生日を迎える度に私の首吊り死体を思い出すコトになるの! 白目剥いて苦痛に歪み、体中の体液を垂れ流しになった私の体をね! ハハッ! 1年に1度のおめでたい記念日を台無しにしてやれるってコト……コレって最高に痛快じゃない? ハァーッハッハァーッヒッ! 」




 私は気持ちが高ぶってついつい笑いを堪えるコトが出来なくなってしまった。そんな私の姿を[先客]が汚物を見るような目で見ていたけど、そんなコトも気にならなかった。





 なぜなら私はスグに死ぬのだから……! 





「あの……」




 高揚して燃え上がった私の気持ちに文字通り水を差す[先客]の声。彼のトロイ喋り方にはいい加減ウンザリだった。




「何? まだ何か質問でもあるの? 」




「いえ……もう時間ですよ? 」




「へ? 」




「今、1時3分です。もう飛び降りる時間は過ぎてますよ……」




「ええっ!? 」[先客]の忠告を受け、私は大急ぎで時刻を確認する。時刻は確かに1時3分だった……




「ああーッ! くそッ! また逃したァ! 」




 なんてこった! 私は2度も飛び降りのチャンスを逃してしまった! 




「今飛べばいいじゃないですか? 」




「おバカね! あんたは大晦日のカウントダウンが3分オーバーした時にも同じコトを言うの? [カウントダウンに合わせてジャンプして、オレ年が変わる瞬間地球にいなかったぜ! ]を3分経った後でも、あんたはアホなスマイルを作って実行するワケ? どうなの! 」




 私の怒りの声に、[先客]はお得意の「……はぁ……」も言わずにただただ黙り込んでしまった。まったく調子が狂う。




「2時! 決めた! 2時になったら絶対死んでやるからね! 」




 私は念のため、携帯のアラームを2時に設定して次こそは! と決意を新たにし、その時が来るのをひたすら待ち続けることにした。




「1時間……」




 となると少し退屈になってくる。時間も時間なだけに、何となく睡魔も襲ってきた。このまま寝てしまって知らぬ間に落っこちて死ぬ。だなんて味気ない終わり方はまっぴらだ。




「ねぇ……あんた、聞いていい? 」



 そこで私は退屈しのぎに[先客]に質問攻めをすることに決めた。さっきから私のコトばかり喋らされて不公平だからね。




「……はぁ……」




 この「……はぁ……」はOKという意味に勝手に受け取って私は話を続けた。




「あんた、何で死のうと思ったの? 借金? 失恋? それとも誰かを殺しちゃったとか? 」




 私の質問に対し、必要以上の間を作り、喋りたくないのかな? とこっちで勝手に諦めかけた瞬間、[先客]はその重い口を開き始めた。





「僕は……元プロミュージシャンです……イマイチ売れないバンドでドラムを担当していました……」




 ちょっと意外な彼の経歴に驚いたものの、彼の体格的にはドラム担当というポジションはなんとなく納得がいった。




「でも半年前に交通事故にあって……僕は右足が不自由になりました……それでドラマーは引退です」




「え……? 足を怪我して引退? 手じゃなくて? 」




 音楽の知識は人並み以下の私にとって、[先客]が廃業した理由がイマイチ理解出来なかった。だってドラマーって太鼓を手で持ったバチで叩くんでしょ? 




「ドラマーっていうのは時に[手]に持ったスティックで刻むビート以上に、[足]を使って踏み込む[バスドラム]が重要な場合があるのです……。特に私が在籍していたバンドのジャンルは[ハードコアメタル]と呼ばれるモノで、バスドラムを非常に多用する音楽なのです。それ故に足が不自由になるコトは致命的でした」




 よく分からない用語を挙げられて話の内容を完全に理解するコトは出来なかったけど、彼にとって[足]がとても重要だったコトは理解できた。




「僕は一部の界隈では[ツーバスの魔術師]と呼ばれていましたし、自分でもその異名に恥じない足裁きを持っていたと自負しています。ボンゾにもニールにも足裁きだけなら負けない! と思っていました。なので右足はもう二度と元には戻らないと知った時は……僕は翼をもがれた天使の気持ちが分かりました……もう僕はビートという名の大空を羽ばたくことが出来ないのだと……」




