Episodi 32 赤と黒

 空が茜と橙を滲ませ、鳥の影を色鮮やかに彫り出している。

 その眩い夕陽に目を細めながら、ヘロは空気を入れ替えるために開け放した扉の縁に背を預けて風の音を聞いていた。

 ちら、と家の中に視線を寄越すと、ゴーシェがヘイニに服を着せてもらっているのが見えた。そんな簡単なことすらできなくなっているのに、本心から哀しいとも苦しいとも思っていないように見える、そんな柔らかな彼の笑顔がヘロの胸を締め付ける。ヘイニもまた、あんなに陽だまりのように笑う人が、今はぎゅっと口を引き結んで、どこか震える指でゴーシェの身なりを整えていた。ノイデがゴーシェに何かを話しているけれど、ヘロの耳には届かなかった。ちらりと視線を逸らすと、ジゼルと目が合う。ジゼルはヘロの瞳を静かな眼差しで見つめ返した。強い子だな、とヘロは思った。

 ジゼルはぼろぼろといつも突然に涙を零すけれど、泣いた後は決してその顔に悲しみの色を滲ませない。今もジゼルは傍へ寄ってきたイルダと何かを話しているようだった。ふわりと花が香る様に笑う。ゴーシェがその笑い声に不思議そうに首を傾げ、ジゼルが何事かをゴーシェに耳打ちするとゴーシェもくすくすと笑った。恐らく聞こえていたのであろうノイデもまた、咄嗟に口元を掌で押さえて顔を逸らす。何を話していたのか気になるけれど、聞きたくないと言う気怠い疲労のような感情がヘロの体に染み渡る。

「俺、」

 ヘロがぽつりと呟くと、メルディがふわりと寄り添ってヘロの右肩に落ちた。夕陽に照らされてきらりと宝石のように輝く。

『うむ』

「ごめん、なんか変なこと言うけど……あなたにだから言うんだけど……俺、ここに、必要なのかなって、つい」

『どうしてそんなことを思う?』

「うーん……」

 ヘロは目を伏せた。

「俺だけでも味方になりたいと思ってたのに、この家は、この家族はジゼルが女神であることも、俺達が逃げ出した巡礼者であることも受け入れてまるで家族の一員みたいに包み込んでくれる」

『ノイデがいるから、な』

 メルディは柔らかい声で言った。ヘロもまた小さく頷く。

「この星はすげえ寒いけど、この家はすごく温かいよ。で、俺はそうなると思っちゃうわけだよ。俺ってどうも、ジゼルの唯一の味方になることに酔ってんじゃねえのかなって。ジゼルの味方が増えるとなんかこう、面白くない自分がいてさ」

『そうだろうな。そなたはそういう人間だからの』

 メルディはからからと鈴が転がる様に笑った。

『しかしそれが一概に悪いとも言えまい?』

「そう、だといいけど」

 ヘロは一瞬の煌きと消失を目指すかのように眩さを増す夕焼けの空を見上げた。

「俺、ジゼルといると自分がものすごく劣等感の塊って言うか、すっげえ根暗だったんだなって思い知らされる気がする。なんでなのかはわからないんだけど……」

『無論、言うまでもなくそなたは根暗と言うやつだよ。だからこそトゥーレのような者と気が置けない仲だったのだ』

「トゥーレか……あいつすっげえ怒ってるかなあ」

『さあ。いつか本人と会って酒でも飲み交わせばよい』

「酒ねえ……」

 ヘロはふわふわと再び空に漂い始めたメルディをそっと網で捉えるように捕まえて、水晶玉を翳すようにメルディを今にも薄れゆく白い光に翳した。幼い頃から、こうしてメルディの水色で夕焼けを透かして眺めるのが好きだった。空は残酷なほどに自分勝手に色を変えていってしまうけれど、こうすれば自分の見たい色を切り取ることができる。見たい景色を一息つくだけの時間、目に留めておくことができる。

