蛇の道
Ⅲ
【Profile 23. セス・カルヴァートン】
【米国出身の二十四歳の青年。友人思いだが口下手で、不器用な青年だったという。ラミナス・テイラーとその妻メグとは幼馴染であり、セスもまたメグに想いを寄せていたが二人の結婚を心から祝福し、後に生まれた二児の名付け親となった。
セスはテイラー夫妻及び子供達と共に米国製
捉えられた密航者は無慈悲に無重力空間へと捨てられた。しかし
最後の犠牲者を見定めるため、船内には緊張が走っていた。その時、メグの幼い子供が突如泣き出し、一人の女性が発砲してしまう。ラミナスはメグと子供を庇い足を負傷した。船内の人間達はラミナスに一斉に銃を向けた。「怪我人は必要ない。一歩間違えれば死ぬところだったのだから、もう一度殺してあげよう」――誰かが言い、皆がそれに賛同した。
しかしそこで、セスが徐にゆらりと立ち上がった。彼は最後にテイラー夫妻の子供達の頭を撫で、夫妻に笑いかけると、「何も持たないおれが逝くよ」と告げて自ら宇宙に身を投げたのだった。
その後船内は落ち着きを取り戻し、ラミナスは怪我の手当てを受け、家族と共に無事に新世界へと到達した。
辿りついた新しい土地で、ラミナスはこう言った。
「あいつが身代わりになってくれて、正直ほっとしたんだよ。あいつは妻を性的対象として見ていた。僕は気が気じゃなかったんだ」】
【(備忘録『宇宙飛行の齎した悲劇(レ・ミゼラブル)』第三章より)】
_______________
暗く広がる空気の無い世界。
赤や金や緑や青が、水に溶かした絵の具のように滲み掠れて、瞬いている。
それを人々は宇宙と呼んだ。沢山の光輝く星。それらの周りを守るように穏やかに回り続ける惑星。
けれどおれ達の星は、宇宙の摂理を逸脱したところで存在していた。
決して回ることのない八つの星。回るのは、一つの小さな光る星だけだ。この八つの星に住む人々はそれを
けれど、この異常な八つ星は、おれ達がかつて人間だったからこそ引き起こした歪みだった。聖書ではイブが魔が差して知恵の実を食べてしまったせいで楽園から追われたと言っていたけれど、あながち間違いでもないのかもしれない。かつて人間だった神様は、またしても過ちを犯した。おれ達は魔が差して、ただの子供のいたずらのつもりで、世界の地図を――アルテミスから与えられたウラノスの地図を書き換えたのだ。
世界から九と言う数を消して、女神の存在を否定して、歪みに歪ませたこの世界の辿る未来なんて、もうおれにはわからない。それでもおれは、ふと死ぬ前に、マルスの遺した子供達の命が、ずっと続けばいいと願っていた。おれの子供ではなかったけれど、恨めしく思った時もあったけれど、確かにおれはあの子たちを愛していた。あの子たちの未来を作ることだけが、きっとおれの生き甲斐だったのだ――。
◇◇◇
始まりの記憶。
――ただの人間が星になるなんてなあ。
おれは宇宙の暗い海の中で片肘を膝の上に立てて、頬杖を突きながらおれたちの体の核ともいえる八つの小さな青い星を見下ろしていた。
難しいことはよくわからない。五角形の面を組み合わせた正十二面体の青い【玻璃】でできた歪な形の衛星を綺麗な球体にするために、おれ達の体の一部を――ただの元素の集合体に還ってしまったおれ達の構成要素を使ったのだとアルテミスは言った。その仕組みなんてよくわからない。おれ達が地球で神様だと信じていたものが、星そのものの意思だったなんて……そんなこと、急に言われてすぐに理解できるものでもないし、ましてやその星の神様とやらがその辺に転がってる材料を捏ねて星を一つ作るだなんて――自分と同列の神様を簡単に作れるだなんて、信じられない話だった。だけど現に、おれはこうしてアルテミスの衛星になって、かつての地球人からすれば神様だなんて呼ばれるような存在になっちまったんだから、納得するしかない。
神様にもルールがあって、力関係があった。例えばおれ達の常識からするところの太陽ってやつ――恒星が最上位の存在で、その下位である惑星は必ず恒星からの引力を――要は支配ってことだけど――受けて恒星の周りを回らなければならないし、惑星の更に下位である衛星は同じように惑星の引力を受けてその周りを自転しなければいけない。回ることがおれ達星の神様の生き方だという。たったそれしか生き甲斐がないのかよ、と思ったものだけれど、自分も星であるからには、それがある意味当たり前で、なんの疑問も持たずに受け入れられている自分もいたのだった。
「万有引力ってやつかなあ」
ガイアが頭をぐりぐりと押さえながらうんうん唸った末に、そんな言葉を吐き出した。
「何が?」
ウラノスが首を傾げる。
「うーん……」
ガイアは眉根をぎゅっと寄せて呟く。
「僕さあ、本を読んだだけだし、大した教育も受けてないさ、だから言っただろ、僕あの世界ではまだ九歳だったんだって。だからちゃんとはわからないんだけどさ、多分、アルテミスが言ってる僕らの絆って言うのは万有引力のことだと思うんだよ。もしかしたら厳密には違うのかもしれないけどさ……大まかに、言えば、かな」
