Interludi
砂時計をことりと傾けた音が聴こえたような気がした。
ヘロの歌声が鼓膜を伝って、わたしの心を震わせていた。それは本当に聞き取れないほどの小さな声だったけれど。ゴーシェやノイデやヘイニの笑い声にかき消されるくらいの、微かな音の羽。
彼がどうして、歌っていたのかはわからなかった。まるで透明な空気に淡い薔薇の香りが滲んだような心地がした。わたしはふと、ジャクリーヌの言葉を思い出していたのだ。ヘロは、白薔薇の香りが好きなんだよ、って。鮮やかな色を湛えた彼は、きっと本当はそんな可憐で繊細な花が好きなのだと思った。わたしには想像もつかないけれど、銀色の、失ってしまった淡い瞳の色を気に入っていたのだと。魚の鱗みたいだったから好きだなんて、どれほど控えめな性格なのだろう。それが彼の、大事にしていた世界なのだ。きっと、大切に大切に、零してしまわないように、羽化してしまわないように、蛹の中に閉じ込めていた願いの欠片。夕闇の白んだ光の中で、目蓋を閉じて歌う彼の掌で眠るメルディが五角形の光の数珠を透かして伸ばしている。それはまるでヘロがメルディを使って身に着ける六枚の羽のようにも見えて、彼の蛹が糸を解きだしていた。
わたしは、彼が歌えると言うことを知らなかった。大切に歌詞を紡ぐその唇が、震えて小さな吐息を漏らすのをもっと近くで見たいと思った。そして、これ以上誰にも聞かせたくないとふとどこかで思っていた。傍に寄り添うと、遠くからでは閉じられたように見えた彼の瞼は微かに開いていた。その虚ろな眼差しに胸の奥がざわめいた。色が陰って、鮮やかな赤橙の瞳がよく見えない。彼の瞳の色を蝶羽のように震える長い睫毛が覆い隠して、目の縁に影を落としている。伏せられた眼の奥に見える色がまるで暗い仄かな銀の色に見えて、わたしははっとした。わたしは今、聞いてはいけないものを聞いているのだと思った。彼は歌いたくて歌っているわけじゃない。聴かれたくて、歌っているわけではないのだ。心が迷子になってしまって、ふと解れた蛹の隙間から羽の粉を零すように大切な歌声をぽろぽろと零し落としてしまっている。
いつしかヘイニ達もおしゃべりをやめて、ヘロの微かな歌声に聴き入っていた。それほどに、彼の歌声はとても――とても儚くて、哀しかった。こんな風に歌を歌う人をわたしは知らない。そうだ……この世界は滅多に歌を歌う人なんていないけれど、わたしはぼんやりと記憶の端っこで覚えていたのだ。わたしのために歌を聞かせてくれた優しい衛星達の声を。
アポロで聞いた吟遊詩人の歌声よりも、真夜中の街路で耳にした少年の澄んだ歌声よりも、記憶の中のどの声よりも、わたしはヘロの歌う声に惹かれていた。
わたしはヘロの手にそっと触れた。けれど彼は気づくことなく歌い続けている。彼の手に触れた瞬間、わたしの意識は半透明になって、サタンの街並みの景色を透かして藍色の宇宙を見ていた。赤くて長い三つ編みを――ばぁばのような三つ編みを、一つに編んで竪琴を抱える儚い女性の姿が私の眼の端をゆっくりと歩いて通り過ぎる。これは――また、過去の記憶だ。
【Twinkle, twinkle, little star…
How I wonder what you are…
Up, above the world, so high,
Like a diamond in the sky…
Twinkle, twinkle, little star,
How I wonder……】