 ヘロはふと視界の水色に違和感を感じて目を細めた。

「あれ? メルディ、お前こんなごみ入ってたっけ?」

『ごみとは失礼な話だが……どうかしたのか』

「ほら……この、縁のところ。今までなんで気づかなかったんだろう、なんかこう、毛っぽいのが入ってる」

『まあ……』

 メルディは歯切れの悪い声を零した。

「それに……なんか透明感が増してないか? ちょっと前はもっと濁ってたような気がするんだ。うまく言えないけど、粥汁みたいな感じで」

『……おそらくそれは……そなたが【勇者】に選ばれた代償、とでもいうべきか』

「代償?」

 不穏な言葉にヘロは眉根を寄せる。

『そなたが勇者に選ばれたと言うことは、八種の神器が我を通して記憶と心を共有すると言うことだ。巡礼者とは本来、神器が各々の願いを成就すべく、救いを求めて選ぶ人間だ。我は神器のためにそなたが見ている景色を曇りのないまなこで見つめ、神器に伝えなければならない。シクルとはそう言うものだ。我らシクルは、自我を持つ代わりにこの束縛を受け入れた。だからこそ我らシクルは英雄たちの真実を朧げながらも知っている……我らは英雄をその眼で見つめてきた神器と記憶を共有しているのだ。そして今度は、我が新たな記憶を神器に注ぐ番だ。澄んだ水を瓶に注ぐための如雨露が汚れていては話になるまい? 故に我は【勇者のシクル】としてそなたが契約を果たしたと同時に濁りを浄化されたのだよ。まあ、このように光に翳さねば――翳しても滅多にはわからないほどの差なのだがな』

「ああ、だからメルディは英雄たちのことをよく知っているんだな」

『うむ。しかし……それだけでは、ない、のだ』

 メルディはどこか躊躇うように声を泳がせた。ヘロの手からするりと逃げるように離れてふわりと空を舞う。

「どういうことだよ?」

 ヘロは首を傾げた。メルディが思い詰めたように溜息のような音を零したのが微かに聞こえる。

『そなたの見つけた……塵だったか。これは塵ではないが……この絵筆の毛が……より厳密に言うなればこれは玻璃の線維なのだが……これが我らの記憶、我らシクルの意志の核となっているのだ……そなた、サタンの記憶を垣間見たであろう?』

「ああ」

 ヘロはこくりと頷く。

「サタンは自ら命を絶つまでのその生涯において、我らシクルという宝石を造り続けた。しかしこの世界でそなたら人間がシクルとして認識をしているものは、サタンの作った【玻璃の宝石】の極一部でしかないのだ。あれらの大多数が、意志を持たぬただのがらくたよ。そうだの、この星の街灯に使われている命なき宝石と大差はない。あれらは記憶を持っており、生きてはいるが、意思は持たない。女神のいない世界で意思など持てるはずもないのだ。玻璃はそもそもが女神の命で成り立っていたのだから。ならばなぜ神器が意思と命を保ち得るか? それはあれらの神器が玻璃の髄を有していながら、英雄等の魂の一部とあいなっているからだ。あれらは英雄の失った体の一部と同等――だからこそ、英雄の魂がこの世界を彷徨う限りあれらは意思を持ち、記憶を積み重ねることができる。これが、どういう意味か分かるか? ヘロ」

 メルディは言葉を切った。ヘロは眉根を寄せて視線を泳がせた。

「シクルも……英雄の魂の一部、ってこと? つまり英雄の誰かの魂と結び付けられてるのか? サタンじゃ……ないってことだよな、サタンだったら他のシクル……ただの玻璃の宝石も、意思を持ってなきゃおかしいだろ」

『そなたは勘がよくて話が早い』

 メルディは笑った。

『ほぼ正解、という感じか。そうだ、我らはサタンではなく他の英雄の魂の一部を与えられているのだ……厳密には、他の英雄の、神器の一部を受け継いでいる』

 逃げるように、どこか躊躇うように空を泳ぐメルディをヘロはもう一度そっと捕まえて、藤色に染まり行く空に翳した。

 それは、何度見ても毛のような一筋の青だった。まるで狐の毛のような。心当たりがあるのは二つだけだ。

「どっち……だ?」

『ほう、早速二つに絞ったか』

 メルディは力なく笑う。

「どっちもあり得るから、困るんだ……でも」

 ヘロは小さく息を吸った。

「多分、ガイアの筆、かな」

『ほう。何故そう思う』

「メルディはアポロのことを出会い頭から酷く嫌っていただろ。アポロの意志が及んでいるなら、あんなに嫌うのはおかしいし、それにアポロはあなたがアポロに気付いていたことに少し驚いていたように思うから」

