Preludi 4 赤と竪琴
惑星アポロの駅は古い木造で、柱は経年の雨風にさらされたのだろう、深い飴色だった。そのそれぞれに針金のようなもので文字や落書きが彫ってある。子供が書いたものなのか、そうではないのかわからない。よくよく見ると日付だったり愛の言葉だったりが彫ってあって、私はそれを読んで少し赤面した。駅員は葉巻をふかしながら、切符を差し出す私たち子ども四人の姿をじろじろと見た後、鼻を鳴らした。
「はあ、また田舎だあ」
駅を降りたとたん、ヘイゼルが残念そうな声を出した。一面に広がる赤茶色と草の色。家畜が落とした糞の匂いがして、田園の上には蜻蛉が飛んでいる。長閑な景色がそこには広がっていた。
「……畜農の星だし」
ザウストがぼそっと言った。私は並び立つ家々を見ていた。水色や若草色、辛子色のどこか明るさを感じさせる屋根が互いをくすませることなく色とりどりに並んでいる。なんだか可愛らしい星だと思った。ここは民家が多いのだろうか。森も少なく、人目につきそうな星だ。今まではこそこそと森や廃屋で寝泊まりしたが、そういうわけにもいかなさそうである。巡礼者であることを公言して、誰かの家に泊めてもらった方がいいのだろうか……。
そんなことを考えていると、ふと道をじいっと見ているアスモが目に入った。私はアスモの側に行って、首を傾げた。アスモは私を見て、再び道に視線を戻す。
「この土……なんか変じゃない?」
「変……って?」
「ほら、ウラノスでもヘルメスでも、俺たち嫌と言うほど土や獣道を見たよね。ここは舗装されてはいるけれど……よく見て、リータ。土が、なんか光ってる」
「え?」
私も視線を道に移す。言われてみれば、太陽の光を乱反射する細かい粒のようなものがあるような気がしなくもない。
「それが……どうかした?」
「おかしい、って話だよ……って、ああそうか。シクルを持ってないから、この感覚わかんない、よね」
アスモは何とも言えない表情をした。
「大きな声では言えないけど……ね、リータ。町の人にばれない程度に竪琴をちょっと鳴らしてごらんよ。道から目は離さないで」
「う、うん……」
言われた通り、私は背中に背負っていた竪琴を胸の前に手繰り寄せ、弦を二本軽く弾いてみた。瞬きしたらきっと見逃す程度の、気のせいじゃないかと思えるほどの、小さな変化。
「………?」
「ね、共鳴して、光っただろ」
「これ……これは、どういうことなの?」
私には、頭が悪いからよくわからなかった。ただ、私の竪琴の音に反応して、道の輝きが確かに瞬いたのである。太陽はむしろ雲に隠れかけた頃だったというのに。
「そういうことだよ」
アスモは、眉根を寄せながら苦笑した。私は顔をかっと紅潮させた。こういう時、私に察しの良い頭があれば。
「この星……なんだか変だな。これってちゃんと許可は得てるんだろうか。まあ、玻璃職人の多い星ではあるけど……」
アスモは最後に、それだけを言った。
あとは、アスモはヘイゼルの側に行ってしまった。二人で地図を見ながらああでもないこうでもないと言っている。私は、眠そうにあくびを噛み殺しながら目をこするザウストにこっそりと話しかけた。ザウストはなぜか私の目をじっとしばらく見て、遅れて私から話しかけられたことに気付いたようだった。
「……なんだよ」
「あのね……その、さっきアスモと話してたんだけど、」
事の次第を話して、どう思う、と聞いてみた。ザウストは目を細めて道を見る。眼付きの悪い顔が一層悪くなった。そもそもザウストはいつもしかめ面なので、大体怖い顔をしているのである。もう慣れたけれど。
「ああ……ね、そういうこと」
ザウストが再びあくびをする。どういうこと、と私はその腕を小突いた。
ザウストは嫌そうな顔を(多分面倒くさがっているだけだけれど)して、私の額に手を当てて目を閉じ、小さな声で呪文を唱えた。ザウストの案外冷たい肌の温度が沁み入ってくると同時に、ザウストの声が頭の中に流れ込んできた。
『土の中に玻璃の小さな破片が混ざり込んで、そのまま道として固まってる。そこの畑の土もそうだし、牧場の土も、全部。よくよく見ないと気づかないけど、アスモは玻璃――シクルと共鳴してるから感覚的にわかったんじゃねえの。言われてみれば僕なんかも違和感だけど、あんただって言われなければわからなかったわけだし、ここに暮らしているやつらは、どうだろうな』
