Episodi 33 菫と瞳
「いやー、助かったよ~」
隣で呑気な声を零すアンゼルモをヘロは恨めしい気持ちでじとりと睨みつける。アンゼルモはそれに気づいていながら涼しい顔をしている。食えないやつだ。その隣で、ピオネと名乗る少女が――アンゼルモの恋人なのだそうだ――ヘロを興味津々な眼差しでにこにこと見つめてくる。居心地の悪さがたまったものではなかった。
ピオネを紹介された時は、軽く眩暈がした。自分と年端が変わらなさそうな――むしろ幼く見えるこの子供二人が、もうすぐ生まれそうな子供を抱えていると言う。そうやって動揺していたヘロに、アンゼルモはさらに追い打ちをかけたのだった。
――で、お前逃げ出したって言う勇者か魔道士なんだろ? どこ出身? ピオネがずっとそれ気にしてんの。そんな髪色珍しいってさ~。
思わず酷く狼狽えて、アポロ、と正直に答えてしまっていた。にい、と笑うアンゼルモを見て、かまを掛けられたのだと知った。けれどピオネがヘロの容姿に興味津々だったのは本心だったらしく、ヘロに二人がついて歩く間もアポロの星のことを矢継ぎ早に質問された。好奇心の旺盛な女の子だ。ヘロは小さく溜息をついた。
「ていうか、こんなになるまで医者にも診せてなかったのかよ。おかしいだろ。いくら中に入り辛かったっつったってさ」
ヘロがぼそりとつぶやくと、アンゼルモとピオネはよく似た表情で肩を小さくすくめた。その呑気さに顎が外れそうだ。
アンゼルモとその仲間達はとある理由から戸籍を剥奪されたのだと言った。そうして蛇の道を列車を乗り継ぎ流浪しているうちに【黒馬の民】だなんて大仰な通り名で呼ばれるようになり、いつしかその噂がノイデの耳に入って、ノイデの名の下に惑星サタンに招かれたそうだ。以来、ノイデの課した【仕事】に勤めることでノイデから相応の給料を得て生計を立てているのだと言う。その【仕事】が、日の入りから夜明まで通りで【音を奏でること】なのだそうだ。
ヘロには、ノイデがどういう意図で彼らにそういうことをさせているのか解らなかった。命知らずだと思った。この世界で、魔術師でない者が――吟遊詩人を目指さない者が楽器を奏で歌うということがどういうことか、自分と年端の変わらない子供が、知らないはずはないのに。
「勿論、最初のうちは石とか泥とか汚物とか、ほんと色々投げつけられたんだよ。でもおいら達の身元をトラッドさんが保障しているんだとわかった途端、みんな腫れ物に触るみたいにね、あ、違うや、こう、どっちかというとあれだ、視界に入っていない、何も聞こえていないっていうふりをするようになったんだよね。そうしたら、段々あっちも慣れたみたいでな? もう、おいら達は空気みたいになっちゃった」
アンゼルモははは、と軽い調子で笑う。ヘロは眉を潜めて俯いた。アンゼルモがヘロの顔を覗き込む。
「あ、なんか可哀相とか思ってない? そういうの無しな! 別においら達は可哀相じゃないぞ? まあ、不便なことは多いけどな。トラッドさんには感謝してんだ。おいら達に人権をくれたから」
「なら、ノイデがお前達の戸籍も買ってやればいいのに、そういうことはしないんだろ。そんなに戸籍なんて高くねえだろ。そりゃ……そうはいってもすぐに買えるわけじゃない額だってことは知ってるよ。知ってるけど、さ……」
どこか拗ねたような気持ちで、ヘロが毒吐くとアンゼルモは不思議そうな顔をした。
「なんでヘロが怒ってんだよー」
「怒っては、ねえけど……」
ヘロは一層俯く。アンゼルモはしばらくヘロを見つめて、ふわりと笑った。
「あのな、自由には代償が必要なの」
まるで諭すように、そう言った。
