Episodi 35 空と枝

 音無く走る列車の中で、ヘロはこくり、こくりと首を揺らすジゼルの横顔を見つめていた。

 正しく言うならば、ヘロは別に、ジゼルの顔を見ていたのではなかった。たまたま視線を落とした先が、ジゼルだったと言うだけのことだった。それくらいは、傍から見ていれば何となくは分かるのだ。ただ問題は、ヘロがジゼルの方を向いていないことの方が少ない、ということだった――と言ってもそれもまたそもそもが大仰な問題と言うわけでもないのだが。恐らく本人に自覚はないだろう、とアンゼルモは思った。経験者は語る、なんて言うつもりはないけれど、本当に自覚したら、むしろしばらくは顔を見ていられないものだとアンゼルモは身を以て知っている。

「あの、さ」

 そんなヘロをやれやれと思いながら頬杖をついて眺めていたアンゼルモは、ぽつりと零されたヘロの声に些か驚いて目をぱちくりと瞬かせた。

「何?」

「その……あんたが歌ってた、あの曲……なんていう歌なんだ?」

「えっ? あ、ああ……何の話なのかってびっくりした……」

 アンゼルモは胸をなでおろした。ヘロは視線をようやくジゼルから外して、不思議そうに首をかしげる。

「あれはな~、黒馬の民の……あ、おいら達、こんな真っ黒な髪と目の色だろ? それで黒馬の民だなんて呼ばれるようになってさ、で、かっけえなってことで自分達でもそう呼んでんだけど……とにかくおいらの仲間のな、ビスクってやつが曲作って、妹のシプソが歌詞書いたんだけど……この歌詞な、暗号になってて本当の言葉じゃないんよ。ちなみに意味はちゃんとあるんだけど……おいら馬鹿だからあんまり意味わかんなくてさ」

 アンゼルモは苦く笑いながら頭を掻いた。小さな嘘の棘が、ちくりと彼の心を刺す。

「なるほどな……」

 どこか覇気のない声でヘロは笑って視線を床に落とす。アンゼルモは瞬きをした。

「どうかした?」

「ううん」

 ヘロは笑う。

「すごく……綺麗な歌だなって思っただけ」

 ヘロは瞼を閉じて、すう、と息を吸い、吐いた。

「アンゼルモって綺麗な声してるよな、なんかさ、聴いててすごく、よかったよ。なんだろう、なんかさ……羨ましいって思ったんだ」

「羨ましい?」

「うん。あんな風に、自由に歌えていいなって。俺は……」

 ヘロは喉が詰まったように、不自然に息を吐いた。アンゼルモは心が引っかかれたような心地を覚えたけれど、辛抱強くヘロが声を紡ぐのを待った。

「俺、歌いたかったけど……好きだったけど……俺は、勇者の蛹だったから、歌は、習えなかった。独学だったから――独学なんて、大層なものでもないよな、覚えて、聞きかじりで真似事をしようとしただけだ。だから、あんな風に、綺麗な声は出せないや。歌い慣れてもいないし、きっと、俺が同じ歌を歌ったって、あんたみたいには歌えないんだ。俺は……あの歌を聞いて、泣きたかった。それくらい、すごく、すごく……辛くて、羨ましくて、いいなと思ったんだ。言葉がまとまらないけど」

「そっか」

 アンゼルモは穏やかな声で応えた。

「そっか……そうだよな、お前、勇者だもんな。ほんとさ……この世界っておかしいよな。自由に子供が歌も歌えないなんてさ」

 アンゼルモは引きつる頬にそっと触れながら、笑った。

「おいらはその点、確かにお前よりはずっと、有利だったのかもな」

「有利?」

 ヘロが首を傾ける。

「うん。だって……おいらの生まれた星は、そもそも勇者の蛹も魔道士の蛹も、生まれる前に死んでしまうんだ」

「どういうこと?」

 ヘロが眉を潜める。アンゼルモはヘロの赤橙の瞳をそっと上目で眺めた。

「ああ、物騒な話とかじゃないよ? そうじゃなくて……あの星には、勇者を育てるための学校も、魔道士に魔法を教えるための学校もないからさ。そんな場所が……ないんだ」

 アンゼルモは笑った。

「歌ってさ、」

 アンゼルモは指を組んだ両手を見下ろしながら、静かに呟いた。

「場所なんて大層なものが無くても、いつでも、どこでも、継承していけるんだよ。あの星で、子供たちはただ吟遊詩人になるための卵の殻だった。才能が無ければ巣から振り落とされて、才能があればいつまでも温めてもらえる。そこから吟遊詩人が孵るのを、今か今かと皆が待っているんだ。そのためだけにおいら達は歌を歌い、伝える。お前が思う様な、楽しいものじゃないんだよ、歌って」