『そうか』

 メルディはくつくつと笑った。

『いかにも、そうだ。我らはの、ガイアによって……あの小賢しいガイアによって、サタンの作る宝石の中にそっと零し落とされた筆の毛そのものだ。故に我らはガイアの筆と心を一にしている。しかし無論、それぞれに個性は持っているぞ? 言うなれば我らにとってガイアの筆とはそなたら人間にとっての遺伝情報と近しい』

「いでん情報?」

 ヘロは眉根を寄せた。

『おっと……そうか、そなたらは知らないのだったな……しかしどう教えたものか……我はその裁量を持ち合わせていない」

「シクルは、ただ玻璃を削ったんじゃなかったの?」

 ヘロは素朴な疑問を口にした。

『否。一度溶かし液状にした上で純度の高い結晶として浮き上がらせた塊をさらに煌めくよう端正に削ったものが我らシクル、玻璃の宝石だ。液状になった玻璃に、ガイアが筆の毛をいくつか抜き取ってばら撒いたのだ』

「どうして、そんなことをする必要があったんだよ」

『さあ、な』

 メルディは暗い声を零した。

『我にはわからない。わかりようがないのだ。ただ一つ言えることは、の。ヘロ。そなたは、プルートの鏡だけではなく、ガイアの筆にも選ばれている』

 ヘロは言葉を失った。血が体中を駆け巡るような心地がした。頭がずきずきと鈍い熱を滲ませる。

「ど、いうこと」

『ゴーシェを見ていて思ったのだ』

 メルディは哀しげに呟いた。

『あれがあれだけの凄惨な目に合うのを見ていながら、イルダはあれに我のように言葉をかけてやらなんだ。見てご覧。未だジゼルを介して意思を伝えるなどと言う卑怯極まりない真似をしている。だが……あれを卑怯だと思った我は、恐らくはシクルの中で唯一異端であろうな』

 メルディはくるくると螺旋を描くように舞って、ヘロの掌に落ちた。

『そなたに会う前の我もまたイルダと同じであったはずだ。しかし我はあの頃の我を思い出すことが叶わなんだ。我はそなたに出会って、ようやく心を手に入れた。我は、我だけがシクルで選ばれた。我がガイアの筆に選ばれ、我はそなたを選んだのだ。そうでなければ、シクルがどうしてそなたと心を交わそうなどと思うであろう。そなたは故に、この世界で異端なのだ。二つの神器から選ばれた子供だ。あとはアフロディテの竪琴であったか? ノイデが言っていたな。そなたならあれをも手に入れることは可能なのではないかと。あるいはその通りかもしれない』

「やめろよ」

 ヘロは睨むように目を伏せた。

「そういうのは……いいよ。いらない、よ」

『何故だ。そなたは歌いたかったのではないのか。世界に後ろめたさを抱かないでも歌える自由への権利を得たかったのではないのか』

「そう、だけど……そうだけどっ」

 ヘロは唇を噛んだ。

「なんで、メルディがそんな声を出すんだよ……!」

『我が感情的な音を零しているならば、それはそなたの心に共鳴しているからだよ』

 メルディは柔らかく笑った。

『そなたが辛い思いをするのも、この世界にありながら異端であるのも、ジゼルの味方になろうなどととち狂ったことを思いついたのも、我がそなたを選んでしまったからに他ならない。いつかそなたは我に選んでくれなければと泣いたな。あれは、まさに、その通りだったと、我は気づいたのだ』

「やめろって……」

 ヘロは血が滲むほど唇を噛んだ。堪えなれば、馬鹿になりつつある涙腺がまた雫を零してしまいそうだった。

「あれは……あんなこと言ってしまったのは……俺の一生の恥だよ」

『だがしかし、ヘロ。我は確かにそなたにとって疫病神であった。だが我は救われているのだよ。そなたはジャクリーヌとの幸せではなく、ジゼルとの真実を選んだ。あの時、我は我もまたそなたに選んでもらえた心地がしたのだ。実に奇妙な話だの。そなたが、我のせいで踏み込まざるを得なかった世界の裏側への旅を選んだことで、許された心地がしたのだ。そなたはそなたの幸福に、我らの【荒野】を選んでくれたのだと』