「おいら達は、おいら達に歌うなと言う世界に反抗した。それで自由を得て、そのために戸籍を取り消されたんだ。トラッドさんがおいら達が毎日食い扶持にも困らず生きていけるように舞台を整えてくださったんだよ。それだけで、これ以上ないくらいの温情をおいら達は受けてる。それ以上に迷惑はかけられないんだよ。それにな、おいら達の給料はトラッドさんの自腹なんだ。おいら達を養うためにトラッドさんは日夜問わず働きずくだ。おいら達は給料だなんて体のいいこと言ってるけど、ただの子供のお使いに分不相応なお駄賃を貰ってるってだけなんだよ。だけど、おいら達は……トラッドさんにそれ以外に返す術を知らない。だからおいら達は与えられた仕事をやるだけ」
アンゼルモは目を伏せた。
「だから……そこまで世話になってて、それ以上に迷惑をかけることが本当にいいことなのか、わからなかった。ピオネのことだって、おいらが……おいらが一時の感情に流されなければ、ピオネを巻き込むことなんかなかったし、」
「あれっ、アンジー。わたしをこんな体にしておいて一時の感情だなんて言うの!? わたしとは遊びだったんだねっ、酷いっ」
ピオネが大げさに泣いたふりをする。アンゼルモが分かりやすく慌てた。
「ちがっ、違うよ!? おいらは別にそんなんじゃなくて、ああ、だから違うんだってばぁ……そういう意味じゃなくて、おいらは……」
「あはははっ、やーだ、わかってるってば」
ピオネは大きなおなかを揺らしてけらけらと笑った。
「だって、誘ったのはわたしだもん」
ピオネが艶めいた笑顔を浮かべながらあまりにもけろりと言うので、ヘロは咄嗟に赤面した。
「毎晩、凍えそうな寒さの中で気持ちよさそうに歌っている人を窓からずっと見ていたの。わたし、小さな弟たちの世話で遊べないし、つまらなかった。お母さんとお父さんは喧嘩ばっかりだし、ご近所さんとも揉め事ばっかり。わたしのこといい子ってばかり言って、自分たちの撒き散らかした種は全部わたしに後始末させるの。毎日わたしって孤独だなって思ってた。弟たちを寝かせた真っ暗な部屋で、急に恐ろしくなるの。わたしはいつか押しつぶされてしまうんじゃないかって。どうしようもなく一人だって思った。こんな風に子供を作るばかり作って、酒ばっかり飲んで、だめだって言ってるのに言うことを聞かない弟たちで、なんだかね、すごくつらかったの。でもアンジーの歌声が、みんなが寝た後独りきりになったわたしを独りにしないでくれたの。わたし、歌を聞いていたらそういう嫌な気持ちを忘れていられたの。そのうち、話したこともないのに段々かっこよく見えちゃって、すっごく気になって、お話したいなあと思ってわたしから話しかけたのよ」
「えっ」
アンゼルモが喉の奥から詰まったような声を零した。
「えっ、何、あれ偶然じゃなかったん?」
「あっはは! あんなの偶然な訳ないでしょ~。いつ話しかけるのが一番効果的かちゃーんと考えて話しかけたのよ」
「女って怖えな」
ヘロは肩をすくめた。ピオネはくすりと笑う。
「初めて話しかけた時、アンジーものすごく挙動不審になっちゃって、顔真っ赤だったの。でも段々話すようになってね、そしたらわたしにいいものみせてあげるって言って、路地裏の小さな菫を見せてくれたのよ。それで笑うのよ。もうなんだか、そんなちっぽけなことを幸せそうに笑うアンジー見てたらたまらなくなっちゃって」
ピオネはどこか悲しげに俯いて、笑った。
「この人にもっと幸せを教えてあげたいと思ったの。その時初めて、わたし、あんなにうっとおしかった弟たちも、お父さんやお母さんのことも、わたしはちゃんと愛してたんだなって気づいたの。だって家族なんてあんなに鬱陶しいって思ってたのに、家族の無いアンジーにも家族を作ってあげたいって思っちゃったんだもの。まあ、結果的にはね? うちの父親大激怒で、お母さんももう興奮しすぎて倒れるんじゃないかなってくらいに叫ぶし、そっかぁ、そんなに戸籍無しは嫌われるんだなあって思ったら腹立っちゃって。『戸籍無しの子供を身籠ったわたしがそんなに汚らわしいならどーうぞ縁を切ってください! わたしの戸籍をせいぜい高値で売って、弟たちにはまともな生活させてくださいね!』って怒鳴ってしまって。あの時の二人の顔、酷かったなあ……」
