Preludi 3 盗人と兎

「『ヘイゼル、うさぎがそっちに逃げた。捕獲して』」

「『あーい!』」

 私の頭上には、空を透かして銀色の魔法陣がくるくると回転している。そこからそれぞれ離れた場所にいるのだろう、アスモとヘイゼルの声が響いて、私のもとに降ってくるのだった。

 隣では、ザウストが杖をまっすぐに構えて、目も殆ど開き切らないような状態で、肩で息をしながらずっと呪文を唱えている。この声を転送する魔術は便利だけれど、術者の精神や体力をひどく消耗させるのだと、私だけがきっと知っている。なぜなら私はいつもお留守番だから。……女の子という理由だけで。

 本当は、ザウストもこんな姿、私にも見られたくないのだろうなと思う。実際、最初のころはしばらくあっちへ行ってろと追い出された。けれど一度戻ってきて見てしまったから。ザウストももう諦めているのだ。私がアスモにもヘイゼルにもこのことを言わなかったから、それなりに信用してくれているのかもしれなかった。

 ザウストは、アスモ達には自分が消耗していることを、ばれたくないみたいだったから。

 今私たちはまだヘルメスの星にいて、食料を調達している。私たちは普通の宿にあまり泊まれなくなってしまった。ヘイゼルがそれなりに、顔を知られているどうしようもない盗人だということがわかったせいだ。だから野宿するしかないし、食料も自分で調達して、捌いて、焼かなければいけない。私もヘイゼルも慣れていたけれど、アスモやザウストは……特にザウストは、なかなか慣れないみたいだった。疲労がたまっているのも知っている。それでもザウストは、アスモに魔術を使ってくれと言われたら、二つ返事で頷くのだった。どうしていやだと言わないのだろうと不思議だった。

「『やっりぃ! 捕まえたよー! そっち行くから、もうこれ切っていいよザウス!』」

「『さすが、やるね。じゃあ俺も戻るから』」

「ん」

 ザウストはぶっきらぼうに頷いて、ヘルメスの杖を持つ手を緩めた。空に浮かんだ陣は光の粒になって、消えた。

「座らないの? 立っているだけでもしんどいでしょう」

「座る」

 深いため息をついて、どさっとザウストが座り込む。背を向けるようにして座っていた私と背中がぶつかった。ザウストの体重が私の背中にずしりとかかった。柔らかい猫毛のような髪が私の首筋を撫でた。

 いつしか、ヘイゼルとアスモがこうして狩りをしたり、【印】を消しに行って帰ってくるまでのわずかな時間、ザウストは私にこうやって寄りかかってくるようになった。今も疲れたのかほとんど気絶するように崩れ落ちて、すうすうと小さな寝息を立てている。体への負担か、時々腕や足がぴくりと跳ねて、その動きでザウストは目を覚ましてしまうから。私はその間だけ、小さな声で子守唄を歌う。アフロディテの竪琴を軽く鳴らしながら。子守歌にもそれなりの魔力はあるのだろうか、そうしているとザウストは静かに眠れるのだ。なんだか懐かない動物を手なずけたような心地だ。私は耳がいいから、そしてアフロディテの竪琴は、その反響音でアスモとヘイゼルの足取りを知らせてくれるから。私は二人が近づいたところで、ザウストを起こすのだ。起こすといつも、ザウストは私を何か言いたげに見つめて、頭をかいて立ち上がり、お尻についた泥や草の切れ端を払って杖を取る。もしかしたらお礼を言いたいのかもしれないけれど、そういうのは別に要らない。ザウストがそれをわかっていてくれてたらいいなと思うのは、私の勝手なわがままだ。

 私はただ、役立たずでいたくないだけ。今私にできることがそれしかないから、ザウストを利用しているのだ。だから別に好きなだけ甘えてくれたっていいんだよ。

 ヘイゼルを仲間に加えたことで、私たちは二人一組で行動することが増えた。アスモとヘイゼル、私とザウスト。私はそれが不満だった。ザウストは口数の多いほうじゃないし、話も弾まない。一緒にいて楽だけれど、私が巡礼者としてできるのはただ少しの間歌うだけのことだったのに、それさえもうあまり要らなくなってしまったのだ。

 ……ヘイゼルが、英雄の墓所で拾ったというそれは、地図だった。

 六芒星と呼ばれる、忌憚の記号がびっしりと書き記された、連合星の地図だった。

 それが一体なぜそこにあって、ヘイゼルが拾うことになったのかわからない。地図は私たちが開いても、何もうつさない、ただ雨の染みだけが残る茶けた紙切れだった。それなのにヘイゼルが持ったしばらくの間だけ、そこには記号が浮かび上がり、裏には名を出すことも憚られる女神についての寓話が現れるのだ。

 その寓話を読んで、私たちは震えた。

 ウラノスの地図なんじゃないか、これ。そう言ったのはザウストだった。アスモでさえ言わなかったそれを、ザウストが言ってしまった。私だってそう思っていた。もうその可能性に気付いてしまったら、どうすることもできなかった。これ、どうしようね……――そんな震えた声を喉から零した私はきっと滑稽だった。頭ではわかっていた。皇室に提出しなければいけない。これを見つけて、届けたとあれば、大変な手柄だ。きっと私たちの罪だって軽くなる――!