 熊みたいな体格の彼が[翼をもがれた天使]だとか言っているのが少し可笑しかったけど、[先客]がドラマーという家業を愛していることも伝わったし、彼がどれほどに絶望しているのかも理解出来た。でも、それだけで自殺を決意するには、少し思い切り過ぎだという疑問も沸いて出てきた。




「あんたの自殺の動機って……それだけ? 」




「……え? いや……その……」




 彼の反応を見て、私は「図星だ! 」と確信を持った。やっぱりドラマー廃業はドミノ倒しの一番初めのブロックを倒した指先に過ぎないのだろう。




「お姉さんが当ててあげようか? 」




「ええっ? 」




 [先客]のせいで2度も自殺タイミングを逃した私は、彼をちょっとイジめてやろうと意地悪な気分になっていた。




「ひょっとしてあなたがいたバンド、別のドラマーが入った途端にイイ感じに売れ始めちゃったんじゃない? それがあんたと違ってイケメンでスタイルのいいドラマーだったりしてね……ハハッ! オマケにあんた、怪我が原因でその時付き合ってた彼女と別れちゃったんでしょ? それで別れた彼女はあろうことか自分のいたバンドの男と付き合い初めちゃったとかあったんじゃない? 駄目押しにその相手が新しく入ったドラマーだった! とかなら更に笑えるけどね。ハハハッ! 」




 と、したり顔で言っておきながらこの発言は我ながら性格が悪いと思った。彼のバンドのコトなんて全くもって知らないし、交際相手がいるかどうかも聞いていないのにこんなメチャクチャな、ただ相手をおちょくる為だけの言葉を矢のように浴びせかけたのだから。




「なーんてね……ホントのところはどうなの? 」




 そういいながら私は彼の方へと視線を向けると、肩を震わせながらうずくまっている[先客]の姿があった。ヤバイ……さすがに怒らせてしまったか……? 




「ハハ……冗談だって。適当に思いついた話を言い散らしただけだから……そんな怒らないでよ」




「……ううぅっ……うぐっ……ううぐっ」




「え? 」




 [先客]は怒りで震えていたワケじゃなかった。彼は泣いていたのだ……




「その通りです……! 全部あなたの言うとおりです! バンドが売れ始めたのも彼女をイケメンのドラマーに奪われたのも! 全部! ぜんぶ! ゼンブ! あなたが今言ったとおりです! 」




 目玉が頭蓋骨を突き抜けるほどの衝撃! まさか即興で作り上げたホラ話が全て的中していたとは……この第六感の鋭さが自分自信に働かなかったことが凄まじく悔やまれる。




「いままでずっと……10年近くもバンドの為に尽くしてきたのに……バスドラムの威力を増加させるために無理して飯を食べまくって体重を増やしたり、メンバーの愚痴を聞いてやったり、金を貸してやったり、仲間同士がケンカした時だって何度も僕が仲裁して解散の危機を止めていたってのに……ポッと出の新人ドラマーが入った途端に売れ出したなんて……それで僕が得たものはこの不自由な右足だけなんですよ! ……悔しい……悔しいですよぉぉぉぉ! バンドの為に……毎日毎日胃を荒らす思いだったのにィッ! オマケに彼女は……僕と別れる前から新しいドラマーと関係を持ってたらしいんですよぉぉぉぉ! 」




 大男がメソメソ泣いている姿を見て、さすがに私も彼のコトが気の毒に思えてしょうがなかった。そして彼もまた、私と同じく信じていた者に裏切られた同士なのだから……親近感を覚えずにはいられなかった。




「分かるよ……その気持ち……悔しいよね……」




「うぐっ……うう……」




 共感してくれる相手を見つけたからか、[先客]は少し落ち着きを取り戻したようだ。徐々にその嗚咽が大人しくなっていき、しばらくすると静寂が生まれた。どこか遠くの方でトラックがクラクションを鳴らす音がハッキリと確認出来るほどに……。




 そして私は再び傍らに置いた携帯電話の液晶画面をのぞき込み、只今午前1時40分だということを確認した。





 自殺決行まであと20分。





「ふう……そろそろお別れだね……」




 私がそう呟くと、[先客]は飼い主の外出を引き留める子犬のような瞳でこちらを見つめてきた。その視線から、私は彼の「先に逝かないで! 」というメッセージ読みとった。




「ああ、もう……分かったよ……あんた、ちょっとこっちまで来てよ。いいこと考えたから」




 [先客]は何をするんだろう? というような表情を作りながら、右足を引きずってピョコピョコとこっちへと近寄って来た。接近してきた彼の体は思いの外大きく感じられ、少し圧倒された。