ピオネの口調は空元気のように明るかった。
「それで家を出たわけなんだけど、ちょっと具合悪くなった時があって、やっぱり不安だったから病院に行ったの。そしたら『あなたは戸籍がないのでお帰り下さい』って言われたの。ちょっとびっくりしちゃった。本当に売ったんだなあって思ったら、ちょっと悲しかったけど……そのあと三人の弟は少し上等の服を着せてもらえてるのを見たわ。戸籍って、一つ売るとかなりお金もらえるのよ。だから、死にかけてる人の戸籍を死ぬ前に売るのもよくある話で……この世界にはきっと、戸籍もなくしてお墓すら立ててもらえない人が山ほどいるんだわ。わたしもその人と同じになったってだけ。その人たちの痛みを、知ることができるようになったってだけなの。弟たちが笑ってたから、わたしちょっとほっとしたわ。少しはわたしに悪いと思ってくれたのかしらね」
ピオネはくすりと笑って、繋いだアンゼルモの手ごと腕を大きく振り上げた。
「えへへ。だから、わたしに戸籍がないのはアンジーのせいじゃないんだけどさあ、何回言ってもわかってくれないんだよー。ヘロからもなんか言ってあげてよ。意外と第三者から言われると聞いてくれるかも」
ヘロは眉尻を下げてはは、と笑った。
「戸籍を売るとか、剥奪とか、本当にあるなんて知らなかったんだ」
ヘロは俯く。
「じゃあ、お前のいた星は恵まれてたんだろうなー」
アンゼルモは空を見上げる。空は白い星屑をちらつかせていた。
「おいらのいた星も貧しかったし、この星だって大差ないんだよ。トラッドさんが頑張ってくれてるおかげで、少しずつ豊かになってるんだ。トラッドさんが惑星プルートに貢献をすればするほど、この星にお金が入る。この星は、もうトラッドさんがいないとやってけないよ。こんな風に明るい夜道もないし、食べ物だって輸入できない。おいらと多分そんなに歳変わらないはずなんだよなあ。多分聞いた感じじゃ八歳くらいしか違わないはずなのにさ、みんなあの人におんぶにだっこなんだもんな……まあ、つってもおいらは一度も会ったことないから、聞きかじりなんだけどな」
「そう言えば、」
ヘロはアンゼルモを見つめた。
「お前、何歳だよ」
「え? おいらね、
「はぁ!?」
「ちなみにわたしもだよ~。たまたまなんだけど」
ピオネが二つに結った細い髪を揺らして首をことりと傾ける。
「俺より年上かよ!」
ヘロは叫んだ。もっと幼いと思っていた。二人はきょとんとして――またそっくりな表情で――ヘロを見つめ返す。
「え、ヘロ何歳?」
「俺……
「え~、一歳しか違わないじゃんかあ……変わらんよ……」
「なんか、すごく落ち込む……」
「えっ、なんで」
ヘロは両手で顔を覆って深く溜息を吐いた。
「そんな歳でさ、一生のこと決めて、不安とか、ない?」
ヘロが零した言葉にピオネはことりと首を傾げた。アンゼルモは静かな眼差しでヘロを見つめている。
「それは、好きな女と家族を作るってこと?」
アンゼルモは笑う。
「世界で一番好きな人を、もう決めてしまうって話? だとしたらおいらは後悔も不安も何もないよ。まあ……おいらみたいな戸籍無しの嫁にさせてしまったことは……今でも後ろめたいってか、なんかこう、な」
「またそんなこと言ってる……」
ピオネは肩をすくめた。
「わたしも、後悔なんてないよ。だって、好きな人の子供だもん。アンジーが一生わたしを好きでいてくれるっていうならわたしはきっといつまでも幸せだよ。もちろん、子育てって大変だけどね、わたしよく知ってる……家族を持つって大変なことなんだよ」
