Episodi 31 毛糸と涙
食卓の傍に置かれた背の高い椅子の上で、ヘロは膝を立てて窓の向こうにちらつく淡雪を眺めていた。頬を暖炉の炎の橙色の光が揺らめく様子は、まるで子供の不気味な落書きの影がゆらゆらと歩いているようにも見える。
ジゼルはその背中をずっと黙って見つめていた。ヘロは傍に居ていいとは言わなかったけれど、どこかへ行ってくれとも言わなかった。だからジゼルはじっと待っていた。ヘロの心が融けていくのを待っていた。
真夜中に帰ってきた二人の頭や肩に降り積もった雪のように二人の間に滞る微妙な空気を察したのか、ヘイニもノイデも、二人の間に割っては来なかった。ノイデは隈の出来た目元を細めて、「あれは自分でどうにかしないとどうしようもないだろ」とだけ、無愛想な声で言った。
ジゼルは手慰みで赤葡萄酒のような深い紅色の毛糸を指で編んでいた。特に何を編むかなんて考えていないけれど、ただ編んでいた。ヘロの背中から視線を外して、編んだものの形を整えることに集中し始めた頃、不意に擦れた声が投げかけられた。
「それ、何編んでるの」
ジゼルは顔をあげた。ヘロは膝の上についた腕の中に口を半分隠した格好で、ジゼルを見つめていた。ジゼルはふわりと笑った。
「わからない……無計画に編んじゃった。少し解いて、手袋に作りなおそうかな」
「襟巻にすればいいのに」
「え?」
「襟巻。ジゼルの眼の色に、似合いそう」
「そう、かなあ……?」
ジゼルは眉根を寄せて毛糸の帯を広げて眺めた。
「こういう色は着たことがないからわからない……」
「ジャクリーヌはさ、そう言う色が似合わなかったんだよね。赤系」
「そう、かな?」
ジゼルは訝る様に首を傾げた。確かに派手な色を着ているところを見たことは無いけれど、あんなに美人なのだから似合わないなんてことは無いと思うのに。
「赤とか、橙とか、
「それは……好きじゃなかったんじゃなくて、好きなのに似合わないと自分で思ってしまうことが悲しかったんじゃないかなあ……」
ジゼルは眉根を寄せたまま考え込むように呟いた。ヘロはふっと笑った。
「俺はね、俺ってジャクリーヌには似合わないなあと思ってたんだ。こんな見た目だし、好きな色もさ、どっちかっていうと、そういう、暖かい色の方が、好きだ」
ヘロはどこか自虐するように床に視線を落として笑う。ジゼルは首を振った。そんな悲しい顔は見たくないなと思いながら。
「だとしたら、きっと二人共よく似てるんだよ。ジャクリーヌは夕焼け色を似あわないと自分では言いながら、あなたに惹かれたんだろうし、あなただってきっと、ジャクリーヌはその色を好まないんだと思ってるから、自信が出ないでいるだけだよ。それだけ……お互いがお互いを好きってことだと、思う、の」
ジゼルは胸を刺すような鈍い痛みに俯きながら言った。きゅっと口を引き結んで、声を絞り出した。
「ヘロ」
「何?」
「わたしといると、やっぱりよくないんじゃないかな」
ヘロは何も言わなかった。ジゼルは顔を挙げられなかった。指に絡まった糸をぎゅっと握りしめて、ジゼルはそっと息を吸い込んだ。
「わたしといるから、ヘロは余計なことを考えなくちゃいけないんじゃないかな。わたしなんかに、わたしのために、味方になろうとしてくれたことも、一緒に逃げようと言ってくれたことも、わたし嬉しかったんだよ。でも、それはやっぱりヘロの負担なんじゃないかな。だからヘロは、もう元気が出なくなってしまってるのだと思うの。わたし、そういうのは、いやだよ……」
ぽつりと雨粒のように零れたジゼルの言葉に、ヘロはただ柔らかく笑うだけだった。
「俺さ、ジャクリーヌと別れたんだよね」
「えっ?」
