Preludi 7 夜風と雲
ゲルダの家の前で、家の壁にもたれて、二人で畑と夜空を見ながら、長い間黙っていた。
そのうち、雲は再び月を覆い隠した。真っ暗闇の中で、畑の中央に淡く鈍い水色の光が見えた。私は思わず笑ってしまった。本当の女神の印なら、こんなに目立つのに、誰も気づかないだなんて。たったこれだけのごまかしで、守り切れるとでも思っているだなんて。
笑い出した私の横顔を、ヘイゼルが見つめたのは気配でわかった。けれど私は絶対に何も言わなかった。怒る権利なんてないのかもしれないけれど、私はきっとヘイゼルにまた腹を立てていたのだ。自分でも笑ってしまう。私はどうして、いつもこんなに腹立たしいんだろう。情けなくて、苦しい。
「リータ、どこから聞いてたの」
暗闇の中で、やっとヘイゼルが口を開いた。私は小さく息を吸って、そろそろと吐いた。そうして心を落ち着けないと、声が震えてしまいそうだった。
「ちょうど、私の話をし始めた時から。その前は残念だけど、聞けてない」
「はー、リータってほんと、前から思ってたけど間が悪いよね」
「あなたがそれを言うかしら」
「まあ、ね」
ヘイゼルは、ため息をついた。それにむっとしてしまって、私は自分が悲しくなった。
「じゃあ、好みじゃないって話が聞こえてたかな。リータ、どこに傷ついたの。俺たちの話の、どこにさ」
「わからない。全体的に」
「全部かあ」
「……私がいないところで、私の話をされているのが、悲しかった。それに、あなたやアスモが私を気が強いって言ったのも、それなりに。実際に、私は気が強いんだけれど。……自分でも、こういう自分、ほんとは好きじゃないの」
「気が強い、は俺は言ってないよ。アスモ」
「でも、思ってない?」
「まあ、思ってる」
「でしょう。私も思ってる」
私たちは、そこでようやく、苦々しげに笑いあった。
「アスモも別に、リータが嫌いなわけじゃないよ」
「なんでわかるの?」
「友達だから」
「……ずるいなあ」
「後から来たのに、アスモを取ったって?」
「わからない。でも私、結局アスモとザウスト、どちらも欲しいのかもしれない。私ね、自分がこの世界一の罪人だと知らされた時、本当に苦しかった。同じ苦しみを分かち合えるのは、あの二人しかいないのよ。世界にたった、二人だけなの。だから手放すのが嫌だし、少しでも離れていると、怖いんだと思う」
「……リータは強欲だよねえ。そういうとこ、俺とも似てる」
「そう、なの?」
私はようやくヘイゼルの顔を見た。ヘイゼルの銀色の目が、猫の目のように少し光って見えた。
「俺は強欲だよ。だから泥棒やってんの。あと、誘惑に弱いんだよ。だから抜け出せねえの。ほんとは盗んじゃいけねえものをうまく盗めた時の快感、リータにはわかんねえだろ? またわかんなくてもいいんだよ。同時に、ああ、俺日の元では見せられねえ悪いことしてるなって、ずっと怯えてるの。そうするとさ、ああ、生きてるなって感じ? 大げさだけどね」
「……ヘイゼルは、どうして盗人なんかし始めたの?」
「ええ、いまさら聞く?」
「今まで、聞けなかったのよ」
そっかあ、とヘイゼルは言って、足を延ばした。だらん、と四肢を伸ばして、光のない夜空を見つめる。
「……俺、まあよくあることなんだけどさ、売女の子供なんだよね」
「売女?」
「知らない? 体を男に売って、金もらうの。他に生きてくすべを知らなくてさ。んで、俺の父親は、ガイアの星の、皇立図書館の司書だったんだよな。それなりに立場があるっての? しかもほんとの奥さんがいたわけ。まあ、認められねえわな。でも堕ろす金もくれなくて、母さんは俺を産んだんだよね。まあ、そうすると戸籍もできねえわけ」
「戸籍は……でも、なんで」