『それはなんというお歌なの? アフロディテ』
わたしのようで、わたしではない溌剌とした声が喉を震わせると、彼女は――アフロディテは星屑を零すような歌声を止めて、そっと振り返る。
『さあ……うろ覚えで歌っているの。子守唄にね、よく歌っていたの。あの子がとても気に入っていたから……私も好き』
そういってアフロディテは儚げに笑った。
『でも、私殆ど忘れちゃった』
『忘れたのに、歌うの?』
『そう、ね……』
アフロディテは柔らかく笑う。
『この歌を歌うと、泣きたくなって、幸せなの』
「幸せ……」
そう呟いて、はっと我に返る。擦れていたヘロの声は張りつめた弦のように次第に厚みを増していた。わたしはヘロを揺さぶった。
「ヘロ」
だめだよ、と何度も腕を引いた。
そんな虚ろな目で、あなたの大切な歌声を零したら、だめだよ。
やがてヘロの睫毛が震えて、ヘロは瞳に色を取り戻していく。
ヘロは呆然として私を見つめていた。やがて喉から尚も零れる音に気付いて、ばっと掌で口を覆った。わたしはそれを苛まれたような気持ちで見つめていた。どうしてわたしは、もっと聴きたいと思ったのに彼の歌を止めてしまったんだろう。彼に気付かせてしまったのだろう。彼のためだなんて言い訳をして、偽善ぶって、わたしは自分の気持ちに蓋をしたのだ。もっと聴かせてほしいと、わたしに聴かせてほしいだなんて、そんな仄かな灯火に灰を振りかけるようにして、わたしはヘロの歌をやめさせたのだった。
砂時計が、はたりと砂を零すのを止める。
わたしはいつから、こんなに狡くなってしまったのだろう。
ヘロが、わたしが、ヘロに好かれたくないだなんて、思ってるだなんて、
わたしのことを、暴こうとするから。
わたしが灰でやっと隠して温めてきた心を、簡単に探し当ててしまうから。
逃げ出したヘロを追いかけようと思うのに、足がすくんで動けない。
わたしはヘロの琴線に触れることを恐れていた。そこに触れてしまえば、わたしはどうなってしまうのだろう。
わたしはわたしの心に触れられてしまったことで、こんなにもヘロを怖いと思っているのに。
そうして俯いていると、半透明の藍色から低く擦れた声がきらきらと瞬く蝶羽の鱗粉のように降り注いで、わたしの鼓動は大きく跳ねた。
【……馬鹿だね】
体がかっと熱くなって、ぞくぞくと足が震える。
ヘロを追いかけることができないまま、わたしに囁きかけた誰かの――風の音に縋って雪の舞う透明な世界を酷く急いた気持ちで見回す。
「どこ……?」
わたしは、ぽつりと震える声を零した。
その声が誰のものなのか、ジゼルであるわたしは、理解を拒んでいる。それなのに、ヘロよりもわたしは咄嗟に【彼】の姿を――声を、探したのだ。
「いやだ……あなたを、思い出したく、ない」
わたしは胸を激しく刺すような痛みに蹲った。慌てたようにヘイニが駆け寄って何かをわたしに言うけれど、何を言われているのかがわからない。
【もっと聴きたいって、素直に言えばいいのに、ね】
世界の裏側から、声が透ける。
【せっかく……ようやく、あなたもそんな気持ちを覚えたのに。それとも、まだ足りない? 俺はもっとあなたを苛めなければいけないのかな】
何を、聴きたいと、言えばいいの?
わたしは喘ぎながらえずいた。ヘロの歌声? それとも、あなたの声?
【……本当に、嫌いだよ】
声はそう言って、藍の向こう側へ色を滲ませ消えてしまった。
嫌だと叫びたいのに、声が出ない。
どうしてわたしは、嫌だと言えないの?
行かないでと言えないの?
