Episodi 37 竪琴と指

 丸太のような太い灰茶色の枝に足をつけて、ジゼルの体が平衡を保てず一瞬ぐらりと傾く。アンゼルモは咄嗟にその肩をつかんで背中を支えた。視界の端でびくりと肩を揺らしたヘロの姿を認めて、ちら、と横目で確認するようにその顔を眺めやると、ヘロはどこかほっとしたようなあどけない表情を浮かべていた。アンゼルモは肩をすくめる。

「慣れないと歩き辛い?」

「う、うん……こんな風に細い場所を歩くのって初めてで……」

 ジゼルがしおしおと項垂れながら零す。

「え〜、そうかなあ? おいらは生まれた時からこの木の上で生きてたから……わかんないなあ……むしろ地面ってちょっと今でも心許ないんよな。ヘロはどう?」

 ヘロに話を振ると、虚をつかれたように釣り気味の大きな目をぱちくりさせた。

「え? ああ……いや、言うほど細い枝でもないし、これくらいは俺はどうもないかな……あの、ほら、これでも運動神経は鍛えてたからさ……」

 どこか言い辛そうにそう言って、ちら、とジゼルを見遣って目を反らす。ジゼルが花がしおれるように明らかにしゅん、とした。二人のそんな様子が微笑ましく、また少しだけアンゼルモを苛立たせた。この星の空気がアンゼルモを全身で拒絶しているからかもしれない。酷く心細かった。この星はもう、自分の故郷ですらなくなってしまった。自業自得だけれど、そんな世界でからからと笑うのはとても心臓に響いた。ピオネが恋しかった。大丈夫かな。もう産まれちまうかもしれないよな。側にいてやれなくて、なんておいらは不甲斐ないんだろう。この星にまともに謝ることもできず、敵意に怯えて挑発的な言葉だけが口から零れた。色々と言い訳や謝る言葉を考えていたのに、全て無駄になってしまった。

「ねえ、ジゼル。歩くの慣れるまでおいらが手をつないでいてあげようか」

 アンゼルモはにっこりと笑って、ジゼルにそう言った。ヘロがまたぎこちなく固まったのが目の端で見えた。元よりジゼルの返事は期待していない。ヘロをちょっとだけ揶揄いたかっただけだ。けれどジゼルは円な目をぱちくりさせて、ふわりと笑った。

「あ、あ、あの、お願いしてもいい……?」

 ――あれえ。

 今度はアンゼルモが瞬きを繰り返す番だった。ジゼルが恥ずかしそうにえへへ、と笑う。

「ほ、本当は落ちそうで怖くて……」

 ――じゃあヘロに頼めばいいのに。手をつないで支えていてくれって。あんなに君のこと、大事にしてるじゃないのさ。

 アンゼルモは戸惑いながら、努めて柔らかい笑みを口の端に乗せた。

「だよね。おいら体は小さいけどジゼルくらいの女の子ならちゃんと支えてあげられるから安心しててよ。この星にいたときも……ちび共が時々足を滑らすから手を繋いで支えてたんだ。懐かしいなあ」

 胸の内を懐かしさと切なさがくすぐる。まるでできかけの瘡蓋をつつかれているような痛みとこそばゆさだった。ジゼルの手をそっととると、ピオネよりも小さかった。ジゼルはとても小柄だから、まるで小さな子供みたいだ。可愛いな、と思った。おいらもこんな風に、ちび達の手を引いて、笑って、遊んでいたのに。どうして今おいらは、この星で家族じゃないんだろう。