「あれ、知らない? 父親と母親、両方の承諾がなければ戸籍ってもらえねえよ? 両方いなくても認められるのは、片方が死んでるときだけだし。リータの故郷って、貧しい感じしたけど、でもそういうのはちゃんとしてるんだよな。すげえなって思った。多分、普通の学校に行けてるやつらはそういう子供が意外にわんさかいるって知らねえんだろうなあ……戸籍がないと学校行けねえし、図書館にも入れねえし、公共の施設にはもちろん無理だし、とにかくさ、生きてるの馬鹿らしくなるくらい不便だよ。母さんそのうち死んじゃったしさあ。で、俺は母さんの売りを斡旋してたわるーいやつらに言われたわけよ。体を売るのと、汚い手を使って金を集める手伝いするのと、どっちがいいですかーってさ。まあ、体売るの嫌だったから、泥棒になったよね」
ヘイゼルは、目を閉じた。
「でもさ、俺後で気づいたんだよね。普通に別の星に逃げればよかったわけだよ。戸籍がないなら施しも受けづらいし、そのうち餓死したりのたれ死んだりしたかもしれねえし、結局は人のもの盗んで食いつないだかもしれねえけど、逃げる方法もあったんだよな。でもそれ、ある程度大きくなるまで知らなかったっつーか、俺の妹が俺を訪ねてきたわけ。ちゃんとした家のお嬢さんなのに、俺のことどこで聞きつけたのか知らねーけど、めちゃくちゃ探して、会いに来たんだよ。あ、俺の父親と、その奥さんの子供な。父親似だったんだろうな、俺と同じ赤い髪してた。もうそっくり。目だけ茶色だったな」
ヘイゼルは、目を開けて、細めた。雲が再び流れて、月の先端が顔を覗かせていた。
「妹な、コーラって言うんだけど、俺に言ったの。お兄さん、助けてくださいって。私を連れてどこかに連れてってくださいって。切符を持ってきてさ、二人分。それ聞いたとき、あ、そっか切符買って逃げればよかったんだよなって思った。盗んだ金あったわけだしさあ。それにあーあ、なあんだ、とも思ったよね。俺ひねくれてるからさあ、ほら、純粋に俺を探してくれたわけじゃなくて、コーラは親から逃げたくて、たまたま俺の存在を知ったから、俺を頼ったんだなって。俺ってそれくらいの価値か、やっぱ。だよなあ、とかさ。でも、やっぱり妹ってかわいかったよね。俺はコーラの手を取って、列車に乗ったよ。そのうち、俺コーラの誘拐犯になっちゃったわけ、実の父親がさ、捜索願出したから。俺が連れてったってばれたら俺、泥棒だけじゃなくて誘拐の罪も増えるんだよな。もうばからしくてさ」
「……妹さん、どうしてご両親から逃げたの」
「んー……俺のせいだってよ」
「え?」
私は、眉根を寄せた。
「どういうこと?」
「浮気されてたって知った奥さんがさ、悲しみでおかしくなっちゃって、子供を愛せなくなったんだって。それでずっと無視されて育ったし、自分が産んだ子なのに、コーラを見ると愛人――俺の母親な、そいつの子供と重ねちゃって、気が狂っちゃうんだって。だから、自分がいなくなればいいと思ったらしいよ。発狂して、周りから腫れもの扱いされてる母親を見るのが苦しかったんだってさ。自分と関わらないでいたら、母親はコーラのことを忘れて、まだ新婚の時の気持ちに戻って、幸せそうに微笑んでるんだって。だからコーラは、自分をいらねえ子供って思って、逃げてきたんだってさ」
私は、何も言えなかった。私の星では考えられないことだったから、気持ちに寄り添うこともできない。ヘイゼルが複雑な気持ちでいるということしかわからない。
ヘイゼルは、息を吸って、続けた。
「まあ、そんな感じで逃げに逃げ続けて、でもさあ、戸籍もちと戸籍なしじゃやっぱ一緒には生きてけねえんだよな。育ちも違うし。妹のことは可愛かったし、あいつも俺に懐いてくれたけど、一緒に生きててどうしようもねえことっていっぱいあったの。だから今度は俺があいつから逃げちゃったの。ヘルメスの星にさ、子供がいなくて、寄り添って生きてきたじーちゃんばーちゃんがいてさ、その人たちは信用できると思ったから、その人に預けて、出てきちゃった。そのままずうっともの盗んで金溜めて、切符買って、うろうろしながら生きてるわけ。特に何の目的もなく」
ヘイゼルは、体を起こして、膝を抱えた。
「……最初に会った時」
「うん」
「あなたは、妹さんに会いに来ていたの?」
