Episodi 40 波と陽
長い沈黙が落ちる。ヘロは、音が立たないように息を吐いて、頭上を見上げた。数珠上に連なった緑の簾が、暗闇では鈍く輝いて、ヘロとレプリタの手や頬を照らしている。
長い、長い物語だった。そして壮絶な物語だった。英雄の苦しみと比べたら些細な、それこそアポロがそう評したように、蟻の苦しみだったろうか? けれどヘロにはそう思えなかった。きっと、それぞれがそれぞれに苦しんだ。きっと、過去の勇者や魔道士たちだって苦しんだ。あくまでレプリタが語った物語は、レプリタの目で見た世界でしかない。ヘロもまた、自分の世界の中でしかレプリタの苦しみを捉えられないけれど。
ヘロは、目を閉じた。ヘロは今、自分を叱咤していた。狭間の道で、英雄たちの記憶、思念と苦しみを見せられ、自分がすっかり彼らの痛みを理解したつもりになっていたことに気付いたのだ。けれどきっとその全てを理解することなんてできない。できるはずがない。彼らも苦しかったんだろうな、辛かったんだろうなと、同情をすることしかできないのだ。そのことに気付いた。……それは共感ですらなかった。共感ができるわけがない。ヘロは狭い田舎星で生まれ、ヘロ自身の苦しみしか知らない。その尺度でしか、物事を量れない。ヘロは、自分を不幸せだと思っていた――それをようやく、メルディの言葉の受け売りでもなく、自分の心で自覚した。自分よりもずっと壮絶で凄惨な過去をもつ英雄たちを、憐れんでいたことを自覚した。この人たちは、俺よりずっと不幸だ――そう思ったから、心が痛んでいた。
けれど今、ヘロはレプリタの過去をどう受け止めたら良いのかわからなかった。レプリタはヘロと同じ、英雄たちに翻弄されるただの一人の人間だった。ただ、ヘロより長い時を過ごしてきたというだけで、彼女の心の傷はずっとずっと、今のヘロと同じ年頃から膿んで彼女を苛み続けているのである。ならばそれは、ヘロと対等な苦しみだった。立場も状況も違えど、ヘロと同じ地平に立っている者の苦しみだった。
話を聞きながら、ヘロは、アスモという先代の勇者の苦しみがわかったような気になった。そして、そう思った自分を恥ずかしく思った。アスモの最期に共感した気になったのだ。きっと彼は、俺かそれ以上のしつけを受けてきたに違いない。俺だって、多分目の前に苦しみを終わらせられる方法があるなら、そして絶望していたなら、同じ道を選んだかもしれない――だなんて。魔術師の蛹達にはきっとわからない。彼らは、勇者の蛹のことを強い人間だと思っているだろう。でも実際には違うのだ。勇者の蛹は程度の差はあれ、すべて【諦め】て生きている。お前たちは【もっている】からと、奪われ続け、諦めることでしか強くなれない。いつかこのしつけで自分は死ぬんじゃないだろうか? そんな恐怖とも戦ってきたし、いつしかどうとでもなれと、どうにかなるだろうと厭世するのだ。だから、生きることよりきっと死ぬことのほうが楽だ。死にたい、と思わないだけの話。
だから――だからきっと、アスモは、自分が消えれば後世の勇者の蛹は犠牲にならないからとそれを言い訳にして、消えたくなったのだと。
……そう思いかけて、自分を恥じた。実際のところ、ヘロにはアスモのことはわからない。わかるはずもない。レプリタだってわかっていない。ヘロはただ、自己をアスモに投影しただけだ。どれだけそれは、すがすがしかっただろうか。楽になれたかな? それなら、俺も消えるのは怖くない気がする――そういう、自分への言い訳にアスモを利用しようとした。俺は、ずるい。ずるいことを、今まで直視しようとしていなかった。でも……もう目を、そらせない。