「あー……厳密にとか大まかにとか面倒臭えしどうでもいい……で、その万有引力がどうかしたって?」
おれは、微かにその単語に聞き覚えはあるなと思いながら先を促した。
おれ達は、一度死んだ人間の体をこうしてアルテミスの衛星として再生された結果、人間だった頃の記憶をあらかた失ってしまっていた。少しだけは覚えている。おれがどんな人間で、どんな生き方をしたのか――どういう過程で死んだのか、それを朧げには覚えている。なのに具体的な名前だったり、習ったはずの常識だったり、友達の顔だったり、そういう人間としての根本的な部分が抜け落ちていた。
記憶の欠如にもばらつきがあって、例えばアポロだったら生前の名前は思い出せたし、ガイアは自分の年齢だったり本で読んだことならすべて思い出せた。プルートは自分の家族のことだけは思い出せると言ったし、サタンは自分の家族の他に、死んだ時のことは鮮明に思い出せると言った。ウラノスは自発的には何も思い出せないけれど、ガイアの知識を聞くと知っていることなら思い出せるのだと言っていた。人間だった頃は相当に頭のいい人間だったのかもしれない。
おれはと言えば、おれが人間だったという事実しかわからないのだった。おれは本当に、何も覚えていなかった。けれどそれを特に不安に想うことは無かった。思い出そうとすると思い出せないけれど、こうして言葉はすらすらと出てくるし、皆の話の内容だってある程度は理解できる。だとすればおれは、特に不便は感じていなかったのだ。大事なことは皆が教えてくれた。
「えっとね、ものって言うのはただ一つだけでは成り立たないって話だよ」
ガイアが言葉を選ぶように、小さな手で丸の形を作りながら拙い仕草でそう言った。
「何ごとも、必ず相互作用ってものが働いているんだ。かならずもう一つ対になる物体があって、お互いに引力――つまり引っぱりあう力が働いている。そして、それだけじゃぶつかってしまうから、引き離すような力も対になって働いているんだ。僕ら星で言えばそれが自転によって得られる遠心力。僕らがアルテミスから受ける引力だけに引っ張られれば、僕達はぶつかってしまうけれど、周りをぐるぐると回ることで外側に押し出すような遠心力がはたらく。その結果、引っ張る力と押し出す力が釣り合って、僕達はこの場所で個々の体を保って存在できてるってわけ。着かず離れずって感じ」
ガイアは指で鎖を作って両側へ引っ張るような真似をした。
「そうやってこの宇宙では色んな力が……他にも摩擦力とか、いろいろ働いて調節した結果、つり合いが保たれているけれど、その根本は万有引力――全ての物は必ず互いに引き寄せあう力を持っているというルールなんだ」
「相手がいると惹かれ合うのが真実なのに、でも私達は相手の周りをぐるぐる回って一定の距離を保っているってことだね? は……なんだかそれって、本当に人間みたいじゃないか」
アポロがどこか自嘲気味に笑って前髪を掻き上げ俯く。時々アポロはそう言う表情をする。ガイアは小さく頷いた。
「そう、それだよ。つまり、星たちにとってはこの万有引力が相手を認識し、自己を認識するための唯一のツールなんだ。こんな話があるんだよ。人は他者がいなければ自己を認識できない。だって、もし世界に独りきりだったら? 誰が僕を個として認識してくれる? 僕の意識は世界に溶けて、ただの全体になってしまうよ。惹かれあうってことは対になる相手に関心を向けるってことだ。互いに関心を向けられて初めて、僕達は相手を認めて、その相手を認める自分に気が付くことができる。自分ではない何かがもう一人そこにいるってことを知ることができる。だから僕らが人間だった時の人間関係だって、マクロな意味で言えば相互作用、万有引力だったんだよ。つまりね、星にとってはこの万有引力がアイデンティティを保つための唯一の印で、枷なんだ」
「枷?」
プルートが不思議そうに眉をひそめた。
「なんで、それが枷になるって言うの?」
「だって――」
「アルテミスは彼女の母なる太陽に縛られてるだろ」
ガイアの言葉をウラノスがかき消すように言った。ウラノスはいつになく低く暗い声で、目を伏せていた。ウラノスもまた、最近よくこんな顔をするのだ。おれには、あいつが何を考えて何に思い悩んでいるのかわからないのだけど。
「それがあるから、アルテミスはあの太陽から離れられない。あの太陽からの万有引力だけが彼女の自己認識、彼女のアイデンティティって言うのなら、手放せるわけがないよ。だって、それを失うってことは容を保てなくなるってことだ。俺達がかつてそうであったように、宇宙の塵となるってことだよ。皆もわかってるだろ。俺達は、確かに人間だった頃の俺達と性格は一緒かもしれないけれど、同時に変わってしまったことが沢山ある。俺達はもう、人間だった頃のそのままの自分には戻れない」