 ヘロははっと顔を上げた。荒野――心臓が血を滲ませるほどの激しさで鼓動を打つ。それは、確かに最初の宇宙飛行でヘロの心の水面に落とされた絵の具の一滴だった。英雄ガイアの、心の琴線だったのだ。それを自覚した途端、ヘロの視界は世界のあらゆる色の絵の具が無秩序にぼたぼたと落とされたように濁り出したのだった。あの時は――それが英雄ガイアの記憶の欠片だと意識ができなかったのに。ガイアのがヘロの心臓を赤黒く染め上げていく。ヘロを見下ろしていた鮮やかな空の色がどんどん滲んで混ざって、墨のような黒に変わっていく。ヘロは初めて夜の闇を恐ろしいと思った。これはなんだろう――怒り? 何に対する、怒りや、哀しみなんだろう。

 ヘロの視界の奥でちらついていた唯一の色――メルディの水色は鮮やかに光ってやがて一人の女性の姿になった。玻璃と同じ色の美しい透き通るような水色の長い三つ編みが宇宙の最中のような暗闇で淡く眩めいている。その瞳の色は――菫の花によく似た儚い紫だった……髪の眩さに照らされて、青にも緑にも輝いて見せる、不思議なそらの色――。


「ジ、ゼル……?」


 ヘロは息を零して、彼女に手を伸ばした。顔立ちも瞳の色も同じなのに、どうしてこんなにも違って見えるのだろう。目の前にいる女性は、無邪気に笑っていた。彼女はヘロの横をすり抜けて、どこかへ駆けだした。振り返ると、その先にいたのは鮮やかな檸檬色の髪を湛えた背の高い男――。まるでジゼルのような、色の――。


「なんだよ、それ」


 ヘロは震える唇で呟いた。これは誰の記憶だ? こんな記憶知らない。俺の記憶じゃない。メルディだって、ターシャだって言っていたじゃないか、俺は、英雄の生まれ変わりじゃ、ない……。


 檸檬色の肩にかかる長さの髪を後ろで一つに縛った青年は、水色の髪の女性が追いかけてくるのを心底鬱陶しいと言った緑の眼差しで一瞥した。けれど彼女は追いかけた。彼女に伸ばしたヘロの手が、虚しく震える。そうしてふと、ヘロはその指先の爪が黒く染められていることに気付いた。俺はこんな色好きじゃない。こんなことは、しない……。


 ふと、右腕に重みを感じた。


 砂色の髪と、色違いの藍と緑の瞳を持つ少女がヘロにしなだれかかっていた。それはもっと淑やかで優しそうな笑顔だったけれど、ヘロは思わず振り払っていた。

「タ、ターシャ」

 少女は不思議そうに首を傾げた。随分と印象が違うけれど、顔立ちすら違うけれど、この瞳は……。


 気が付くと、ヘロの目の前にメルディが戻ってきていた。メルディが何かを叫んでいる。けれどその言葉が理解できない。聞き覚えのある発音なのに、まったく意味をなさない声が聞こえてヘロの耳を素通りしていく。

 その水色に映る自分を見て、ヘロはぎょっとした。


 黒い髪に黒い眼。目の下は落ち窪んだように深い隈が刻まれていた。青白い顔が、荒んだ眼差しで鏡の奥の自分を見上げている。


「あれが、君に耐えられる?」


 擦れた声が、揶揄するようにヘロの耳元で囁いた。

 ばっと振り返ると、同じ顔の――黒髪の少年が、悲しげな眼差しをヘロに向けて笑っていた。


「だ、れ……」


「さあ、誰だろう」


 少年は笑った。


「ここはどこだよ?」


「落ち着いてよ」


 ヘロの激昂を、少年は柳の様に受け流して笑う。


「ここは、世界の裏側だよ」


 少年は内緒だよ、とでも言うように血色の悪い青紫の唇にそっと人差し指を当てて首を傾けた。


「な、んで……」


「ああ、大丈夫だよ。表の世界の君の時間はちゃんと進んでる。ここでの時間なんて、白昼夢みたいなものさ。あちらでの一時いっときが、今ここで流れているだけ。いつかは来るだろうと思ったけど、まさかこんなに早くこちらへ来るとは思わなかったな。変な子供」


