Episodi 36 殻と根

 ――空の上に、立っているみたい。

 ふと、ジゼルはそんなことを考えた。空色の世界の真ん中で、灰色の枝を伸ばした大樹が一本、厳かに佇んでいる。枝の先端に揺れる木の葉は、緑色の細い葉脈が透けるほどに、色がない。

「靴は脱いで、裸足になって。濡れちゃうから」

 アンゼルモの言葉に、ジゼルとヘロは頷いて靴を脱いだ。列車の扉から裸足の足を下ろすと、ひんやりとした水が爪先を飲み込んだ。踵を下ろすと、ぬめりとした嫌な感触が足の裏を撫でる。ジゼルは足をあげて足の裏を顧みた。皮膚のしわに、緑色の細かな藻が潰れて貼りついている。ヘロがよろよろと体を揺らしながら、大樹を目指して少しのぶれもなく軽やかに先を歩いていくアンゼルモの背を追いかけた。ジゼルも歩こうとして、よろりと支えを失う。傾きかけた体をヘロが支えた。視線が交錯する。

「なんだか……地面が……」

「うん……不安定、だね」

 二人形容しがたい表情で見つめ合って、足下に視線を落とした。水の下で二人の足を支えているのはうねり網のように絡まり合う大樹の根だ。

「ここ……地面がないのか?」

 ヘロが呟いた。網目の隙間に小さな巻貝が張りついている。ジゼルはそれをそっと爪先でつついてみた。貝は柔らかな口をしゅっと殻の奥へと閉じ込めて固く口を閉ざす。

「貝さんを踏まないように気を付けて歩かないと……」

 ジゼルが真面目な顔でそう言うと、ヘロはどこか気が抜けたようにへら、と笑った。

 不意に、ぽちゃりと雫が跳ねる音がした。ぽちゃり、ぽちゃり。音が次第に増えてくる。雨だろうかとぼんやり空を仰いだジゼルを視界を、ヘロの背中が遮った。

「ヘロ……?」

 水跳ねの音は次々に増えて、雫がジゼルの頬に跳ねた。ヘロの服も次第に濡れていく。ジゼルは不思議に思って、ヘロが睨みつけている先をヘロの脇の下の隙間からそっと覗き見た。

 木の上から、無数の小石が飛んでくる。大樹の枝の上に、沢山の人の影が見える。【黒馬の民】と同じ、一様に黒い髪と黒い目を持つ人々だ。肌の白さが灰色の木の上で浮き上がり、その人影は真珠のように輝いて見える。

 ヘロがメルディを撫でて、メルディと同じ大きさの五角形の光を辺りにばら撒いた。それらは辺と辺を重ねて、三人を守るように透明の壁をこしらえる。けれど、アンゼルモはその五角形の光の破片を手で振り払って、壁の向こう側へゆっくりと歩いて行ってしまった。

「アンジー!」

 ヘロが叫ぶ。ジゼルは恐る恐るヘロの後ろから顔を出した。アンゼルモの頬を投げられた小石が掠めて血を滲ませる。二つが額に当たって、アンゼルモの額から血が二筋流れた。ヘロはジゼルを置き去りにして、自分も壁の向こう側へと走って行ってしまう。

「アンジー……」

 そう言ってアンゼルモの手を引いたヘロの顔を、腕を、服を、小石が掠めて傷つけて行った。アンゼルモはへら、と笑った。ジゼルは震える足を踏み出した。けれどヘロが怒ったような形相で振り返ったから、それ以上先へは進めなかった。

「裏切り者が戻ってきた! 裏切り者が戻ってきた!」

 歌が聞こえる。それは声のうねりとなって、ヘロが築いた透明な壁をびりびりと震わせた。

「おいらは、嫌われてるんだ」

アンゼルモの声が弱々しく響いた。アンゼルモはそう呟いて、すう、と息を吸う。

「レプリタ様を出して」

 アンゼルモの声は朗々と響いた。一瞬音が止んで、再びさざ波のように「何故」「なぜ」「どうして」と反響する。

「おいらは皇室付きの弁護人から依頼された仕事としてここに来た。お前達から見たらおいらも彼らもこの星の客人だ。おいら個人としてここへ戻ってきたわけじゃない。それを傷つけたら――お前達の立場は、わかるよな。皇室への侮辱と言うことになるけど、いいの?」

 ぴたり、と歌が止まる。ジゼルは向けられる悪意に怯えながらぎゅっと杖を握りしめた。あの時――巡礼者に選ばれたあの日、ヘロが自分に対して酷く怒った理由が、今ならわかる。悪意が自分に向けられている時には気づかなかった。人に向けられている悪意を見ることは、こんなにも辛くて、怖い、だなんて。

