Episodi 30 黒と雪

 水色の空が藍と茜色を滲ませ星を瞬かせた夕闇に、ぱたぱたと靴の踵が道の石畳にぶつかる音を調子よく鳴らして綿毛のように舞い落ちる雪の間を縫うように駆ける少年がいた。

 少年は鳥打帽を目深く被っている。うなじの辺りから、まるで尾長鳥の尾のように伸びて揺れる三本の細く長い三つ編みは、雪のような白さと鴉の濡れ羽のような美しい漆黒の斑だった。肌は少し黄みを帯びており、雪のように白い肌を持つ人々の中で一人濃く浮き上がって見える。

 少年は帽子のつば越しにちらりと街を彩る光飾を見た。まだ灯りは産毛のように柔らかな線を放っている。これが辺りを色鮮やかに照らし尽くす夜までに、持ち場に辿りつかなければならない――仲間が待っている場所へ。

 ――今日も、いなかったな。

 少年は白綿の息を零した。どうしたらいいのかわからない。【彼】がいようがいまいが、構わず中に入ってしまえばいいのかもしれない。けれど、少年を苛む自尊心と劣等感と罰の悪さが少年の足を立ち止まらせている。あの優しそうな、弱者のためにろくにお金も受け取らず診療をしてくれるのだと有名な医者の善意に甘えるなんて許せないでいる自分がいる。戸籍さえあれば払うお金はあるけれど、そのお金だって元は【彼】を犠牲を強いて得たものであって、そのせいで【彼】は日夜問わず働いているのだ。そもそも戸籍を剥奪された自分達には正当に医者にかかる権利さえ本当はないというのに困った時はいつでも【彼】の――ノイデ=トラッドの名を使って、オルファ医師にかかっていいとさえ言われている。これ以上ない程に、流れ者の自分達は恩恵を受けているのに。 

「なんで……なんで、トラッドさん、いつもおいらが行くときいないんだよっ……トラッドさんがいないのに、我が物顔で入れるわけ無いじゃん、そんなこと、できるわけ、ないよ」

 理不尽な悪態を漏らして少年は一層俯いた。おいらはこんなんばっかりだ。善意に甘えて、踏み台にして、自分だけが空を見上げて歌っている。本当に、何度繰り返せば変われるんだろう。少年は走りながら唇を血が滲むほどに噛みしめた。

 息を切らして交叉路へ辿り着くと、既に四人の子供達が――全て漆黒の髪と目に、健康そうな黄色の肌を持っている――銘々が据わるための台を組み立て手作りの不恰好な楽器の手入れをしていた。少年の足音に気付いて、顔をあげて手を振る彼らの表情は、純粋で無邪気だ。少年は無意識に、また唇を噛んでいた。彼らと違う世界が見えるようになったのは、いつからだったろう。仲間にも犠牲を強いていることが、少年を酷く苛んでいた。

「アンジー、また唇噛んだでしょ」

 ぼさぼさとした長い漆黒の髪の少女がため息交じりに言った。少年は俯いて、へら、と笑った。「ごまかさないの」と少女は言う。

「トラッドさん、やっぱりいなかった?」

 猫毛のような長い髪を後ろで一つに縛った少年が、アンジーと呼ばれた少年――アンゼルモの顔を覗き込む。その表情から何かを察したのか、ひだまりのように笑ってアンゼルモの背中を撫でてくれた。

「大丈夫だって。きっとそのうち会えるよ」

「違うんだよ。おいらが、そんなこと気にせずに入れればいいんだ。おいら……なんて臆病ものなんだろ。ピオネのためだって思えば、そんな恥かなぐり捨てなきゃいけないのに」

「まだそんなこと思ってたのかよ」

 一つ結びの少年――ミモザは眉間に皺を寄せた。

「おれ達のこの状況が、恥ずかしいとかまだ思ってんのかよ?」

 その口調はやや粗い。ミモザは俯くばかりのアンゼルモの肩を揺さぶった。

「なあ、だから、おれ達は自由になれて幸せだって、あんなに言ったじゃんか! なんで、おれ達が何も気にしてないのにお前だけが頑なにそう思ってんだよ! それ、おれ達のこと踏みにじってるんだからな! いい加減わかってくれよ。おれ達、アンジーが笑ってるならそれでいいんだってば」