ウラノスは女神から授けられた青く透明な巻物を――地図を広げた。玻璃の繊維を潰して、紙にしたものなのだという。そこには、おれ達が女神に与えられた――額に刻まれた記号が並んでいるのだった。それは惑星の地図。惑星アルテミスの軌道を示す、宇宙の記録だ。新しく作ったおれ達衛星の存在を宇宙に知らしめるための記述。それを、アルテミスはウラノスに渡したのだった。
「この、地図さ、」
ウラノスがぽつりと呟く。
「俺達が衛星なの、わかる?」
ウラノスは地図をなぞって見せる。おれは首を傾げないではいられなかった。
「そりゃ、おれ達はアルテミスの衛星だし」
「そうじゃない」
ウラノスは嘆息して、荒んだ眼差しでおれを見上げてきた。
「ここが彼女の太陽。これが彼女の兄弟。その軌道に俺達はいない。これがどういう事かわかるか? 俺達の存在は、彼女の兄弟が抱える他の衛星と同じってことだ。同列ってことだ。彼女にとっての対等はこの兄弟達しかありえない。どういうことかわかるか? 俺達は、どう足掻いたって、アルテミスにとってただの縫いぐるみだ。ただのペットだ。アルテミスにとってはただそれだけの存在だ」
サタンが胸に抱えていた黒い兎の縫いぐるみをさらにぎゅっと抱きしめたのが見えた。
「縫いぐるみなんてただの依存だ。そうだろう? アルテミスが俺達をどうして造ったのかわかるか? 寂しかったんだ。ただ自分だけを見てくれない
「それじゃ、いつまでたっても彼女と対等にはなれないのね」
アフロディテがぽつりと呟いた。
「私は、あの人のこと好きよ。だけど、もし私が死んでも、あの人は哀しんでくれない。それは……そうだろうと思うわ。そう言う人だもの。神様って元々そう言うものでしょう?」
「方法なら、無くはないよ」
ウラノスがどこか虚ろな眼差しで言った。
「どうするの?」
マルスが首を傾げる。
「地図を……書き換えればいい」
おれは言葉に詰まった。なんだか、とてつもなく恐ろしいような心地になったのだった。理由なんてわからない。そんなの出来るわけないと思いながら、できるかもしれないという衝動がおれの心を駆け巡った。なんだろう、おれは、もしかして、わくわくしているのだろうか。そんな背徳的な計画に。
「そ、っか……」
ガイアが唇をいじりながら呟く。
「そっか、そうだよ。地図が全てってアルテミスが言ってたんじゃん。でも、ほんとにできるかな? 僕達ただの衛星だよ?」
「簡単なことだろ」
ウラノスはどこか投げやりに言う。
「要はガイア、お前が言うみたいにこの宇宙の法則は、神様が自己を認識するためだけに複雑な法則でがんじがらめにして、不安定を見せかけの安定にしているような世界なんだ。神様は哀れな生き物なんだよ。万有引力だの、こんな地図記号だのが無ければこの世界で形を保っていられない。引力だの軌道だの遠心力だの、そんなこじつけた視線が無ければ自分の存在意義を認められない。この世界は随分と自由の無い世界だ。でも、そんなの、俺達が人間だった頃だって、そうだった。俺達は神様はもっと自由な柵の無い存在なんだろうと思っていたのに、神様になれたと思ったらこれじゃないか。こんな地図、ただの、自意識下の問題だ」
ウラノスはぺらりと地図を広げてふわりと宙に浮かせた。
「要は、アルテミスにとっての世界がこういう世界だってことが問題なんだ。世界地図、覚えてるか? 地球の地図。あの世界には国が沢山あって、地図はその数だけあった。そのどれもが自国を地図の中心に据えて世界を書き換えてただろ」
「あ、そうか」
ガイアが頷く。
「僕の国の地図は日本が中心。太平洋がど真ん中にあってさ、日付変更線が真ん中に通ってたんだよ。笑っちゃうよね。地図で左から右に飛び越えると時間がずれちゃうんだから」
ウラノスはくすくすと笑う。
「あんなちっぽけな島国が世界の中心だって。笑えるな」
「でも……そんなものだよね、世界地図って」
縫いぐるみを抱えながら、どこかはにかむようにサタンが笑った。
「あれ、なんだっけ。アメリカの地図はアメリカ大陸しかないんじゃなかったっけ」
「ああ、なんかそういう話聞いたことある! さすがアメリカ」
ガイアがサタンの言葉にぶはっと吹きだした。ふと、なんだか自分が笑われたような心地がしておれはむっとしていた。
「仕方ないだろ。笑うなよ……」
ガイアは腹を抱えて笑いをこらえ肩をふるふると震わせる。
「くく……結局さ、地図ってすごく主観で描かれてるってことだよ。つまりこの、アルテミスがウラノスにくれた地図はアルテミスの主観で描かれてるってこと。多分ウラノスが言いたいのはそれだよね?」
「な~るほどねえ」
アポロは気怠げに首の後ろを掻きながら言った。
「つまり、それを私たちの主観で書き換えるってことか。さすが元人間様の考えるようなことだね。策略的だし、破壊的」
アポロは肩をすくめる。
「そんなこと、生粋のお星さまには考えもつかないでしょうしね」
プルートが両膝を抱えて座ったまま口笛を吹くように言った。
「簡単なことなんだけどね。目くらましって言うか、屁理屈みたいなものだけど」
ウラノスは肩をすくめる。
「ねえ、でも……そんなことをして、宇宙の法則が乱れて、何かよくないことになったりしないかなあ?」
マルスが不安そうに呟いた。