 少年は笑った。


 ヘロは緩慢に振り返って、震える手をメルディに伸ばした。けれど、届かない。メルディの水色を、黒い爪を持つ自分の手はすり抜けて落ちてしまう。


「彼女の言葉、今は分からないだろう? それもそのはずだよ。だってそのシクルが話しているのはウラノスとヘルメスが作った新しい言語だもの。僕ねえ、本の内容を覚えるのは大好きだったんだけどさ、言語単独を覚えるのは本当に苦手でさ。うまく使いこなせなかったんだよね。だから、僕の体を象っている今の君に彼女の言葉は聞こえないんだよ。ごめんね」


 彼はそう言って笑った。ヘロは震える声でその名前を呼ぼうとした。けれど、喉が締め付けられるような痛みを覚えて、声にならない。少年はまた内緒事のように唇に指を当てて笑うだけだった。


「腹立たない?」


 少年は穏やかな声で言った。


「なに、がだよ」


「アルテミスだよ」


 少年は哀しげに笑った。


「君の知ってるあの子の髪の毛や瞳の色はね、ウラノスの真似っこなんだよ。女ってよくわからないね。好きなやつと同じものになりたいと思うんだってさ。だからあの子はあの姿を持って生まれてきたんだ。妬けるよね。僕だって好きで黒髪な訳じゃないんだ。その点、君はいいよ。今のところ、あの子は君のその色が好きだろう?」


 少年はヘロの髪をふわりと手に取って、ぶちりと千切った。


「いたっ」


 ヘロは額を押さえる。はらりと零れたその髪は、ヘロの撫子色の髪だった。指先を見つめると、肌色に戻っている。


「いいなあ」


 千切ったヘロの髪を見つめながら、少年は呟いた。


「で、あの子はもしまた生まれ変わるチャンスがあるとして、今度は君のような髪の色で生まれてくるつもりなのかな。それとも……またウラノスと同じ色かな」


 少年は自嘲気味に笑った。


「どう思う? ヘロ」


 少年が名前を呼ぶ声音に、酷く覚えがあった。それはメルディのそれと同じだったのだ。


「お前……まさか、メルディ?」


 少年は一寸きょとんとして、弾かれたように笑いだした。


「まさか! 僕と一緒くたにされちゃあ彼女が可哀想でしょう。そうじゃないよ。ただ、彼女を通してよく見ているからね、この世界の裏側から」


 ヘロは俯いた。


「じゃあ、やっぱり――」


 彼の名前を呼ぼうとするけれど、声にならない。まるで見えない指に首を絞めつけられているみたいに、息苦しい。


 少年はくすりと笑った。


「この世界はね、存在しないはずの世界なんだ」


 少年は宇宙の銀河を見つめて言った。


「それをね、作ったんだ」


「誰が……」


「僕じゃないよ」


 少年は口を歪めた。


「ここは、いつか孤独になったアルテミスが、アルテミスのあの子が、助けを求めて辿り着く終点。そういう風に、決められているんだ」


「……どういうことだよ」


「僕だってよくわからないよ。でもね、それが本当にあの子の幸せなのかって思うのさ。少なくとも僕はそれを幸福だとは思わない。だけどあの子は僕を愛してくれないから、どうすることもできないんだ。それで、せめてこの世界に来られるように、僕は僕自身の作った記号をウラノスの地図に描いたのさ。アルテミスの絵の具で、描いたんだ。だから、僕はあの子のおかげでここに居られてる。いつかあの子がここに来たら僕は用済みだ。僕は何も手出しできないだろう。それで、君を選んだんだ」