「俺よりは背が高いじゃん」

 どこか不満そうな抑揚のない声でヘロがぼそりと呟く。アンゼルモは振り返った。

「え? もしかしてヘロって身長のこと気にしてんの?」

「うるさいな……」

「いいじゃん、ジゼルより高いんだからさ」

 ジゼルに聞こえないように小さく耳元で囁く。ヘロはむっとした。

「そういうことじゃないんだよ。ったく」

 アンゼルモはジゼルとつないだ自分の手を見つめて、もう一度ヘロに囁いた。

「変わる?」

「は? なんで」

 ヘロは肩をすくめた。

「俺よりは、そういうのに慣れてそうなアンジーが手を引いてやった方が安全だと思うけど。俺は自分の体支えるので手一杯」

 ヘロは苦笑した。アンゼルモは面白くないなあと思いながら小さく溜め息をついた。

 ――素直なんだか素直じゃないんだか。

 ふとジゼルを見遣るとジゼルは頭上を仰いで熱心に何かを見つめていた。

「ん? 何かあったん?」

 アンゼルモの声に、目を閉じてふるふると首を振る。

「ううん……なんだか、硝子張りの屋根みたいだなって。硝子の、半球の天井みたいだなって……」

「ああ、言われてみれば」

 ヘロも頭上を仰いで、呟いた。

 顔を上げても、視界一杯に広がるのは梢の先にぶらさがる、色を殆ど失って日の光を透かすだけの透明な葉の群れだ。言われてみれば、肉厚のその葉は硝子の破片のようにも見えた。不思議な例えをする女の子だなあ、とぼんやり考える。ふと視線を戻すと、ジゼルはどこか哀しそうに思い詰めた様子でどこともない場所を見つめて俯いていた。その横顔をヘロが見つめる。二人の知っている世界に、おいらは入れない。ここでものけ者だ、なんて、場違いなことを考えた。早く、ピオネに会いたい。

「あ、あの、赤い髪の人は、こっち」

 辿々しい声が聞こえる。聞き覚えのある声に、アンゼルモは振り返った。緊張した面持ちで、黒髪黒目の小さな少女が弱々しくヘロの服の裾を引いている。

 ――ああ、ルースか。大きくなったんだなあ。まだちっこかったのに。

 アンゼルモは口を開きかけて、噤んだ。怖いものを見るかのように必死でアンゼルモと目を合わせようとしない子供を、これ以上責めることは出来ないと思った。おいらにできるのは、もう他人の振りをすることだけ。きっとこの子は大人達にそう教えられているのだろうから。

 知らずジゼルの手を握る手に僅かに力が籠る。ジゼルの体が微かに揺れた気がした。

「アンジー兄と女の人はこっち」

 声変わり前の、別の少年の声がぶっきらぼうに響く。振り返ると、小さな弟と手を繋いだ小さな少年がアンゼルモを睨みつけていた。アンジー兄、と呼ばれたことに心が跳ねる。顔がかあっと熱を帯びた。我慢しなければいけないのに、幸せだと思ってしまう。たったこれっぽっちで、心臓がとくとくと息を吹き返す。

 アルト、と呼びかけようとしたのに、声が出なかった。喉からひゅう、と空気の通る音がする。

 ヘロはジゼルをちらりと見て、にっと笑った。そうしてアンゼルモの背中をそっと押した。背中に触れた温もりに驚いて肩が跳ねてしまう。ヘロは目を細めてアンゼルモの瞳を見つめ返した。やがてふっと反らされたその横顔は、思い詰めたように引きつっている。遠ざかるヘロの後ろ姿と、小さな少女の姿をアンゼルモとジゼルは取り残されたような心地で見守った。やがてしびれを切らしたようにアルトがアンゼルモの服の袖を引く。触れてもらえただけで、泣きそうになった。ごめんよ。

「ごめん……アルト、ごめんよ……。ニータも、ごめん。ごめん……」

 おいらのせいで、石なんか投げさせてごめん。おいらのせいだ。おいらのせいだ。

 そう思ったら、涙が止まらなくなった。もういいってば、いいから早く歩いてよ、ったく。そんな声がぶっきらぼうに響く。ジゼルのひんやりとした手が、アンゼルモの手を握り返したような気がした。枝の下からも上からも視線を感じる。大人達は今の泣いているおいらを見て、滑稽だと思うだろうか。心は凍り付いてしまっているだろうか。凍り付かせてしまったのは、やっぱりおいらなんだろうか。