「どうだろう……」
ガイアは眉根を寄せて首を傾げる。
「でも……正直なところ、もう私達一回死んでるんだもの。もしそれで宇宙が壊れてどうにかなっても知ったこっちゃないってとこもあるわ」
プルートはあっけらかんとそう言った。それでもまだマルスは不安げに胸の前で指を組んだ。
「でも……もしそれで、アルテミスにも何かあったらどうする?」
「君のそう言う気持ちも、きっと消えるよ」
ウラノスは笑った。
「だって、君や僕らのアルテミスへの思慕も、結局はアルテミスに紐づけられたこの記号……万有引力のせいだろ。ガイアがさっき言ってたじゃないか、星の心は結局全てこの万有引力だけを礎にしているんだ。それ以上でもそれ以下でもない。だとしたら僕達の抱えているような、この、アルテミスを傷つけちゃいけないだとか、越えられないだとかいう感情だって全てはこの万有引力のせいだ。僕達はなまじっか人間だった頃の心を身体が覚えているから簡単に割り切れないだけだ。もしも関係性が変わったら……きっと嘘のように感覚も変わるはずだよ」
「要は、君がそれを試したくってうずうずしてるってわけだね? そうでしょ?」
からかう様に言うアポロの言葉に、ウラノスはにやりと悪戯っぽく笑った。
「さあ、世界を書き換えようか」
ウラノスの言葉に、おれの心はぞくぞくして、満面の笑みを抑えきれなかった。おれ達は、そわそわしながら顔を見合わせたのだ。
◇◇◇
「その結果が、これ」
おれは自嘲するように深く息を吐いていた。
世界は滅びなかったし、宇宙も滅びたりはしなかった。けれどおれ達は、おれ達と対等になったアルテミスも、仲間も失ったのだ。
これは本当に、おれ達にとって幸せだったのだろうか。たとえ対等ではなくても、アルテミスの庇護下にあった時の方がずっと幸せだったんじゃないだろうか。少なくともおれ達は、アルテミスのことを大好きでいられた。ずっと、仲良しでいられた。
「あー……恋愛沙汰って嫌いだなあ」
「よく言うよ。自分だってマルスを想ってるくせにね」
後ろからアポロの声がかかる。
「おれのは害はねえだろ~? 結局おれは、マルスのこと守ってやれなかったし」
「そう言いながら今も一番そわそわしてるのは君でしょ」
アポロはそう言って、眼下の星を見つめる。
マルスの惑星。そこでは、ガイアの子供を宿したマルスが今懸命に子供を産み落とそうと頑張っている。マルスはプルートに付き添いを頼んだけれど、プルートは頑なに首を横に振り続けた。最近プルートは思い詰めているようだ。まあ、確かに、プルートのせいでガイアが死んだようなところはあるけれど、アフロディテのことを殺したってんだからあいつは自業自得だろ。あいつはアルテミスまで殺して、勝手に一人で死んでいった。どうしてそこまでしなければいけなかったのかわからない。わからない、けど。
三人の死を、悲しんでいない自分がいた。
こんなにも、星になると言うことは残酷だったのか。おれ達が覚えた感情と言えば、自分も同じように殺されれば死ぬかもしれないと言うこと、死のうと思えばいつだって自分から死ぬことができるのだと言う、恐怖だった。消えることが酷く恐ろしいのだ。そう言う意味で、おれはガイアに少しだけ尊敬に近い念を抱いていたのだった。よく自分から、その両方を為し得たと思う。おれには……無理だ。
マルスは絶対に産むんだと言い張った。不思議だった。おれ達は星のはずなのに、交合えば子供はできる。まるで人間みたいだ。まあ、でも、もともとの構成要素が人間だったのだから……当然と言えば当然か。星と星の子供がこの世界でどういう存在になるのか、今は想像すらつかなかった。けれどおれは祈っていた。早くそんな子供産み落としてほしい。さっさとマルスから離れてくれ。マルスを、早く一人にしてくれ。お前達がいると、マルスがずっとガイアの物なんだ。
おれは初めて会ったころからマルスが好きで――多分、一目惚れに近かったと思う。誰かずっと愛していた人にとても似ている気がした。心が優しくて、押しに弱くて、男の趣味が悪い。そしてそれを見守るしかできないおれ自身にも、既視感を感じた。マルスなんかなんとも思っていないくせに彼女を抱いたガイアのことが許せなかった。おれは大切な人に触れられないのに、簡単に、汚した。だからおれは、仲間だったはずのガイアのことをどこかで恨んでいたのだ。誰もがアフロディテが殺され、アルテミスが殺されたことに呆然とする中、一人ガイアの死を悲しんで泣くマルスが酷く人間的で、おれは憧れて、嫉妬した。こんな風にマルスをかき乱せる唯一の男に嫉妬した。あいつの子供を大切に抱えて歩くマルスを恨めしく思った。けれどきっと、産み落としたところで、マルスの心は変わらないのだろう。好きな人との子供なら、きっと大切にするんだろう。
おれは見ていられなくて、ふらりとその場を離れ、銀河を歩いた。アポロが怪訝そうな顔をして振り返ったけれど気にしないことにした。