「隣に座って」




「……はぁ……」




 彼の心情を知った後だからか、私はさっきまでイラついてしょうがなかった「……はぁ……」もどこか愛着が湧くニュアンスで受け入れるようになっていた。




「あんたと私、一緒に死ねる方法を思いついたの」




 私は首に巻き付けていたロープを外し、ソレを自分の左足首へと巻き直す。そしてフェンスに巻き付けて固定していた、ロープのもう片方の端をほどいて[先客]に手渡した。




「あんたはソレを右足首に巻き付けて」




「え? 」




「私とあんたを一本のロープで繋ぐってワケ。つまりね、どっちか片方が飛び降りれば強制的に2人とも真っ逆さまに地面に激突するってシステム」




 ロープを受け取った[先客]は目を丸くして驚いていた。




「それじゃ……元カレへの復讐はどうするんですか? 」




「心配しないで……元カレにしてみりゃそこまでしなくても、誕生日にアパートの屋上から元カノが飛び降りたってダケで十分な呪いになるから……何よりね、これ以上躊躇したら死ぬ決心が萎えちゃうかもしれないから……だから……」




 私の言葉を聞いた[先客]はロープを力強く握りしめ、その拳を震わせた。




「私がまた躊躇してるようだったら……しっかり連れてってね……あんたが先に飛び降りてさ……」




 これはちょっとした心中だ。[先客]とは2時間ちょっとのごくわずかな付き合いだったけど、お互い同じような苦痛を抱き、今から同じ行為に及ぼうとしている同志だ。ほんの少しだけど、手を取り合って……いや、足を取り合って最初で最後の共同作業に臨もうじゃないか。私はそんな気持ちになっていた。




 [先客]は「グズッ……」っと一度だけ鼻をすすり、無言でロープを右足首に巻き始めた。私の提案を受け入れてくれたようだ。




 それから私達は決行の時を黙って待ち続けた。あと10分足らずで自分の人生が終わると考えると、今まで歩んできた思い出が走馬燈のように蘇ってきた……




 中学生の頃、卒業式で同級生の男子に告白したけどフられたコト。




 高校生の頃に付き合ってた彼と映画を観に行ったらその時食べたポップコーンが気道に入って死ぬかと思うほどむせたコト。




 個室のネカフェで下着姿でくつろいで漫画を読み漁っていたら、後で監視カメラにその姿をバッチリ映されていた事実を知ったコト。




 こんな時にも関わらず、ロクな思い出がフラッシュバックされない私自身の記憶の品揃えの悪さが情けなく感じられてしまった……。




 今になって冷静に考えてみれば、私が本気で笑って楽しい思いを過ごしていたのは、元カレと付き合っていた5年間だけだったのかもしれない……そう思うと、彼に裏切られたコトが余計に悔しく感じられた。




 左隣で黙って座っている[先客]も同じようなコトを考えているのかな? 私が彼の方へ顔を向けると、ただひたすらに夜空を眺める同志の横顔があった。それに釣られて私も闇色の天を仰ぎ見ると、大きくて丸く、そして綺麗な満月が私達を照らしていたことに初めて気が付いた。彼はひたすらそれに魅入っていたのだ。




 [先客]がその月を見て何を思っているのか想像してみた。大好きなドラムを連想させているのかな? それともライブでパフォーマンスしている自分を月に映し出して楽しんでいるのかな? いや、ただ単にお腹が空いていて、月を大きなパンケーキに見立てていたりして。




 そんな風なコトを考えているウチに、もう時刻は午前1時55分にまで迫っていた。そろそろ一歩を踏み出す準備をしなきゃ。




「もう時間だね……」




「……はい……」




 私がゆっくり膝立ちになると、[先客]も同じように左足一本で痛々しくその腰を上げた。




「それじゃ……逝こっか? ちょっと早いけど」




 もう迷いは無かった。自分の決意を鈍らせるうっとおしい存在だった[先客]も、今では同じ志を抱く友人とも言えた。彼の存在が、自分が死の道へ踏み入れる勇気を与えてくれた。




 もう、何も怖くない。




 私は足下を見下ろし、今から強烈に身を叩きつけることになるだろう堅いアスファルトの地面を確認しようとしたけど、闇夜が濃すぎてソレが全く全く見えなかった。このまま飛び降りたら永遠に地面に激突することなく、ひたすらに闇の中を落ち続けるんじゃないか? と錯覚してしまうほどに。




 そしてそんな暗闇を、アパートの各部屋から漏れる光がわずかに照らしている。それはまるで飛行機を滑走路へと安全に導く誘導灯のようにも見えた。元カレの部屋からも例外なくカーテン越しと思われる薄い灯りが滲み出ている。



 こんな時間まで起きてて……漫画でも描いてるのかな? 




 来る日も来る日もデスクに向かってケント紙にペンを走らせていた彼……そんな姿を思い出した途端、急に目頭に熱いものが込み上げてきた。




「あれ……」




 変だな……おかしいよ……今から私は元カレに呪いをかけようとしているのに……復讐をしようと思っているのに……なんで……? 





「やめましょう」





 [先客]は私の顔を見て何かを察したようだった。




「僕はともかく、あなたはまだ死ぬべきじゃない……その涙は……悔しさから流したモノじゃないでしょう? 」




 [先客]は私の手を握りしめながら、その図体からは似合わない繊細な言葉で飛び降りキャンセルを提案してきた。




「……そんな、そんなコト言われたって……私はコレからどうすればいいの? 会社だってクビになっちゃって……これからの展望なんて全く見えやしないのに……! 」




「そんなコトはないです。あなたには良くも悪くも人を動かす[力]を持ってる。それだけで生きていけますよ……」




 何? 何なの? さっきまでコイツはメソメソ体を丸めて泣いていたってのに? 急にカッコイイ言葉を言うようになっちゃって……くそっ! 何よこれ! 悔しいけど私……コイツの言葉で「ホッと」しちゃったじゃない! 下痢で腹痛になった時に自宅のシャワートイレで心おきなく行為に及んでいるみたいな「安心感」が生まれちゃったじゃない! 




「とりあえず今日は中止しましょうよ。僕達、自殺するには時間をかけ過ぎた……」




 [先客]の言い分は最もだ……何というか私、コイツと愚痴の言い合いをしていただけで、何となく心の濁りが澄みきっちゃったような感じになってたのね……




 結局私、死ぬ勇気なんてなかったんだ。




「……そうだね……今日はもう帰りましょ……もうシャワー浴びてグッスリ寝たい」




 [先客]は私が自殺を思いとどまったコトが分かると、目を細めて笑顔を作った。その姿がなんだかテディベアみたいに見えて、私も思わず微笑んでしまった。




 もしもこの屋上に[先客]がいなかったら私は躊躇無く復讐のハイブリッド自殺を敢行していたかもしれない。逆に彼も、私と鉢合わせしてなかったらとっくにその巨体を宙に舞わせていた可能性がある。そうなっていたら? と思うと今では[ゾっと]している自分がいた。




 結局気持ちをぶつける機会がなくて、暴走していただけなんだろうな……私も[先客]も。




 もうちょっと、頑張ってみよっか。




 生まれ変わった気持ちでフェンスを乗り越えて向こう側へと戻ろう。そう思ったその時だった。




「ヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴウヴ……」





 何かが激しくのたうち回る音。忘れてた! 私は自殺決行の2時ピッタシに携帯電話でアラームを設定していたことを! 




「やばっ! 」




 マナーモードに設定してた私の携帯電話は[音]ではなく激しいバイブレーションでその刻を告げようとしていた。狭い足場に置きっぱなしにしていた携帯電話は振動によって徐々に移動している。このままでは地面に真っ逆様だ! 




「あぶねっ! 」




 本能的に中腰になって携帯電話を拾い上げようとした私。でもその時、自分の下半身が妙に開放的になっていることに気が付いた。




「ああああああっ! 」




 悲鳴を上げる私。それを[先客]が目を丸くして凝視している。その視線は間違いなく私の下半身。




 その時になってやっと思いだした。私は[とある理由]の為に、スカートのファスナーを全開にしていたコトを……そして海に打ち上げられたクラゲのように、スカートはその役目を忘れてパサリと私の足首まで落ちる。




 露わになる私のアイデンティティを包み込む小さな布……それは紫陽花を思わせる紫色で、構成する生地の総面積は名刺よりも少ないのでは? と思うほどに「卑猥」なシロモノだった。




「違うの! コレは! 」




 普段からこんな下着を履いているのかと誤解されそうだったので、ソレを目撃した[先客]に必死に弁解しようとしたその瞬間! 私は地に伏したスカートに足をもつれさせ……そのまま……





「ああああああああああ! 」





 落下してしまった! あろうことか[先客]と足首同士を繋ぐロープを巻き付けたまま! 




 ごめん! ホンッとごめん! 私の国宝級のおっちょこちょいのせいで、もう自殺とは無関係のハズのあんたまで道連れに……




「グフェッ! 」




 このまま2人とも地面に叩きつけられる! と思った矢先、私は横綱に左足を思いっきり引っ張られたような錯覚を覚え、続いて全身が思いっきり揺さぶられる衝撃に襲われた。




 なに? どうなったの? 




 私はどうやら落下することなく逆さまの宙吊りになっているようだ……。




「大丈夫ですかー? 」




 股の先から[先客]の呑気な声が聞こえた。何故? 本当ならあいつも一緒にロープに引っ張られて落っこちているハズなのに? 




 何か疑問を持った時、私は自分でも驚くほどに冷静になって洞察力が働く。改めて屋上の方へと視線を向けると、暗くてシルエットしか見えなかったが[先客]の姿が確認できた。そしてその陰が作り出す真実を目の当たりにした時、私は怒りの沸点が最高潮になった。





「てめぇぇぇぇぇぇぇぇっ! その右足! [義足]だったんかぁぁぁぁッ! 」





 [先客]のシルエットには右脚の膝から下が見えなかった。つまり、彼は着脱可能の右足に運命を共にするロープを巻き付けてたってコト! 




 私の体重を支え切れなくなった彼の義足はあっけなく外れ、不幸中の幸いかソレがフェンスの隙間に引っかかって私の命を繋いでいたのだ! 




「……すみません! 言ってませんでしたっけ? 」




「一言たりとも聞いてねぇよ! 何でロープを左足首に巻き付けなかったんだよボケェ! 私と死ぬ気なんてさらさらなかったんじゃねぇかよ! 」




「だってあなたが[右足]に付けろっていうんで……」




 [先客]の要領の悪さに私は脳内にある[冷静]という言葉を失いつつあった。ココが集合住宅地であること、今が夜中の2時だというコトを忘れて喉が張り裂けんばかりにシャウトした! 




「さっさと引き上げやがれ! このウスノロぉぉぉぉ! その体格を今ココで生かしやがれぇぇぇぇ! 」




 その瞬間だった……私の大声を不振に思ったのだろう……宙吊りになった私の目の前にあるベランダのサッシがカラカラと開かれ、アパートの住人が姿を現してしまった。





「あ! 」「あ! 」





 2ヶ月ぶりの対面だった。




 もじゃもじゃのアフロヘアーみたいになっていたのがすっきりと短髪に整えられてイメチェンしてたけど、見間違えるハズもない……その住人こそ、メゾン清水605号室に住む……私の元カレ……私を裏切った男がすぐ目の前……手を伸ばせば届くほどの距離にいた……。




 多分、時間にして3秒くらいだったんだと思うけど、お互いに顔を合わせて沈黙が続き、スローモーションのように時間がゆっくりと流れる錯覚に陥った。私はその間に脳機能をフル回転して彼の現状を観察するコトにした。




 元カレはパンツ1枚という開放的な出で立ちでUFOでも見たかのように瞼を全開にして驚いていた。浮気現場を取り押さえられた時と同じにね……




 そしてさらに奥の方へと視線をフォーカスし、ダブルベッドの上で顔の形が変わってしまうんじゃないかと思うほどに引きつらせた表情を作る憎き[巨乳娘]の姿を確認出来た。彼女もまた、一糸纏わぬ姿でこちらを見ている。




 クソッ! こっちは[雪辱]を果たそうと燃えていたってのに……お前らは[接続]を果たそうと萌えてたってのかよ! 





「うわああああああッ! 」





 元カレはやっとのことで逆さまの私を見たことによるリアクションを見せた。驚きのあまり腰が抜けたようで、ベランダの固い床の上をカサカサと這いずり回っている。ハハッいい気味だ! 