ピオネはふふ、と笑った。
「だから、好きな人と一緒にいたいんだ。そうしたらわたし、たとえたくさんの後悔をいつか抱えたとしても、不幸だとは思わなくて済むもの」
「ヘロはそういうこと考えるやつがいるの?」
アンゼルモは首を傾げた。
ヘロはぼんやりとアンゼルモの黒い瞳を見つめて、ふと逸らした。
「わからない」
言葉が綿毛のように揺れて浮き上がる。
「でも、守りたいと思う人はいる」
「え~、それ、違うの? それなんじゃないの? おいらよく知らないけどさあ」
アンゼルモは眉根を寄せてヘロの肩を叩いた。
ヘロは首を傾けて、雪の積もりゆく石畳をぼんやりと眺めていた。
「でも……」
ぽつり、とヘロは声を零した。
「守りたい、っていうのは俺の理想なのかもしれないって思うんだ」
「どういうこと?」
アンゼルモはヘロの顔を覗き込む。
「最初は俺が守ってるつもりだったんだ。手を引いて、逃げ出したつもりだった。だけど、最近ふと思うんだ。俺はあいつを守りたいんじゃなくて、ついて行きたいのかもしれないって。あいつが見てる、違う世界を俺も一緒について行って見たいんじゃないかって。だから俺があいつを連れ出したわけじゃなくて、あいつが俺の手を引いてくれたってことなんじゃないかと最近は思うんだ。なんか……女々しいかもしれねえけど」
「なんだあ」
アンゼルモはふわりと笑った。
「それ、おいらとおんなじだな!」
「え?」
ピオネとヘロは同時にアンゼルモを見つめる。
「おいらもさ、いっつもピオネに手を引いてもらってばっかだもん。ほんとは守れるような男になりたいんだけどな、まだよくわかんないんだ」
恥ずかしそうにアンゼルモは頬を掻く。ピオネはくすりと笑った。
「わたしの産んだ子を守ってくれるならちゃらにしてあげるよ」
歌うようにそう言って、アンゼルモと笑い合う。
ヘロはほんの少しだけ歩みを遅らせて、そっと二人の背中を見つめた。手を繋いで笑う二人は、暮れなずむ藤色の空と石畳の境界線の上に並んでいるように見えた。対等、だということだとヘロは思った。自分はどうだろう。
――わたしのことなんか、見てくれなくていいの。
見ないで、と言われている気がした。そしてそれは、決して自分の被害妄想ではないと言うぼんやりとした予感があった。ジゼル自身がそれを自覚しているとは思えなかったけれど。
「ねえ」
不意に立ち止まったヘロを、アンゼルモとピオネは不思議そうに振り返る。
「ここまで来ておいて、あれなんだけど、」
ヘロは睫毛を震わせ目を伏せると、小さく息を吸ってもう一度顔をあげた。
「アンゼルモの、そのとっておきの場所ってやつ、見せてよ。もし……二人が嫌じゃなかったら」
アンゼルモは目をぱちくりとさせていたが、ピオネを見て「いい?」と小さく尋ねた。ピオネは「もちろん」と柔らかく笑って頷く。
「やだ、ヘロって菫がそんなに好きなの?」
「え?」
ピオネが口に手を当てて笑うのをぼんやりと眺めて、ヘロはぽつりと零した。
「え、どうして……」
「え? だってヘロ、今すごく嬉しそうに笑ったよ?」
アンゼルモは静かな表情でヘロを見つめていた。戸惑うように揺れるヘロの瞳を追いかけてアンゼルモの黒い瞳も揺らめく。やがてアンゼルモはふっと柔らかく笑った。
「お前、普段からそんな顔してればいいのに。してなさそ」
アンゼルモはそう言ってヘロの肩を軽く叩いた。
ヘロは呆然と立ち尽くして、我に返ると二人の背を追いかけた。
*
灰色の石畳は積年の雨粒を染め込んだように白い斑点を滲ませていた。ふわふわと降る淡雪をすり抜けるようにして、三人は細い路地裏を進んだ。途中口笛を吹きながら落ちた棒の切れ端でくるくると蜘蛛の巣を絡め取るアンゼルモを、ヘロは不思議な心地で見つめていた。音楽の申し子と言うものが存在するなら、きっとそれはアンゼルモなのだと思った。彼が息を吐くと音が鳴る。彼が笑うと歌になる。静かで鮮やかな音色がまるで空気のようにアンゼルモの体を纏っている。
