Preludi 8 笑顔と罪

 あの夜からずっと、頭の中がぐちゃぐちゃだ。私はヘイゼルを引き留めたかった。日に日に、ヘイゼルが零した「ばいばい」というさよならの言葉が私を苛んでいく。ヘイゼルとアスモは、どうやって星籍を奪われるほどの大罪人になるかの作戦を、楽しそうに練っていた。それにゲルダも加担した。信じられなかった。信じられなかった。どうしてそんな風に楽し気に話し合えるのか。狂ってると思った。それとも私がおかしいんだろうか? 三人の笑い声があがるのを聞くたび、生きた心地がしなかった。

 こうしている間にもどんどん、ヘイゼルがいなくなる日が近づいていく。私はようやく、やっと、私がヘイゼルの心をうまく繋ぎ留められなかったのだと理解した。そして、やっと必死になった。お願い、考え直して、とみっともなく何度も何度もヘイゼルを捕まえて、訴えた。けれどヘイゼルは柔和に笑うだけだった。年を取った今なら、あの時きっと、ヘイゼルも意地になっていたんだろうとわかる。でもその時の私にはわからなかった。ヘイゼルの意地をほぐす方法もわからなかった。ザウストだけは、三人に加担もせず、否定もせず、離れたところで成り行きを見守っていた。だから私はザウストに泣きついて、時には何もしないでただ見ているだけのザウストをなじった。それでもザウストは私の話を黙って聞いて、言わせてくれるのだった。そうしてなぜだか、よく私を抱き寄せて、落ち着かせようとした。離してと何度も言ったけれど、腕の力は強まるばかりで、ザウストは私が落ち着くまで私を解放してはくれないのだった。私がザウストに抱きしめられているのを見ても、アスモは肩をすくめるばかりだったし、ヘイゼルは蔑んだような冷たい目で私を見た。私がそのまなざしに耐えられなくてもがいても、ザウストはやっぱり離してくれなかった。やがて私は諦めた。きっとザウストも甘えているんだ。私と一緒で不安なんだ。私とくらいしか、傷のなめ合いができないんだ――そう思って、私はもう、考えることを放棄した。

 そうしたら不思議と、心が穏やかになった。私はもう一度ヘイゼルと話した。ヘイゼルは、またすっかりいつもの陽気な男の子に戻っていた。私は、私の態度がヘイゼルを頑なにしていたのだと知った。けれど私が、行かないでと一度言えば、ヘイゼルは決まって冷たい笑みを貼りつけて、「どの口がそれを言うの?」と目を細めるのだった。「好きだから」と何度も言った。けれどヘイゼルは、「じゃあザウスを振り払えよ。できないくせに」と言うのだった。実際、私はザウストを拒絶できなくなっていた。だって、不安な時に人のぬくもりって安心する。ザウストもきっとそうだと自分に言い聞かせた。私の知らない二人のことを知っているだろうし、私よりも苦しいのかもしれない。「そうじゃない」とアスモは言った。アスモもまた、楽し気に、そして私を嘲笑うように言った――でも、それは私の穿った見方だっただろうか? そうかもしれない。アスモはただ苦笑していただけだったのかもしれない。私はアスモを知らなさ過ぎた。ヘイゼルの側に当然のようにい続けて、当然のように共犯者になれるアスモに嫉妬していた。私はようやく、激しい嫉妬という感情を知った。アスモは私にこう言った。「大変だね、リータも」――どの口が、と言いかけて、私はやめた。アスモは私に最後の忠告をした。

「多分、ザウスはリータのことが好きだよ。女の子として。だからザウスはこの状況に乗じてリータをつなぎ留めたいんだよ。リータもさ、ちゃんと心を決めて、操を立てないと、どちらの心も踏みにじるよ。な、聞いときな? 俺の言うこと。……最後だし」