 アンゼルモは口を噤んだ。けれど、ヘロは何も声を零さなかった。先を続けていいのかどうか、アンゼルモは僅かに混乱した。自分の口から、甘い毒が漏れたことにも、動揺していた。あまりにも、ヘロの瞳に映る羨望が、純粋だったからなのかもしれない。

「あ、でもな、」

 アンゼルモは取り繕うように顔をあげた。

「でも、今はな? おいら、歌うの楽しいよ。黒馬の民の皆が、おいらが歌うと笑ってくれるし、ピオネは何度でも聞いていたいって言ってくれる……トラッドさんも、歌わせてくれるし……」

「うん」

 ヘロは穏やかに笑っていた。

「あんたの歌は、本当に優しいよ」

 ヘロはくしゃりとどこか泣きそうな顔で笑った。

「だって、俺……また歌いたくなったからさ」

 アンゼルモは喉が詰まる心地がした。

「じゃ、じゃあ、歌えばいいじゃんか」

「うん……」

 ヘロは目を伏せた。

「でも、歌い方がわからないんだ。なのに、吟遊詩人になりたかったとか……今でも、なれるものならなってみたいって思ってるとかさ、馬鹿みたいだよな」

「お前、吟遊詩人になりたいの?」

「うん……ほんとはね」

 ヘロは頷いた。

「その……シクルと仲いいみたいなのに」

「うん。メルディは……大事な俺の相棒だ。だからもしも、どちらかしか取れないなら、俺はきっと今も勇者を選ぶよ。でも、俺ってほんとは欲張りなんだ。欲張りだったんだ」

「そんな、」

 アンゼルモはヘロから目を逸らした。

「吟遊詩人なんて、大していいものでもないよ」

「でも、歌っていいって言うたった一つの権利だろ」

「そんなもの無くても、おいらは歌えてる」

 思いの外語気が荒くなって、アンゼルモははっと口元を手で覆った。そのままその手は、ずりずりと目元に伸ばされた。暗い視界の中で、アンゼルモはどくどくと鼓動する心臓を抑えようと眉根をぎゅっと寄せた。息を僅かに止めて、目元を覆う指を解いた。恐る恐る光を覗き込むと、ヘロは目を細めて、穏やかに――どこか悲しげに、笑っていた。思わず、アンゼルモの指がピクリと震える。

「この世界は、子供を悲しませてばかりだな。なんだ……俺だけじゃないんだ」

 アンゼルモは体中ががたがたと震えるのを感じていた。心臓の鼓動が、心について行かない。皇室に盾突いた裏切り者の勇者――それはもしかして、自分と同じ線路に立っている一人のただの子供なのかもしれない。誰にもわかってもらえない、言いたくもない自分の毒を、何も知らない可哀相な子供になら、もしかしたら話せるのかもしれないと思ったら、体が震えて止まらなかった。おいらは大人にならなきゃいけない。早く大人にならなくちゃいけないんだ。守りたいから。大事な人を、大事な人たちを守っていきたいから。

「おいらは、おいらの中の子供を、もう置いて行きたいんだ」

 アンゼルモはぽつりと呟いた。ヘロは不思議そうに目を瞬かせた。

「お前にとって歌うことが未練なら、おいらにとってそれは枷なんだ。おいらはずっと、生まれた時から罪人なんだ。牢に囚われてるんだよ。逃げても逃げても、鎖は増え続けて、おいらは遠くへは行けるけど、この足から、手から、鉄の輪っかが取れてくれないんだ。おいらはずっと、そうして生きていくんだ。それが、嫌だった。おいらはね、本当はきっと、歌なんて嫌いなんだよ。でもな、歌わないと、生きてけないんだ。だって、そうして生きてきたんだ」

 ヘロは黙って聞いていた。アンゼルモはちらりとヘロを見つめて、視線を落とした。

「あの、星は――」

 アンゼルモは震える声で呟いた。

「全ての大地が水底に沈んで、もう、地上では生きていけない。だからおいら達は木の上で、枝の上で暮らしていたんだ。当然、よその星のような大それた学校なんて作れない。生きていくのに精いっぱいで、教育だってできない。おいら達には学なんてほとんどないんだ。だからおいら達は字だって書けないし、読めもしない。おいら達はただ、耳と声だけで生きてきた。歌を歌って、その中に教えるべきことは全部詰め込んで子供たちに聞かせる。子供たちは生まれた時から音を浴びて、自然と歌うようになるし、自然と楽器を奏でるようになる。そうやって、大人達が吟遊詩人になるためだけの水をかけ続けた花の種がおいら達だ。だけど水だけじゃ花はなかなか咲かない。大人達はただ、吟遊詩人になる花の種を探すためだけに歌って、子供はただ、それに応えるためだけに歌う。歌う喜びなんて誰も知らない。少しでも上手に歌おうとするのは、褒められたいからだ。期待されて、可愛がって欲しいからだった。みんな期待に飢えていた。だからきっと、おいらの気持ちなんてあの星で誰もわかってくれないんだ。吟遊詩人になることだけがあの星で生まれた子供の全てで、いつか吟遊詩人になる子供を産むことだけが、大人たちの希望だった。なんでかって? 貧しいからさ」