「レプリタ様を出して。お前達じゃ話にならない。大人しく言うことを聞いておく方が賢明だと思うけど」

 しん、と静まり返る。風が吹いて、ひらひらと透明な木の葉を巻き上げた。揺れる落ち葉は、まるで硝子の破片のようだとジゼルは思った。やがて小さな声が木の枝の上から砂の一粒のように零れ落ちた。

「……嫌い」

「きらい」「嫌い」「嫌い」「きらい」「きらい」「嫌い!」「きらい!」

 悪意が木霊する。ジゼルは透明な壁にそっと触れた。アンゼルモの顔はここからはよく見えない。辛うじて、ヘロの青ざめた横顔だけが、目に映る。

 子供の癇癪のような合唱が響いて、どれくらい経っただろう。壁に遮られた籠ったその音は、ジゼルの神経を擦り減らした。

【嫌い、嫌い。大嫌い……!】

 甲高い声が記憶の底から響いてくる。赤紫色の眼が、ジゼルを酷く睨みつけていた。あれは、プルートの声だったろうか。

「やめ、て……」

 ジゼルが震えながら呟くと、誰かにそっと抱きしめられた。額に触れるその熱が、ヘロの胸だと気づくのに少し時間がかかった。

「大丈夫。大丈夫だから」

 ヘロが囁く。ジゼルは首を振った。わたしはそんなに弱くないよ。だから、守られているわたしのことは、あなたが守ってくれているわたしのことなんか、いいから、アンゼルモをあの悪意の渦から助けてあげて――。そう言いたいのに、喉が詰まって声が出ない。ジゼルは無意識にヘロの胸に額をすり寄せた。温かい。

 やがて轟音の最中で一際柔らかく澄んだ一つの音がポーン、と空気を裂くように響いて、ジゼルの耳を穿った。弾かれた弦の音だ――ジゼルははっとして顔をあげた。おかえりなさい、と歌う声。この声は、人の声ではない。

『女神様。おかえりなさい。お帰りなさい。来て……こっちへ、早く、会いたいよ』

 少年のような快活な声が、震えている。ジゼルはヘロの肩越しに灰色の大樹を見つめた。枝の上に並ぶ人々の陰が揺れて、美しい銀色の衣に身を纏った一人の老婆が姿を見せる。

「あの人――ねえ、見覚えがある」

 ジゼルはヘロの肩をそっと揺すった。

 ヘロは振り返って、眉根を寄せた。

「知ってるよ。あれは、先代の巡礼者だろ」

「そう……だよね。あの綺麗な舞を踊っていた人、だよね」

 ヘロは彼女を複雑そうな表情で睨んでいた。ジゼルには、どうしてヘロがそんな目をするのかわからなかった。ジゼルはそっとヘロの腕を解いて、立ち上がる。糸鋸地図(パズル)を崩すように、透明な壁をそっと手で解して崩した。ジゼルが足を踏み出す度に水の飛沫が小さく跳ねる。

「ジゼル……?」

 戸惑う様なアンゼルモの声にもそっと振り返るだけで、ジゼルはそのままアンゼルモを追い越して大樹の根元まで歩いた。静寂が風となってジゼルと大樹の間を吹き抜ける。吟遊詩人の老婆は、少しだけ白い濁りを帯びた黒の眼で太い枝の上からジゼルをじっと見つめ返していた。老婆の肌は一人だけ、砂のような色をしていた。刻まれた皺が、その肌に暗い影を落としている。

 ――目尻に刻まれた皺は、幸福の証。眉間に刻まれた皺は、苦労の証――。

 ふと、ジゼルはゲルダの言ったその言葉を思い出していた。ばぁばには皺がないね、と言った時のことだ。『私は幸福も不幸も削ぎ落としてしまったから』とゲルダは笑った。それはとても辛い生き方だと、幼いながらに思ったことを覚えている。

 吟遊詩人の老婆の顔には、眉間にくっきりと深い皺が刻まれていた。笑顔が似合わない人だと、ジゼルはぼんやり考えた。『そうだよ』と、竪琴の声がジゼルの心と同調するように響く。『その子は幸せではなかったからね』

 老婆はすっと目を細めて口を開いた。

「お前に用はない」

 一瞬、何を言われているのかわからなかった。老婆は射抜くような眼差しでジゼルを見下ろしていた。足が小さく震えた。今、私は、この人に拒絶されたのだ――。そう解ったら、目の前が蒼く染まった。