 ヘロはずきずきと疼く頭を押さえて、少年を睨みつけた。


「なん、で、俺だったんだよ」


「えっ、あっ、覚えてないんだっけ」


 少年は困ったように頬を掻いた。そうして、くすりと笑ってずいと顔を近づけてきた。ヘロと少年の鼻先が少しだけ触れた。


「僕ねえ、実を言うとさ、シクルに選ばれた子供たちにこっそり夜な夜なアルテミスの夢を見せていたんだ。シクルに埋め込んだ僕の神器の欠片を通してさ。それで、その顔に惹かれる少年を選りすぐってみたの。ああ、女の子もいたけどね。別に女の子でもよかったんだけど……それで、君が一番あの人の顔に惹かれたんだ……覚えてないでしょう」


 ヘロはかっとなった。


「なんだよその陰湿な真似! 覚えてるわけないだろ! 大体、なんで顔なんだよ!」


 少年は罰が悪そうにへら、と唇を歪めて、少しだけ視線を逸らした。


「だって……僕はあの人のこと、結局最初は顔で好きになったんだ」

「はあ?」

「だから、僕と同じ嗜好の子供なら、僕の気持ちもわかるかなって思って」

「意味わかんねえよ!」


 にこやかに笑う少年を、ヘロはぎっと睨みつけた。


「そうやって僕が君に関心を持って見ていたんだ。だから彼女が――君のシクルが君により心を寄せた。でも彼女の心は本物だよ。僕は切っ掛けに過ぎない」


 少年は諭すようにヘロの頭を撫でる。黒い爪が煌めく指先でヘロの額の傷痕をそっと弧を描く様になぞった。少年は慈しむようにヘロを見つめ、にっと笑う。


「そうやって潔癖ぶってるけど、君さ、精通の時覚えてる?」


「ばっ……」


 ヘロは赤面した。いきなりこの英雄は何を言うのだろう。


「あの時もさ、僕が君にアルテミスの夢を見せてたんだよね。そしたら君、寝てる間に精通したんだ。それで僕はちょっと数百年ぶりに笑ってしまった。僕と同じだなって思ってさ。僕は英雄になってから、精通を迎えたからね。それで……君は本物だなって思ったんだ」


「な――」


「だから、別に君ならあの子をとってもいいよ」


「なんであんたに許可もらわなきゃいけないんだよ!」


 ヘロは叫んだ。けれど少年はくすくすと笑うばかりだった。


「まあ、別にとらなくてもいいけど、」


 少年は凪いだ眼差しでヘロを見つめた。


「あの子を、幸せにしてくれたらいいんだ」


 そう言って少年は裸足でくるくると弧を描くように歩いた。ヘロは自分の足元を見つめる。まるで暗い夜の空のような心もとない空間なのに、地面に立つように支えられている。少年は頭上を仰いだ。


「この世界はね、有限なんだ。見えない壁に仕切られている。そうだな、音波でも流せばわかりやすいんだけど。反響するからね。そうだ、ヘロ歌ってみてよ。ここなら誰も聞いてないよ」


 少年は笑った。ヘロは眉根を寄せた。少年はヘロにはお構いなしに音程のずれた下手くそな歌を歌い始める。ヘロは段々と苛々して、


「そこは音がずれてるだろ!」


と少年に詰め寄っていた。少年はにこりと笑う。


「じゃあ君が歌ってよ」


 ヘロは眉間に皺を刻んだ。心臓が握りつぶされるようだった。歌っていいのかわからない。歌いたいのかもわからない。どんな歌を歌えていたかも、覚えていない。


「ラ、」


 ヘロは乾ききった震える唇を僅かに開いた。


「アル、デ、フィルイア、エレルリィ、フィルルトゥ、イェ」


 それは数日前にヘロが街頭で聞いた不思議な音色の歌だった。ヘロの瞼の裏に、淡い宝石の光を浴びながら黒髪と白髪を混じらせた頭の少年が翼を広げるように朗々と雪を吐いて歌う姿が鮮明に思い浮かんだ。あんな風に、歌いたい、歌えない……歌いたい。声が震えて、音が擦れる。ヘロは音を切って、ごくりと喉を鳴らした。ふと見遣ると、黒髪の少年は優しい眼差しで嬉しそうに笑ってヘロを見つめていた。それを見ていたらなんだか泣きたくなって、ヘロは瞼の裏の少年のように自分の目を瞑り己の声に耳を傾けた。