 ジゼルと手を繋いで、二人枝の上を並んで歩いた。誰かと手を繋いでいることが、こんなにも心強いなんて、あの頃のおいらは知らなかったんだ。



     ◇◇◇



 大樹からは枝が迷路のように突き出している。それを階段を上るようにして伝っていく。竪琴が納められた小さな時計城はこの大樹の頂上にあるのだった。枝が密集しているから、軽やかな足取りで枝から枝へと跳び乗れば簡単にその場所まで登っていける。けれど、小柄で歩幅の狭いジゼルをそこまで連れて行くのは思った以上に骨が折れる仕事だった。懸命に足を伸ばしても次の枝に爪先すら届かない。跳べばいいのにと思うけれど、慣れていなければ落ちそうでそれも恐ろしいらしい。足がすくんで動けないジゼルを見ていると、やっぱり小さな子供のようだと思った。この星で生まれ育った子供達は殆どそれを怖がらないけれど、稀に「落ちたらどうしよう」と動く前から怯えて一歩も動けなくなる子供もいる。この時程自分にもっと身長があれば、と恨めしく思ったことはなかった。そしたらジゼルくらいの小さな女の子は負ぶって跳べたのに。

 途中、アルトやニータよりももっと小さな子供達が恐る恐るといったようにアンゼルモやジゼルに小さな石の欠片や貝殻を投げつけてきたことがあった。大人達に言われてやっているから、きっと本人達もその善悪なんて分かっていない。投げないと怒られる。アンゼルモには子供達の置かれた状況が痛い程に分かった。子供は大人の心に翻弄される。小さな子供の力じゃ大して痛くもないけれど、そんな子供にものを投げさせていると言う事実が体中が軋む程にアンゼルモの心を苛んだ。けれどその時ジゼルは、きっと眉を吊り上げてばっと子供達に近づいた。大人しそうな彼女のその行動に、アンゼルモは不意をつかれて酷く驚いた。

 ジゼルは小さな手に持ちきれないくらいたくさんの貝殻を握りしめた子供の手をばっと両手で挟んだ。「ひっ」と子供達の小さな悲鳴が漏れる。刺のついた巻貝の殻がばらばらと木の根元へ向かって落ちていった。水面が乱される音が微かに遅れて響いてくる。

「だめ」

 ジゼルは、ジゼルにしては怖い顔――怒ったような顔で子供達を見つめて言った。

「こんな、人を傷つけるために自分の手を傷つけちゃだめ。痛いでしょう。だめだよ」

 そう言って、ジゼルは子供の掌に刻まれた小さな傷達をそっと撫でた。

「で、でも投げなきゃ怒られる」

 震えた声で、別の子供が呟いた。ジゼルは首を傾けて、そっとその子供の頭を撫でた。

「投げてもいいけど、あなたの手が傷つかないようにして。あのね、人を傷つける時は自分は傷ついちゃいけないよ。それはね、誰も幸せにならないから」

 ジゼルは寂しげに笑った。ジゼルに手を握られた子供が不思議そうにジゼルの顔を見上げる。

「怒らないの?」

「うん? 何が?」

 ジゼルは不思議そうに瞬きをする。

「おねえちゃん……怒らないの?」

「うーん……」

 ジゼルは苦しそうに笑った。

「人を傷つけたいときは、誰にだってあると思うから」

 ジゼルは笑ったまま俯いた。

「だから、怒りたくないの」

「うん……」

 子供達は不思議そうな、哀しそうな顔で眉根を寄せて、ジゼルを見つめていた。

 やがて子供達が銘々に枝の下へと散らばっても、アンゼルモはジゼルから目を反らせなかった。

 ――この子は、変だ。

 自分が普通だとは言わない。けれど、このジゼルと言う少女が空恐ろしいとアンゼルモは思った。ヘロはそれを分かっているのだろうか。分かっていて、大切にしたいのだろうか。