「……ヘイゼルは、その後行方をくらました。私たちに、手紙を残していった。つたない字で、書き損じもたくさんあったらしい。私は文字が読めないからね。読んでくれたのはザウストだった。今でも覚えている。『アスモ、ごめんなさい。おれはやっぱり、ちずの子をたすけたいんです。あと、ザウスト、いつもめいわくかけてごめんなさい。あと、レプリタ。ごめんな。ほんとにごめんな。なにかあったら、おれのいもうとのこと、よろしくね』……忘れられるはずがない。呪いの言葉のようだと思った。私はザウストと別れてから、この地にヘイゼルの妹を引き取って、育てた。そうして生まれたのがヘンリエッタ――お前の母だ。ヘンリエッタは勝ち気で、上昇志向の強い子供でね、コーラはのんびりとした子だったからあまり性質は似ていなかったな。ヘンリエッタは歌が好きだったし、上手だったよ。だが自分は吟遊詩人にはなれない、歌もそのうち歌えなくなると知った途端、自分の運命に憤慨し、細い小さな足でこの木を下り、裸足で列車に飛び乗った。私の切符を盗んでね。ふふ、その行動力と小狡さには感心し、舌を巻いたものさ。その後彼女は、歌の才能を生かしてどうにかこうにか……プルートの研究機関に入ったようだな。さて、どうやったのかは私は知らないが、あの子はなかなか頭のいい子だったよ。私は以来、迎えが来ない限り自らこの星を離れたことはないし、離れることもできなくなった。切符がないからね。そのうちザウストも死んだ。せめて、見送りたかった」
「母が、すみません」
「ふ……お前に謝られると、許してやろうという気にはなるな。私は年ばかり取ったが、未だ勝ち気な性格も、頑固なところも変わらない。否、むしろ前よりもひどくなったかもしれない。私はお前の母親が私の切符を盗んだことを感心もし、また恨んでもいるよ。だが、ザウストと離れたのは私の意志だから、仕方のないことでもあるのだしね」
「……ヘイゼル……おじさんは、やっぱりガイアの筆で消えたということ、ですよね」
ヘロは、レプリタをまっすぐに見つめた。レプリタはしばらく沈黙した後、疲れたように息を吐き出した。
「そりゃ、そうだろう。あの地図の子が生まれているのだから。大方、もう一度皇室に忍び込んで筆を盗み、今度こそ成功したか……あるいはあの無い頭で大罪人になり処罰されたか……だが、アスモ以来の、星籍を剥奪されるほどの罪人の知らせなどなかったからね。忍び込みが成功したと考える方が自然だろうよ。私はそれでも、ヘイゼルがどこかで生きていると信じたかったが。だがザウストは、ヘイゼルはもう生きていないだろうと諦めていたしね。それが私たちの別れた理由だ。私はザウストを愛そうとしたが、傷のなめ合いではお互いの傷を膿ませる一方だった。私はあれから一度もザウストと会っていないよ。そうしてこの星の、この洞の中に閉じこもり、ヘイゼルの無事を祈り続けてきた。だがあの子を見れば、どうしようもない。あの子は六芒星を首から掲げていた。しかもアポロの星で。私は憎らしく思ったよ。ああ、あのゲルダに相当可愛がられて育ったのだろうねと」
「ジゼルは、ジゼルなりに苦労して生きています」
ヘロは、顔をゆがめた。メルディが、慰めるようにヘロの頬にぴたりと貼りついた。ヘロはそっとそれを指で撫でた。
「ふん。そうでなければ人の子として生まれてきた意味もあるまい」
レプリタは、鼻で笑った。
「……私の話は以上だ。長くてすまないね。学がないものだから、どうもうまく話をまとめることがかなわん」
レプリタは、自分を嘲るようにそう言って、笑う。ヘロは首を緩やかに横に振った。
「……一つ、気になることが」
「なんだね」
「……アスモさんがガイアの筆で消えたのなら、どうして俺がまたプルートの鏡に選ばれることになったんですか」
「そこだよ」
ははは、とレプリタは乾いた笑い声を零した。
「アスモが消えたことに、意味はなかったということだ。ゲルダに言わせれば……あれは私やザウストになるべく頼らず、一人で多くの印を消し、己の体に負荷をかけ続けていた。だからシクルやプルートの鏡との共鳴が弱くなっていたそうだ。鏡も己を守ろうとして、摩耗を避けようと少しずつアスモとのつながりを解除していた。そのため、アスモが星籍を消したところでプルートの鏡にはその一部しか影響が及ばなかった――果たして、それが真実かは知らないが。私はゲルダを信用しない」