「まあ、うん、そうね」
ヘイゼルは頷いた。
「でも結局会ってないよ。見つからないようにうろうろして、度胸もなくてさ。うろうろ墓場を彷徨ってたら、あそこに迷い込んだんだよなあ。棺がむき出しだったからびっくりしたけど、棺の下に、草にうずもれて何か紙があるからさ、なんだろうなって思って引っ張ったら、あの地図があったんだよな。その後なんだこれ、まあ何かに使えるかなーと思って、出て行こうとしたらお前たちがいたから、やっべえと思ったよね」
ははは、とヘイゼルは笑った。
「でも、俺さ、お前たちの旅に同行させてもらえて、嬉しかったよ。初めて目的をもって、同い年のやつらとたわいもない話をして、俺とは違うしんどさを抱えているやつらの悩みも聞いて、やっと俺、生まれてきてよかったなって思ったの」
ヘイゼルは、すう、と息を吸って、にっと口を広げて笑った。私は、笑い返すことはできなかった。
「俺ずっと俺が一番不幸と思ってたけど、ほんとはさ、ザウストとかアスモのほうがずっと苦労してるよな。特にアスモ。ああ、立場違ってもそれぞれ苦しいんだなって思ったよ。多分、リータもだよな。あの星にいて、全部が全部幸せいっぱいなはずねえもん。あ、馬鹿にしてるんじゃなくてな? でも俺、違う生き方して苦しかったから、アスモの苦しさに寄り添えたっつうか。あいつも俺だから言えたっつうか。あいつリータやザウスの前じゃ気を張ってるからさ。でもあいつの中にはずっとあるわけよ、【俺が一番苦労してきた、その分血反吐を吐くような努力をしてきた】ってやつが。だから、そこまで苦しくもないはずなのに、泣いたり怒ったりするリータにイラつくし、努力って言葉にいちいち敏感に反応して、アスモに劣等感抱いてアスモの言いなりになるザウスにもイラつく。まあ、ほんとあれだよね。結局みんな自分が一番かわいそうなんだろ? はは、ばっからしい」
けらけらと、ヘイゼルは面白そうに笑う。
「……今の言葉を聞いたら、アスモはなんて思うかしら」
「ああ、言ってもいいよ? でも、多分大して傷つかないんじゃないかな。だってアスモ、俺のこと馬鹿にしてるじゃん。まともな育ちしてないんだから、人の心なんか解さないよな、って馬鹿にできる要素が俺には満載でしょ? でもね、そうしたら今度は俺にも心を閉じて、ますますあいつ、自分を追いつめるよな。それは見てて嫌だなあ」
ヘイゼルは、鼻をすすって、鼻の下を擦った。
「俺がさ、自分からいいよ、ガイアの筆で消えてやろうじゃん、って言った時、アスモ喜んだよ。だってそうしたら、アスモはやっと勇者の仕事と、罪と、負担から解放されるもんな。ずっと苦しかったしつけから解放されるもんな。もうお前たちにイラつかなくてもいい。ずっと楽に生きられる。俺は別に、そのことに傷つかなかったよ。だって俺、ゲルダから話を聞いたときさ、あ、じゃあ俺が地図をだめにしたら、アスモが楽になるなあってそれを真っ先に思ったし」
「どうして、あなたたちはそこまで……」
「あ、リータさ、俺がアスモのために死のうとしてるって思ってる?」
「そういう、話じゃないの?」
私は眉をひそめた。アスモは静かに瞬きをして、穏やかに笑った。
「さすがにちげーよ。誰が人のために命くれてやるかよ。友達っつっても、あいつ俺に依存してるだけじゃん。あいつとコーラだったらコーラのほうが大事だし、コーラと俺だったら俺は俺のほうが大事」
ヘイゼルは、あっけらかんとそう言った。
「でもさ、俺がそうしたら、女の子が生まれて来られるって言うから」
「女の子って……女神でしょう?」
「そうだけど、ちょっと違うだろ。女神さまの記憶は持ってるかもしれねえし、魂は一緒だけどさ、そこに土が混ざるわけじゃん。俺とガイアの意志が混ざるわけじゃん。それってすごいことだと思うんだよ。俺はさ、生まれて、生きてきて、それなりにつらかったこともあるし、幸せとかはよくわかんないや。でも、コーラやアスモみたいに生まれて来なきゃよかったとは一度も思ったことねえな。だって生きてたからお前らにも会えたしさ、生きてたから妹が俺を迎えに来てくれた。あれほんと、どれだけ嬉しかったか、学がねえからさ、うまく言葉でまとまんないや」