 でも、言えなかった。きっとだれ一人言えなかった。どうして言えるだろうか。目の前に、宝の地図があるのだ。印の位置がすべて書いてある。しらみつぶしに、辺りに見当をつけて手探りで探して消すしかなかったそれの場所がすべて。途方もない数だと思った。それでも私たちは気づいてしまったのだ。そのうちのいくつかが、すでに私たちが消したそれであることに。

『これ、これさ』

 ようやく口を開いたアスモの手は、地図を握ったまま震えていた。

『これを使ったら、俺たちの旅は思ったよりも早く終わるね……だよね?』

 彼の声を契機に顔をあげ、見合わせた私たちの表情は酷いものだった。私もきっと酷い顔をしていた。

 そんな私たちを不思議そうに見つめた後、にやっと笑ったヘイゼルの顔が、まるで悪魔のように見えた。

 ――『こっち側へようこそ』

 そんな風に、言われたような気がした。きっと私の被害妄想だ。わかっている。わかっているけれど。

 私たちは、共犯者になっちゃったのだ。

 ……足音が近づく。私は振り返って、ザウストを揺り起こした。ザウストは少しだけぐずった後、いつものように起きた。弟のようで可愛いかもしれない、と私は思ってくすりと笑った。私は寂しかったのかもしれない。自分の罪ばかりが増えて、けれど気を紛らわすために下手に歌うこともできず、何もさせてもらえない。そんな状況がもどかしかった。まるで自分が彼らの母親だったり姉だったり――ただの小間使いで、同等の巡礼者として扱われていないようにさえ感じた。私はきっと、自分の出自によほど負い目があった。生まれた星の貧しさ。マルスの血が混ざり、純粋なアフロディテの民ではないこと。

 首を絞めたうさぎをぶら下げて、ヘイゼルが太陽のような笑顔で駆け寄ってくる。アスモは少し遅れて、シクルの羽で飛んできた。さっそくうさぎを捌き始めたアスモの利き手を見て、ザウストが眉根を寄せたのが私にもわかった。アスモはヘイゼルが持っているリュールナイフを持って、言った。

「あれ、それお前のだっけ?」

「ん? んにゃ、ザウストの」

 悪びれもせずに、ヘイゼルはそう言う。うさぎの赤い血がぴしゃりとヘイゼルの頬にかかって四本の斜線を描いた。にまにましながらうさぎをさばくヘイゼルが、なんだか気味が悪く思えた。

 アスモは嘆息して、ザウストを責めるように見やった。ザウストは罰が悪そうな顔をして、頭をかいて目をそらした。私は憤って、ヘイゼルの頬を叩いた。

 ああ、もう、これ何度目なの。

 私だって人を叩きたくないのよ。

「人にものを借りる時は、ちゃんと言ってって私たち言ったよね」

「んあ? あ、あー……」

 叩かれたことに驚いたように、真ん丸な目で私を見上げていたヘイゼルは、血で汚れた指で頬を掻いてへらりと笑った。

「あー……えっと、ごめんね? ザウス。勝手に借りてるー」

 ヘイゼルがリュールナイフを振るものだから、血が私の服にもかかった。

「そうじゃないでしょう!」

「えー」

「使ってから言ったって意味がないでしょ。いったい何度言ったら、その手癖の悪さは直るの? そんなに私たちが信用できない? 貸してって言ってくれたらちゃんと貸すもの。なのにどうして言えないの?」

「は、ははー。リータ、怒らないでー」

「私だって怒りたくない!」

 私の叫びは、ほとんど悲鳴みたいなものだった。私にこの役を任せるアスモが嫌だったし、何も言えなくてなあなあにするザウストのことも情けなかった。結局こうして言わないではいられない自分が気持ち悪かった。

「ごめんごめん~。おれ手癖悪くてど~しても直らなくてさ。でもほら、最初の頃よりは減ったろ? 成長褒めて~」

「減ったんじゃないでしょ」

「ほえー?」

 呑気な顔して首をかしげるヘイゼルが、憎らしかった。

「アスモが怒ったから。私なら怒るから。だから何も言えなくて、なあなあにしてくれるザウストの物を盗ってるんだよね?」

「あのさあ、あのさあ、そんなこと言ったらさあ、おれザウストからもう六つくらいくすねたんだよねえ」

 ヘイゼルはむっとした。私はもう一度その頬を叩いた。なのにヘイゼルは、私が悪いみたいに涙目で睨んでくるのだった。

「今から盗らないってことは約束できるよー? でも今まで盗ったものについては? どうなんの? もう取り返しつかなくない? 何、おれ六回分怒られなきゃいけないの?」

「怒られたくないなら怒られるようなことしないで!」

「怒りたくないなら怒る必要なくない? リータ。アスモが誘導してるからってさあ、正義感もっちゃってんのか知らねえけど、それってばかみたいっていうかあ」

 アスモが片眉を上げたのが、私にもわかった。

「人のために怒ったって、いいことないよー。現に利用されてんじゃん。おもしれー。大体おれを怒るって何様? あ、巡礼者様か。でもリータはおれのかあさんじゃねえっての」