ふと、ウラノスはどうしているだろうと気になった。ウラノスはガイアが死んでからずっと自分の星に籠りきりだ。そんなにショックだったのだろうか。ウラノスがアルテミスに執着していたことくらい、おれにでもわかった。おれは踵を返し、ふわりとウラノスの星に降り立った。案外ウラノスは簡単に見つかった。谷の底でウラノスはしゃがみ込んでいる。
「よう、ウラノス。黴生えてんじゃねえだろうな」
おれは目の下に黒い隈を――まるでガイアみたいだ――浮かべた酷い面でぶつぶつと呟きながら大地に枝で記号を書き続けるウラノスに声をかけた。ウラノスはゆらりと腰を上げて俺を見た。
「ああ、お前か」
「お前さ、根詰め過ぎだぞ。なにやってんの」
「この世界から女神を無くす方法」
ウラノスはぼそりと言って、俺に興味を無くしたように足元の記号の羅列へと視線を戻した。
「……は?」
おれは聞き間違えたのかと思った。
「なあ……アルテミスはもう死んだだろ。だからさ……」
「存在は消えても証がある」
ウラノスは囁くような声で呟く。
「この八つ星の命全てが女神を覚えている。俺達が女神を殺したことを覚えている。女神がかつてここに居たことを覚えている」
「な――」
おれは血の気が引くような心地がした。ウラノスの眼はがらんどうの闇のように暗い色を湛えている。
「おれ……達は……殺してない……」
おれの震える声に、ウラノスは馬鹿にするようにくすりと笑った。
「死んでほっとしたろ?」
ウラノスはこつこつ、と自分の頭を指さす。
「つながりが消えたの、わかったろ?」
「そう……だけど……でも、ほっとしてなんか……」
「哀しくなかった。違うか?」
畳み掛けるような暗い声に、頭の中が靄のように霞んで、汚い色の渦を巻いた。
「そ、んな……」
おれはのろのろと声を零した。ウラノスはことりと首を傾けて俺をじっと見つめてくる。
「お前が『死んでくれてよかった』なんて思っているガイアは、お前が大好きなマルスの想い人だよねえ。マルスがこれから産む子供の父親だよねえ。マルスがお前のその冷たい心根を知ったらどう思うかな? お前、マルスに未だに愛されたいとか思ってる?」
「な……」
図星だった。おれは、ガイアがいなくなったから、ガイアの子供さえマルスから離れていけば、おれにも分があると思っていたのだ。ウラノスはにやりと酷薄な笑みを浮かべた。
「お前……随分と星に被れたね」
「そ、んな」
「人間の心とかもうないだろ」
「そんなことは!」
おれはたまらなくなって叫んだ。けれどウラノスは興味もなさそうに空を見上げた。
「でも、不思議だなあ。お前の大好きなマルスはまだ人間の情を忘れてないみたいだ。子供ができたからかな? そんな温かい心を持ったマルスは、お前のことを果たして受け入れるだろうかね」
ぞっとした。ウラノスは笑みを消して、不思議そうに首を傾けた。
「お前、そんなにまだマルスに愛されたいの? あの子の心はガイアが持っていったのに」
「でも! ガイアはあいつを愛してたわけじゃないだろ!」
「ばかだなあ」
ウラノスはどこか悲しげに、哀れなものを見るような目でおれを見た。
「女って、自分が好きになった人しか愛せないんだよ?」
「そ、それはウラノスの考えだろ!」
「そうかも、しれないけど」
ウラノスは目を伏せる。
「でも、そっか……そんなにマルスが好きか」
「な……」
「マルスが好きなら、ガイアを否定しても離れていくだけだと思うけど」
ウラノスはぽつりと言った。
「マルスはガイアのことを今でも好きなんだから、ガイアを否定したってあの子はガイアを否定する人間を嫌いになるばかりだと思うよ」
「じゃ、じゃあどうすればいいってんだよ!!」
おれは震えた声で吐き捨てるように叫んだ。
「マルスの子供を愛してあげたら?」
ウラノスは事もなげにそんなことを言う。おれはかっとなった。
「できるわけないだろ!」
「へえ……どうして?」
「あ、あいつは……」
おれは目を泳がせた。愛したくない正当な理由を必死で絞り出した。
「あ、あれは、人殺しの子供だろ!」
「でもマルスの子供でしょ」
「おれの子じゃない!」
どうしてこんなにも心が激しい怒りで震えるのかわからなかった。そうだ、おれは……おれは、マルスがおれの子供でない他人の子供を産むことがどうしようもなく腹立たしかったのだ。そんな醜い自分の心に気付いて、おれは呆然とした。震える手を見つめる。仲間が死んでも震えなかった身体が、こんなことで容易に震えているのだ。
「ぷはっ」
ウラノスは吹きだすように笑って体を揺らした。おれはぎこちない動きでウラノスに視線を戻した。
「はは、あははっ、それ、そういうの嫌いじゃないよ。俺、そう言うの好きだよ、ははっ」
ウラノスは一頻り笑って、目尻に溜まった涙を指で拭った。
「でも、あれがガイアの子供って言うのは事実でしょう。そしてマルスが愛する子供だって言うのも事実だよね? じゃあお前はその子供達をずっと憎み続ける? 嫌いな男の血が通った、好きな女の腹から生まれた子供だって忌み嫌う? 傷つける? はは、やりそう」
「そんな……ことは……」
おれは項垂れた。自信がなかった。
「じゃあ、こうすればいい」