「みんな……お人よしすぎるよ」

 アンゼルモは零して、顔を覆った。

「ほっとけば」

 最初に声をかけた少女――アンネが、短く言った。

「アンジーは変わらないってば。だから、そのためにあたし達がピオネを守るんでしょ」

 アンネは磨き終わったシュルト――宝石の切子形ダイヤモンドカットを模られて弦を編みこまれた民族楽器だ――を光飾に翳して見上げながら、そっけなく言った。

「わたし達、アンジーがのびのびと歌ってるだけで幸せなんだよ?」

 ふわふわとした髪の少女――ミランダが笑った。

「でも、もうピオネ多分産まれちゃうから、なるべく早くお医者さんに診てもらおう?」

 ミランダは諭すように言った。アンゼルモは黙って頷いた。目尻に溜まった涙を拭って顔をあげる。

「ごめん、ちょっと弱気になった。今夜もがんばろうな?」

 アンゼルモが笑うと、四人の子供達は嬉しそうに頷いたのだった。

 持ち場の台に座って、リュッケポケットに詰め込んでいた飴玉を口に放り込み喉を潤すアンゼルモに、さらさらとした髪を短く無造作に切りそろえた少年が――ビスクが、ぽつりと呟いた。

「僕でもお前みたいになるから、心配すんな」

 水筒の中に溜めていた温いお湯をこくりと飲みこんで、アンゼルモはビスクの大樹の幹のような暗い色の瞳を見つめた。

「ほんとに?」

「うん」

 ビスクは無表情のままで頷いた。横笛をそっと撫でて、星空を見上げる。

「僕達、人権ないし。ただでさえトラッドさんに仕事と給料もらって養ってもらってるようなものだし。俺がお前でも、自分のせいで好きなやつの戸籍剥奪されて、しかもそのせいで診療費馬鹿高いし、払えないし、結局善意に甘えなきゃいけないし、ただでさえ【黒馬の民】ってだけで白い目で見られるのにさ。それをトラッドさんのおかげでこの星でも人並みに生きてけるのに、さらにおんぶにだっこってさ、気が引けるじゃん」

「おいらは……」

 アンゼルモはへら、と笑って俯いた。

「結局、そういう色んなことを、今考える必要なんかないことをぐちゃぐちゃ考えて、最初の一歩を踏み出せなくて、それをずっと言い訳してるだけなんだよ。トラッドさんがいないから、中に入れないなんて、言いわけなんだよ。そういう名目を立ててさ、あの中に入らなかったことを、今日もほんとはほっとしてるんだよ。おいらそういうやつなんだ……最低だよ」

「誰でも知らない場所に入るのは怖いよ」

 ビスクは凪いだ声でアンゼルモの顔を覗き込んで、笑った。

「でもさ、アン。ピオネはお前のそう言う狡さも全部分かってるだろ。それでもお前の子供産みたいって言ってくれたじゃん。それ、ちゃんと覚えてる?」

 アンゼルモははっと顔を上げてビスクの顔を見つめた。ビスクは穏やかに笑っていた。

「お前に家族作ってやりたいって言ったのはピオネだぞ。家族が欲しいって言ったのはお前じゃん。お前ら相思相愛じゃないか。お前はピオネのためにオルファさんのとこに行ってんじゃないぞ。自分のためでもない。子供のためだなんてそんなのも偽善だろ。俺達だって子供なのに、しかも母親でもないのに、そんな理由で動けるはずないじゃん。足がすくむのも当たり前だろ。お前は、家族を作りたいって言う夢を叶えるために、ピオネとの約束を守るために毎晩あの場所に足を運ぶんだ。お前の子供を抱きたいって思ってくれてる、ピオネの言葉を信じてやれよ。それって、お前が好きってことじゃん。僕達の好きは信じられなくても、ピオネの好きなら信じられるだろ」