さらりと不自然なほどに無機質な声で言われたその言葉に、ジゼルは蒼白な顔をあげた。
「だから、別にジゼルといるから、落ち込んでるわけじゃないよ」
ジゼルは唇を噛んで、涙が滲んでくるのを堪えようと俯いた。そんな未来を望んだわけじゃなかった。壊したかったわけじゃない。絶対に、ヘロの重荷にだけは、なりたくなかったのに。
「そんなの……ひどいよ」
ジゼルは声を絞り出した。
「そんなのって、ないよ……」
「なんで? ジゼルは俺のことが好きなんだろ?」
「最低!」
ジゼルは叫んで顔をばっと上げた。堪えていた涙がぼろぼろと溢れて零れて、止まらなかった。
「俺が最低だって? よく言えるよね。で? 他には?」
「何が……」
ジゼルは鼻をぐすりと鳴らす。
「俺に幻滅したとこ、他にあるなら言ってみてよ。俺さ、結構、ジゼルには睨まれてたなって思うんだよ。俺が何か言う度、呆れたように睨んできてたじゃん」
「睨んでなんか、ないよ」
「ああいうのは、睨んでるって言うんだよ」
「それは……! ヘロの自分勝手で思いやりのない穿った見方だよ!」
「でも、少しだけ自覚もあるだろ? だってほら、目線合わせねえじゃん。俺に気を使ってるふりしてさ、そのつもりでいてさ、結構ジゼルって俺のこと内心批判してるだろ? こいつ信じらんねえとか思ってるだろ。目を逸らすな」
ヘロの語気は次第に荒くなる。ジゼルはきゅっと唇を噛みしめて、ヘロを精一杯の眼差しで睨みつけた。
「に、睨むって言うのは、こういう目のことを言うの! か、勝手に、人の心を疑らないで……や、八つ当たりだなんて、卑怯だよ!」
ジゼルの眼差しを、ヘロは不思議そうな眼差しで見つめていた。
「ほら、卑怯とか、そんな言葉が出てくるじゃん。さっきも、何だっけ? 自分勝手で思いやりがない、だったっけ?」
「それは、言葉の、綾で、」
「俺は卑怯だよ」
ヘロは膝に額を当てるようにして目を伏せた。
「あんたといると、楽だよ」
弱々しい声でぽつりと呟かれた言葉に、ジゼルの心はざわめいた。ヘロは凪いだ抑揚のない声でぽつぽつと言葉を雨のように零していく。
「あんたといると、あんたのせいで英雄だか何だか知らない、過去の妄執に囚われたようなくだんねえ価値観に振り回されて、めちゃくちゃだよ。自分がどんな人間だったかも、もうよくわかんねえんだよ。俺はもう、ジャクリーヌが好きだって言ってくれた頃の、俺が好きになりたかった俺じゃねえし、あんたが好きだと思ったんだろう俺は行方不明すぎて笑えてくるよ。だからジャクリーヌの彼氏面なんてしてられないと思ったんだ。別れた時は、別れたことが悲しかった。だけどさ、段々冷静になってくると、俺が本当に苦しいのは、ジャクリーヌと別れたことでもなんでもなくて、自分がどういう人間なんだかわからなくなったことなんだ」
ヘロは顔をあげて、光の無い目でジゼルを見つめる。
「最初は、お前を理不尽な目で見る世界に苛立って、俺の自由を縛る両親に、学校に苛ついて、その苛立ちだけで逃げたんだ。マルスを出た時も、そうだったな。なんでターシャもゴーシェもあんなことしなきゃいけなかったんだって、悲しくて、腹立って、でもそれだけだったんだ。ふと気づいたら、俺は何してるのか、何のためにいるのか、わからなくなってしまうんだ。唯一ぶれなかったのは、お前の味方でありたいと願ったことだけで、だけどそれも、ジゼルが俺のことそう言う目で見てたんだってわかったら、どうしていいのかわからなくなった」
ジゼルは目を閉じてまたはらはらと涙を零した。
「やっぱり負担だったんじゃない、とか思ってんだろ」
「思っ、て、ないよ……ただ、悲しいんだよ」
ジゼルは閉じた目蓋から幾粒もの雫を零していく。
「わたし、そんなに深く考えてないんだよ」