ウラノスは手を合わせてにこりと微笑んだ。
「女神を悪者にすればいいんだよ」
「……は?」
「だからさ、ガイアは英雄だったと言うことにすればいいんだ。もともと八つ星に移り住んだ人間達は女神のこと嫌ってたじゃないか。その悪意を利用すればいい。言い訳にすればいいと思うんだ。俺達は悪い女神と戦った。ガイアは名誉の死を遂げた。そうすればガイアとマルスの子供がこの世界で肩身の狭い思いをする必要もない。マルスはのびのびと子育てができる。そんな幸せそうに笑うマルスを見てたら、お前だって少しは楽だろう? 子供を可愛がればマルスが喜んでくれるんだからさ」
ウラノスは口元は笑っているのにどこか荒んだような眼差しを浮かべておれに顔を寄せた。
「子供って、自分によくしてくれる男の方に懐くんだよ。子供を味方につければ、こっちのもの。母親だってそっちに行く」
ウラノスの眼に深く暗い狂気が揺らめくのを認めたけれど、おれは咄嗟にそれを見なかったふりをした。
ウラノスは柔らかな口調で更におれに畳み掛ける。
「子供を味方につけたらマルスが愛してくれるかもよ? 子供には母親だけじゃなく、父親だって必要だろう? 家族になってしまえばいい。孤独な子育てに疲れるマルスを支えてあげればいい。そうしたらいつかマルスだってお前の子供を産んでくれるかもしれないだろう? ねえ、愛情を塗りつぶして自分の色に染めるってぞくぞくしない? お前、そう言うの結構好きだろ」
ウラノスは醜悪な笑みを浮かべる。
下衆なことを言うなと思いながら、おれもまた、ウラノスのその言葉に僅かに興奮していたのだった。そうだ、最終的におれがマルスに愛されればいいんだ。それでちゃらだ。過去の恋人とか関係ないだろ。最後に、手に入りさえすれば、選んでもらえれば、それで、いい。
おれはウラノスと共に、世界から女神の痕跡を一つ一つ消していった。ふと、どうしてウラノスはここまで女神を消そうとするのだろうと疑問に思ったけれど、その疑問もすぐに靄のように溶けて消えていった。
おれにとっては、いつかマルスがおれの物になるかもしれないと言う事実だけが重要だった。身体が熱を持っているように熱い。そうだ、おれはずっと熱に浮かされていたのだった。朦朧としていたのだ。
マルスが産んだのは男女の双子だった。女の方はどこかガイアに似ていて少しだけ腹が立ったけれど、懐かれてみればとても可愛らしかった。二人とも、母親譲りの金髪に褐色の肌、藍色の目を持っていた。子供達は俺を慕ってくれた。おれはいつしか、子供達を撫でることが唯一の安らぎになった。二人が無邪気に笑ってくれるとおれは少しだけ冷静になれた。こんなに無垢な子供達を恨めるわけがないじゃないか。ウラノスの言ったことは少しおかしい。あいつもきっと、アルテミスを失ったショックで――曲がりなりにも少しは心を寄せた女がいなくなってしまったことで、荒れているのだと思った。だけど、この子たちが罪人の子だと世界に罵られる未来は、やはり酷だと思った。いつしかおれは、すっかりふたりの父親になったつもりで、マルスと子供達の家族になったつもりで、彼らのために何ができるかばかりを考えるようになった。この子たちが世界で胸を張って生きられる未来を――だとすれば、ごめんな、アルテミス。おれは、おれ達は、貴方を悪とするよ。
ウラノスがおれに言いつけたことは時々モラルの限度を超えていたけれど、それでもおれはおれなりにこじつけ、おれよりも数段頭のいいウラノスの言う事なら間違いないのだと、反する理由もないしと、自分を納得させた。
そうして俺が熱に浮かされたままに生きていたある日。
いつしかすっかり俺達から距離を置くようになったアポロが、おれの前にふらりと現れて言ったのだ。
「あのさ、あんまりウラノスを盲目的に信頼するのはお勧めしないよ」
おれはその言葉は聞かなかったふりをして、別の質問を返した。
「そう言えば、お前、マルスが子供産んでからずっと来なかったな。何してたんだ。ちゃんと生きてんのかよ」
「生きてるからここに居るんでしょうよ……まあ、そういう軽口は置いといて……その、私は双子がどうも苦手なんだ」
おれは杖を磨く手をふと止めて顔を上げた。
「なんで?」
アポロはばつが悪そうに顔を背けた。
「……なんでも」
「うーん」
煮え切らない返事に首を傾げながら、おれは杖を布で撫でた。
「で? なんで急にそんなことを言いに来たんだよ」
アポロはすっと目を細める。
「私達、色んなことをしてこの世界で遊んだよね。まるで子供の頃に還ったような心地でさ。初めての世界に降り立って、冒険しているような気分だった。勇者とか、魔道士とか、吟遊詩人とか、自分達にそういう設定をしてさ、なりきって遊んだじゃない。あの頃は私も年甲斐もなく燥いだりして、随分と君たちに付き合わされたよ。君もウラノスも……無邪気なんだか何だかわからないけど、ほんとちょっとしたことでも目を輝かせてさ。とち狂ってたよね。覚えてる? ウラノスの星は地成りがよくなくて、ちょっとした迷路みたいだっただろう。そしたら君が『すっげえ! これなんかあれじゃね? ゲームにあるダンジョンっぽい! なあ、なんかこれ利用しようぜ!』って言ってさ。ほんっと、地球でのどうでもいいようなことはよく覚えてるんだから」
