Preludi 6 月光と葉
ザウストが目を覚ましたのは翌日の昼、アスモに至っては三日間昏睡した。不思議とおなかは減らなかったな、とアスモは穏やかな笑みを浮かべた。私は二人とヘイゼルが軽口をたたき合って食事をする和やかな風景を見つめていた。三人の世界は、とても楽しそうに見えた。
ずっと、ヘイゼルは仲間外れだからと思っていた。巡礼者は私と、二人。その中にヘイゼルを入れてあげているだけ。でも実際には、ヘイゼルも巡礼者だった。つまりこの中で本当に必要のないのは私なのかもしれなかった。私がいなければ、黙っていれば、この三人は仲良くもっと苦しまずに旅を続けられたのかもしれない。
なのに、この中からヘイゼルが消えてしまうというんだろうか。私には、その喪失をうまく想像できなかった。ヘイゼルがいる風景が当たり前になっていたし、私はよくヘイゼルを見ていた。ヘイゼルはうそをつくし誤魔化すし、手癖は悪いままだし、思いやりがあるようで割り切っていて冷たい。私をいらだたせることが一番多いのもヘイゼルだった。それでも私は、ヘイゼルに惹かれていた。
だから、ヘイゼルが消えるだなんてそんな決意、私は聞きたくなかった。聞かなきゃよかった。どうして私だけが先に目覚めてしまったんだろう。どうしてみんなで話を聞けなかったんだろう。私とヘイゼルは、事の経緯とゲルダから聞いたことを二人に話して聞かせた。二人の表情からは、私は何も読み取れなかった。話は最後に、「俺が消えれば丸く収まるって話」だなんて、私も聞いたような台詞でしめられた。
「ごめん、リータ。ちょっと席を外してくれるかな」
長い沈黙の後、凛とした声を零したのはアスモだった。私をまっすぐ見つめてくるその琥珀色の眼差しに、私は眼の裏がちかちかするような錯覚を覚えた。
「どう、しても……?」
「うーん、そうだね。男同士で話をしたいことがあるんだ。ごめん、リータ。終わったら呼ぶよ」
アスモの声は、優しかった。ヘイゼルの銀の目と、ザウストの緑の目も私をまっすぐ見つめていた。私はいたたまれなくなった。わかった、と言って立ち上がれば、「ありがとう」だなんて言われた。こんなことでありがとうと言われるのは、とてもつらいと思った。
どこにいればいいのかなあと思いながら、うろうろとする。ふと、あの連合星の絵が描いてあった部屋をもう一度見てみたくなった。ゲルダの言うことを全て信じるなら、きっとあれは英雄としてのアポロが描いた何かだった。私にそれが解読できるはずもないけれど、もう一度見てみたかった。そうして、途方もない偉大なる英雄たちの下では、私みたいな蟻は何もできないのだと圧倒されてみたかった。
扉は、開いていた。中にはゲルダがいて、床に膝を立てて座ったまま天井を見上げている。私が入ってきたのを見て、ゲルダはくすりと笑った。
「おてんば娘さん、君は好奇心が強いのが玉に
「自分でもそう思います」
隣に座っていいよ、と手で合図され、私はおとなしくそこに座った。ゲルダと同じように夜空を見上げてみたけれど、曇りなのか星はよく見えない。
「君は、ヘイゼルが消えるのは嫌かい? まるで、彼を厭っているように見えたけれど」
「そうですか?」
「ああ、それなのに、彼が消えたいと言ったらとても悲しそうな顔をしていたからね。泣き出しそうだった」
「あの時泣かなかった私はえらいと思います」
「君のそういう勝気なところは、私は好きだよ」
ゲルダは、ふう、と息を吐いた。
「女の子、というものは――」
「え?」
「いや、すまない。君がわかることじゃないのかもしれないが。女の子というものは、男がいないと生きていけないものじゃないよねえ、という話さ」
私は、ゲルダの話の意図が見えなくて、眉根を寄せた。
「ふふ、だって君、どうせ男同士の話だからとはじき出されたんだろう? 彼らはどうも、君を女の子だからという理由だけで可愛がっているように見えたからね」
「そんなこと……ないです。私はアスモを苛立たせているし、ヘイゼルとはよく衝突するし、ザウストは何を考えているのかよくわからないし」