「そうなの?」
「うん……」
「そっか」
ヘロは力無い声を零す。
「俺は、ノイデからさ、聞いた時さ、とっさに押し隠して、自分の中でごまかして、考えないようにしたんだ。けど、でも、嬉しいって、」
ヘロは声を詰まらせた。ジゼルはそっと目蓋をもたげてヘロを見つめた。ヘロは泣いてもいないのに、笑ってすらいないのに、痙攣するように頭をかたかたと震わせていた。
「俺、なんか、心臓に針が刺さったみたいに、嬉しいって、思って、た……心臓が痛くて、鋭すぎて、何も考えられなかった……これ以上考えちゃだめだって思ったんだ、それは、だめだ、って」
心臓に針が刺さるだなんて、そんなの、どういう痛みなんだろうとジゼルは涙を流し過ぎてずきずきと疼く朦朧した思考の中で考えていた。わたしはヘロの言葉を、まるで甘い毒みたいな心地で聞いている。
「ジャクリーヌに……好きだって言われた時だって、そうだったはずだよ」
ジゼルは力無く笑った。
「ううん、もっと、痛みは強かったはずだよ……だって、突然そんなこと言われたらきっとびっくりするもの。なんとなく、わかるの」
「ジゼルの時の方が、痛かったよ」
「それは……ヘロにはもうジャクリーヌがいたから……きっと罪悪感だよ。ヘロは悪くないのに」
「そうじゃないよ」
「そうだよ」
ジゼルは首を振った。
「ヘロ……ジャクリーヌとお別れしたりするから、不安定なんだよ……」
「昨日まではそうだったよ」
ヘロは少し気分を害したような投げやりな声で吐き捨てた。
「でも、今日一日考えていたんだよ。ジャクリーヌの時は、あいつのことを好きになりたいと思ったんだ。好きだって言ってくれるから、好きだと思ったんだよ。嫌われたくないと思った。だけど、ジゼルには嫌われたいと思うんだ。それと同じくらい、好かれたいと思ってる」
「……っ、何を言ってるのか、全然わからないよ……!」
ジゼルは耐えきれなくて顔を覆った。その拍子に、指に絡んだ毛糸の網目が解れて、波を打つように歪んだ。
「そんな、よくわからない言葉で言われたって、わからないよ……わたし、このままでいいもん。これ以上苦しくさせないでよ……お願いだよ……」
ヘロはジゼルが落ち着くまで黙っていた。ジゼルの嗚咽が収まった頃、ヘロは静かに口を開いた。
「俺さ、ターシャとか、ゴーシェとか、ノイデとか見てて、思ったんだ。記憶が鮮明かそうでもないかなんて関係なく、あの人たちはさ、ほんとに昔の自分に、英雄だった頃の自分に縛られてるんだなって思ったんだ。それが【自分】ってことなら、そうなんだろうさ。だからこそ思ったんだ。ジゼルだって、そうじゃないはずがないし、違う保証なんてない」
「どういうこと……?」
ジゼルはぐすんと鼻を小さく鳴らした。
「ジゼルは、俺に好かれたくないだろ」
ヘロの言葉が、まるで槍のようにジゼルの体を貫いた。体が酷く冷えていく。暖炉の炎の前なのに、指先を飾る爪の色は酷く血色が悪い。自分は本当は死人だったのではないかと錯覚するくらいに、ヘロの言葉はジゼルを鋭く串刺した。ジゼルは何も言えなかった。何の言い訳も思いつかなかった。ヘロはようやく、ふわりといつものように、どこかからかう様に屈託なく笑った。
「ほらね。やっぱり、思った通りだ」
「ち、違うよ……」
ヘロの笑顔に少しだけ凍てついた時が融けていくような心地に惑いながら、ジゼルは声を振り絞った。
「好かれる資格なんかないよ……でも、嫌われたいわけ、ないよ……」
「好かれたくないのは事実だろ」
笑っているのに、ヘロの言葉は茨の蔓のように絡んでジゼルの肌に傷をつけていく。
「違、うよ……」
「違わないよ」
「き、めつけないでよ……さっきも言ったのに、どうして決めつけるの? どうして話を聞いてくれないの?」