 やがてその声の音は色を増し細く澄み切って、迷いなく膨らんでいった。辺りから音が反響して、時に不快な和音となって混ざり合う。かと思えばまるで心を癒すような美しい調和となってヘロの脳髄に染みわたった。ヘロが歌い終わって、声を仕舞い込んだ後も、世界に音の木霊がしばらく揺蕩っていた。


「ね、閉じ込められた世界だろう」


 少年は静かな声で言った。


「こんなところに……閉じ籠るつもりなんだよ。あいつ――」


 けれど、少年の声をヘロはもう聞いていなかった。


 楽しい。


 この世界なら、俺はいくらでも歌える。独りでもあの子供達の演奏のように、何層にも重なる音が奏でられる。ヘロは夢中で歌った。まるで堰を切ったように。耳に届く雑音も振り払うようにして。そうしてぼたぼたと零れる涙に鼻をすする雑音を時折鋏みながら眩暈に溺れていたころ、水面を弾く雨粒の音のような声がヘロの耳に届いた。


【ヘロ】


 ヘロははっと我に返って顔をあげた。


 涙でぼやけた白い視界がやがてじわりと鮮やかさを取り戻していく。目に入ったのは白木の扉と宝石の赤い灯り。淡雪の白と、菫の色。暮れなずむ空の薄藍。


「ジゼ、ル」


 ヘロは自分を見上げるジゼルを呆然と見下ろした。そうして、自分の喉からまだ歌が零れていることに気付いて、怯えたように口を両の手で覆った。


 辺りを見回すと、ノイデとヘイニ、ゴーシェが不思議そうにヘロを見つめていた。ゴーシェは少しだけ焦点の合わない目をしていたけれど。


 ――聴かれてしまった。


 そのことが恥ずかしくて、ヘロは震える足でよろめくと、ふらふらと雪の積もった道端に迷い込んだ。ジゼルがきゅっと口を引き結んでヘロの手を取った。けれどヘロの足のふらつきは収まらなくて、ジゼルを引いて雪の上に倒れ込む形になった。


「どうして……逃げるの?」


 ジゼルはきゅっと眉を吊り上げた。


 ヘロは言葉にならなかった。怯えたように周りを伺って、がたがたと震えていた。


「あのね、突然歌いだしてびっくりしたけど、皆で綺麗だなって思って聞いてたんだよ。でも全然わたし達の声が聞こえていないみたいだったから、声をかけたの……そしたら、どうして、そんなに怖がったの……?」


 ジゼルはヘロの顔を見上げてくる。なんで……なんで、歌っていたんだろう。覚えていない。覚えていたのに、肌を突き刺すような寒さに全てが吹き飛んでしまった。恥ずかしさと恐ろしさが全部塗り潰してしまった。

 ジゼルが鼻をぐすぐすと寒そうに鳴らすのを見て、ヘロはそっとジゼルも立ちあがらせた。


 家の中に入ろうとしないヘロを、ジゼルは気遣うように見上げる。


「入らないの?」


「あ、えっと、はは……ちょっと、頭を冷やそうかなって……あと、頬とか……」


 ヘロは寒さにじんじんと熱を持つ頬を押さえながら俯いてへら、と笑った。


「綺麗だったよ」


 ジゼルは眉尻を下げて、思い詰めたような声で、小さく呟いた。


「えっ」


 ヘロは心臓が跳ねた勢いのままに顔をあげた。ジゼルは柔らかく、はにかむように笑っていた。


「ヘロ、歌上手いんだね。すごく綺麗だった。すごく……好、き」


 どことなく頬を赤らめて俯くジゼルを、ヘロは呆然と見つめていた。


 その言葉の意味を理解した途端、ヘロの顔はかっと燃えるような熱を咲かせた。


「ちょ、ちょっと、やっぱり、頭、冷やす」


 ヘロはしどろもどろに応えながら走り出していた。「えっ」という小さなジゼルの声が聞こえたけれど、「風邪引いちゃうよ!」と叫ぶ――叫んでいるつもりの蚊の鳴くような声も聞こえたけれど、心臓の早鐘をがむしゃらに走ることでしか誤魔化せなかった。