ヘイゼルは、頬を赤くして、笑った。
「だからさ、俺のおかげでその子が生まれて来られるって言うなら、生まれて来させてやりたいんだよ。ゲルダが言うんだ。これが多分最初で最後の機会だってさ。次いつウラノスの地図が子供を選ぶかわかんねえし、ウラノスの地図は多分、今代で皇室に回収されちゃうだろうし、そうしたらここは、消されてしまうだろうからって。リータ、あのさ、俺英雄ガイアの生まれ変わりなんだって」
「………な、にを」
私は、未だ幸せそうな笑みを浮かべ続けるヘイゼルを、呆然として見つめた。頭ががんがんとした。胃の中のものが、せりあがってくるような心地がした。
「なにを、言っているの?」
「ゲルダにはわかるんだって。俺もさ、なんかそんな気がする。だって俺、ゲルダに会った時懐かしかったし、なんか嬉しかったもん。記憶も何にもねえからぴんとこねえとこもあるよ。でもなんだかすごく腑に落ちたんだよな。俺はガイアの生まれ変わりだから、ガイアがウラノスの地図に刻んだ印と共鳴したの。ガイアは女神さまを愛してたんだって!」
「ヘイゼル、ねえ」
私はヘイゼルの手を取って、握りしめた。体が震えて止まらなかった。やけにヘイゼルの手が熱く感じた。私の指が冷えているのか、ヘイゼルが興奮しているだけなのか、よくわからない。
「それ、それは、だめだよ。ゲルダが言ってること、どうしてそんな風に全部を信用するの。ねえ、ヘイゼル、忘れないで、あの人は、英雄だよ。私たち人間のことなんか蟻と思ってるんだよ。ねえ、ヘイゼル! あなたは人間でしょう? 妹さんもいる、私だって、あなたが好き!」
頬が熱くて、目の奥も熱くて、喉は焼けるように熱くて。私はヘイゼルを睨む勢いで見つめた。ヘイゼルは眼を真ん丸に見開いて、私を見ていた。
「……リータってさあ、」
「何、何よ」
「それ、本気で言ってる? 俺のこと好きなの? ねえ、それってさ、仲間として? 友達として? それとも男として好きでいてくれる?」
私はかっと顔が赤くなるのを感じた。そんなに一度に言われたって、心が追い付かない。それでも、私がヘイゼルを一番気にしてしまっているということは、自分でも笑えてしまうほどに事実なのだ。私は、ぶるりと震えた後、頷いた。
ヘイゼルは、どこか恍惚とした、とろけるような笑顔を浮かべ、目を細めて私に顔を近づけた。私は焦った。どんどん顔が近づいて、唇が近くて、もう目を開けていられない。何が起こっているのかわからなかった。ただ体を縮こまらせて、何が起こるのか怖いと思いながら、目をつむって耐えるしかなかった。鼻先に、ヘイゼルの小さな吐息が触れて、私はより一層身を強張らせた。心臓がめちゃくちゃに鼓動していた。
「………うーそつき」
かすれた声で、楽しそうにそう言われた。
私は目を開けて、ばっと顔を上げた。ヘイゼルは、妖艶な笑みを浮かべたまま、さげすむように私を見ていた。私はまた泣きそうになった。ヘイゼルが私の髪を撫でる。優しい手つきに、結局涙が出てしまった。私が嗚咽を堪えるのを、ヘイゼルは黙って眺めていた。
「そ、んな、きゅう、に、こころが、おい、つか、ない」
「うん、そうだよね。ごめんなリータ」
「な、んで、それだけ、で、あきらめ、」
「ごめん、ごめんって。でもさ、リータ。俺ねえ」
ヘイゼルは、猫を撫でるような優しい声で、私の耳元に囁く。
「リータが俺を愛してくれるなら、生きてもいいよ。地図の子を諦めるよ。でも、できないでしょ? だってリータと俺、相性悪いもん」
「そんなの、誰が、決めたの」
「俺」
「そんなの、ずるい、」
ヘイゼルは、優しく優しく私に触れて、私を抱き寄せた。私の心臓は、張り裂けそうなくらいに鼓動する。それなのに、身を任せることができなかった。強張ったまま、ただ泣くことしかできなかった。