 アンゼルモはヘロを見つめた。座って僅かに首を傾け、アンゼルモを見つめる彼の姿は、まるで傾いた蝋燭の様だった。炎がゆらゆら揺れている。アンゼルモはほっと息を吐いた。

 ――変な子供だ。

 そう、思った。人なら、こんな一方的な独白なんか、聴いていてうんざりするか、まるで我が事のように心を痛めて真剣に耳を傾けるか……そのどちらかだろう。なのにヘロからは、そんな熱を感じなかった。人が自ら燃え上がる焚火の炎なら、ヘロは人の手で付けられた蝋燭の炎だ。何が彼をそうさせたのだろうと気にかかって、やめた。今はその小さな灯りが、むしろ心地よいのだから。話し出したら止まらない。今のアンゼルモは自分のことだけで精一杯だった。聴いてほしかった。吐き出して、もう全部ごみに捨てたかった。

「この世界の大人たちが自分の子供を巡礼者にしたがるのは、何も名誉だけのためじゃない。巡礼者を出した星は、その巡礼者がいつか息を引き取るまで、生活の安定を保障されるんよ。要は、お金が入るってことさ。そしてそれは、星を救うと言う意味では、名誉なことなんだろうな。でも、おいら達はそんな余裕なんてないから、ただ生きるために、生き延びるためだけに、吟遊詩人を出したいんだ。今はばあちゃんがいるけど、ばあちゃんが死んだら、一気にお金が入らなくなる。おいら達は、土地もないおいら達は、金が無ければ生きていけない。だけど、よその星に移り住むこともできない。金もないし、学もないから。あの星は、ただ滅びを待っているんだ。滅びの中で、どうにかせめて生きていこうとしてる」

「ばあちゃん……って、ああ、あの人か」

 ヘロは目を伏せて、眉根を寄せた。

「何?」

「ジゼルを……酷い目つきで睨んだ人だ」

 アンゼルモは言葉に窮した。まるでヘロは、恨みにも似た静かな怒りをその目に湛えているようだったから。

「あの人、アフロディテの人だったんだな」

「うん」

 アンゼルモは、そう返すことしかできなかった。

「ばあちゃんは……ずっと、あの星を支えて、あの星に住むすべての人間を支えて、生きてきたんだ」

 声が、震えた。

「おいらは、ばあちゃんが好きだった。だから、本当はおいら、ちょっと……傷ついたのかもしれないんだ」

「何が?」

 ヘロが首をかしげる。

「おいらも、きっとばあちゃんに、……恨まれていたから」

 ヘロは黙っている。アンゼルモは深く息を吸って、吐いた。

「おいら達子供は、生まれた時から歌を習って、歌い続けた。そうしているうちに、子供は振り分けられて、才能のある二人が残ったんだ。あ、間引かれたとかそう言うんじゃないぞ? ただ、才能がない子供は……もう、ただの塵になるんよ。才能が無ければ、あの星ではただの貝だ。木を根元から喰らっていく、貝の一人になるだけだ。あとはもう、希望なんてない」

 アンゼルモは震える指をいじって、爪を撫でた。

「一人が、おいらだった。そしてもう一人が、ばあちゃん――先代吟遊詩人の実孫の、ビスクだった。でな、なんでなのか、あの頃は分からなかったんだけどさ、おいらは、ばあちゃんにビスクよりもずっと目を掛けられてきたんだよ。おいらは少しだけ音感が……ほんとにちょっとだけ、よかったみたいでさ、おいらが歌うと、皆が泣くんだよ。それが、どうしようもなく、怖いことのような気がしてさ、そのうち病気でおいらの母さんも死んじゃって……あ、おいらもともと父無し子だったんだけどな? 身寄りがいなくなって、ばあちゃんに養子にされたんだ。そうして一つ一つ、逃げ場が無くなっていく気がした。ビスクとおいらは共鳴力がどの子供達よりも断突で高くてさ、おいら達が歌うと竪琴が共鳴して音を絶え間なく鳴らし続けるんだよ。おいら達がそうして歌ったり奏でることの一つ一つが星の人達の心を一喜一憂させた。おいら達が大きくなればなるほど――ばあちゃんが老いて行く毎に、どこどこの星で共鳴力の高い魔術師の蛹がいるらしいとか、そういう噂の一つ一つがみんなの神経をすり減らした。そういう空気がおいらは恐ろしくてたまらなかった。だけど歌い続けなくちゃいけなかった。歌をやめたら、皆の希望が潰えるから」