 ヘロとジゼルの関係は、雛鳥を鳥籠に閉じ込めていたい【人間】と【雛鳥】のようだとアンゼルモは思っていた。どう見ても好き合っているのに、その想いは対等じゃない。胸の内に沸き起こったその印象に、アンゼルモはずっと違和感を覚えていた。けれど今、なんとなくわかったのだ。この子は放っておいたら勝手に飛んでいってしまうのだ。だからヘロは、つなぎ止めておきたいのだ。

「ジゼルって、変」

 アンゼルモは伸ばされたジゼルの手を掴んで引き上げながら、そう零した。ジゼルの瞳が戸惑うように揺れる。

「ど、どういうこと……?」

「言わない。おいらは、ヘロの友達だから。……多分ね」

 アンゼルモは暗い声で呟いた。

「ほら、ここだよ」

 アンゼルモは指を指す。

 螺鈿造りの太く長い三角柱が十二本、平らな二枚の板を支えているだけの、簡素な小屋。その奥にひっそりと佇むのは、この星を覆い尽くす海のように透き通った水色の弦を持つ美しい曲線を描いた竪琴だった。誰が触っているでもないのに、弦はふるふると震えながらただ淡い音を奏で続けている。日の光がこの向きも位置もばらばらに据えられた三角柱の隙間を縫って、竪琴に影を落とすのだ。竪琴に透かされた影は太陽が空を駆ける位置によって影の糸の数を増やす。この星ではその影の数が、時を知る術だった。小屋の壁は白く真珠のような光沢を放ち、花の文様――この大樹の割れ目に咲く山荷葉を象っている。木の根元に寄生する貝の真珠層を貼付けたものだ。

 ジゼルが震える手を伸ばして竪琴にそっと触れた。すると竪琴はぶるりと震えて、音を奏でるのをぴたりとやめてしまった。さっと血の気が引く。音が止まったら、この星の住人は混乱してしまうかもしれない。

 竪琴はまるで意志を持っているかのように自らジゼルの腕の中へ倒れ込んだ。ジゼルはまるで小さな子供あやすかのように竪琴を抱きしめて、撫でた。彼女の頬に伝う一雫が見える。どうしてジゼルが泣いているのか、アンゼルモには理解が出来ない。

「あのね、」

 ジゼルが不意に呟いた。自分に話しかけられているのかと思って、アンゼルモは身を固くする。

「わたし、ウラノスの地図を探しているの。ヘルメスの杖が、わたしに探せとそう言ったの。わたしも……多分、探したいと思ってる。何か……手がかりになるようなこと、知らない?」

 そんなの、おいらが知っているわけないじゃないか――。そう言いかけて、ぐっと堪えた。まるでジゼルは、竪琴に話しかけているように見えたからだ。異様だと思った。ジゼルが「あれ?」と首を傾げながらおろおろと視線を彷徨わせる。やがてはた、と何かを思いついたようにアンゼルモを振り返った。アンゼルモを見つめる紫の瞳が、真珠色の時計城の中で一つだけ艶やかに輝く宝石のように見えた。ジゼルの純粋さが、アンゼルモには空恐ろしかった。

「あの、アンゼルモ……竪琴の弾き方、わかる?」

 ジゼルは困ったように眉尻を下げている。

「え? あっ……」

 弾かれたように言葉が漏れた。アンゼルモは唾をごくりと飲み込んで、へら、と笑った。

「まあ、それなりには、わかるよ。出来ると思う」

「そう、よかった」

 ジゼルはほっとしたようにふわりと笑った。

「あのね、竪琴と話がしたいの。でも、この子弦が震えていないと話せないみたい。だから弾いてもらえる? ごめんね、手間をかけて……」

 申し訳なさそうにそう言って、はにかむ。アンゼルモは指先がじんと冷えるのを感じていた。

「ジゼル……それの【声】が聞こえるの? ばーちゃんみたいに?」

「ばーちゃん?」

 ジゼルが不思議そうに首を傾げて、あっ、と小さく声を漏らした。慌てたように視線をさまよわせる。

「ジゼル、竪琴の声が聞こえるの? やっぱり……【巡礼者】だから?」

 アンゼルモは震える声で言った。ジゼルは泣きそうな顔で肩を震わせた。どうしてそんな表情をするんだろう。それはきっと、誇っていいことのはずなんだ。だっておいらは、アフロディテ様の生まれ変わりだとか、次代の吟遊詩人になるはずだとか言われてきたけれど、一度だって声が聞こえたことはなかったんだから。