「それは君から見た彼らさ。同じ男の私が、端目で見ていてわかることだから信じなさい。君は大切にされている。そしてそれが不満かもしれないな。だが大切にされているうちが華だよ。男は信じるもののためにいつかふらっといなくなる生き物だからね。すこしでも愛された記憶は多いほうがいい」
「……随分と先ほどから、愛の話をしますね」
「君は愛を知らないんだろうなと思ったのさ。だって、君は私たち英雄の所業をくだらないことだと思っているだろう」
私は否定も肯定もしなかった。
「理不尽と思っていることに変わりはないです」
「人を狂わせるのが恋で、愛だ。けれどそれこそが生きている証で、血潮になる。私はそれで人を狂わせ、自分を狂わせた。今も囚われている。苦しい。苦しくてたまらないが、忘れたいとは思わない。私の愛した人は、忘れたかったのかもしれないし、死にたいほど苦しかったから、死を甘んじて受け入れたのかもしれないが。私にはまだその気持ちがわかりそうにないんだ。だからこうして待っている。ウラノスと女神の間に何があったのか、私にはわからない。けれど信じたいんだ。確かにあの二人の間には愛があって、それが……たとえ巧妙に仕組まれた罠だとしても、まるで奇跡のように再び巡り会うことをこの目で見たい。そうしたら、私の中にくすぶるこの苦しみにも答えが見つかる気がするのさ。そのために私は、君たちのような子供を利用する。私にとっては、愛した彼女以外の者は必要ないからね」
「……ゲルダ」
「なんだい」
「あなたの瞳って、燃えているみたい」
私は、その鮮やかな青の目を見て、そう零さずにはいられなかった。ゲルダは目を細めた。
「赤い炎より青い炎のほうが熱いんだよ。知ってるかい?」
「青い炎なんてものがあるの?」
「もちろんさ。世界は君の知らないことだらけだ」
「そう、ですね」
「君は、」
ゲルダは私の頭を撫でた。
「彼らに立ち向かっていけばいい。変なところで逃げ腰なんじゃないかい? そうやってくすぶり続けていると、いつか炭になってしまうよ。それより熱く燃えた方が華やかじゃないか」
「それは、やっぱり三人の話に割り込めってことですか?」
言い回しがわかりにくいわ、と言えば、ゲルダはごめんね、と言って笑った。
私は立ち上がって、壁や床の絵を指さした。
「これ……何のために描いたのですか」
「女神のためだよ」
ゲルダは床の線を撫でた。
「彼女がまた土人形として生まれてきたら、私が育てることになりそうだからね」
「あなたが子育てだなんて、心配だわ。だって言い回しがわかりにくいんですもの」
「……これでも昔は子供を育てたこともあったんだけどなあ」
ゲルダは、私の背中を押した。それ以上は笑ってごまかしたまま、答えてはくれなかった。
彼のことはよくわからないままだったけれど、この一時の会話は、私を彼の共犯者にした。だって私は、地図の子が生まれて、どこで生きているか知っていたのに、皇室に話さなかったのだから。話せなかったのだから。
ごくりと喉を鳴らして、そっと扉を開ける。やっぱり戻ってきた、とちゃんと言えるか不安だった。私は隙間から三人が暖炉の前に座り込んでいる背中を確認して、すうと息を吸った。声を出そうとした、刹那。
「で、結局ヘイゼルはリータのことどう思ってるのさ」
聞こえてきた言葉に、足がすくんだ。どうして私の話が出ているのかわからなった。私は隙間を少しだけ狭め、扉からわずかに離れて床に座り込んだ。自分の息の音が、うるさく感じられた。
「どうって、何が?」
「だからさ、リータってお前にすごくつっかかるだろ」
ヘイゼルに話しかけているのはアスモだった。私は、口を手で押さえて、息を押し殺した。
「ああ……あれはリータの癇に障るんじゃない? 俺のやってること」
「俺はね、ヘイゼル。リータってお前のことが多分好きなんだと思うんだよね。自覚ないかもしれないけど」