「話ならいくらだって聞くよ。言ってみてよ。俺が、ジゼルのこと好きだって、好きになりたいって言ったらどうする? 答えてみてよ。……ほら、そうやって怯えた顔するじゃん。怖がってるだろ。嘘だと思うなら、鏡でも見てみろ!」
ヘロの声に、ジゼルはびくりと肩を震わせた。
「言っとくけど、俺はジゼルのためにでも、ジゼルのせいでジャクリーヌと別れたわけでもないんだからな。それとこれとは話が別だ。ジゼルは俺に好かれたいなんて思ってない。そんなの、同じ地点にも立ててない。それこそ、そんな中途半端な気持ちで俺を見てたなんて、卑怯者」
ジゼルは唇をぎゅっと噛みしめた。そうしていないと、また涙が零れてしまいそうだった。
「なんで……そんな、ひどいこと言うの」
「酷くない」
「ひどいよ!」
「酷くない」
ヘロは静かな声で応える。ヘロが立ち上がったはずみで、椅子ががたんと揺れた。ジゼルはその音にびくりと肩を震わせた。ヘロはジゼルのすぐ間近に歩み寄って、ジゼルを見下ろした。ジゼルは両手で口を覆って、息苦しく息を吐きながら床を必死で見つめた。怖かった。悲しかった。けれどヘロはふわりと屈んで、ジゼルの視線に被さるように顔を覗き込んできた。
「なんで、俺に好かれなくていいだなんて思うの?」
「そんなの……ジャクリーヌがいたから……」
「へえ。じゃあ、なんで今もそうやって怯えてんの」
「怯えてない……」
「怯えてるよ」
「そんなの……そんなの……」
「言えってば!」
「わからないよ!」
ヘロの怒声に呼応するように、ジゼルは吐き出して、泣いた。ヘロはそれを黙って見ていた。ジゼルがまた泣きやんで落ち込むまで、ずっとジゼルの顔を見つめていた。それがジゼルには、どうしようもなく恥ずかしかった。
この感覚に、この心の痛みに覚えがあると感じるのは何故だろう。泣き疲れて朦朧とした頭で、鈍い熱に包まれて、ジゼルはぼんやりと考えていた。
覚えていない。だけど、わたしは、前にも、こうして誰かに問い詰められただろうか。もっと、
――【貴女は、そうやって、助けを求めないんですね。助けを求めると言うことを頑なに己の体から、垢のように削ぎ落とすんだ。それが一番、俺にとって大事な言葉なのに。】
はっとジゼルは顔をあげた。深海の藻のように揺らめく視線は、湖面のように静かなヘロの眼差しとかち合った。けれどジゼルは無意識にそれから逃れるように菫色を彷徨わせた。
「ウラ、ノス……」
ジゼルはぽつりと呟く。何かを思い出しかけて、またそれは淡い靄のように溶けて消えていってしまった。まるで夢を覚えていられない夜明けの眠りのように。
ヘロはどこか哀しげな瞳でジゼルをずっと見つめていた。そしてジゼルの頭を片手でそっと抱えるように撫でたのだった。その温もりを感じながら、ジゼルは上手く思考をまとめることができないでいた。何かを思い出さなければいけない――けれど、どうして? 何故思い出さなければいけないの? わたしが、そう、望んでいるの? ………何も思い出せない。頭が痛い。どうしようもなく、頭が、目の奥が、痛くてたまらない――。
「……よくできました」
ヘロがぽつりと呟いた。
「どうして……こんなこと、したの」
ジゼルはぼんやりと虚ろな眼差しを彷徨わせたまま呟いた。
「うん……」
ヘロは擦れた声を零した。
「確認しておきたかったんだ」
ジゼルはヘロの横顔を見ようと、首をもぞりと動かした。
「なに、を?」
「俺が好きなのはジゼルなのか、女神も含めたジゼルなのか、自分でも、確認したかったんだ。好きって言っても、お前が望んでいるような意味じゃ、多分、ないけど」
「わかってるよ」
ジゼルは小さくこくりと頷いた。