「酷いことを言わないで!」

 私は、頭の中がごちゃごちゃしていた。そのまま顔を覆って、こみ上げてくるものを堪えたら、体も足もがくがくと震えた。頬や首にぬるりとしたものが這って、抱きしめられていた。いったいどの立場でそんなことができるんだろうか。ヘイゼルは私を子供をあやすみたいに抱きしめて、背中を撫でた。私の喉からは嗚咽が漏れた。けれど耳元で、他の二人には聞こえないような小さな声で囁かれた言葉に、私は硬直した。

「おれを叩いて満足した? 溜まってたでしょ」

 歯がカチカチ、とかみ合って音を立てた。それが怒りなのか焦りなのか自分でもよくわからなかった。ヘイゼルはくすりと笑った。

「だいじょーぶ。リータは悪くない。アスモも悪くなーい。見てるだけのザウスも悪くないでしょ。悪いのはぁ、盗人のおれだけだから。おれはつい反抗はしちゃうけどさあ、おれのこと悪者にしてたら楽になるよ? リータは自分を責めなくてもいいよ?」

「ちがう……」

「ちがわねえよ?」

「やだ……」

 私の涙が、ヘイゼルの肩に染みた。首についた血は、風で乾いてしまった。

「お願いだから、あなたがいい人になって……いやなの。いや」

 苦しい、と思った。何が苦しいのかもよくわからなかった。しばらく胸を押さえて泣いていたら、私から体を離して、ヘイゼルは迷子のような顔をして私を見つめていた。

「……じゃあ、がんばる、けど」

 ヘイゼルの声は掠れていた。

「でも、おれの手癖、きっとなかなか直んないよ。借りるって言えない癖もなかなか直んないよ」

「もういいから……私の物ならなんだって盗っていいから。だから他の二人からは盗らないで。その方がまだ、私、楽だよ……」

 アスモが小さくため息をついた。涙を拭いてその顔を見たら、少しほっとしたような顔をしていた。アスモは私とは目を合わせなかった。私たちはどうしようもなかった。アスモがどこか明るい声で、うさぎの捌き方を教えてくれとヘイゼルに声をかける。「……うん」と返事したヘイゼルの言葉は、私への物だったのか、アスモに対しての物なのかはわからなかった。

 力が抜けて、地べたに座り込む。ザウストが抱えた膝頭に口元を隠して、ぼそりとつぶやいた。

「……別に、あんなリュールナイフなんてくれてやったのに」

 ひとしきり泣いたら、私はどこか穏やかな心地だった。別に、これでいいじゃないか。アスモはヘイゼルと軽口の応酬をするのが楽しくて、面倒ごとはいやで、ザウストだってほんとは潔癖だから物を盗られたくない。私がヘイゼルの面倒を見れば、少なくとも私はこの三人と一緒にいる意味がある。きっと私のまだ作れてすらいなかった居場所を盗られた気がして、悔しかったんだ。そうに違いない。……私は、ヘイゼルの生意気さも意味の分からない屁理屈も嫌いだ。手癖の悪さだってもっと嫌い。それでも彼だけが、私がずっと悶々と悩んでいたそれを言ってくれた。アスモやザウストが投げ出して、私に汚れ役をなすりつけていること――それが意図的であれそうでないとしたって――、それをちゃんと気づいてて、私の気持ちをわかってくれていた。私はヘイゼルを悪者にしたかったのだ。私が悪者になりたくなかった。

 彼への印象は、最初から最悪だった。けれど私はここでようやく、ヘイゼルに対して心を許したのだった。ヘイゼルはまるで、とげとげの私たちの上を上手に這う、青虫のようだった。

 ヘイゼルはそれから、物をくすねることが減った。私はヘイゼルと話すことが多くなって、その分ヘイゼルと共同作業をすることも増えた。ヘルメスの星を抜けて、ウラノスの星を抜けて、故郷を渡って。私たちは順調に地図上の印を消していった。最初はぎこちなかった四人の関係も、すこしずつなじんでいった。私はあまり怒らなくなったし、アスモはヘイゼルと笑いあって楽しそうだった。ザウストはいつも通りあまりしゃべらないけれど、しかめ面はずいぶんと減ったし、時々笑ってもいた。私たちは浮かれていた。野宿にも慣れて、やれることもたくさん増えて。

 この調子で、一番大きい女神の印を消しちゃおう。

 そんな風に調子よく考えていたのだ。私たちは、アポロの星の地を踏んだ。

 地図で一番大きくて、濃い六芒星が描かれた場所を目指して。



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