 何が最後なのか、わからなかった。私はただ、その時アスモに反発心を抱えたし、ザウスの本心がわからなくて、本人に尋ねてしまった。ザウストは私から答えを求められて、顔を蒼白にした後、真っ赤に紅潮させた。私は馬鹿だった。そうやって忙しく顔色を変えるザウストを見て、私なんかが愛してもらえているのだと理解できた。本心がわからないヘイゼルよりもずっと、安心できると思った。信頼できると思った。私は、日に日に膨らむヘイゼルへの想いを捨てきれないまま、またザウストのことも、結局振り払えなかった。アスモはただ、悲しそうに「馬鹿だなあ」と言った。その時の言葉だけは、馬鹿にされているだなんて感じなかった。アスモとはその後も何度か話したし、いっそ今までよりも会話は増えたかもしれない。けれど私が覚えている最後のアスモの言葉は、やっぱりこの「馬鹿だなあ」なのである。アスモは私を、嫌っていたわけじゃなかった。気づくのが遅すぎた。

 ある朝起きたら、ヘイゼルとアスモがいなかった。どこに行ったのとゲルダを問い詰めた。私は自分の身の回りのことで精いっぱいで、二人が立てていた作戦なんて興味も持てなかったし、何も知ろうとしていなかった。だから彼らがどうしていなくなったのか、わからなかった。ゲルダはただ私を嘲笑って、「知ろうとしないお嬢ちゃん。無知ぶるのは罪だよ。知ってる? 八つの大罪」と言った。その八つが何なのかは教えてくれなかった。

 どこに行ったの、どこに行ったのよ、と半狂乱になる私を、ザウストが取り押さえた。私は竪琴を返してと泣いた。「じゃあ、追いかけたければ追いかければいいさ。その代り、君もまた大罪人として星籍を剥奪されるんだろうね」とゲルダはねっとりとした声でそう言った。私は足がすくんだ。この期に及んで、ヘイゼルへの気持ちより、自分の保身が先に立つ自分が嫌いでたまらなかった。憎らしかった。ザウストは全部ちゃんと知っていた。私には話さなかったくせに。「聞かせたくなかったんだ」とザウストは言った。「もう引き返せねえよ、ヘイゼルは止まらねえよ。レプリタが行ったって一緒だよ」――何度も何度も、私を諭すようにそう言った。ザウストが必死なことは私にもわかった。ザウストが、実はずるいのだということも、その時やっと認識した。ずるいのは私のせいなのかもしれないと思った。少なくとも、ザウストは私に酷いことは言わない。私の体から力が抜けた。ザウストは、不安を誤魔化すように、私に口づけをした。その意味はわかったけれど、わかりたくなかった。私はなぜだか、ザウストのそれを拒むこともせず、受け入れてしまったのだ。ヘイゼルからの口づけは体で拒絶したのに。涙が出た。私はあの時から間違っていたのだと、そしてもう間違いだらけで駄目なのだと思ったら、悲しくてたまらなかった。私はいまだに、自分が罪人であり続けることが怖いのだ。温もりを感じて、涙を流したら、何かに許されているような心地がした。

 私たちは、審判の時を待った。ゲルダから神器を返され、アスモからの連絡を待った。ヘイゼルの今まで犯してきた罪程度では、惑星ウラノスの迷宮に閉じ込められるだけ。だからヘイゼルは、直接皇室に忍び込んで、ガイアの筆を盗むという算段らしい。皇室の間取りはゲルダが教えた。道中をアスモが補助する。そんなことを知られたら、ゲルダもただでは済まないのではないかと私は問うた。ゲルダは、「プルートには私を殺せないさ。だってそれが意味のないことだと彼女が一番知っているからね」と笑うのだった。

 盗んで、その場で【星籍】を消せたら僥倖。捕まっても、皇室への反逆罪とみなされ、大罪人としてしかるべき処罰が下される。日が陰った。心臓がつぶれてしまいそうだった。山際に太陽が隠れて、赤い空に白い輪郭を残していた。私はその白光がふっと消える瞬間、不意に気づいた。気づいてしまった。ああ、私、なんて馬鹿だったんだろう?