「ここだよ。ほら、上見てご覧」
アンゼルモが蜘蛛の糸玉に包まれた棒の先で頭上を指さす。
光の筋がまるで斜めにかけられた梯子のように降り注いでいる。
「あそこにさ、あの窓、もう誰も住んでない部屋だから
ヘロは光の筋に照らされ鈍く浮き上がって見える石の床を見つめた。敷き詰められた石と石の白い隙間に、小さな菫が密やかに咲いている。露を湛えて、俯いている。
「わたし、菫なんて本でしか読んだことなかったの。なのにこの星にも咲いてるんだなって、不思議で、アンゼルモに見せてもらった時は嬉しかったなあ」
「おいらも、まあ、故郷では見たことなかったんだけどさ」
アンゼルモは頬を掻いた。
「菫なんて、俺の故郷ではありふれた雑草だったんだけどな」
ヘロはくすりと笑って、膝を折った。菫の花弁を指でそっと弾くと、雫が小さな粒になってヘロの爪に控えめに飛び移った。
「そうなのか? へえ、やっぱ星によって違うんだなあ」
アンゼルモは感心したように呟く。
「多分、よその星からの来訪者の服かなんかに種がついていたんだろうな。それで、こんなところに落ちて、たまたま咲いたんだ。そう考えるとさ、ちょっとした奇跡なんだけど」
アンゼルモはそう言って、ヘロの隣に腰を下ろした。ヘロはアンゼルモと
「この花、俯いて見えるだろ」
ヘロがそう言うと、ピオネがくすりと笑う。
「そうね、俯いている感じが、可憐だよね。こんな寒い星で、一生懸命に咲いてる気がする」
「でも、雑草なんだぜ」
ヘロが笑うと、ピオネはむう、と頬を膨らませた。
「女の子の夢を壊すようなこと言わないの!」
「そんなんじゃもてないぞ~」
アンゼルモも口を尖らせる。ヘロは、はは、と乾いた笑みを漏らした。
「ピオネって、むくれた顔も可愛いんだな」
「えっ?」
ピオネがさっと両頬に手を当てる。
「ちょっとお~……おいらの彼女を口説かないでくれます~」
アンゼルモがとってつけたような口調で大口を開ける。
「いや、なんていうか」
ヘロは目を伏せた。
ジャクリーヌの拗ねた顔はとても可愛いと思っていた。けれど思い出されるのはむしろ陽だまりのような笑顔だ。
「さっき言った人、俺、笑った顔よりしかめた顔ばっか印象に残ってる気がする」
「何それ。女の子怒らせてばっかなわけ? ヘロ、だめじゃん」
アンゼルモはからからと笑った。ヘロもつられて笑う。
「菫って、ただの雑草だって思ってたからさ、いまいちいいと思ってなかったんだ。女って菫を可愛いとか言うだろ? それがよくわからなかった。でも……」
ヘロは菫の花を覗き込むように首を傾けた。
「雑草でこれだけ綺麗に見えるなら、そりゃ可愛いよな」
「もう……だから雑草、雑草って……」
ピオネが小さく溜息をついた。ヘロは笑った。
「変なの」
ヘロはくすくすと笑う。
「
「そりゃよかった」
アンゼルモはにやりと笑った。
「一応、この花もこの場所も、おいらにとっちゃ思い入れがあるんでね」
三人はくすくすと笑って手を取った。
「さあ、帰ろう」
*
ヘロが扉をそっと開けると、暖炉の前に座っていたゴーシェがふわりと首を傾げてこちらを見た。
「ええと……」
「ヘロだよ。ただいま」
「ああ、本当だ」
ゴーシェはふっと笑う。
「お前の眼を見れば大体お前のこともわかるな。瞳の色が他に無い色をしているから」
「そんなに?」
ヘロは複雑な気持ちで眉をひそめる。
「顔として認識はできないんだけど……」
ゴーシェは首を傾けてヘロを眺める。
「目、とか、鼻、とか、部分部分の認識はできるみたいだ。だから、お前のことは目を見るか、声を聞けばいいんだな。あとは、髪の色か……この髪の色はヘロだな、って判断すればいいんだ」