「どう、って?」
下からザウストを見上げると、ザウストは目を開けて、細めた。
『日常的に見てたら、気づかなくない? だから多分、アスモも言ったんだよ。許可取ってんのかなって。星のやつらはこのこと知ってんのかなって』
私が眉根を寄せて首をかしげると、ザウストはなぜか私の額を爪でかり、と優しく掻いた。
『あんたは習ってないだろうから知らないだろうけど、一つの星に保管されている玻璃の量って厳重に決まってんの。どの星にどれくらいあるか、子供でも習うわけ。この星は玻璃を加工する玻璃職人は多く輩出しているけれど、玻璃の保有量自体は多くないし、ましてや土の中に玻璃のかけらを埋め込んでるだなんてそんな報告はない。今まで誰も気づかないのがおかしいなって話。……まあ、それだけアスモが有能ってことだな。普通気づかない』
ザウストは、アスモの背中をちらと見遣った。
『ここに来てすぐ気づくんだから……やっぱり天才だよな』
その響きは、どこかうらやましげにも聞こえた。私はザウストの目に浮かんだその感情がよくわからなかった。
「ザウス、リータ」
アスモが振り返る仕草を見せた瞬間、ザウストはぱっと私から手を離した。アスモは私たちを手で招き寄せる。多分ザウストは、私に触れているところを見られたくなかったんだろう。私はヘイゼルがそれをしっかり見ていたことに気付いていたけれど。ヘイゼルは、笑っているようにして目が笑わないのだ。いつだって、笑顔の下で周りをよく見ている。
「多分、位置はわかるからここから一気に消してしまおう」
アスモは地図の中で一番大きい六芒星を指さした。それは地図上で違和感を覚えるくらい、他とは違う筆跡で描かれたものだ。
「ここの実際の地形を見て、シクルで演算してみたんだ。地図ではよくわからなかったけど、地形の凹凸を考慮すると、この星の【印】、全部このでかい【印】を中心とした放射線状に配置されてる」
「ああ、なるほど」
ザウストが頷く。私にはさっぱりわからない。ヘイゼルを見ると、ヘイゼルは私ににやっと笑いかけた。
「なるほどって……何が?」
「ああ、ごめん……リータには難しい言い方したかな。えっとね、つまりこのでかい【印】が他の印の核になっているかもしれないってことだよ。ここに集積した女神の力を印と一緒に消せば、多分うまくいけば他の印もほとんど一緒に消える」
アスモは私の、数珠の首飾りを指さした。
「その首飾り、一つを引っこ抜いたら他の珠も全部きっと落ちてしまうよね。そうしたら首飾りとしての意味をなさなくなる。それと一緒だよ」
「なるほど……」
「よし、じゃあ行こうか」
アスモが笑って、歩き出した。道行く人に朗らかに笑って挨拶をするアスモの足取りは迷いがない。ザウストがそれを追いかける。私は二人の背中を見ていた。
「リータさあ」
「え?」
真横で声をかけられて、少しびっくりした。ヘイゼルが頭の後ろで手を組んで、二人をじっと見ていた。
「わかんない時は黙ってたほうがいいと思うよー?」
「え……」
「どーしてもわかんない時はさ、ザウスに後でこっそり聞けばいいんじゃない? あいつなんだかんだでリータに甘いじゃん?」
「そう、かな」
「男の目で見ると明らかにリータに甘く見えるかなあ」
「ふうん……」
また女の子扱いか、と私は少し嫌な気持ちになって顔をしかめた。ヘイゼルはそんな私を見て、肩をすくめた。
「アスモさ、けっこうやばいんだよね」
「何が?」
「んー、なんかぴりぴりしてるっていうのかなあ。必死でリータやザウスを引っ張って、穏やかでいようとしてるって言うかさあ。ほんとはあいつめちゃくちゃ不安なんじゃないかな。印だって早く消したがってるよね。リータは実際にはそこまで考えてないっしょ。あ、置いていかれるから歩きながら話そ。おれ道覚えてるし」
「うん……」
ヘイゼルは、道の端に落ちている落ち葉をわざわざ踏みながら歩いた。私も真似をして踏んでみた。かしかし、と音がして意外に楽しい。
いつのまにかにんまりと笑ってしまっていたみたいで、その顔をヘイゼルにじいっと見られていた。私は慌てて無表情に戻った。
「……そんな感じでさあ、結構君ら呑気じゃん? 実際、まあ一つ一つつぶしていけばそのうち役目も終わるだろーってそういうのんびりじゃん?」