「えー……好きでああいう態度とる? 俺なんかよりよっぽどザウスのほうに優しいじゃん、リータ。な、ザウス」
「いや僕に話振らないで」
「何々? ザウス、リータのこと気になってる? やけに優しいよな」
「な……ていうか、今その話必要か? これからどうするっていう話だろ」
「いや、大事だよ。リータがもしヘイゼルが好きで、ヘイゼルもそうだったとしたらさ、ヘイゼルが消えたいっていう話、受け入れるわけにはいかないだろ」
「まあ……というか、そうでなくても受け入れがたいけど」
ザウストは、しばらく考え込んでいるようだった。沈黙が落ちる。暖炉の火がぱちぱちと燃える音がする。
「それはさあ、」
ヘイゼルが、震えたような声を出した。
「言ったじゃん。もう説明して、二人とも納得してくれたから、今どうやって俺の額の印を消すかって話し合いだろ」
「でも、それレプリタには言ったの」
「言ってないねえ」
「なんで言わないの」
「なんでって……」
「ほら、やっぱりヘイゼルはリータが好きなんだよ」
アスモの声が、なぜだか楽しそうに聞こえて、私はなんだか泣きたくなってきた。けれど、その後に続いたヘイゼルの言葉に、もっと泣きたくなった。
「いやぁ……それはないかなあ」
しばらく、沈黙。それを静かな声で切ったのは、アスモだった。
「あれ? そうなんだ」
「うん。正直、好みじゃない」
「言うね……」
「そういうけど、アスモだってそうだろ」
「まあね。彼女、気が強すぎるし」
「でも、嫌いじゃないだろ」
「そうね、そうそう」
「お前らさ……」
「いや、ザウスがこういう話好きじゃないのは俺たちだって知ってるよ。でも大事なことだろ。こういうのって、未練があったらできないじゃないか」
「だからってな、」
「でも、それならよかった。俺は協力するよ、ヘイゼル」
「あんがと。ああ、でも、リータほんとに俺のこと好きかな?」
「何……なんで僕の顔見るの」
「いや、なんかごめん……」
「そうだと思うけどね。彼女ずっとお前を目で追ってるから」
「そっかぁ」
ヘイゼルは、深く長いため息を吐いた。
「じゃあ、妹のこと、頼んでもいいと思う?」
「お前本当にずるいな」
ザウストの声には、少し険があった。
「……だってさ、俺の気がかりってそれだけだし」
「それは、リータにお前がどう話すかによるんじゃない? 最悪好きだって言えばいいじゃない。忘れ形見だと思って、面倒見てくれるかもしれないよ」
「そんな言い方ってどうかと思うぞ」
「俺も酷いこと言ってるのはわかるよ。でもねザウス、俺にとっては、リータよりもヘイゼルのほうが友達なんだ」
アスモの声は、はっきりと響いた。
「ヘイゼルは俺の友達なんだ。ただの旅の仲間じゃない。俺はヘイゼルの味方をする。ザウス、お前がそれをどうか思うなら、お前はリータの味方になればいい」
「……はあ、くだらねえ。好きにしろ。もう勝手にしろ」
「やっぱり好きなんだ?」
「うるせえ、関係ねえだろ」
誰かが立ち上がったような衣擦れの音がする。私は立ち上がらなきゃと思った。足ががくがくと震えて、うまく立つことができない。足音が近づいてくる。ようやく立ち上がったら、今度は目まいがした。頭を押さえて、壁にもたれかかった。扉が開いて、ザウストが私を見ていた。緑の目を真ん丸に見開いて、私を見ていた。私はその視線に、耐えられそうにもなかった。まだ感覚の戻らない足の指先を床に擦らせて、逃げた。リータ、とザウストが小さな声で呟いたのが聞こえた。私は走った。畑を踏んでしまったけれど気にしていられない。森の中に入った。このまま狼でもなんでも出るがいい。ここで私を食い散らかしてほしい。
なんだ、なんなの、なんで私の話をしていたの、やっぱり私だけ仲間外れで、しかも嫌われていたのかな、どうしてあんな会話聞かなければいけなかったんだろう。私、ヘイゼルのことなんか好きじゃない。好きじゃないもの。なんで、ゲルダが私をそそのかさなければ、そもそもこんな話、聞かせないでいてくれたら、私が巡礼者じゃなかったらよかったのに、いっそ出会わなければよかったのに。
仕方ないと割り切るには、まだ心が追い付かなかった。私はヘイゼルのことだってアスモのことだって、ザウストのことだって、多分、好きだった。私たちは旅の仲間だと思っていた。けれど私がヘイゼルをどこかで下に見ていたように、アスモにとっては私よりもヘイゼルのことが大事だった。そして私が思うよりもずっと、彼らは私を冷静に客観視していた。
草木をかき分ける音がする。私は木の幹に隠れた。「レプリタ」と名前を呼ぶザウストの声が暗闇から聞こえた。
「危ないから、出て来いって」
「いや」
「あんな話聞いたの……気分悪かっただろ。どこから聞いてたか知らねえけど」
「今気持ちがごちゃごちゃしているから行きたくない」
「でも危ねえから。僕ら今神器も持ってないんだからな」
「私は、私はみんなとあんな話、したことないのに」
「え?」
「ああやって、みんなは私のこと、話の肴にするんだね。男同士の話ってあんなことなんだ。私だって、旅の仲間なのに!」
私の声が反響する。木の上で、何かが羽ばたいて、葉っぱがひらひら落ちてきた。
「でも、アスモはあんな考えなんだね。友達のほうが大事で、私は友達じゃないんだ。だったら私も好きなようにするよ。もう、帰る!」
「ばか、巡礼を辞退はできないから。いいから落ち着けって。戻ろう」
「私が地図に選ばれていたらよかったのに!」
私は叫んだ。喉が痛い。胸が痛くて、お腹も痛くて、蹲った。
「私がいらないんだから、私が消えればいいじゃない!」
「じゃあ、消える?」
雲間から、月が出た。ザウストの輪郭を、月明かりが映し出していた。
「罪人になって、星籍剥奪される? 一緒にやろうか。そしたら、もう全部終わりだよ」
「う、……く、……ふ、う」
「さすがに、三対一で仲間はずれにはしねえよ。僕はあんたの味方をやるから、それでいいだろ。どうする? 全員で心中する? それとも、生きる? あいつが生きてたのを覚えて、自分が消えなかったせいでいつか誰かを代わりに犠牲にする、そんな罪悪感背負って生きる? 僕どっちでもいいよ」
「ふ……く、ざ、ザウスが、死ぬ必要、ない」
「泣くなって。僕だって死にたくない。あんたのことも死なせたくない。もちろんアスモだって。アスモはヘイゼルが巡礼者の一人だと知って、喜んでる。あいつの心を理解できるのは、ヘイゼルしかいなかったから。これで対等だからさ。でも僕は違うよ。僕にとっての旅の仲間はやっぱりアスモとレプリタだ。ずっとそれは変わらない。罪人だと教えられたあの日を忘れない。僕は二人を守る。アスモがあんたを見捨てるなら、僕があんたを見捨てない。それじゃだめかよ」
ザウストは嗚咽を堪えて蹲ったままの私の側に寄って私の頭を肩に抱き寄せた。涙がザウストの肩口に染みていく。ぽんぽんと後頭部を撫でられて、また涙が出た。こんなことで悔しがるだなんて、自分が本当に情けないと思った。
「落ち着いた?」
「多分」
「じゃあさ、ヘイゼルとちょっと話して来いよ。あいつも、話をあんたに聞かれてたって気づいたし、さすがにもう誤魔化さねーだろ。アスモとも話せるなら話したがいい。あんたら三人は会話が足りない」
「……ザウス、今日よく喋るね」
「……これでも焦ってるからだよ……」
「うん……」
「多分さ、」
ザウストはそっと私の手を握って、立ち上がらせた。ザウストの右の頬に、月明かりが帯を引いた。
「あいつら……多分、死ぬつもりだ。だからあんなこと言い始めたんだ。多分、あいつらほんとは……」
ザウストは、それ以上何も言わなかった。私は、手を引かれてゲルダの家に戻った。たった少しの距離なのに、とても長く感じる。玄関先で、ヘイゼルが膝を抱えて座っていた。足音に気付いて、頭をあげたヘイゼルは、なんだか迷子の子供のような顔をしていた。
見つめ合う。ヘイゼルの銀色の目は、まるで月明かりのように鈍く光っている。
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