どこか一人納得したようにゴーシェは頷く。
「そんなので判断って……じゃあノイデとヘイニはあんま見分けつかねえだろ」
「そう、だな……」
ゴーシェは考え込むように唇を指でなぞっていた。
「ノイデはいいんだ。目を見ればわかる。ノイデとは一瞬わからないけれど、ヘルメスの生まれ変わりだとわかるんだ。今になってターシャの言っていたことがわかるよ。自分に英雄の記憶がはっきりと残っていたら、相手に記憶があろうがなかろうが関係なしにそれが同じ英雄の生まれ変わりかどうかはわかると言っていたんだ。俺はお前達に出会った頃、まだはっきりと思い出せていなかったから……よくわからなかった。けれど、今は確かにはっきりと思い出しているんだろうな。ノイデを初めて見た瞬間、酷く懐かしくて、心が苛まれた。ああ、サタンだ、と思った」
ゴーシェはそう言ってヘロを見上げた。
「だけど、ヘイニのことが……なかなか覚えられない。声は覚えたんだけどな。どうも似たような人間がこの星には多すぎて……特徴が無いように見えてしまって」
「ああ……一般的な髪と目の色って言ってたもんな、ヘイニ」
ヘロは嘆息した。ゴーシェは彼女に申し訳ないと思っているのだろうか、どこか暗い表情をしていた。
「じゃあ、ジゼルは見たら女神ってわかるのか? てかジゼルはどこだ?」
ヘロがきょろきょろと辺りを見回すと、ゴーシェは首を振って立ち上がった。
「ジゼルは……女神だとわかるんだけど……何かが違うんだ。ノイデやターシャを見た時の印象とは全く違う。ノイデのことは目を見た瞬間にサタンだと気づかされる。だけどジゼルは……あの紫色を見つめているうちに、じわりとその色が脳に染みこむような感覚で、ああ、アルテミスだとわかるんだ」
ヘロは眉をひそめた。
「ねえ、その……アルテミス、って――」
「ああ、お前は知らない、よな。アルテミスは女神の名前だ。ガイアがつけてやったんだよ。俺達と同じように呼び合える新しい人の名前を。それで……人を待たせているみたいだけど――?」
ゴーシェの言葉にはっとして、ヘロは慌てて玄関の方で居心地が悪そうにもじもじと立ち尽くしている二人に駆け寄った。
「ごめん! つい話し込んじゃって……おじさんいないみたいなんだよな。とりあえず探してくるから中入っときなよ」
「だ、れ」
震える声がヘロの背中を撫でる。ヘロは眉をひそめて振り返った。アンゼルモとピオネも不思議そうに首を傾げる。
「こんにちは。わたしはピオネで、こっちがアンゼルモね。お医者様の診察を受けたくて、こんな時間になってしまったけれど、お邪魔させていただきます」
ピオネが溌剌と名乗って頭を下げる。けれどヘロは、ゴーシェの蒼白な顔から目を逸らすことができなかった。アンゼルモはどこか遠慮するように黙り込んだまま、不思議そうにヘロとゴーシェを交互に眺めている。
「ゴーシェ?」
「いや、なんでもない……」
ヘロが呼びかけると、ゴーシェはへら、と笑って目を逸らした。
アンゼルモがピオネの手を引いて扉を閉める。ゴーシェは床を見つめたままだった。
「やっぱ……おいらがここにいるといやかなあ、あの人」
アンゼルモは小さな声でヘロに囁いた。その声は少しだけ震えていた。ヘロは柔らかく笑って、頭を振った。
「まさか。でも、ゴーシェはちょっと病気で……あまり人の顔を覚えられないんだ。だから――」
「いや、わかる」
どこか思い詰めたような声で、ゴーシェは言った。
ゴーシェは迷いなくピオネの手を引いて、暖炉の前にそっと座らせた。
「ダルディアが来るまでここにいるといい。体を冷やしたらよくないと思うから」
「ありがとう」