 もう少しでサッシの向こう側へと避難出来るぞってところで、何とも予想していなかった急展開が待っていた。




「おいっ! 何すんだ! 」




 巨乳娘が内側からサッシを閉じて鍵を閉めてしまったのだ! パンツ1枚の彼氏をベランダに残したまま。




「開けろ! 開けてくれぇぇぇぇ! 死にたくないぃぃぃぃ! 」




 元カレも巨乳娘も逆さまになって現れた私を怨霊や妖怪の類なのかと勘違いしたようだ……何だよ……「死にたくない」って! 私があんたらを殺そうとしてるのかと思ってんの? ……まぁ、確かに包丁持って暴れた過去があるけどさ……。




「お願いだぁぁ! 開けてぇ! 開けてくれぇ! 」





 ……なんだか可哀想だな……





 涙声で懇願する元カレの姿は滑稽で情けなくて、本当なら大声で笑って辱めを与えてやりたいところだったけど……もう今の私にはそれが出来なくなっていた。




 なぜなら巨乳娘がサッシを閉じる瞬間、私は元カレの部屋の[変化]に気が付いてしまったのだから……。




 私はもうすでに、元カレに対する恨みは1mmたりとも持ち合わせていなかった。




「ねぇ、聞いて」




 私は声を掛けると、元カレは恐る恐るこちらに振り返った。その顔は涙と鼻水で汚れまくっている。




「驚かして……ごめん、私ね……お礼が言いたかっただけ……なの 」




「へ? 」




 熱いものが胸に込み上がってきた……私の涙を押さえる堤防も決壊してしまったようだ。




「こんな私と……5年間も……5年間も一緒に過ごしてくれて……あっ……ありがどうっ! 今まで……ごめんね! 本当にごめんね! 君と一緒にいた時間ば……毎日……だのしがった! 本当にありがどう! 」




 涙が溢れて止まらなかった。元カレの姿もボヤけるくらいの大決壊だった。逆さまの状態なので、頬でなくおでこを伝って涙を流れ落とす私の姿はきっと不気味なんだろうな……と思った。




「あの巨乳の彼女……大事にしてあげてね……うぅ………」




「は……はい……」




 元カレはどんな表情で私に返事をしたのかが分からなかったけど、私はこれで満足だった。そして「もう時間ですよ」とばかりに、左足首に結ばれたロープが引っ張られ、徐々に私は元カレの視界から消えた。




 [先客]との遭遇や、携帯のアラーム、スカートのファスナー、義足。様々な要因が積み重なって出来上がった元カレとの奇妙な面会はわずか数十秒で幕を閉じた。








「すみません、大丈夫でしたか? 」




 再び屋上の狭い足場に舞い戻った私。片足の不安定な状態で一生懸命私を引き上げてくれた[先客]。その顔を見た途端、今度は[安心]の涙が込み上がってきた。




「ふええええぇぇぇぇん! せづないよぉぉぉぉ! 」




 私はおもちゃを欲しがる子供のように泣きじゃくりながら、[先客]のブ厚い胸に顔を押しつけた。彼は一瞬驚いたものの、すぐに優しい手つきで私を包み込むように抱きしめてくれた。




「一体[下で]何があったんですか? 」




「見ちゃっだの! わだし! 見ちゃったの! 」




「え? 何を見たんですか? 」




 [先客]は要領を得ない状態の私にイライラすることもなく、落ち着いた口調で私を落ち着かせようとしてくれた。そして少し落ち着きを取り戻した私は[下]で何が合ったのかを説明し、私が元カレへの恨みの感情を消し払ってしまった[変化]についても解説した。





「元カレの部屋からね……消えてたの……漫画を描く為の道具や、資料……今まで描き上げた原稿用紙の束の数々……それが綺麗サッパリ失くなってたの……」




「もう漫画家は諦めてた……ってことですか? 」




「そう、それを見てね……私はやっと気がついたの……5年もの間、時間を奪われていたのは私じゃなくて……きっとカレの方だって……」




「……どういうことですか? 」




 私を包み込む[先客]手に、少しだけ力が込められたのを感じ取った。




「多分ね……カレは自分自身で気が付いてたんだと思う。才能の限界に……どこかでケリを付けて別の道を歩まないと……って考えていたんだと思う。でもね……私は無意識にそれを許さなかった。失敗しても『次は頑張って! 』だとか『今度は大丈夫だから! 』だとか無責任に重圧を与え続けてた』……[諦める]という道をことごく塞いでいたんだ……私」




 [先客]は相づちも打たず黙ったままだったけど、彼の胸から伝わる鼓動が少し高まっているのを感じて、真剣に聞いてくれていることが分かって嬉しかった。




「あの巨乳娘……悔しいけど……彼女は私と違って『もういいよ』って言える子だったんだな……カレの部屋のコート架けにはビシっとキマった格好いいスーツが吊されてた……髪型もスッキリしてたし……新しい人生を歩む手伝いをしっかりしてくれてたんだ……私なんかより……ずっとデキた子だよね……結局私はカレの為に尽くしてきたつもりになっていただけで、自分のエゴで縛り付けてただけだったんだ……」




 涙が際限なく溢れてくる。[先客]のシャツはもう私の涙と鼻水でベチャベチャになっていた。ちょっと申し訳ない。




「それは僕も同じですよ……あなたのおかげでで悟ったんです……僕も間違っていたのかもしれない」

 [先客]は私の耳元でささやくように語り始めた。




「僕は気が付いていました。自分にはドラムのテクニックはあっても華が無いということに……それにも関わらずその欠点を補うことをせず、バンドの為という言葉を免罪符に、自分の信念を一切曲げずにひたすら技術だけを磨き続けていました……そんなんじゃバンドの協調性もグルーブも生まれないですよね……メンバーの足かせになっていたのは間違いなく自分だった……」




「……そんなことないよ! 」




 右足を失いながらも、自分の過ちを素直に振り返る[先客]の言葉はあまりにも純粋過ぎた。




 私は一旦[先客]と離れて、改めてその顔を見つめ直した。丸い顔に、アゴ髭も生えてる。大きな体型にオールバック。そんな厳つい彼も、その瞳だけはつぶらで綺麗に輝いていることに気が付き、ギャップが可笑しくてついつい私はクスリと吹き出してしまった。




 そんな私を見て、[先客]も微かに笑顔を作った。悔しいけど、私はその笑顔を「素敵だな」と感じ始めていた……。




「あの、一つ聞いていいですか? 」




 突然、真剣な口調で彼が質問を投げかけてきた。一体何だろう? 




「いいよ、何? 」




「そのぉ……何というか……」




 [先客]はもじもじと聞くか聞くまいか迷った挙げ句、とうとう決断してその口を開いた。




「なぜそんなに派手な下着を? 」




「ふぇっ!? ああああッ! 」




 しまったぁーっ! 色々あって忘れてたけど、私の下半身は今、地上波では間違いなくボカシが入るほどのエゲツない下着一丁という姿だったことを今思い出したァァァァ! 




 必死に両手でその破廉恥な姿を隠そうとした私だったが、[先客]が素早くジャケットを脱いで膝の上に掛けてくれたおかげでその必要はなくなった。この人、以外と細かい気が回るんだな……。




「これはね……くそう……説明してあげる! 」




「……はぁ……」




「私がやろうとしてたハイブリッド自殺の呪いは[二段構え]だったの! 」




「……にだんがまえ? ……」




 [先客]の口調は「何を言っているんだこの人? 」って感じのニュアンスだった。




「元カレは私のお尻が大好きだったの……この下着もカレがくれたモノなんだけど……だからね! 私はこのパンツ一丁で首吊りしてね、そうすればカレが他の女の子のお尻を見る度に、私の首吊り死体を思い出すようになるだろう! ……そう思っただけなの! でもアイツ……本当のところは私のお尻を巨乳に見立ててバストの代用品にしてだけなんじゃないか? って思い始めて……だからこの計画はホントならやめるつもりだったんだけどファスナーを閉め忘れてて……」





 私はヤケクソ気味に下着の真実を語り始めた。自殺と復讐を諦めた今の自分にとって、こんなバカげた計画を考えていたことが恥ずかしくてたまらなかった。多分私の顔は真っ赤に染まっているだろう。