「俺ねえ、」
ヘイゼルは、相も変わらず甘い声で私に囁くのだった。
「ガイアの話をさあ、ゲルダに聞いて、なんだかガイアの気持ち、よくわかったんだよねえ。しっくりくるって言うのかな。俺はこのために生まれてきたんだよ、リータ。俺のおかげで地図の子が生まれるの。俺が戸籍もないのはきっとこのためだったの。盗人として生きてきて、罪の意識も薄くて、自分に執着がない――ってアスモにも言われたっけ。そういう性格とかもさあ、きっとこのためにあったんだよ。すげえしっくりくるの。俺さあ、妹に会えて嬉しかったよ。妹ってやっぱりいいよね、俺と同じ血が混ざってる子がさあ、幸せになってほしいとかやっぱり思っちゃうんだよね。だから俺離れたの。俺、あいつを幸せにできねえもん。だって育った環境、違いすぎる。俺にはコーラがわからない。でも好き。大好き。リータのことも好きだよ。リータが俺を好きでいてくれるなら、大好き。でもさあ、ごめんなリータ。俺、俺の生きた証を残したいんだよね。ぞくぞくする。俺のおかげで地図の子が生きて、もしかしたらまた恋をして、幸せになれるかもしんないの。それってすごく……魅力的だよなあ。リータは俺に、それ以上の何かをくれるの?」
「うそ、うそつき、私のことなんか好きじゃないでしょ。私のこと、好みじゃないって言ったじゃない」
「そう、俺はうそつき。うそつきだよ。だからさっきも嘘ついた。俺はリータが最初から好きだよ。気が強いところも、すぐ泣くところも、浅はかで、短気で、知りたがりで、無鉄砲で、そういうところ、全部可愛い。苛めたくなるくらい可愛い」
「信じられない、あなたの言ってること、わからない」
「好きだよ、リータ。ほんとに好き。さっきああ言ったのはね、アスモの前だからだよ。だってアスモは俺に消えてほしいんだもん。俺が未練があったら、やばいじゃない? だから未練なんてないって言ったんだよ。俺も未練ないつもりだったよ。でも、リータが俺のこと、好きになってくれるならさ――」
「信じられない!」
私は叫んだ。すると、ヘイゼルの腕は、温もりは、離れて行った。夜風がしんと体を冷やす。私は、今自分がとてつもなく取り返しのつかないことをしたような気がした。
「……だろうと思った」
明るく零されたヘイゼルの声は、乾いていた。
「リータに俺は無理だよ。でもさ、リータの気持ちを俺は信じるよ。だから、いつか、俺を愛しておけばよかったなあ、なんて、万が一にも、億が一にも、そう思ってくれるなら、その時は妹を、よろしくね」
「ヘイゼル、ヘイゼル」
「もう、お前の言葉は聞かない」
ヘイゼルは、笑ったまま、そう言った。
「俺の忘れ形見になる、きっとそうなる妹を、よろしくね。俺の心残り、それだけだから。そしたら俺は、お前の気持ちを信じるよ」
「その時には、もういないんでしょう! 消えないでって言ってるのに!」
「それ、今言ったじゃん」
ヘイゼルの声は、冷たかった。
「今、言ったじゃん。最初に聞きたかったよ。そしたら信じられたかもしれないのに。俺がここまでさらけ出してやっと言ったでしょ。それをどうやって信じればいいのさ」
「そんな、そんなの……あなたの言葉が一番信用できない! あなたの言葉はどれが本当なのか、私にはわからない! 私、私は……」
私は、どうしたらいいのかわからない――今この大事な夜に、その答えをすぐに導き出すことすらできない。私は茫然とした。月がまた辺りを照らす。ヘイゼルの顔がよく見えた。その頬と鼻筋が照らされて、なんだかとても綺麗に見えた。
「リータ」
ヘイゼルは、へにゃりと笑った。
「ばいばい」
ヘイゼルは最後にそう言って、私の頭を撫で、立ち上がった。そのまま家の中へ消えていく。
私は、夜風の冷たさを感じながら、頬の涙の跡が氷を当てたように冷えていくのを感じながら、ただ心が収まるまで泣き続けることしか、できなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます