Episodi 41 風と玩具

­ ポロン、と音が零れて、落ちた。

 アンゼルモが、手を力なく下ろしていた。ジゼルはそれを見つめ、ぼんやりとしたままアンゼルモを見つめた。視線が交錯した。やがてアンゼルモは顔を歪めた。泣きだしそうな顔だった。けれどアンゼルモは泣かなかった。ジゼルは俯いて、目を閉じると、静かに息を吸って、吐いた。

『彼女が――アフロディテが転生したことは、僕が告げたんですよ。元主に』

 アフロディテの竪琴は、ジゼルだけにそう囁く。

『彼女は、孫の二人が巡礼者に選ばれることにひどく怯えていた。無理もありません。だって彼らは二人の巡礼者の血を引くのだから』

 ジゼルは顔を上げて、アンゼルモを見上げた。アンゼルモは再びのろのろとした仕草で弦を鳴らし始めた。

『レプリタ殿とザウスト殿。その双方の血を、あの双子は引いている。無論、僕との共鳴力は高かった。だけれど僕は、レプリタ殿に初めて話しかけた。彼女の浅ましさを僕は厭いましたが、同時にひどく哀れだとも思っていたので。あなたの孫よりも、ずっと僕と共鳴力の高い子供がいるよと。……そのせいで、アンゼルモ殿に苦労をかけたけれど』

「……ビスクとシプソのやつ、過去の巡礼者二人の血を引いてたんか。そりゃ……はは」

 アンゼルモは、乾いた笑い声を零した。

「それで? あんたはおいらを選ぶの?」

『いいえ。僕は、あなたが今度こそ幸せになる未来を望んでいる。僕を求めている子供は、他にいるでしょう? 僕はずっと待っているの。勇者になったのに、歌が大好きなあの子供を待ってた』

 ジゼルは、そっと竪琴を撫でた。

「ヘロは……私のせいで星籍を取られるの」

 声は、自分でも驚く程に静かだった。抑揚さえなかった。ジゼルはただ、ヘロに手を引かれ、丘の上まで駆けた日のことを思い出していた。

 私を生まれさせるために、ヘイゼルという子が消えて、その血縁だからこそ選ばれてしまった勇者が、いつか消える。大罪人として。私をかばったがために。

「あなたは……ヘロと一緒に壊れたいの」

『できることなら。女神さま』

 竪琴は、柔らかい声で笑った。

『僕らは意思を持ちすぎた。意思を持つのは苦しい。僕らは元来そういう生き物じゃないからです。僕はただの楽器でありたい。願わくば、アフロディテさまが御子に歌って聞かせていたような、キラキラ星の子守歌を世界中の人が歌って育つような……そんな世界であって欲しい。僕らはウラノスのガイアの争いに巻き込まれるのはもうごめんなんです』

「ウラノスと、ガイアの争い?」

『ええ。だってそうじゃないですか。手を変え品を変え……二人の英雄の目的までは僕たちは知らないけれど、あなたをめぐってずっと争っている。僕らはあなたを消したガイアを許さないけれど、再びあなたを地上に取り戻したガイアの転生は好ましく思います。ウラノスの目的を知ることが出来るのはきっとあなたしかいない。ウラノスさまは、あなたにしか心を開かなかったんだから、女神さま』

 ジゼルは、細く息を吸った。身体中が軋むような心地がした。

『あなたしか、ウラノスさまの心を開けなかったんですよ。英雄の中で一番の愚か者の心を。だったらあなたしか、この不毛な争いを終わらせられないんです。だから、あなたはウラノスの地図を探さなければならない。この世界中の誰にももはや必要とされない、意味をなさないその地図が、あなたにはきっと意味を持つから。どうか覚えていて。ただあなたをここに在らしめるためだけに、何人もの巡礼者の子供たちが犠牲になったことを。あなたはそれだけの犠牲をもってして、目的を持って生み出された。ウラノスさまの凝らした仕掛けによって。そのことに、きっと、意味があるはず』

「でも、私、」

 ジゼルは、掠れた声で応えた。

「ウラノスのために生きてるわけじゃない。わたし、私……」

『あなたは女神さまそのものだから』

 竪琴は、諭すように優しい声で語りかける。

『直に、全て思い出すでしょうし、ウラノスへの想いを取り戻してくださる』

「さっきから黙って聞いてりゃ言いたい放題……」

 アンゼルモが、弦を強く弾いた。その指先に切り傷ができたのを、血が滲んだのを、ジゼルは見た。

「おいらには前世のことなんか忘れろだの勝手なこと言うくせに、ジゼルには生き方を選ぶ権利もないのかよ。無神経なんだよ。なんであんたらの言うことを聞かなきゃいけねえの」

『あなたは人間』

 竪琴は、涼しい声で告げるのだった。

『彼女は、土人形です。人形は、人間のお遊びのために作られる……目的を持って作られる。そうでしょう?』

 ジゼルは、微かに震える指先を丸め、ぎゅっと拳を作った。息を吐く。胸が痛い。頭も痛い。何が悲しいのかもわからない。ヘロ、ヘロ、と頭の中だけでその名前を呼んだ。呼ばないでいたら、自分を見失いそうだった。ジゼルは喉から声を絞り出した。

「ウラノスの地図、は……どこにあるの」

『恐らくは、ザウスト殿が』

 竪琴は、静かに告げた。

『彼が、預かり、保管していたはず……彼は天命を終えましたが、故郷ウラノスの地でそのご子息が受け継いでいるはずです。英雄アポロも知っておいでのはずですが……あの人はあなたにはとかく厳しいですね。聞かなければ教えてくださらない』