 ヘイゼルは、言っていたじゃない。捕まりたくないって。罪は犯しているけれど、掴まりたくないからずっと逃げているって。旅の道中、事あるごとにそう言って、だらしのない自分を正当化しようと屁理屈を捏ねまわした。どうして気づかなかったんだろう? ヘイゼルが、たった地図の子のためだけに、自分を捨てられただろうか? 一人で潜り込んで、掴まる恐怖に耐えられるだろうか? あの子は言っていたじゃないか。弱いんだって。弱くてずるいんだって。だから、盗みなんかしてしまったんだって。

「私、私……、」

 立ち上がって、足ががくがくと震えて、よろめいた。ザウストが私の手を掴んで、支えた。私はそれを払った。ゲルダに縋りついた。お願い、連れて行って、列車じゃ間に合わない。どうにかして。お願い。行かなきゃ、ヘイゼルのところに行かなきゃ。一人きりで死ぬの。一人きりで捕まろうとしてるの。そんなことさせちゃだめだった。お願い。

 けれどゲルダは、目を細めて、それは楽しそうに口角を釣り上げ、口を歪めた。

「ははは。世の中そんなに甘くできていないよ、お嬢ちゃん」

 すべての選択が未来につながるのさ、とゲルダは嗤う。その結果、最悪最低の結末が来るのさ。けれどそれは全部全部、自分たちのせいなのさ。私は優しくないんだ、ごめんね。君たちに優しくする義理もないのさ。ごめんねえ。

 リーン、リーン、リーン……

 虫が羽を擦るような、澄んだ音が聞こえた。ザウストの杖からだった。ザウストは、呪文を唱えて陣を強いた。そこから聞こえてきたのは、アスモの声じゃなかった。私は聞こえてきた声に体が崩れ落ちるほどに安堵して、そしてその泣きじゃくる声に、吐き気を催した。何が、今度は何が起こったの。

『アスモが、アスモが……! あ、ああ、あああ、うあ、』

 ヘイゼルの声は、耳を覆いたくなるほどに震え、掠れていた。

「息を吸って、吐いて。落ち着け。どうした」

 ザウストの声も、緊迫している。ヘイゼルはしばらく嗚咽を漏らし、過呼吸のような細い息の音を響かせた。

『俺、しくじって、掴まって、身元調査されて、そしたら、アスモが、俺の身元保証して、それで、代わりに、罰を受けるって』

「は?」

 ザウストの声が、夜露に濡れた土の上に零れて落ちる。

『巡礼者なのに、泥棒を仲間に引き入れて、き、機密事項を、漏らして、同行させた、それを、許可したの、自分だから、って、代わりに、俺が、罰を受けます、って、アスモが、アスモが捕まった、俺、お咎めなし、なんで、ねえ、なんで?』

 ゲルダの深いため息が響く。私は硬直したまま、ゲルダを見上げた。ゲルダは忌々しそうに顔をゆがめ、目を手で覆っていた。どこか森の遠くを睨み付けていた。

『明日、朝から、裁判、だって。ねえ、ねえ、来てよ。なあ、どうしたらいい? なんで俺じゃないの? なんで、なんでアスモ、いやだよ、いやだ、俺、ねえ』

「……そりゃあ、ねえ。ふふ」

 ゲルダはくつくつと喉を鳴らして笑った。

「何も知らず、知らされず、ただ皇室に盗みに入った子供よりは、アスモの罪のほうが大きいよねえ」

「そんな……それなら私達だって!」

「けれど君たちはここにいた。そうだろう?」

 ゲルダは目を細めた。

「本当に加担していたのか、証明はできない。アスモは傍にいて、目撃されているのなら言い逃れはできない。しかも本人が罪を告白したのだし、彼はそれを真実だと思い込んでいるのだろう? さすればサタンの天秤は、彼の発言を是とする。虚偽にはならない。しかも今は、公平を規するサタンの天秤すら行方知れずと来ている。真偽の判断は人の口と目と耳と頭に委ねられている。何がアスモの虚偽で、どれが真実が、誰にもわからないだろう? 巡礼者失格の烙印が押されるだけさ。それまでの、消えた彼らのようにね」