 アンゼルモは右の手首を強く握りしめる。

「そいでな、ある時ばあちゃんが……おいらを呼んでこんなことを言ったんだよ。『アンゼルモ、お前はどうやら、英雄アフロディテの生まれ変わりらしい』って」

 アンゼルモは前髪の隙間からヘロを窺った。ヘロは緩やかに目を見開いていった。アンゼルモは、微かな自嘲を口の端に浮かべて、目を逸らしたのだった。

「こんな話……やっぱ信じないよな。変だし」

「いや……」

 ヘロは戸惑う様な声を零した。

「あんたが、それを知っていたことに……少しびっくりしたんだ」

 アンゼルモは眉を潜めた。

「どういうこと?」

 ヘロは躊躇うように、目を泳がせた。ごくりと唾を飲み込んで、アンゼルモの眼をまっすぐに見据える。

「ゴーシェが、言ってた。お前が英雄アフロディテの生まれ変わりだって。あいつ、英雄ヘルメスの生まれ変わりらしいんだ。でも、あんた、ほんとはそんな記憶ないんだろ。」

「へえ……」

 アンゼルモは目を伏せ、黒蝶の羽のように睫毛を震わせた。

「なんだよ……世界の勇者はそんなことまでご存じなんだな。てか、そんなごろごろいるのかよ、英雄の生まれ変わりってやつはさ。なんか拍子抜けしちゃうじゃんかね」

 無理して笑うのは、疲れるなあと思いながら、アンゼルモは唇を僅かに開いた。

「おいら、ちょっとお前が怖いよ。お前、そんなこと知ってて、よく平気でいられるよね。変だよ。……変、だよ」

 ヘロはただ目を伏せただけだった。その長い睫毛が、綿毛のように揺れた。

「ごめん……言いすぎた」

「いや、実際、俺って変な気はするんだ」

 ヘロはへら、と笑った。

「お前も……英雄の生まれ変わりだったり、するの?」

 アンゼルモの言葉に、ヘロは緩やかに首を横に振る。

「いや」

「やけにはっきり言うね」

「みんなそう言うから」

 ヘロは笑った。

「むしろ俺の方が、英雄の生まれ変わりだったらよかったのにな」

「なんで?」

「ただの人間に、あんたら英雄の人生は重すぎるんだよ」

 ヘロは穏やかに微笑んでいる。

「続けて」

「なんで? 重いんだろ。聞いてて……嫌なんじゃないの」

「今更ひとつ二つ抱える物が増えたって、もう重くないよ」

 ヘロは首を振るだけだ。

「つまりお前は――」

 アンゼルモはごくりと喉を鳴らした。

「お前は、自らお荷物を持ちたいわけ? 変だよ。聞かせてるおいらもおいらだけど、そんなんじゃ……いつか辛いよ」

「そうかもね。でも、逆に俺以外に誰が聞ける? そんな話。知れば知るほど思うんだよ。他の人に抱えさせるには、重たすぎるってさ。だったら、もうとっくに荷物持ってる俺が受け止めるのが、一番誰も悲しまないだろ」