「少なくとも、嫌いじゃねえよ。嫌いだったら、わざわざ傍に居るわけないだろ。男って、気のある女にしか優しくできねえんだぞ」
気のある女だなんて言い方がなんだか可笑しくて、ジゼルは微かに笑っていた。
「ヘロは全然優しくないよ」
ジゼルの穏やかな声を、ヘロは黙って聞いていた。そのヘロの頬に、今まで沈黙を貫いていたメルディがぺたりと貼りついた。
「……? なんだよ」
ヘロの声に、けれどメルディは応えない。
ヘロは眉根を寄せた。後で二人きりで話をしたいと言うことなのかもしれない。ヘロはそっとメルディを指で撫でた。メルディは身を捩じらせるように、少しだけ揺れた。
「仲直りした?」
ヘイニの柔らかな声が背中にかかる。ヘロとジゼルは薊の綿毛がぱっと舞うかのように振り返った。ヘイニはどこか痛みを湛えたような眼差しで、きゅっと口を引き結んで、
「心配かけて、ごめんなさい」
ヘロが深く頭を下げる。ジゼルも目をきゅっと瞑って腰を折った。
「いいの。そんなことはね。私なんかノイデとしょっちゅう喧嘩ばっかりよ。それはもう、くだらないことから結構な大事まで多岐にわたって喧嘩の種よ。でも、仲直りすればいいの。そんなのはね、それでいいのよ」
ヘイニは首を傾けて笑った。
「何か……あったんですか? ……ゴーシェに」
ヘロは眉を潜めて、不安の色を顔に浮かべた。けれどヘイニは首を横に振った。
「ううん、違うの。もう起き上がれるし、普通に会話もできるわ。実を言うとね、一昨日の時点でもう調子は良かったのよ。でもね……私が……ごめんなさい、私が、勝手に、貴方たちはまだ会うべきじゃないかもしれないと思ったの……。でも、怒られちゃった」
ヘイニは哀しげに微笑んだ。ヘロは唇を僅かに開いて呟いた。
「怒られたって、誰に……」
「もちろん、ゴーシェによ。そんなことは自分が考えるべきことであって、私が余計な気を回すようなことじゃないって。ほんと、その通りだわね」
ヘイニは笑ったまま、光のない眼で視線を伏せる。
「大したことじゃないかもしれないし、やっぱり酷かもしれないんだけど……でも、きっと彼なら、そんな風に思うことすらも余計な世話だって言いそうね」
ヘロとジゼルは顔を見合わせた。言いようのない不安が胸の内に広がっていく。
ヘイニは瞼を閉じて小さく思いつめたように息を吐くと、再び看護室に戻っていった。扉の横で壁にもたれかかっていたノイデが、色の無い眼差しでヘロを見つめる。ヘロは眉をひそめた。どうして、誰も笑わないんだろう。そんな風に、苦しげな眼差しを向けてくるんだろう。
やがてノイデが扉を開けると、ヘイニがゴーシェを乗せた車椅子を押しながらゆっくりと近づいてきた。ジゼルがはっと口を覆って息を詰めたのがわかった。足はもう動かないんだろうか、それとも、ただ安静にしているだけだろうかとヘロは必死に考えた。麻痺とか、残ったんだろうか。けれど、けど。
ゴーシェの藍色の眼差しは変わることなく凛としていた。最後に見た時よりも短く切り揃えられている砂色の髪は、ゴーシェの精悍さを一層引き立てていた。頭の側面に浮き上がる縫い痕は痛々しかったけれど、ヘロはほっと息を吐いた。ゴーシェはゴーシェのままだ。泣きたいような気持に駆られて、ヘロはゴーシェの元に駆け寄った。けれどゴーシェはきょろきょろと辺りを見回した後、訝るような眼差しでヘロの顔を見上げたのだった。
ヘロはどんな言葉をかけたらいいのかわからないまま、胸がいっぱいで口をきゅっと引き結ぶことしかできなかった。ゴーシェが口をわずかに開けて、すう、と息を吸い込むのを、殆ど息を止めた状態でヘロは見つめていた。ヘロはへら、と笑った。笑わないと、また女々しく泣いてしまいそうだった。ただでさえ今は涙腺が緩みがちなのだ。