 ゲルダはははは、と笑って、その赤い髪を数本引き抜き、空に投げて何かを呟いた。

 目の前に、赤紫色の陣が敷かれる。ザウストは目を丸くした。こんなの、見たことがないと言って。

「さあ、言っておいで。君たちの旅の仲間の最後を、見届けておいでよ。……悪かったね」

 ゲルダはそう言って、目を細めた。


 判決が下される。広い広い裁判所の真ん中で、壇上に立って、アスモは凛とした声で自分の罪がいかようなものなのか、すらすらと証言した。私たちは、一般市民の列に混ざって、それを傍聴することしかできなかった。裁判官たちが平坦な声で、アスモに無慈悲に罰と罪状を言い渡すのを聞いていた。聴衆は、アスモを侮辱して、拍手喝采をした。何が起こっているのかわからなかった。誰かの手が腕に触れた。ヘイゼルが、私の腕をきつく握っていた。その目はただアスモの後姿を見つめていた。その眼尻から、はらはらと涙が零れていた。私は、ヘイゼルが泣くのを初めて見た。ヘイゼルの口は、わなわなと震え、歯がカチカチと音を立てていた。ヘイゼルの気持ちが痛いほどにわかった。あれは、俺が受けるべき、暴言、なのに、なぜ。

 裁判官が、木槌で台を打った。聴衆はしんと静まり返る。今この瞬間。アスモは、世界で一番の大罪人になった。アスモの目の前に、細く長い筆がおかれた。水色の、透けた筆毛が、水を満たした透明な壺の中で髪が風に流れる時のように揺れていた。アスモはその柄に触れて、一度離した。そうして、息を大きく吸ったのがわかった。肩が上がって、下がる。アスモは振り返った。多分真っ先に、私と目が合った。アスモはゆっくりと瞬きをした後、隣にいるザウストを見た。そして、ヘイゼルと見つめ合った。

 その時のアスモの表情。笑っていた。目を細めて、ヘイゼルを見つめて、笑っていた。私にはそれが、まるで彼の名を叫ぶヘイゼルを憐れんでいるようにも恨んでいるようにも見えた。背筋が冷えた。もしかして今から彼がしようとしている事は、ヘイゼルへの復讐なのかしら? でも、じゃあなぜかばったの。どうして、あれだけ厭った罪人の、頂点に立とうだなんてしたの。もうこれからは、アスモは不名誉な巡礼者として歴史にその名を刻まれる。彼がどれだけ頑張っていたかなんて、きっと私たち以外の誰も理解してくれないのだ。

 その時、アスモが本当は何を考えていたかなんて、結局私達にはわかりようがない。彼のあの微笑みを、ザウストは『もう疲れ切ったような顔をしていた』と表現したし、ヘイゼルは『おれなんかを、おれを慈しむように笑ってた』って泣いていた。私は結局、アスモのことを最後までちゃんと知ることなくお別れしなければいけなかったのだ。

 アスモは、壇上の筆を取る。それを、まるで首に刺すイルスナイフのように掲げて、目を閉じて。

 その筆先を、彼は額に押し付けた。彼の体が淡く鈍く発光した。白に包まれる。もうぼやけた輪郭しか見えない。まるで涙を透かして満月を見たような景色だと思った。そのまま光は粒になって、崩れて、散らばった。光は消えて、からん、と音がして。

 アスモがいたはずのその場所には、アスモの影が染みていたはずの床には。

 ただ、【ガイアの筆】の筆が転がって、小さな細長い影を落としていた。



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