「そういうの、楽しいわけ? 信じらんない……なんか、お前、可哀相だよ」

 アンゼルモは頭を抱えた。けれどヘロの眼差しは僅かにも揺れていないのだった。アンゼルモは半ば苛々しながら、声を吐き出した。

「そう。聞きたいなら、教えてやるよ。お前が羨むおいらなんか、羨む価値もない、暗い感情の塊なんだだからさ……とにかく、竪琴がばあちゃんにそう告げたんだ。だからおいらだって自覚なんかないし、わかるわけがないのに、ばあちゃんは殆ど確信を持って、おいらが今代の吟遊詩人になると思ってた。だからおいらのことを可愛がったし、養子にもしたんだ。それを聞いた時、おいらはな、さっきから恐ろしいとしか言ってないけどさ、本当におっそろしかったんだ。吟遊詩人になったら竪琴の言葉が聞こえるのか、そうしたらもしかしたら、おいらは知らなくてもよかったようなことを竪琴から聞かされてしまうのかなって、前世だなんて知らなくても生きていけるようなことを、知らなくちゃいけないのかななんて思ったら、怖くて、でも何も言えなかったのさ。そうしてるうちに、ばあちゃんがな、おいらが英雄アフロディテの再来だってみんなに言っちゃった。それを聞いた時のビスクの表情が忘れられないな……ビスクもさ、小さい頃に親亡くしてさ、ばあちゃんだけだったのに、そのばあちゃんはおいらばっかり目をかけて、あの双子だってみんなから期待をされてたのに、ばあちゃんからは気にかけてもらえなくて……それが、おいらが、おいらも知らないような、前世が英雄だったなんて、たったそんなことのせいだったんだ。おいらが、生まれてこなければ、もしも母さんが死んだ時一緒に死んでれば、おいらじゃなくてビスクがきっとばあちゃんに目をかけてもらえた。なのにそんなことも知りもしないし、興味もない大人たちは、おいらに期待と羨望の眼差しを向け続けた。恐ろしかった。本当に、死んでしまいたくなるくらい、怖くて、たまらなかったんだ」

 手首がいつの間にか紅く腫れている。きつく握りしめすぎたのだとアンゼルモは自覚した。けれど、肩の震えは止まらなかった。声の震えも、止まらなかった。

「こういうのってさ、当事者にしかわからないんよな。皆から見たらさ、おいら達は平等に愛されてたように見えるだろうな。ビスクから見たら、実孫じゃないのにおいらの方が愛されてるように見えるし、シプソからすれば、最初からいないみたいに扱われていただろうし、おいらからしたら、それは愛情じゃなくって、束縛だった。でも、そういうことは本人にしかわからない。おいらたちは幼い頃から一緒にいたのに、そんなことに翻弄されて、おいらの頭の中はめちゃくちゃだった。おいらね、選ばれたくないと思ったんよ。でも選ばれるかもしれない。怖かった。だからおいらは竪琴の前で、こっそりおいらを選ばないでってお願いしたんだよ。そしたらね、頭の中に声が響いた。『じゃあ、代わりの者を連れて来い』って。『端からあなたに期待などしていない』、ってさ。おいらそんな声が聞こえた気がしたことが恐ろしくてさ。おいらはその足で走ってばあちゃんの所に行ったんだ。竪琴にはおいらじゃなくてビスクを選んでもらうって。おいらがアフロディテの生まれ変わりだって言うんなら、おいらにだって選ぶ権利があるはずだ、おいらは絶対に吟遊詩人にはならないって。そうしたら、ばあちゃんなんて言ったと思う?」

 アンゼルモはヘロを見つめて、ぎらりと目を輝かせた。

「『大事な孫に、こんな罪深い、汚らわしい使命を負わせたくない。私はお前に十分に愛情をくれてやった。その恩返しをしろ。私の孫の身代わりになれ。卑怯者の英雄気取りが、何を今更、自分だけ逃げようとする』」

 アンゼルモは一息にそう言うと、ふっと手首を握りしめる手を緩めて、呼吸を整えるように目を閉じた。

 何度か深く息を吐いて、アンゼルモは天井を静かに見上げたのだった。

「おいらには、巡礼者がどういうものかわからないし、ばあちゃんが一体何を竪琴から聞いたのかもわからないけど」

 アンゼルモは呟く。

「でも、ばあちゃんが、それを恨んでいるってことだけは、わかったんだ。だとしたら、おいらは、ずっと前から、多分最初から、ばあちゃんから憎まれてた。そのせいで、おいらは大事な友達ともぎくしゃくなってさ、なんか、ばっからしいと思ってさ、そう思ってたらな、髪がばさりと抜けたよ」

 アンゼルモは編んだ細い三つ編みを手に取って撫でた。

「面白いくらいにさ、束になってぼろぼろ抜けていくんだよ。中途半端に禿げちゃって、日に日にひどくなるんだ。それが恥ずかしくて恥ずかしくてさ、医者に見せても、何か精神的なものだろうって言われるしさ、精神的って……心当たりありすぎて……かと言って言えるわけでもないしさ。でな、抜けたところから生えた髪がこんな風に白髪になったんだ。医者からは……そのうちまた黒に戻るって言われたんだけどな、しょっちゅう抜けるから治る見込みがないよな。そしたらそれを見かねてさ、ミモザとアンネとミランダが――【黒馬の民】の他の仲間なんだけどな。逃げようぜっておいらに言って来たんだ」

 虚ろな笑いが零れる。誰にも言ったことが無かった。誰にも、それを伝えたことなんてなかった。いつでも周りが気にかけてくれたから、自分の思いを押し込めることに慣れてしまっていたのに。