「そう……そう、じゃあ、私、次はウラノスの星に行けばいいのね」

「ジゼル……」

「知らなきゃ、どこにも行けないの」

 滲み歪んだ視界に、アンゼルモが映っている。ジゼルはごくりと口内のものを、言葉を飲み下した。みんなが、私にウラノスを助けてという。考える暇を与えてくれない。なら、それに従うしかないじゃないか。どうしたらヘロを助けられるの。私なんかを助けて逃げてくれる優しい人を、どうしたら。

 不意に、綺麗な少年の歌声が、聞こえてきた。

 横切る風が、その声を波立たせる。はっとしてジゼルは眼下を見下ろした。アンゼルモが隣で同じように身を乗り出すのがわかった。小さな子供たちに囲まれて、ヘロが歌っていた。アンゼルモがぽつりと、「歌詞、間違ってるよ」とへらり笑いながら零す。

 ジゼルは、泣きたい気持ちになった。声も歌声も、色も目も、温かい手も子供っぽさも、全部全部愛しくて、全部全部可愛くて。

 大好きなのに。それはいつか捨てなければならないの? なんで? どうして。

 生まれて来なければよかった、とジゼルは初めて、心から思った。苦しい。もう、ヘロを好きなこの気持ちしか、自分には価値がない。これを失ってしまったら、ジゼルはジゼルでなくなるのだった。ウラノスも愛しながら、ヘロも愛するなんて、そんな器用なことできない。女神の生まれ変わりである自分に、何を求められているのかもわからないのに。

 やがて、歌い終えたヘロは、顔をあげた。ジゼルと見つめ合う。風の音さえ、消えたような心地がした。このまま時が止まってしまえばいいのに、とジゼルは思う。ヘロはジゼルに笑った。花が咲くように笑った。

 そのまま、シクルの羽で飛んでくる。「よ」と放たれたヘロの声を、とても久しぶりに聞いたような心地になった。

「ヘロはさあ、喉から声出してるだろ。腹から出さないとだめなんよ」

 アンゼルモが肩をすくめる。

「やり方わかんねえし。じゃあアンゼルモが教えてよ」

「まあ、いいけどさぁ……」

 ヘロはジゼルのすぐ側にしゃがみこみ、竪琴を撫でた。ヘロの服の袖先が、ジゼルの頬を撫でる。それがこそばゆくて、ジゼルは泣きたいほど今が幸せだと思った。無意識に、手がヘロの背中に伸びていた。指先で触れて、下ろした。ヘロは振り返って、枝の上に落ちたジゼルの指先を、柔らかく握った。温もりが指先から沁みいってくる。なんで、とか、考えられなかった。ヘロの匂いも気配も全てが自分のものみたいに感じられた。このまま、このまま、とジゼルは願って、もう声も出ないまま俯いた。

「これ……選んでもらうにはどうすんの」

 ジゼルの手に触れたまま、なんでもないようにヘロはアンゼルモを見上げるのだった。

「んと……側で歌うんだよ。歌で弦を震わせて、音を奏でられたら、共鳴」

 アンゼルモは、掠れた声で言った。

「ほんとに、やるの?」

「うん」

 ヘロは笑う。アンゼルモは顔を歪めた。

「ほんとに? なあ、ヘロ。おいらたちも聞いたよ。前の巡礼者の話。竪琴から聞けたんだ。なあ。鏡とも竪琴とも契約して、一緒に消えんの? お前、それでいいの?」

「いいかはわかんねえけど、今はいいや、それで」

 ヘロは肩を竦めた。

「どうでもいいんだ。捕まるまで逃げるし。ごちゃごちゃ考えるのはやめた。俺はただ、歌っていい権利が欲しいだけ。ただそれだけだよ」

「もう……ばっかみたいだよ、ばかじゃねえの。好きにしろよ、もう」

 アンゼルモは、くるりと背を向けて、拳を握りしめた。その唇が噛み締められているのを、ジゼルは見た。

「ん、んっ」

 ヘロは咳払いをした。歌い出したそれは、ジゼルの記憶の箱を、かき乱した。

「Twinkle, twinkle, little star…

How I wonder what you are…

Up, above the world, so high,

Like a diamond in the sky…


Twinkle, twinkle, little star,

How I wonder……」

 ねえ、なんでその歌を知っているの、ヘロ。それは、アフロディテだけが……ねえ、ヘロ。なんで。

 アンゼルモの指がぴくりと動く。「なんか、それ、頭痛くなる歌だな……」とぽつり呟いたのがジゼルには確かに聞こえた。ジゼルは鈍く輝く宇宙の上に立っていた。否、そんな白昼夢に迷い込んでいた。アフロディテが、椰子の実を布で包んで、腕に抱いて、その歌を口ずさんでいる。目は虚ろだった。それを、アポロが苦しげに見つめていた。アポロがその口の端から、一筋の涙と共に零した言葉が蘇った。

 ――【幸せに、したい。アフロディテ、アフロディ、テ……】

 風が、強く吹き抜ける。遠くの空で、雲が形を変えて、流れていく。

 ビン、と音がして、弦が震えた。弾かれたように、竪琴は不協和音のような調べを奏で出す。ヘロはジゼルから手を離して、竪琴を抱き抱えた。ヘロは笑っていた。幼子が、やっと欲しかった玩具を手に入れた時の、頬を染めた笑顔に似ていた。ぎゅっと、大事なもののように抱きしめていた。ヘロはまた歌い出す。やがて竪琴はそれに合わせ、音を洗練していく。

 ジゼルは両の手で顔を覆った。ヘロに触れていなかった方の手が、酷く冷たかった。頬を木の皮の屑がざらざらと撫でる。睫毛にも屑がついた。いつのまにか、シクルは羽を閉じて、ジゼルの膝元にぽとりと落ちていた。


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