ヘイゼルは、すれ違う人たちに挨拶をしながら私に小声で話しかける。私もぺこりとおじきをした。なんだかこの星の大人たちの視線が嫌だなと思った。じろじろと見るのだ。特に私のことを。私が浅黒い肌をしているからだろうか。まるで値踏みするように、目の奥でじっと見ている。笑っているけれど、目が笑っていない。
「でも、アスモは違うみたいなんだよなあ、多分早く解放されたいんじゃないかなあ。だから焦ってるのに君らがそうじゃないからイライラしてるし、特にリータはさ、まあ仕方ないんだけど、おれと一緒で結構基本的なこと知らなかったりするじゃん? リータはしかもさ、おれと違って揉まれてもないから、その、なんていうか世間知らずなわけ」
「つまり、何が言いたいの?」
「ぶっちゃけると、リータがアスモの話を聞き返すたびにアスモがいらついてるって話」
「……それは、」
言われてみなくても、感じ取っていたことだなあと私は思った。言われてみれば、腑に落ちるのだった。
でも、だからって。
「それを私に、どうして言ったの? それはどういう意図?」
「ええ?」
「そんな話したら、私が嫌だなって思うのはわかるよね。でも言ったんだよね。どうして?」
頭が悪いから、わからない、と呟いた。きっと私は、自分で自覚できる以上に傷ついてしまっていた。
ヘイゼルは困ったような顔をした。そんな顔をさせてしまうのが、申し訳なかった。
私はもしかしたら、私のためだとヘイゼルに言ってほしかったのかもしれなかった。ヘイゼルはひょうひょうとしていてよくわからないから、私のことを少しは見ててくれて、私のことを想ってくれているという確かなものを手に入れたかったんだろう。ずるかったと思う。
だから、ヘイゼルは私の予想外の答えを返してきた。
「はあ、そんなん、アスモがイラつくとおれが気を使って面倒だからに決まってんじゃん」
ケロッとした顔で、ヘイゼルはそんなことを言った。
ヘイゼルの言葉を咀嚼して、飲み込んで、私はなぜだか目頭がつんと痛むのを感じて、そういえばこういう人なんだよなあと自分を納得させるしかなかった。
「ヘイ、ゼルが……優しいのか、そうじゃないのか、私、わからない」
「えー? おれが優しいわけないじゃん、リータ……」
「でも、笑ってくれるし、話だって、楽しくしてくれる……」
「あー、リータ泣かないで」
「泣いてない」
「泣きそうな顔はしてるもんなあ……あのねえリータ、おれは別にリータのそういうとこイラつかないけど、笑うのだって楽しいのだっておれがそうしたいからしてるだけで、おれ別にリータを想ってやってるんじゃないよ? リータさあ、最近忘れてるみたいだから言うけど、おれ盗人だからね」
ヘイゼルは、くしゃりと顔をゆがめて笑った。それが泣きそうな顔だと思うのは、私の欲目だったんだろうか。本当にそんな顔をしていたんだろうか。私にはよくわからない。
「盗人で嘘つき、ごまかしの常習者だから。信じて感情移入しちゃだめだって」
「してない」
「はは、リータっておもしろいな……」
もうこの話は終わり、とヘイゼルは足元で何かを踏みつぶした。よく見るとそれは、
「随分と奥まった場所だよな」
「そうねー」
アスモの言葉に、ヘイゼルが軽口をたたく。記号が消えてしまった地図を再び手に取って、今度はヘイゼルが地図を持つ係だった。ヘイゼルは口笛を吹きながらあっちかもしれない、いやこっち、と適当なことを言う。それに対してアスモは笑って、シクルで正確な方角を調べて、先へ進む。森を背高の草を踏みしめながら進む。
ヘイゼルと話している時のアスモは楽しそうに見える。私とヘイゼルの何が違うのか、私にはわからない。私は虫にかまれた腕を掻きながら二人をじっと見ていた。虫は嫌いじゃないけれど、血を吸う蚊は別だ。痒くなるから嫌い。
耳元でまた羽音がしたので、ぱちん、と叩いてみたが空振りだった。隣で歩くザウストはその白い肌のどこにも虫刺されをつけていない。腕や首を掻きながらうらやましそうにザウストを見つめたら、ザウストが深いため息をついた。
「……何」
「虫に刺されなくていいなあって!」
「はあ……そんなの、体質だろ」
ザウストが顎で前を歩く二人を指し示す。ヘイゼルは虫に刺されて痒いのかお尻や足を掻きながら歩いているし、アスモの周りでは時折青い火花が燃えて散っていた。多分、シクルの魔法で近寄ってくる蚊を焼き殺しているのだろう。