 自分の気持ちが、よくわからない。

 吟遊詩人になりたくなかった。重荷を背負いたくないと逃げた。けれど心のどこかで、自分は選ばれないんじゃないかと怖かった。さんざん期待させておいて、本当は選ばれるべきはおいらじゃないんじゃないかと、胸の内に巣食う予感があった。だからおいらは逃げ出したんだ。おいらは吟遊詩人に選ばれたくなくて逃げたんじゃない。

 吟遊詩人に選ばれない自分と向き合うのが、怖かった。

「わ、たしは、」

 ジゼルが震える声で言った。

「わたしは、異常だから」

「異常なんて自分のこと言うなよ。そう言うの良くないよ、おいら嫌いだよ」

 アンゼルモは吐き捨てるように言った。

「そうじゃない……そうじゃないの。わたしは、人間じゃないから」

「は?」

 アンゼルモは眉をひそめる。

 ジゼルは青ざめた顔で俯いた。俯いてばかりの人だな、ヘロはよくこれに苛々しないな、とアンゼルモは苛立った。

「人間じゃないってなんだよ。何を以て人間だって言うんだよ。巡礼者が人間じゃないとでも言いたいのかよ! そんなこと言うならおいらだって――」

 声が詰まった。息苦しさと、ふと頭に染み渡った微熱がアンゼルモを苛む。震える手で拳を握りしめた。

「そ、そんなこと、言ってないよ」

「じゃあ何が言いたいんだよ!」

「わ、わ、わたしは……」

 ジゼルは目を泳がせる。戸惑っておたおたするふりばかりして、なんなんだこの子は。本当に変な子だ。苛々する。どうしてこんなにも苛々するのか、自分でも分からない。

「わたしは、女神なの」

 ジゼルが震える声で言って、アンゼルモを見つめ返した。

 心臓が跳ねた。

 体が硬直して、うまく口が動かない。アンゼルモはぎこちない様子で口の端をつり上げた。

「何、が言いたいの……?」

「ふざけて言っているわけじゃない。わたしは、女神なの。女神の魂を入れただけの器が、意志を持ってしまっただけの人形なの。だからわたしは選ばれた。神器との共鳴力が誰よりも高かったから、わたしが選ばれた。だからわたしは神器の言葉が聞ける。わたしは……わたしはどうしても、ウラノスの地図を探さなきゃいけないの。そうしないとわたし……女神と、自分を、うまく離れさせられない」

 ジゼルは肩を震わせた。

「わたしは、女神になりたくない。だからわたしは、女神が欲しがっているウラノスの地図を探したいの。そうすればわたし、何かが変わるような気がして……だから、だから、お願い。わたしに、竪琴の声を聞かせて」

「勝手だ」

 アンゼルモは吐き捨てるように言った。

「それはジゼル、君の勝手な都合だろ」

 自分の中に渦巻く苛立ちを、どう鎮めればいいのか分からない。勝手だ、勝手だ、と吐き捨てたところで、自分にそれをやめさせる権利も理由もないのだった。アンゼルモは唇をきゅっと引き結んで竪琴をジゼルから受け取った。ぽろん、と指で撫ぜる。何の気負いもなく、半ば自棄だった。