 聞かれてしまった。歌ってしまった。歌うつもりなんてなかったのに。なんてことしてくれるんだよ、畜生。冴えた頭でぼんやりと思い出した英雄の面影にヘロは心の中で悲鳴をあげた。精通――けろっとした笑顔でそんなとんでもないことを言い出した英雄ガイアに無性に腹が立って、恥ずかしくてならなかった。どうしてあんな白昼夢なんて見たのだろう。あれは本当に、本物の英雄だったんだろうか。夢の中にまで影響を与えることができる英雄なんて、ぞっとする。ヘロは荒い息を吐いて、痛みに胸を押さえてふらふらと立ち止まると、膝を折って蹲った。


「あ~~~~~っ! くそっ!」


 髪をぐしゃぐしゃにして頭を掻き毟るけれど、どうしようもない。

「お兄ちゃんどうしたの~? 変な人~」

 幼い声がけらけらと笑う。

 疲れ切った眼差しで声の方へと視線を向けると、ヘロの膝程の背の高さの子供達がわらわらとヘロの周りを囲っていた。ヘロは思わず「うわっ」と声を上げた。子供達もびくっと肩を跳ねさせる。

「こらこら~……お前達はもうお家へお帰り。お母さん心配するぞー」

「はーい」

 子供の向こう側から聞こえた間延びした声に、ヘロははっと顔をあげた。歌っている時とは随分と印象が違うけれど、この響きを聞き間違えるはずがない。この声は――ヘロの頬に細い三つ編みの影が流れて落ちる。こんな、男の癖に長い三つ編みを三本も結わえているやつが、他に何人もいてたまるか。この白髪交じりの黒髪は、どう見たって――。

 少年は子供たちの隙間からヘロを見下ろして、どこか青ざめた顔で口を僅かに開けたまま立ち尽くしていた。

「じゃあね~お兄ちゃん、アンゼルモ~。あ、あとお兄ちゃんその格好寒い」

「うん。見てて寒いよ~」

「あはは」

 子供たちは呑気に言葉を混じらせて、ぱっと弾かれた雫の冠のように散っていく。ヘロは我に返って立ち上がった。少年の視線はヘロとあまり高さが変わらなかった。少年は相も変わらずヘロを――ガン見していた。

「あ、あの――」

 ヘロは視線を魚のように泳がせながら頬を掻いた。穴の開くほどに見つめられると、酷く居心地が悪い。何をそんなに凝視することがあるのか、さっぱり心当たりがない。

「あんた、き、昨日、交叉路で歌ってた人……だよな。あの……正直、あんな人前で歌っていいのかなってひやひやしてたんだけどさ……でも、すごくいい声だった。あと、歌もいい歌だった……俺、ちょっと感動したよ。その……まあ、そういうこと、だから……」

 ヘロは気まずさからそそくさと踵を返そうとした。けれど咄嗟に服の背中を鷲掴みにされてよろけたのだった。

「待って!!」

 少年は大声で叫んだ。ヘロはぎょっとした。

「な、何――」

「頼むよ! ちょっとでいいから待って! これもなんかの縁だと思ってさ! おいらを助けると思って! お願い!」

 少年は半分泣きそうな幼子のような表情でヘロに詰め寄った。

「おいらアンゼルモ! お前は!? じゃなかったあなた誰ですか!」

「へ、ヘロ……ナファネ」

 ヘロはふと、安直に自分の名前を教えてよかったのかと逡巡した。少年は目を輝かせる。

「ヘロ! ヘロな! ヘロか! よろしくな!」

「お、おう……な、何だよ……」

「まじで待ってて!! そこで待ってて!! 絶対動かないでよ!! まじですぐ戻ってくるから! まじで!!」

「わ、わかったよっ」

 半ばやけくそでヘロは怒鳴り返した。アンゼルモと名乗った少年は仔馬のしっぽのように三つ編みを跳ねさせて飛ぶような速さで路地裏に消えた。

「……さっむ」

 ぶるっと体を震わせ、ヘロはくしゃみをした。


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