ピオネはふわりと笑う。ヘロはそれを呆然として見つめていた。ゴーシェの仕草は迷いがどこにもなくて、まるで――まるで、マルスの星にいた時のゴーシェにまた会えたのかもしれない、だなんて、そんなことを思ったら、また涙腺がおかしくなってしまった。
「へ、ヘロ!? なんでお前泣いてんの?」
アンゼルモが慌てたように言って、ヘロの背中をそっと撫でる。
「いや……」
ヘロは首を振る。
「なんでも、ないんだ。それにしても、ゴーシェ。どうしたんだよ。なんか、すげえな。やっぱあれかな? こいつ目が黒だからわかりやすい? 区別しやすい、とかさ」
へへ、と涙を拭ってヘロが笑うと、ゴーシェは思い詰めたように頭を振るだけだった。
「いや……そうじゃない……」
ヘロは首を傾げる。
「そうじゃ、ない……」
ゴーシェは俯いたまま唇を噛みしめた。
「ダルディアさんならそこの看護室だ。ジゼルを診てる。ジゼルが……お前が出て行ったあと、突然眩暈を起こして倒れたんだ」
ヘロは考えるよりも先に駆けて扉を勢いよく開けていた。扉の隙間から光の注いだ部屋で、ジゼルがふわりと髪をたゆませ眠っている。ヘイニが目を見開いてヘロを見つめ返した。ダルディアは目を柔らかく細めた。
「大丈夫だよ。恐らくは、何か精神的なものだろう……体には異常はないようだよ。安心おし」
「なんでっ……」
ヘロは歯を食いしばって、目を伏せた。指先がかたかたと微かに震えていた。今になって初めて、ヘロは自分の心臓が激しく鼓動していることを自覚した。
「なんで、いつも俺がいない時ばっか、倒れたり怪我したりするんだよ……なんなんだよ!」
「そう思うなら、常に傍に居てやればいいだろう。何のための勇者だ。何のために連れて逃げた」
壁に寄りかかっていたノイデが、吐き捨てるように呟いた。ヘロはノイデに睨むような眼差しを送る。けれどノイデは深く息を吐いただけだった。
「名前を呼んでいた」
「え?」
「お前の名前を譫言のように繰り返していた。……傍に、居てやれ」
ノイデが顎でヘイニに合図する。ヘイニは頷いて立ち上がると、ヘロの肩にそっと触れて、微笑んだ。
「おじさん、患者が来てる。【黒馬の民】のアンゼルモの、嫁さんが臨月っぽいんだってさ。それで、おじさんに診て欲しいって。俺の友達だから……頼むよ」
「おお、やっと来たかね」
ダルディアは柔らかく笑った。
「心配いらないよ。お前さんはジゼルについていておやり」
ヘロは頷いて、ジゼルの横たわる寝台にそっと腰かけた。扉が静かに閉められる。
額を撫でてやる。冷たい額にかかる前髪が柔らかくて、ヘロは手慰むように何度もそれを指先で撫でた。自分のそれとは違って、傷一つない額。傷一つない、頬。それらをそっと撫でて、ヘロはふと、この身体を絶対に傷つけたくないと思っていた。傷だらけなのはもう自分だけで沢山だ。ジゼルの睫毛が震えて、微かに瞼が開いたような気がしたけれど、すぐにジゼルは柔らかな吐息を吐いて深い眠りに落ちていった。
ヘロはジゼルの右手をとって、指を絡めた。この指先が血を滲ませていた時は、どうしようもなく悲しかった。自分の傷で、自分の血で、あんな怪物を生み出したのかと、そうしてマルスの星を守ろうとしたのかと思うと、間に合わなかった自分に無性に腹が立った。助けを求めてくれなかったジゼルにも腹が立った。それは理不尽な苛立ちだった。だって、どんなに助けてと叫んだところであの距離では到底ジゼルの声など自分には届かなかったはずなのだから。それなのに腹が立ったのは、きっとジゼルは最初から自分に助けを求めなかったのだろうと直感でわかってしまったから。
だから、譫言だろうと、ただの名前だろうと、自分のそれを呼んでくれていたのだと聞いて、胸が締め付けられた。この気持ちをなんというのか知らない。嬉しい? そうだ、きっと俺は嬉しかったんだ。名前を呼んでくれていたと言うことが、名前を呼ばれたことが。それなのに、ただ恥ずかしかったと言うだけで彼女を置き去りにした自分に無性に苛ついた。綺麗だったと、好きだと言ってくれたのに。