『女神、聞こえます? 僕の声が』

 突然、鈴の音のような不思議な声がぼやけて聞こえた。アンゼルモは竪琴を取り落としそうになった。

『おっと……少年、僕は丁寧に扱ってくださいね。僕の弦は繊細だから、ちょっとの衝撃でも歪みやすいんです。歪んだ弦は、歪んだ音しか奏でられない』

「はは……アフロディテの竪琴、あなたの声は彼には聞こえないよ。わたしにしか……」

 ジゼルが苦笑して、膝を屈めると竪琴に話しかける。

『ああ、そうでした。つい、懐かしくて……この少年は僕の持ち主だったから』

 ジゼルがアンゼルモを見上げた。

「まさか……」

「聞こえる」

 アンゼルモは震える唇を僅かに開いた。ジゼルが瞬きをした。

「え?」

「聞こえる……これが……この竪琴が……話しているのが、おいらにも、聞こえるんだ……聞こえるように、なった」

 ジゼルは目を見開いた。竪琴は嬉しそうに笑う。

『やった! 女神様がここにいらっしゃるからかな。僕の弦に触れることできっと女神様と一時的に共鳴しているんでしょう。だから少年にも僕の言葉が伝わるのですね。嬉しいなあ、主。僕はあなたともう一度お話がしたかったんです』

「主、って、」

 ジゼルが小さな声で呟く。

「あの……アンゼルモは、もしかして、」

 アンゼルモは頭を振った。弦を撫でる指が震えた。

「ばーちゃんが――レプリタ様が、おいらのことを英雄アフロディテの生まれ変わりだって言ってたよ。でもおいらは、」

『言わずとも分かっていますよ、主。あなたは記憶を持たずして産まれてきた。恐らくは今後もよほどのことがない限り、その記憶が蘇ることはないでしょう。またその必要もない』

 竪琴は穏やかな声で鳴いた。

『あなたは幸せになるために産まれてきた。そのために、あなたの記憶は邪魔以外の何者でもありませんでしたよ。僕はね、かえって、あなたが僕を欠片も覚えていないこと、嬉しいなって思ってるんですよ。もちろん寂しいですけどね。でも、そんなことはあなたのこれからの人生を考えたらなんてことはないんです。あなたが幸せになることが僕の幸せだし、恐らくは兄君の幸せでもありますよ。だからあの方は未だ現世を離れられないんです。いつかあなたの笑った姿に会うためだけに、あの人は生きているから』

「兄君?」

 アンゼルモは眉をひそめた。

「おいらに兄貴はいないけど」

『いえ、口が過ぎました。お気になさらず』

 竪琴は柔らかく呟いた。アンゼルモは俯く。

「みんな……おいらの幸せを願ってくれる人ばっかりだ……なんでおいらは、そんな人にばかり囲まれてるんだろう。おいらはそう思ってもらえる程の大した人間じゃないのに」

『理由がなければいけないのですか? ならば僕の口から告げることは出来ますよ。それはね、あなたが前世で、不幸せだったからです。殺されたからではありません。アフロディテ様は自ら死を望んだのです。あの方はアフロディテであることが不幸だった。あなたは幸せになりたくて死んだのです。ただそれだけの理由。しかしそれが今のあなたに必要な意味となりましょうか? あなたはアフロディテ様ではないのですから。人の心の温かさを素直に喜べない悪い癖は、前世の時代から変わりませんね?』

 竪琴はころころと鈴が鳴るように明るく笑った。

『女神様』

「うん」

 ジゼルが頷く。

『恐らくはレプリタ殿が、今頃はあなたの勇者に同じ話をしていることでしょう。ですから僕にも、あなたにそれを伝える義務があります。あなたが探している我が同胞、【ウラノスの地図】について、でしたね』

「うん。どこに……あるのかな。具体的な場所じゃなくてもいいの。せめて手がかりだけでも、知ってたらなって。わたしの記憶は、完全じゃないから、何も分からないの」

『ええ。ええ、そうでしょうね』

 竪琴は寂しげに呟いた。アンゼルモはジゼルと竪琴の言葉に聞き入りながら、竪琴を奏で続けた。

『それについては語ればとても、とても長い話になるのです。今でも昨日のことのように覚えています。とても長く、俄には口に出すことも憚られる物語です。……結論から申しましょう。【ウラノスの地図】は、もうこの世には存在しません。七十年前、破壊されたのです。その僅かな欠片が、女神様、あなたのその体――ジゼル様です』


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