 それなのに、まるで傾いた蝋燭のようにそこに居てくれるから、自分だって倒れそうな顔してるくせに聞いてくれるから、止まらないじゃないか。どうしてくれるんだよ――アンゼルモは自嘲していた。もう、半ば自棄だった。荷物を抱えてしまってるから、これ以上の荷物だって抱えて構わない? ふざけたことを言う子供だ。なのにおいらは、ヘロのそんな態度に腹を立てながら、自分もまたここまで言ったんだから最後まで吐き出してしまいたいと箍を外してしまっている。今更はめ直す気さえないのだから、自分も大概ふざけているのだと思った。アンゼルモは震える唇で呟き続けた。呟かずにはいられなかった。

「ミモザと、アンネと、ミランダ……三人はさ、今度はおいら達三人と違って、全く期待されていない子供だったんだ。みんなそれぞれに歌が好きで、楽器を奏でることが好きで、泣くほど好きなのに、お前達に見込みはないからって楽器を奪われるんだ。少しでも歌ったり口笛を吹いたらぶたれてたんだってさ。蹴られて、鞭で打たれて、子供に教える以外の目的で、歌っていいものじゃない、鳴らしていいものじゃない、それは世界への冒涜だって言って、虐げられてたんだってさ。そんなん、おいら知らなかったんだよ。でも、本当に、よく見たらみんな痣だらけだったんだ。アンネは左目を前髪で隠していたんだけどさ、それって鞭で打たれて瞼に傷ができてたからなんだ。そう言うの見たらたまらなくなってさ、おいらまた泣いてしまって、また髪も抜けたなあ」

 はは、と乾いた笑いが零れる。ヘロはただアンゼルモをまっすぐに見つめていたのだった。それがどうにも、可哀相だとアンゼルモは思った。どうしてそう思ったのかさえ、気持ちにうまく整理がつかないのだけれど。

「おいらはどうしたらいいかわからなくて泣いてるばっかだったんだ……なのに三人は行動が早くてさ、残っている子供だけで逃げようぜって、シプソやビスクにも話したんだ。おいら達は逃げるけど、ついてきたかったら来いって言ってさ。でも無理に誘わないよって言って。ビスクとシプソも、期待されない子供たちがそう言う仕打ちを受けていたってこと、その時初めて知ったみたいなんだ。おいらの髪が抜けてたことも、全部。そしたらあの二人、おいらの所に来て泣くんだ。どうしてもっと早くに言ってくれなかったんだってさ。友達だろって……それでおいらたちはわんわんちっちゃい子供のように泣きながら今まで思ってたこと全部話してさ、知ってることも全部話したんだ。それで、一緒に逃げることにした。おいら達が逃げるってことは、この星から今代の吟遊詩人が選ばれる可能性をひき潰すってことだ。そうすれば、いつかばあちゃんが死んでしまったら、あの星には金が入らない。もうぎりぎりのところで生きてきたのに、きっといつかあの星は滅びてしまうんじゃないかなって思った。そういうのも全部天秤にかけて、それでもおいら達は自分たちの自由を願って星を逃げ出したんだ。そうして、電車を乗り継いで、身を隠して、そのうち戸籍も取り消されて、行き場も無くして、ぼろぼろになりながらもおいら達の望んだ生き方を――自由に歌って、自由に泣くって言う生き方にしがみついたんだ。おいら達は親も家族も、恩も何もかも捨てて、裏切って、そしてトラッドさんに引き取られた。それが……本当によかったのか、本当は今でも、わからない。わからないんだ。今でも、怖くなるんだ。おいら達はどうすればよかったんだろうって。もしトラッドさんがいなくなったらどうしようって……」

「うん」

 ようやく、ヘロが声を零した。アンゼルモは泣きたくなった。話してしまったことを酷く後悔する一方で、ヘロの心を思って、目尻に涙が滲んだ。

 おいらが隠してきた心の錆を、塗りつけてしまったのに、そうやって静かに笑うんだな。ほんとに、可哀相だ。この子は、可哀相だ……。

 そう思ったら、言葉は止まらなかった。

「おいらはただ、幸せになりたかったんだ」

 おいらはいい父親になれるだろうか。半人前に、可哀相だと憐れむ心だけしか持ち合わせていないおいらが、子供を幸せにできるだろうか。ピオネを幸せにできるだろうか。今日も、明日も、明後日も……三人で、笑いあえる未来が、約束されるだろうか。大勢の人に砂をかけて、今もまた、こうして一人の子供を可哀相だなんて、踏みにじっているような、そんな人間にしかなれなかったのに。