「フフ……」




「な、何……? 」




 [先客]はさっき私が遙か真下の地面に落としてしまった携帯電話のように小刻みに震え始めたと思ったら、ついに……




「ブワァァァァッハッハッハッハッヒィィィィ! 」




 [先客]は今までのキャラクターからは想像が出来ないほどの大きな声でイキナリ笑い始めた。頭のネジが何本か外れてしまったんじゃないか? と思うほどに。




「な! 何! そんなに笑わなくもいいじゃない! 」




「フヒィーッ! これが笑わないでいられますか! ヒヒッヒッ! あなたの方が元カレよりもずっと漫画家に向いてたんじゃないですか!? ブワーッハッハッハッハッ! 」




「何よソレ! 私の存在がギャグ漫画みたいだって言いたいワケ? まったくそんな……フフッ……」




 [先客]があまりにも気持ち良く笑っているので、私もついついそれに釣られて……だんだんと……可笑しくなって……




「グヒィィーーーーッ! ハッハッハッハッハッハッハッハッヒィイッ! ゲホッ! ゲホッ! 」




 私もついに壊れた。むせて過呼吸を起こすんじゃないかってくらいに大笑いをした。




 この瞬間、元カレにフられたこと。会社をクビになったこと。自殺を真剣に考えていたこと。全てのネガティブな記憶を忘れることが出来た。




 多分、こんなにも気持ちよく笑ったのは数年ぶりくらいじゃないかな? もし目の前で笑っている彼も同じだったら、なんだか嬉しい。








 私達は思う存分笑いまくった後、ようやくフェンスを乗り越えて生と死の狭間から脱出することになった。時刻はちょうど午前3時。点々と照らしていた家々の灯りも少なくなって、闇夜を照らす満月の光がより一層明るく感じられた。




「痛てて……」




「大丈夫ですか? 」




 私は宙吊りになった際、左足首を怪我してしまったらしい。歩くことすら辛いほどに痛みが走った。

「肩を貸しますよ……」




 [先客]の義足はフェンスに引っかけた時に細かい部品が壊れてしまったらしく、左足一本でしか体重を支えることが出来なかった。




「そんな……平気なの? 」




「スピーカーやアンプの重量に比べればワケないですよ」




 そう言って彼は左足一本で軽々と私の体重を支え上げた。その力強さに思わず胸をときめかせてしまっている自分がいた……




「私達、2人でやっと2本足なんだね……」




「そうですね。でも、半端者同士だってこうやって手を取り合えば立ち上がることが出来るんです」




 格好良さげな台詞を恥ずかしげも無く吐き捨てる彼の姿勢は、初めは正直ウザかったけど、今ではユーモアとして許容できた。




「でも、どうやって歩くの? 」




 二人二脚では立ち上がることは出来ても、そのまま歩くことは難しいんじゃない? と私は思っていた。




「ご心配なく、僕には丈夫で固い3本目の足がありますから」





「…………えぇっ!? 」





 [丈夫]で[固い]3本目の足!? 私は本当にその言葉が彼の口から飛び出たのかを疑った。




 嘘でしょ? まさか彼、純粋で真面目な雰囲気の彼が……女性に対して[下ネタ]を言うなんて……! 




 まるで乳幼児がラップバトルを仕掛けてきたかのような衝撃! 3本目の足……つまり[アレ]でしょ? 男の股にぶら下がった生々しいエレファント……! それが[固い]って……




「ハハハッ! 実はあんたってメチャクチャ面白いじゃない! そんなストレートな下ネタをいきなり言うだなんて! そんな一面もあるんだね、あんたって! 」




 私は笑いながら彼の胸板をバシバシと叩いた。でも見合わせた彼の表情は意識がどこか遠くに行ってしまったようにポカンとしていた。




「下ネタ……? 何のことですか? 僕の言う3本目の足は[松葉杖]のコトですよ? 」




「……え? そうなの? 」




 彼は屋上の片隅に指を差し、確かにそこには金属製の松葉杖が放置されていた。うん、確かに[丈夫]で[固そう]だ……。




「教えてください、どうして松葉杖が下ネタなんですか? 」




 彼は濁りの無い瞳を私に顔に押しつけてきた。やめてよもう! そんな綺麗な目で「下ネタ」とか言いながら見つめないでよ! 




「忘れて! 私の勘違いだったんだから! 」




 下ネタの解説ほど恥ずかしいことはない。それを強要された私は恥ずかしい下着を見られてしまった時と同じくらいに体を熱くし、顔を真っ赤に染め上げていた。




「いえ! そうはいきませんよ! それが分からない内は気になって夜も寝られませんから! ゆっくり風呂に浸かることだって…………」




 彼の言葉が止まった。そして徐々に視線を私から反らし、まるでタコを茹でたようにゆっくりと顔を赤く染め始めた。




 どうやら彼にも[3本目の足]の意味が分かったらしい。




「うん、つまり……そういうこと……」




「……はぁ……」




 神秘的な月明かりに照らされた私達は、体を寄せ合い、顔を真っ赤に染め、まるで一房のさくらんぼのようになっていた。









 終わり

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屋上のチェリーズ 大塚めいと @ohtsuka_mate

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