けれど、ゴーシェが呟いた言葉は、ヘロの心を
「お前が、ヘロか、ジゼルのどちらかか? お前の方が背が高いみたいだから、ヘロの方かな……なあ、声出してくれよ。顔だけじゃわからないんだ」
ゴーシェは哀しそうな声で言った。
「どういう、ことだよ……」
ヘロの声が震えて床に跳ねた。けれどゴーシェは嬉しそうに明るく笑った。
「ああ、やっぱりその声はヘロだな。お前、男の癖に
ゴーシェはジゼルの方に顔を向けた。ジゼルは目に零れそうなほどの涙を湛えて唇を噛みしめていた。
「じゃあ、貴方がジゼルだよな?」
「うん」
ジゼルは震える声で短い言葉を零した。ゴーシェは心から嬉しそうに笑ったのだった。
「ああ、やっぱりジゼルの声だ。声までわからなくなってたらさすがにどうしようかと思っていた。じゃあ俺は、ターシャのことも声を聞いたらわかるんだな、よかった」
ゴーシェは穏やかに笑っていた。ヘロには、どうしてゴーシェが笑っているのか理解ができなかった。頭ががんがんと金槌で殴られたように痛んだ。ヘロはぐしゃりと前髪を掴んで、はっ、と顔をあげた。その顔は、笑おうとして酷く歪んでいた。
「そ……そうだ、ジゼル、俺の
「ヘロ、あのね」
ヘイニが思いつめたような声で言葉を零した。その先を聞きたくなくて、ヘロは、
「少し黙っててくれよ!」
と叫んでいた。ゴーシェは後ろを振り返るように顔を傾けた。まるでヘイニを制すかのように。
「ヘロ、ジゼル」
ゴーシェの深い海のような穏やかな声が凛と響いた。
「俺は、脳に傷がついたせいで、もう人の顔が分からないんだ。目の前にある顔が、誰の顔かもわからない。ああ、心配するなよ。本当は普通に歩けるんだけどな、ヘイニとノイデが大事を取れと煩いんだ。それから、細かい手作業も……無理みたいだ。だから俺にはもう、転送魔法の陣は描けない。あらゆる全ての魔方陣が、描けなくなってしまった。惜しいことをしたな。ジゼルかヘロのどちらかに、せめて描き方だけでも教えておけばよかった。俺しか知らないものもたくさんあったからさ」
「なんで……」
後は言葉にならなかった。
ヘロはゴーシェを見下ろしたまま、ぼろぼろと泣き腫らした。ゴーシェの額に、頬に、首筋に、ヘロの涙が雨粒のように降り注いだ。それをゴーシェは、不思議そうな眼差しで見上げていた。藍色の瞳はまるで深海のように、揺らめくことなく色づいている。
「泣くなよ、女々しいな」
ゴーシェは笑った。その笑顔は、ゴーシェがマルスの星の水底で見せた別れの笑顔に似ていて、ヘロの心を酷く締め付けた。ジゼルは必死で涙を堪えようと唇を――血が滲むほどに噛みしめて、けれどぼろぼろと涙の粒を零しながらヘロの背中にそっと手を触れた。それがどうしようもなく哀しくて、苛立って、ヘロは嗚咽を漏らした。
「可哀相だとか思ってたら殴るぞ」
ゴーシェは笑顔を消して、凪いだ表情で静かに言った。ヘロは首を横に振ることでしか答えられなかった。ゴーシェはふっ、と息を吐いて苦笑した。
「どっちだよ、それ」
ヘロは首をぶんぶんと横に振ることしかできない。声にならない。
「わからなくなったこととか、」
ゴーシェはぽつりと呟いた。
「できなくなったことが、結構あるけどな、でも俺は、やっと解放されたよ」
ゴーシェのその言葉に、ヘロは涙を拭ってゴーシェの藍色を見つめた。ゴーシェはふわりと笑った。その笑顔は、どこかターシャのそれに似ていた。
「俺は、やっと、ヘルメスから解放されたよ、ヘロ」
解けてしまった紅い毛糸はジゼルの手を離れ、ふわりと
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