「おいらが歌うとみんなが幸せそうに笑うから、たとえそれが期待でも、重圧でも、おいらも幸せになりたくて、みんなが笑ってくれるのが幸せだと思おうとして、歌って、潰れたんだ。もしも、おいらが潰れなければ……弱音も吐かずに、髪も抜けずに、こんな斑みたいな色にならずに、当たり前に吟遊詩人になっていたら? そうしたらみんな幸せだったかもしれない。もしかしたらその方が楽だったかもしれない。おいらがみんなの自由を奪ったのかもしれない。おいらの自由と引き換えに、皆が不幸になるかもしれない。それを考えるとたまらなくて、なのにみんな我儘になっていいって言ってくれるんだ。これ以上、おいらの髪が抜けていくのを見たくないって言うんだ。おいらの歌を聞いてるだけで楽しいって言ってくれる。シプソは自分の作った歌をおいらが正しく歌ってくれるのが嬉しいって言うし、ミモザたちは自由に楽器が奏でられるのが楽しいって言うし、ビスクはおいらに劣等感を持たないでいられることが嬉しいって言う。ビスクがね、言うんだよ。おいらがそれを気にするのは、おいらが幸せになりきれてないからだって。僕達はそんなこともう気にしてないのに、お前だけが幸せになりきれてないんだって」

「うん」

 哀しくてたまらなかった。アンゼルモは今初めて、ヘロのことを不幸せな子供だと思った。この子はおいらと同じだ。おいらと同じように、不幸で、本当はいくらでも幸せになれたはずの子だったんだ。それなのに、おいらとは違うんだ。この子には欲がない。

「だから……おいらは皆のためになんて偽善で……幸せにならなきゃって焦ってたんだ。そしたらさ、ピオネが、おいらのこと何も知らないのに、かっこいいだとか、好きだとか、可愛いだとか、本当にわけわからないくらいべた褒めしてさ、笑ってくれるじゃんか。そしたらもうたまらなくなってさ、おいらはピオネが好きになってしまったんだ。ピオネが子供ができたって言った時もさ、おいらは初めて、ピオネに悪いとかそんなことより、嬉しいと思った。おいらは絶対にこの子を、お腹の子供ごと愛してあげようと思った。そうしたら、幸せだと思ったんだ。だから、おいらは……ピオネを今でも縛ってる。でも、ピオネはそれでもいいっていつも笑い飛ばしてくれるんよ。だからおいらは、初めて、あの星から逃げ出したことをよかったって、今は――」

 声が思わず途切れた。ヘロの眼差しは夕焼けのように優しい。アンゼルモは目を覆った。

 穏やかに笑う夕焼け色の少年は、自分が不幸だと気づいていない。自分に人並みの欲がないということにさえ、きっと気づかない。吟遊詩人になりたかった、と彼は言った。それがただ、【歌える権利がもらえるから】、ただそれだけの理由だなんて。

「おいらがいたら、お前は吟遊詩人になれないよ」

 アンゼルモは震える声で呟いた。

「そう?」

 ヘロは何でもないことのように笑う。

「そうでもないかもよ? わからないけど」

 ヘロはヘロのシクルを撫でて、視線を落とした。

「吟遊詩人なんて、いいものじゃないよ。あのばあちゃんを一目でも見たなら、わかるだろ」

「そうかな。でも、踊っていたあの人は、綺麗だったよ」

「巡礼者の癖に、まだそんなこと言ってんの。皇室から逃げ出した癖に。嫌だったから、逃げたんじゃないのかよ」

「俺が逃げたのは、ジゼルが可哀相だったから」

 ヘロは笑顔を消した。アンゼルモは呆然とした。

「可哀相だなんて、そんな建前で、逃げたんだ。俺は、俺のために逃げたんだよ。あんたと根本は、そう変わりゃしない」

 ヘロはジゼルの寝顔をそっと見つめた。その目が苦しそうにそっと細められた。その瞳に浮かぶ感情がどういう類の物なのか、アンゼルモには判別がつかない。

 どうしようもなく自分と似通った目の前の勇者に、アンゼルモは絶望していた。

 怖い、と思った。

「じゃあ……」

 アンゼルモはのろのろと呟いた。

「おいらの代わりに、吟遊詩人になれよ。そんなシクル、捨てちゃってさ」

「メルディは捨てない」

「シクルに名前つけるなんて、気持ち悪い」

 思わず零れたアンゼルモの言葉に、明らかにヘロはむっとした。その表情にどこか安堵している自分に、アンゼルモは戸惑いを覚えた。

「……神器が、選んでくれたらな」

 ヘロは嘆息する。

「星につかないことには話にならないよ」

 ヘロの言葉が耳を撫でる。

 アンゼルモはぼんやりと窓の外を眺めた。透き通るような青と緑が滲む。

「そう言っている間に、ついちゃったよ」

 アンゼルモはぽつりと呟いた。ぼんやりと窓の外を眺めれば、透き通るような青と緑が滲む。掌に閉じ込めた鍵は、少し温かい。それを車内の灯にかざしてみた。鍵の形の影が、アンゼルモの額にかかる。アンゼルモは力なくてを下ろして、壁にもたれた。頬にひんやりとした冷たさが滲んだ。