「ああ、だから……」
ヘロは俯いて、メルディを撫でた。プルートの鏡の表面に刻まれていた、深い三本の傷を思い出していた。
「……でも、あなたはジゼルのことは言わなかったんですよね」
「ふん。言っただろう? ヘイゼルが生きているかもしれないのに、本当に発生するかもわからぬ地図の子の存在を証言したところで、私に利益があるとも思えなかった」
「……もし、ジゼルが生まれていたとしたら、ヘイゼルの生きていた証そのもの、ですもんね」
ヘロとレプリタは睨みあった。やがて、レプリタは「うるさい」と苦々し気に零した。
「ヘイゼルの生きていた証はコーラであり、ヘンリエッタであり、お前だ。お前は生き写しのようにそっくりだよ。一見あの子と違って温和だがな。内に秘めているものはきっとそう変わらない」
「さすが……俺のこと、母よりよくわかってくださる」
ヘロは笑って見せた。
「この光る蝿は……じゃあ、最初にヘイゼルおじさんと出会った時に知ったものなんですか」
「そうだよ。あの頃はヘイゼルも素を出さなかったし、たわいもない話ができた。私が綺麗だと言ったら、蝿だよと言って私を気味悪がらせようとしたのさ。だが生憎虫には慣れていてね。何ともなかった。それでヘイゼルはぽかんとして、笑って、また見に来ようかと、守れもしない口約束を吐いたんだよ。あの子は特に、あの頃は口から出る言葉のほぼすべてが嘘と誤魔化しとその場しのぎの適当な言葉だったからね。その約束を信じていたわけじゃないが……この星に戻ってきて、この暗い洞を見て、ふと思い出したのさ。……あの星には、コーラがいた。いつか本当に、またヘルメスの星に戻るつもりで、私にそう言ってくれたのだろうかと。そうじゃないと私の理性は言うけれど、そう夢見たっていいじゃないか。結局、戻る気をなくしたから、私にコーラを頼んだのさ、あの子はそういう子だよ」
「……図らずも、また一緒に見れているんじゃないですか?」
ヘロは、微笑んだまま、ぶっきらぼうに言った。
「だって、俺、似てるんでしょ」
レプリタは再び黙り込んだ。やがて立ち上がって、ざくざくと辺りの草や葉を踏みしめ、ヘロの前に来た。りん、りん、と小気味よい音で、鈴がなる。レプリタはヘロの頬を平手打ちした。
「……婆をからかうな」
「……変わってないんじゃないですか。これ、ヘイゼルおじさんにもしたんでしょ」
「はあ、生意気なところもそっくりだな。だがヘイゼルほどのずる賢さはないらしい。馬鹿者」
レプリタは、呆れたような嗄れ声をヘロに降らせた。
「私に同情などいらないよ。お前は代わりにはなれない。それより、私の話を聞いて、少しは考え直したか?」
「……わかりません」
「私の話は、無意味だったようだね」
「そんなことは、ないです」
「いいんだ」
レプリタは、静かに呟いた。
「いいんだ。これで、私はいつでも死を待てる」
その声は、とても穏やかだった。レプリタが、鈴をちりん、ちりん、と鳴らしながら洞の外へと歩いていく。ヘロは立ち上がって、草や虫の死骸を踏みつけ、遠ざかっていく鈴の音を追いかけた。
洞の外に出ると、夕焼けが目に染みた。美しい楽器の音色が聞こえてくる。風に運ばれて――上の方だ。
「……アフロディテの竪琴かな」
『そのようだ』
メルディも応えた。
「……なあ、メルディ」
『なんだ』
「……俺さ、俺が残りの神器、全部に選ばれれば、俺一人消えたらそれで終わりなのかなとも思ってたんだけど」
『そうか』
メルディは、ふわりふわりとヘロの目の前を泳いだ。
「……でも、考えが少し変わったかも」
『ほう』
「失敗、するかもしれないんだよね。じゃあ確実じゃない。自己犠牲は理由にできないなって思ったんだ」