そう考えて、ヘロの頬にぼっと熱が点った。
ヘロは震える手を寄せて、絡めたジゼルの手に自分の額を合わせた。
「もう……なんなんだよ……不用意に好きとか言ってんじゃねえぞ。大体、素直過ぎんだよ、あんたは。もう少し狡くったっていいんだぞ。それくらいで……俺は逃げたりしねえよ」
ヘロは深く息を吐いた。
ごん、ごん、と、乱雑に扉を叩かれる。ヘロは眉をひそめて立ち上がると、扉を開けた。
思わず、息を飲んだ。
ノイデが、酷く荒んだ眼差しで目を伏せている。白金のような睫毛が心許なく震えていて、ヘロはその奥に覗く薄荷色の瞳が酷く揺れているのを認めた。
「お前、」
「うん」
「明日にでも、アフロディテに行け」
「え?」
ヘロは事態が飲みこめなくて戸惑いを零した。けれどノイデは吐き捨てるように続けた。
「本来、お前達二人は僕の監視下に置いているという条件の下で、迷宮などという狂った監獄ではなくこの家で安らかに過ごせているわけだ。だが僕はお前達について行くことはできない。その代り、僕が雇った監視者をつけることでお前達の外出を……蛇の道を渡る許可を出す。アンゼルモに従って、お前達はアフロディテへ行け。これは命令だ。わかったな」
「ノイデ、どうしたんだよ。何が……」
「返事は!」
ノイデが荒く叫ぶ。ヘロはその苦しみを湛えた眼差しに、何も言う事が出来なかった。ノイデは自嘲するような笑みを浮かべてヘロを見下ろす。
「聞けばあのアンゼルモとやらは、金も払えないのにおじさんにかかるということを長く躊躇っていたそうだな? それでお前を口実にようやくここに来たんだろう? さっきも言ったよ。いつか必ず返すから、無償ではなく金を払わせてくれ、ってな。だから僕がお前達の監視者として雇うことにした。【黒馬の民】が捨てた故郷アフロディテにお前達を案内し、またここへ連れ戻すこと。それがあいつの仕事だ。あいつのためと思うなら、大人しく言うことを聞けよ」
ヘロはノイデを見つめたまま、錆びた
ふらりと扉の外へと姿を見せたヘロを見つけて、アンゼルモが蒼白な顔でヘロにふらふらと寄りかかった。
「な、なあ……ヘロ……おいら、おいら、やっぱり……やっぱりトラッドさんを怒らせたのかな……あんなにお世話になってるのに、おいら……」
「大丈夫。お前を雇ってくれたんだろ。別に給料を出してくれるってことだよ。あんたが気兼ねなくピオネを医者にかからせることができるようにっていうノイデの、ノイデなりの気遣いだ。だからノイデは怒ってない。多分……何か、哀しんでた」
「哀しんで……?」
アンゼルモが戸惑うように黒い瞳を揺らす。
「俺は行けないから、しばらくお別れだな、ヘロ」
ゴーシェが儚く笑う。
「無事に帰ってこいよ」
「普通は無事だろ」
ヘロが肩をすくめると、ゴーシェは首を縦に振った。
「いや、お前達が世界に盾突いた巡礼者である限り、いくらノイデの名の下監視者がつくと言っても、お前達が大罪人として世界に白い目で見られることに変わりはないはずだ。だから――」
ゴーシェはふう、と息を吐いた。アンゼルモがピオネの傍に駆け寄って、ピオネと額を合わせ震えているのを見つめながら、ゴーシェは囁くような声で――ヘロにしか聞こえない声で、呟いた。
「アフロディテだ」
「え?」
ヘロはゴーシェの横顔を見つめる。ゴーシェは顎をくい、とあげて、アンゼルモを示した。
「記憶はないみたいだけど……」
ゴーシェは深く息を吸って、息ごと吐き出すように、どこか儚むように言った。
「あいつが、英雄アフロディテだ」
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