アポロが笑いながらおれの真似をした。結構似ている気がして、おれも思わず笑っていた。
「ああ……それでウラノスが『あー……じゃあ監獄にでもする? 脱出ゲームみたいな感じでさ、もしもこの迷路を自力で出られたら罪は不問とします、みたいな』なんて真顔で言い出すからさ、それなんて無理ゲーだよ! この迷路半端ねえぞ! って笑ったよな……」
おれは、はは、と乾いた笑いを零して目を伏せた。
「あいつ……昔から意外と突拍子もない発想をするって言うか、天然なんだか知らないけど、大人しそうな顔して真顔でぶっ飛んだこと言ってたんだよな……そうかと思うとガイアの小難しい話もちゃんと理解しててさ」
「地球にいた時は、ちゃんとした教育を受けられなかったから学がなかったけれど、今はガイアに教えてもらえるのが楽しいんだって笑ってたよ。あの頃のガイアなんてまだただの子供だったのにさ。どっちが餓鬼なんだか」
アポロは小さく息を吐いた。おれは胸に滲む痛みに眉をひそめながらアポロを見つめた。
「おれは……ウラノスのこと、尊敬してんだよ。そりゃ、時々ぶっ飛んだこと言うし、ちょっと両極端っつうのかな、結構行き過ぎたことを思いついたりするんだけどさ、それを一つ一つ潰していくと、きちんと筋が通ってるんだよ。だからおれは……おれの考えで、あいつの言うとおりにしようと……あいつについて行こうと思ってるんだ」
「プルートと同じこと言うんだね」
アポロは目を細めた。おれは顔を上げる。
「でも、ウラノスは私には大したことは言いに来ない」
「何が……何? お前嫉妬してんの? 頼ってもらえないとかって」
「馬鹿。そうじゃない。そうじゃなくて……」
アポロは言葉を選ぶように言った。
「前、ウラノスが私にこう言ったことがあるんだ。『俺達はみんなまるで子供みたいに無邪気すぎると思うんだよね』って」
アポロはおれを見つめた。
「どう見ても大人が、子供みたいに際限なく燥いでしまう。理性が効かない。理性で押さえていたはずの所が、明け透けになってしまっている気がする。それが、酷く怖い、って。それを聞いて、私は――」
アポロは俯いた。おれは眉をひそめる。
「なんだよ?」
「いや……私も、同じことを思ったんだ。理性が聞かない。その通りだ。踏み留まれない。私達は人間を捨てた時、何か大事なものを取り溢してしまったのかもしれない。アルテミスはかき集められるだけを集めたと言っていた。だから僕達は不完全だ。ねえ、人間が大人になるってどういう事だと思う?」
アポロはどこか自虐的に口を歪めた。
「理性を覚えるってことだ。常識を知るってことだ。そう言うもので自分をがんじがらめにして、自分の一等汚いところを隠して生きることなんだ。だけどもう私達にはそれが叶わない。だとしたら私達は恐らく、理性で自由を縛ってでも隠そうとした自分の毒を巻き散らかしている」
「何が……言いたいんだよ」
「だって、そうでなきゃ、あんなにも簡単にガイアも、プルートも、サタンも、死んじゃうわけないだろ? 自殺なんて簡単にできるものじゃないだろう? 君は何とも思わなかったの?」
おれは言葉を詰まらせた。アポロは儚むように笑った。
「君も……随分と目を曇らせてしまったね」
悲しげに。
「ウラノスを止めてやれる人間が、誰もいない」
アポロは何かに耐えるように俯いて肩を震わせた。
「私にはそんな力がない。私は無力だ。君ならできるかもしれないと思ったが、もう手遅れだったようだ、ね」
「な、んだよ……決めつけるなよ」
おれは声を震わせた。けれどアポロは否定するように首を横に振った。
「ウラノスったら、一体地球でどれだけ人間性を歪ませたって言うんだろう。私でさえ……この狂った私でさえ、できないのに。今のウラノスのように狂ってしまうことはできないって言うのに」
「なんのことだよ!」
「私には止められないんだ、ヘルメス」
アポロは震える声で言った。
「私は恐らく地球で誰よりも歪んでいる人間だった。私ね、倫理観がめちゃくちゃだったんだよね。それをウラノスにはね、いともたやすく暴かれてしまったんだよ。必死で隠してたつもりだったのになあ。あれに弱みを握られてしまったんだ。私は、それを、そのまま、どうすることもできない」
「お、おれになにができるってんだよ」
アポロの深い蒼の瞳から目を逸らして、おれは吐き出した。アポロは震える声で儚く笑った。
「君のその能天気な頭で考えてくれよ。私やウラノスみたいな人間には思いつかない幸せを考えて」
「おれは……おれの幸せは……」
おれは俯いた。
「マルスと……子供たちを、守る、こ――」
そこまで言いかけて、おれははっとした。
それはおれの考えだったろうか。
おれ自身から出てきた答えだったろうか。
アポロがおれを冷えた眼差しで見下ろしていた。おれの世界が急激に色を失ったような心地がした。