「私はお前が嫌いだ」

 老婆はさらに追い打ちをかけるように言葉を落とした。

「だが竪琴はお前に会いたいと言っている」

「竪琴の……声が聞こえるのですか」

 震える声で、ジゼルは呟いた。老婆は瞼を閉じて、やがて顔をあげるとアンゼルモを見つめた。感情の無い眼差しはヘロに映されると、柔らかく細められた――少なくともジゼルには、そう見えた。

 ヘロが俯くままのアンゼルモの手を引いて、ジゼルの傍へと駆け寄る。老婆はそれを目で追いながら、ふっと言葉を零した。

「ヘンリエッタの息子か」

 ぴくり、とヘロの肩が跳ねた。ヘロはきっ、と睨むように老婆を見上げる。

「だから何」

「ヘロ……」

 ジゼルは思わずヘロの肩に触れた。けれどヘロは眼差しから鋭さを消そうとはしなかった。

「ふん」

 老婆は僅かに口の端を釣り上げた。皮肉げな笑みだった。

「似ていないな」

「生憎、顔に関しては父親よりは母親似なんだけどな」

「ヘンリエッタの伯父によく似ている」

「え……?」

 老婆はヘロの戸惑う声を風に流して、くるりと踵を返した。

「客人だ。傷つけるな。女と罪人は竪琴の間に連れていけ。ヘンリエッタの息子は――私の所へ連れてこい」

 老婆は澄みきった声で枝の上に集まった人々に短くそう伝えると、葉の生い茂る枝の向こうへと消えて行った。

「登れ」

 短く、若い男が声を降らす。アンゼルモはびくりと肩を揺らして、引きつった顔を誤魔化すように頭を振った。やがて蒼白な顔に無理矢理笑顔を浮かべて、ジゼルとヘロの手を引く。

「気を付けて。この木は根元に貝が張りついているから……滑るからね。貝をできるだけ踏みつぶさないように、間を縫って足をかけてな」

 そう言って、するすると慣れたように上へ登っていく。ヘロは最初は貝と貝の表面に張り付いた藻のぬめりと格闘していたが、やがて諦めたようにため息をつくとジゼルを抱き上げ、メルディの羽でふわふわと浮き上がった。

「狡い。おいらも連れてってよ」

 アンゼルモが弱々しく笑う。

「さすがに二人抱えるのは無理だわ」

 ヘロは肩をすくめた。

【助けて。助けて。女神様】

 竪琴が、泣いている。ジゼルは俯いて、瞼を閉じるとその音に耳を傾けた。

【助けて、助けて。女神様。どうかあの子を助けてあげて。

 冷めない夢の中で苦しんでいるあの子を、そろそろ楽にしてあげて】

 そっと目を空けると、木の幹や枝のひび割れから顔を覗かせる白い花が見えた。花弁の所々が硝子や氷細工のように透き通って、色さえなくしている。鮮やかな橙色の雄しべがそっと風に揺れている。

「ヘロ……あの花、不思議」

「ん? ああ、ほんとだ。氷砂糖みたいだな」

 ヘロが呟いた。ジゼルはこくりと頷いて、次第に近づく枝の先で揺れる半透明の木の葉を見上げた。葉緑素を殆ど失ってしまった葉は、きっともう木の栄養を作れないだろう。この大樹は、いつ崩れてもおかしくはない。

 まるで氷細工、氷砂糖のような星だ。硬くて、透明で、脆い。足下を見下ろすと、一面が海だった。木の根を沈めて広がる、何もない海原。

 ――本当に、この星にはもう何もないんだわ。

 ジゼルはきゅっとヘロの服を握りしめていた。水の星で、何もかも水底に沈んでしまった遺跡の星で、ただ一つ残る大樹は貝に寄生され、腐りかけている。細く心許ない木の枝の上で、人々は神経を張りつめて生きているように見えた。この星は、わたしが思っていたよりもずっと、貧しい。

【人間、生きる場所が無くても、案外生きていけるものよ】

 記憶の奥底で、アフロディテが笑っている。

【だから、この瓦礫の星(がらくた)は私が引き受けるわ】

 ――でも、アフロディテ。あなたがいなくなったこの星は、その瓦礫さえ水底に沈んでしまっているよ。そうして木の根で覆われて、もう二度と手を伸ばせない。あなたがわたしのせいで、この星からいなくなってしまったから。

『女神様。助けて。助けてあげて――』

 竪琴が泣いている。ジゼルはヘロの胸に顔を埋めた。

 わたしにはできない。わたしは、何の役にも立てない。あの眼が、あの老婆の眼差しが、わたしへの答えなの。ヘロが理由(わけ)も泣くジゼルの頭を撫でてくれる。その心地よさに罪悪感を感じながら、ジゼルは堅く目を瞑った。


 わたしは、本当に生きてていいんだろうか。生かされて、いいのだろうか。





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