「たまたま僕が、刺されてないだけ」
「いいなあ!」
「マルスの星には、蚊が多いらしいね」
「そうなの?」
「うん。熱いから。蚊って寒いとこにはあんまりいない。リータはその血が混じってるからおいしいんじゃない」
私はぽかんとした。ザウストはなぜかしばらくして首を真っ赤に染め上げた。
「あ……違う、そういう意味じゃない。血が蚊にとってはおいしそうなんじゃないかって話……」
「初めてリータって呼んだね」
「あ……いや、それ気にしないで」
ばつが悪そうに、ザウストは顔をゆがめた。
「わかった、気にしない」
「そうして……」
「血が蚊に好かれても全然嬉しくないわ」
「まあ、そうだろうね」
「蚊を退ける魔術はないの?」
「……蚊を退ける歌はないのかよ」
「ああ、その手があったわ。ありがとう」
「いーえ、どういたしまして」
私は竪琴に念を込めた。蚊を退けてください。痒いです。
そうして、弦をはじいて、その音を聞き頭に浮かんできた歌を歌った。久しぶりに歌った歌は、私の喉を心地よく震わせ、私は久しぶりに歌うことは楽しいと思えた。こんなくだらないことだけれど、たまには無駄遣いしたっていいじゃないって。
……どうせ、もうほとんど役に立たない【吟遊】だ。地図のせいで。
歌い終わって、しばらくしたらヘイゼルが「おーい」と言って私に手を振っていた。
「リータ何かした? 蚊が寄ってこなくなった! ありがとね!」
その笑顔に曇りがなかったから、私の顔は思わず熱を持った。こんなくだらないことだけれど、あの笑顔は嘘や誤魔化しじゃなければいいと思った。ザウストから隠れるように、髪の毛で顔を隠した。
「あ、あそこじゃないの」
ザウストは気にしていないように淡々とした声でそう言った。私がもう一度顔を上げると、森を抜けた先に畑が見えた。多分、誰かの所有する畑だ。駅の近く、町のほうにあったものと比べたら随分と小さかった。家庭菜園のようなものなのかもしれない。
「あの畑のど真ん中だね、印」
アスモが畑を指さす。
「……でも、人の物だよ。入っていくのはちょっと」
「そうねー」
私の言葉に、ヘイゼルが同意してくれる。アスモも頷いた。
「シクルでやってもいいけど、印を消すことで農作物に被害が出てもよくないしな」
「……先に言っておくけど、僕も加減はできないから」
アスモがザウストを見た途端に、ザウストが早口でそう言った。
アスモは、だよね、と頷く。そうして私を見た。
「リータ。たまには印消し、やってみる?」
「え……できるの?」
「そりゃあ、ね。だって俺たちみんな道具が違うだけで持ってる能力は一緒でしょ」
アスモはくすりと笑う。
「群を抜いて能力高い癖によく言うよね」
ザウストがぼそりと呟く。アスモは肩をすくめた。
「だから……そんなことないって言ってるだろ。もし俺が能力高いとしたらめちゃくちゃ努力をしただけ」
その言葉に、ザウストが少し拳を握りしめたのが、隣にいたからわかった。
「え、ええと……私がやればいいのよね? どうやったらいいだろう」
「さっきみたいでいいんじゃない? ほら、蚊を撃退してくれたでしょ」
アスモは思い出したようにくつくつと喉を鳴らして笑った。
「ああ、こういう使い方もあるのかーって、俺にも発見だったよ」
「……馬鹿にしてる?」
「してないよ、してないったら、ほんと」
私は小さく息を吐いて、森の出口に立った。
「……やってみる」
「うん、お願い。リータ」
背中にアスモの声がかかる。
「頼りにしてるよ」
その言葉を聞いたとき、体が震えた。
アスモが私にそう言ってくれたのを、私は久しぶりに聞いたのだった。出会いの当初はよくそう言って私を気遣ってくれたアスモとは、いつしかぎくしゃくとした関係になっていた。私が物分かりが悪くて、物事を知らなさ過ぎたから。
ヘイゼルが言ったことは、その通りなのだろうと思う。私はアスモが私たちを率いてくれるから、甘えていた。何の役にも立たない、役に立たせてもらえない、とふて腐れながら、その実自分から動こうとはしていなかったのだ、私は。自分でものを考えようともしなかった。どうせわからない。どうせ知らないから。そればっかりで。
なのに、アスモはたったあれだけの吟遊で、私の良さを見つけてくれる。ちゃんと私のことを仲間だと思ってくれている。