おれは、何か恐ろしいことをしようとしていたんじゃないだろうか。おれはウラノスの何を知っている? 何を――プルートや、サタンが死んだ理由さえ、思いを馳せる余裕すらないほどにこき使われ、おれは今まで何をしていただろう。マルスの笑顔が思い出せない。マルスは俺が来る度笑っていただろうか? 悲しんでいただろうか。嫌がってはいなかっただろうか。おれは、何も見ていないことに、今になってようやく気が付いた。
「手遅れになる前に、来たんだ」
アポロは震える声で呟いて、おれを見下ろした。
「ねえ、もう、私達は四人しか残っていないよ。たったの半分だ。これがどれ程異常なことか、わかる?」
アポロはそう言った。おれはゆらりとよろめくように立ち上がって、アポロの肩を揺さぶった。
「なあ……お前は何を抱えてるんだよ……? ウラノスに握られた弱みって、なんだよ?」
「それは――」
アポロは唇を震わせ、何度も言おうと躊躇って、やがて唇を噛んだ。
「言え、ない……言いたくない、んだ……」
「言ってくれ。頼むよ。ウラノスなんかに知られて、それだけでいいのかよ。おれだって友達だろ。そうだろ?」
「君は信用できないよ……」
アポロははらりと涙を一粒頬に伝わせたのだった。
「君はすぐ人の言葉に左右されるのだものね」
「そんな、こと……」
「双子は、嫌い」
アポロは哀しげに眉を寄せて笑った。
「俺から言えるのは、それだけ」
◇◇◇
おれはマルスに想いを伝えた。
ふと、おれが好きなやつに気持ちを伝えるなんて、これが初めてなんじゃないかと思った。
マルスは静かな色違いの眼差しでおれを見上げて、そっと俯いた。
答えはもらえなかった。
答えなんかどうでもよかったんだ。ただ、おれは、けじめをつけなければと思って。
けれど、かなり堪えてはいた。おれはその足でウラノスの下へ向かった。
「そう、じゃあマルスにはもう逃げ道がないね」
ウラノスは酷薄な笑みで笑った。おれはそれを酷く恐ろしいと思った。
それがどういう意味か問い正す間もなく、ウラノスは疲れたように笑うと、何かを呑みこんで「あとはよろしく」と言った。
ウラノスが飲んだものが毒薬だったと知ったのは後のことだ。
毒薬でも死ねるのかと思いながら、そう言えばおれは、皆が死んだことは知っているのに、どうやって死んだのかは知らないままだなと靄がかった頭で考えて、ウラノスの冷たくなった遺体を眺めていた。
まるで、人間みたいだ。おれ達は残された三人でウラノスを土の下に埋め、菫の花を添えた。ウラノスが狂ったように咲かせ続けたただの雑草。けれど、アルテミスの瞳の色。
「私達の核は、この星の大地そのものだ。魂も、肉体も」
アポロがふと、ぽつりとそんなことを呟く。
「だから、この星の上で
おれはしばらく黙ったまま、どこか遠くを見つめるアポロを見上げていた。
「そんなこと、ウラノスはおれには教えてくれなかった」
おれが言うと、アポロはふっと笑った。
「君に死なれたら困ったんだろうさ」
「死なねえよ……おれは、自殺なんて嫌いだ」
「元は自殺だろうに、よく言うよ」
「わかんねえぞ? もしかしたら無理矢理船から突き落とされただけかもしれねえだろ」
「それも……また哀しいことだね」
アポロはすう、と息を吸い込んだ。
「ウラノスは……ほんとに、何がしたかったんだろう。何のために生きてたんだ?」
おれは小さな墓を見つめながら呟いた。アポロはふっと笑う。
「そういうのに気付かない鈍感な君だから、ウラノスは君に話さなかったんだよ」
「貶してんのか?」
「いや……どちらでもない」
アポロはそう言って深く息を吐いた。
「ウラノスのことを理解したって、何の得にもならないからね。毒だ」
「あんなに……楽しそうだったのに」
ぽつりと震える声でマルスが呟いた。おれは顔を上げる。
「誰よりウラノスが、幸せに見えたわ。私達、八人の中で……誰よりも、自分が星になれたことを喜んでいるみたいに見えた」
そう言って、マルスは顔を覆って静かに肩を震わせた。
その肩を抱き寄せようとして、おれは、自分にはそんな資格なんてないと言うことにやっと気づいたのだった。
マルスが後を追うように首を切って死んだのは、その三日後だった。
おれは真っ白に塗りつぶされた頭で、残された子供達を引き取って育て、何の変哲もなく生きて、子供達がやがて息を引き取るまで看取った。皺がれた二人の指に、心が握りつぶされるような心地がした。二人はただの人間と同じように年を取って死んだ。彼らの子供もいるけれど、そもそもおれの子供でも孫でもないのだ。おれは一人ぼっちだった。年を取ることもなく、自ら命を絶たない限り死ぬことすらできない。星とはこんなに孤独なものなのか。神様はこんなにも哀れな生き物だったのか。
おれはそうして、マルスが世界に遺したたった二人の宝物の墓を見つめながら、ウラノスと同じように毒を飲んだ。遺されたアポロがその後どう生きたのかは、知らない。
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