「…………ロ」
わたしは縋る様にその名前を呟いた。
「ヘロ……」
その名前だけが、わたしをこの透明な世界に繋ぎとめてくれる。あの不透明な
お願い、ウラノス。
わたしを乱さないで。わたしを溶かさないで。わたしを滲ませないで。ヘロを好きなわたしでいさせて。ヘロ以外の声で濁っていく自分の心が、怖い。恐ろしいほどの速さで濁って半透明に染まりゆくこの心が怖い。わたしはまだあの朧の中へ、帰りたくない。
ああ、どうか。
せっかく透明に磨いたの。まっさらな心で生まれ変わってきたの。
ノイデが私を抱えて、柔らかな寝台に寝かせてくれたことだけは分かった。ヘイニが濡れた布巾でわたしの額や首筋に滲んだ汗を拭ってくれる。わたしは痛い、痛い、と哭きながら朦朧として身を捩った。誰かの手が――ダルディアさんの武骨な手がわたしの手首に触れる。何かをヘイニに、言って――。
「ヘロ……」
涙が頬を一筋伝って白い布を濡らしてしまう。
「ヘロ……」
ヘロがいないとだめだなんて。
雛鳥のように、泣くことしかできないなんて。
いつからわたしは、あなたなしではだめになってしまっただろう。
『ジゼルは、俺に好かれたくないだろ』
朦朧とする意識の中で、ヘロの言葉がざらざらと砂のように降り落ちて、わたしの脳を汚していく。
そうじゃないと一言も言い返せなかった。
わたしは、あなたに、
もっとあなたを好きだと思わせてほしいのだ。あなたの色が欲しい。もっと濁りたい。あなたのためだけに、濁って不透明になってしまいたい。目も白く曇らせて、何も見えなくなってしまいたいのだ。
――あなたのため、だなんて……。
わたしは、自分のためにヘロに縋る。自分のためにあなたが好きだからと言い聞かせるのだ。わたしはヘロ自身のためにこの恋心を大切にしているわけではなかった。わたしは彼を、蔑ろにし続けている。
――それなのに、好きになってもらいたいだなんて……思えるわけがないの。
私の頬を涙が伝いゆく。
よくやく傾き始めたヘロの時間。ヘロの時計の砂は私に降り積もる。私をざらざらと汚していく。わたしは硝子の双球の片割れに閉じ込められている。そのことに安堵する一方で、わたしは、透明な壁の向こう側へ焦がれていた。これ以上はだめだよと、頭の片隅で水が跳ねる。それなのにわたしはウラノスの地図が欲しいという狂おしい望みを自覚していた。それに触れたら変わってしまう。それに触れなければ始まらない。わたしはお人形のまま。時計の中でしか生きられない、
歪な宙。宇宙の中に、ヘロはいない。そこに辿り着いたらきっとわたしは生きていかれない。わたしはわたしでなくなってしまうのに。ヘロの羽化を目の当たりにしてしまったからだろうか。わたしは焦がれていた。土の蛹を剥ぎ取って、この硝子窓をすり抜けて、わたしを待つウラノスの元へ還りたいと。これが本能だというのなら、今までのわたしは何なのだろう。
ヘロの笑顔も悲しみも、傷痕も、歌声も手に入れて、わたしはどうしたかったのだろう。
わたしは白い
ヘロ。
どうか、行かないで。その砂で、私を埋めて。
重い瞼を僅かに開いて、涙の染みを見つめる。息苦しさに、力が入らない。
ヘロ。
どこにもいかないよ、とヘロならきっと言ってくれるのだろう。もしもわたしが、本当に行かないでと口で言えたなら、きっとそう応えてくれるだろう。けれど、そういうことではないのだ。わたしからどんどんヘロが遠ざかっていくような心地がするのだ。その恐ろしさに、耐えられないと怯えている。今になって、ノイデの言った言葉の意味が、ターシャの眼差しの意味が、わかってしまった。
わたしはいつか、ヘロを好きだったことを、忘れてしまうだろう。
絵筆を水に透かすように。色を落として、まっさらに。
それから、気を失ってしまうまで、わたしはヘロの名前を心で縋るように呼んでいた。
ヘロは、姿を見せてはくれなかった。
夢の中で、わたしは途切れがちに降り積もるヘロの擦れた声の砂粒を掌に溜めて、泣いた。
砂が足りない。
あの宇宙の闇から、明け透けの世界でわたしを見張る昏い眼差しから、わたしを覆い隠して。どうかあなたの砂の粒で、わたしをあなたの小さな瓶に埋めて。わたしが息もできないほどに、死んでしまうほどに、わたしをどうか、閉じ込めて。
やがてわたしの頬に、冷たい指先が触れたような心地がした。
わたしは微睡みから重い瞼をもたげて、僅かに睫毛を震わせることしかできなかった。あんな格好で、日も暮れかけていたのに、外へ出るから……。
風邪を引いても、知らないよ?
その冷たさに頬を擦り寄せるようにして、わたしは微睡みの中に落ちていった。
砂が、降り積もる。わたしにどんどん、降り注ぐ。
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