「ごめ、んな、こんな、話」

「いや」

 ヘロは首を横に振った。その僅かな振動に、ジゼルが小さく唸る。それを見て穏やかに苦笑するヘロの眼差しは、優しかった。

「俺、自分は不幸だってどっかで思ってたのかもしれない。けど……あんたよりもずっと、俺不幸じゃなかった。馬鹿みたいだ、俺」

 そう言って乾いた笑いを漏らすヘロをしばらく見つめて、アンゼルモは諦めたように首を振った。所詮は会ったばかりの他人なわけで。アンゼルモには理解し難いことも、変えられないことも、そしてきっと変える必要のないこともあるのだろうと、今は諦める。

「おいら達、多分、思ったよりも、似てるのかもな」

「そうなの?」

 アンゼルモの言葉にヘロが顔をあげる。そうして、どこか嬉しそうにくしゃりと笑った。

 その笑顔にいたたまれなくなりながら、アンゼルモはそっと睫毛を揺らした。

 ――おいらは、お前のこと、ちょっとだけ怖くなったよ。

 アンゼルモは、鍵を壁に翳した。壁からは白い光が滲んで、楔形の印を描く。その印に鍵型の切符を差し込んで、右に回した。壁が目の粗い光の粒の布になって、五枚の層をずらす。隙間の向こうから、空色の景色が光の帳のように染みこんできた。

 ヘロは、ジゼルを揺り起こす。

「ほら、起きて。ジゼルさーん。起きてくださーい……いてっ」

 ヘロの頬を寝ぼけたジゼルが小さく叩く。

「いて……本当に寝起きが悪いなこの人は……」

 ヘロが眉間にしわを寄せて深く嘆息した。ジゼルも目を閉じたままきゅっと眉根を寄せている。

「ジゼルさーん」

「うう……ん」

「起きないと俺いなくなっちゃうけどいいの?」

「うん……」

「うわ……頷かれると地味に傷つくな……ジゼルってば、起きてよ」

「うん……」

「はいはい」

 ヘロは苦笑しながら目を擦るジゼルをほとんど抱きかかえるように立ち上がらせた。ジゼルはふらふらとしながら踵を打っている。

 アンゼルモはそんな二人を見遣って、顔をあげ、空を見た。雲一つない。今日も雨は降らないのだろう。それなのに、この星の大地は乾くことを知らないのだ。

「ジゼル、ねえ」

 アンゼルモは、しょぼしょぼと目を細めるジゼルの顔を覗き込んだ。

「ん……なあに……」

「ヘロを、見ていてやってね」

「え……?」

 ジゼルはきょとん、と目を見開く。

「ヘロって、なんだか綿毛みたいだ。おいら、見ていて不安になるよ」

「うん……」

 ようやく目を覚ましかけたようなジゼルが、アンゼルモをゆらゆらと揺らめく視線で捉えた。

「アンゼルモが、友達?」

「え? そう言う話? ってまだ寝ぼけてるのかな~……」

 アンゼルモは頭を掻いた。ジゼルはふわりと笑った。そうしてヘロの背中をよろよろと追いかける。まるで雛鳥のようだとアンゼルモは思った。

「ヘロ」

「ん?」

 声をかけると、ヘロは振り返った。逆光に照らされて、空に溶け入りそうだ。アンゼルモは唇をかみしめると、首を振って精一杯笑った。

「あのさ、おいらのこと、アンジーって呼んでよ。みんなそう呼んでる」

 ヘロは一瞬目を丸くして、すぐに嬉しそうににやっとして白い歯を見せた。

「おう」

 アンゼルモはヘロの背中を見つめながら、心に広がる哀しい色に胸を押さえた。

 ――そうだな。おいらが、友達にならなきゃ。おいらにたくさん、仲間がいたように。おいらの幸せを願ってくれる人がたくさん、いてくれたように。今ならおいら、みんなの気持ちが何となくわかるよ。おいら、なんてみんなに不孝してたんだろう。

 アンゼルモは空と海の水平線を貫いて、薄青の世界から浮かび上がるようにそびえ立つ巨大な灰色の木の幹を見つめた。

 太く長い枝が籠を編むように、水色の世界を汚していた。


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