『お前がそれを理由にするなら、それはただの逃げだろう。殊勝な理由で、自分の命の対価にしたいだけだ。なんだかんだで、ヘロ、お前は怖いのだろう? 死が、消滅が』
メルディの声は、静かだった。
「……そうだね、そうだよ」
だって、そうだろ、とヘロは零す。風がヘロの髪先を撫でて行った。
「それか、さ」
『なんだ』
「……ジゼルを一人にしないため……とかも思ったんだ。ジゼルが宇宙のちりになって消えるなら、俺も一緒に消えたらあいつは寂しくないかな、とかさ」
『ははは、笑ってしまうな』
「笑えるね、うん、俺もそう思うよ」
ヘロは目を閉じて、かすかに笑った。
目を閉じると、足元がこころもとない。体が左右にゆっくりと揺れる。風で姿勢がぐらつきそうで、下には深い海がある。このまま落ちたらどうなるのだろう。死ぬってきっと、深い深い暗闇に沈む感覚に似ている。落ちた瞬間は心臓が跳ねて、怖くて、水面が近づくにつれ、諦念。ヘロだって何度も突き落とされたから知っている。その度、シクルに助けてもらった。羽をつけて、飛んだ。だからヘロはまだ、あの水面の下を知らない。
「でも、それも捏ね回した言い訳だ」
ヘロはそっと目を開けた。自分の薄い色のまつ毛が邪魔だと思った。視界の先には、泥で汚れた素足が見える。
『お前のほかにも、星籍を消され、消えた者はいるのだしな』
「そうだな、その理屈で言うなら、ジゼルは消えても一人じゃない」
『安心して、皇室に引き渡せるな』
「俺は、女神にかどわかされていたって言えばね」
『少なくとも、罪にはならないだろうな』
「お咎めくらいはあるだろうけれどね」
『じゃあ、そうするのか?』
「まさか」
ヘロは、頭上を見上げた。ずっと高い枝の上に、アンゼルモとジゼルがいるのが見えた。アンゼルモが水色に輝く竪琴を弾いている。ジゼルはその後ろ姿しか、ここからは見えなかった。檸檬色の髪の毛が夕陽に照らされて少し赤みがかり、杏子のような色に見える。それを見ていたら、胸の奥がきゅう、と切なく締め付けられるのをヘロは感じた。
「ジゼルが好きだ」
ヘロは、そう零して、息を吸って、もう一度吐いた。
「ジゼルが好きだ……ねえ、調子いいかな。この間リナと別れたばかりなのにさ」
『同じ気持ちをあの子に抱いたというのか?』
ヘロは緩やかに頭を振った。
「……もっと、苦しくて、痛くて、温かくて、優しいような、甘いような、苦いような、そんな気持ち。こんなの、俺知らない」
『ふふ、お前はすぐに影響されるなあ』
多分、レプリタの話のことを言っているのだろうと、ヘロは思った。それを否めないから、苦笑いをした。
「ジゼルが好きだから、側にいたい。できれば消えたくないし、消えさせたくない。でも……消えるなら、一緒に行くよ。だめ?」
『好きに生きればいい、青二才』
メルディは、柔らかな声で歌うようにそう言った。
「こうなる気がしたから、嫌だったんだよなあ」
『何がだ?』
「リナと別れるの」
『はは、決めたのも、切り出したのもお前だろうに』
「そうだよ。そう。あの時はさ、ジゼルを好きになりたいと思ったんだ。思ってしまったんだ。だからリナを切った。切れてしまった。でも多分、とっくにだめだったんだよ」
ヘロは落ちていく赤い陽を見つめて、目を細めた。なんだか、目の奥がじんと痛んだ。きっと今の自分の目は、あの夕陽と同じ色なんだろうなと思った。
すう、と息を吸って、目を閉じて。不安定な足場にゆらゆらと体を揺らしながら。
ヘロは歌った。覚えたての歌を。歌詞さえあやふやな、黒馬の民の歌を。やがて、子供たちが音を合わせてくれるのを聞きながら、音の波に溺れながら、細く目を開けた。ジゼルがこちらを見ていた。その宝石のようにきれいな菫色の目で、ヘロを見つめてくれていた。
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