なんだか、また目頭が熱くなった。涙腺が馬鹿になってしまったのかもしれない。
私は振り向かずに大きくうなずいて、竪琴を鳴らした。ヘルメスの星で歌い続けた、印を浮き上がらせる歌を歌った。畑の中央に、水色の六芒星が浮き上がる。
――あれを、消したい。無に帰すの。お願い。
そう願って、竪琴の弦をはじいた。なぜだか、弦が固くなったような気がした。うまく弾けない。それでも意固地になって何度も願って、最後には竪琴を心の中でしかりつけた。いい加減にして。私に務めを果たさせて。そうして、やっと弦から音が鳴った。歌も浮かんでくる。
その新しい歌を歌い始めて、すぐのことだった。私はお腹に強い衝撃を受けて、後ろに飛んだ。体が太い木の幹に強かにぶつかる。背中に衝撃。後頭部がずきんと痛んだ。何が起こったのかわからなかった。竪琴が、地面に転がっている。
「吟遊詩人かあ。そいつはちょっと考えていなかったなあ。困るんだよねえ、人の畑に勝手なことをされると」
少ししゃがれたような、低い笑い声が聞こえた。私はやっとのことで目を開けて、ちかちかする視界で木漏れ日の先を見た。
森の出口に、妖艶な笑みを浮かべて、背高の美しい人が立っている。赤い長い三つ編みを手慰んで、その人は言った。
「随分な挨拶だね、巡礼者。罪人。ようこそ私の庭へ」
私たちは、目を見開いた。罪人、と呼ばれ、体ががたがたと震える。
「お前は……誰だ」
アスモが低い声で唸るように言った。赤髪の人はまたくすりと笑った。
「アポロ」
「は?」
「え?」
私たちは殆ど同時に声を零した。きっとわかっていないのはヘイゼルだけだった。ヘイゼルは私の側に来て、背中を撫で、立ち上がらせてくれた。
「大丈夫? リータ」
「う、うん……痛いけど、大丈夫、それより……」
私は赤髪の人を睨み付けた。
「おや、あまり芳しい反応じゃない」
赤髪の人は不思議そうに首をかしげる。
「英雄の名前を名乗るなんて、ずいぶんと罰当たりな人ですね?」
アスモはぎこちなく笑ってそう言った。ザウストは口を引き結んでいた。
「はあ。罰当たりも何も、本人だから仕方ないよね」
「証拠は」
「証拠」
英雄アポロと名乗るその人は、不思議そうに目を瞬く。
「はあ、証拠、ねえ。そういえばそんなことを言われる可能性をこれっぽっちも考えていなかったな。ずっと偽名を使っていたから、本名を名乗るなんて久しぶりだしね。うーん、そうだな、どうしようか」
くすりと笑って、アポロは地面に転がっていたアフロディテの竪琴を取った。
「あ、待って!」
私の声にも、彼はにっこりと笑うだけだ。
ぽろん、と試すように彼は弦を弾いた。そうしてくつくつと笑う。
「ふ、ふふ……そうか神器はまだ私たちを許さないか。弦が固いね。でも、抗えないことはわかっているよね?」
まるで脅すように、暗い笑みでそう呟く。すると、竪琴は彼が触っていないのに音を奏で始めたのだった。頭が、割れるように痛い。
体が引き裂かれるようだった。瞼の裏に、凄惨な景色が次から次へと混ざり合って浮かんでくる。これが何なのかさっぱりわからなかった。ただひたすらに、生命の危機を感じる。本能的に、死んでしまうと恐怖に苛まれた。喉が枯れるくらいに叫んだ。金切声。
体の奥の臓物が引きずり出されるような、疑似感覚。私はやめてとひたすらに訴えた。アポロは私たちの全員が許しを請うまで、竪琴に音を奏でさせた。最後にアスモがようやく口を開いたところで、アポロはそっと、子供をあやすように竪琴を撫でた。音が止まる。
脂汗で、体がぐっしょりと濡れていた。呼吸がうまくできないほどに、苦しい。
「な、何……? 何が起こったの」
戸惑うような声が降ってきて、私は蹲りながら顔を上げた。ヘイゼルは、汗の一つもかいていなかった。苦しんだ様子すらなくて、ただ棒立ちしている。不意に私は空恐ろしくなった。どうして? 私達、こんなに苦しくてのたうち回ったのに。
「く、ふ、ふふ……」
アポロはくすくす笑い出した。
「これでどう? もっと他のこともやる?」
「もう、いい……」
アスモが唸るように言った。アポロは目を細めて、にんまりと口を歪めた。
「脆弱だなあ」
人の子は――アポロのその声を聴いて、私は意識を手放した。
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