 アンゼルモは捨てられた猫のように体を震わせた。

「ビスク、違うんだよ、おいらは……お前達が信じられないんじゃないんだ。信じてるんだよ。だけど、だけど、自信が、出ないんだ……」

「わかってる」

 目を泳がせるアンゼルモに、ビスクは柔らかく微笑んだ。

「お前昔からそうだもんな。だからさ、見てらんないんだよ。だから僕達はお前に自信持ってほしいの。そいで幸せって笑って欲しいわけ。だってさ、アンの笑った顔見てるとさ、僕達無条件で楽になれるんだよ。理由なんて、そんなんで十分だろ。だからさ、僕達は、ピオネに元気なお前の子供を産んで欲しいんだ。そしたら、きっとアンは変われると思うから」

 ビスクはそう言って、調子を取るため横笛をひゅう、と吹き鳴らした。

「さ、今夜も寒いけど、頑張ろうぜ。トラッドさんも言ってたろ、世界に音楽を取り戻したいってさ。親が子供に子守唄を歌ってやれる世界にさ。この星で、最初に子供に子守唄を歌うのは、アンでなきゃ」

 アンゼルモはビスクの瞼を閉じて横笛を吹く横顔を眺めて、頷いた。

「うん、おいらも……子供に歌ってやりたいんだ。おいらは、嬉しかったから」

 ミモザ、アンネ、ミランダ、ビスクの奏でる和声が静かな雪の音に染み込むように響いて広がる。シプソが――ビスクの双子の妹だ――今夜はここにいないから、今夜はアンゼルモと一緒に旋律を奏でる縦笛の淡い音色はないけれど。旋律のない音の重なりの中で、アンゼルモは息を深く吸い込んで、高く透き通った声を辺りに響かせた。その旋律に呼応するように、光の宝石がきらきらと瞬く。

 夜が、始まる――。



     *



 時たま舌先に転がり込む雪をその熱で溶かしながら、アンゼルモは翌晩も通りで“詞の無い”歌を歌っていた。この歌を作ったのはアンゼルモ自身ではなく、双子のビスクとシプソだ。ビスクが曲を作って、シプソが詞を書いた。けれどこの詞の言葉はまるで意味の通らない言の音だけで成っている。だからこの星で道行く人々は、それが吟だと気づかない。詞の意味を知っているのはシプソと、それを歌うアンゼルモだけだった。他の四人は意味を解読する努力を放棄したので、シプソの使う不思議な創作言語を解さないけれど、好きな響きだと言って笑うのだった。アンゼルモは、歌いながら閉じていた瞼を微かに開いて仲間を眺めた。長い睫毛に降り積もった粉雪が、篩い落とされて雫になる。

 彼らの漆黒の髪には淡雪がまとわりついて、まるで白と黒の斑のようだった。それはまるで、雪景色の中で冬毛に生え変わろうとする初々しい野兎の群れのように見えた。その景色の中にいると、アンゼルモは酷く落ち着くのだった。この雪降る空の下では、自分はでは無いのだ。アンゼルモは無意識に自分の斑色の三つ編みを一本指で玩びながら、再び長い漆黒の睫毛を蝶羽のように畳んで、喉を震わせる。

 アンゼルモは仲間に気づかれないように、溜息を歌に混じらせた。今日も、またオルファ医師に挨拶できなかった。トラッドさんがいなくても、今度こそあの診療所の中に入って、ピオネのことを頼もうとしたのに。【黒馬の民】だからと心無い眼差しを受けるのが怖くて、患者がいないだろう日の入り時を狙ったのに。

 アンゼルモが透かし見た硝子窓の向こう側で、ダルディア医師とその姪と、二人の若者が笑い合っているのがみえた。一人は女の子で、もう一人は男だった。なんだかひどく派手ななりで、しかも窓の外から覗き見ていたアンゼルモを認めてじろりと睨んできたのだ。足が怯んで、気がついたら逃げ出していた。なんて情けない。ピオネのために、早く医者に診せてやらなきゃいけないのに、なんて不甲斐ない。

 そうして幾度目かの溜息を吐息に混じらせた頃、ふと不自然に途切れた縦笛の音に違和感を拭えず、アンゼルモはシプソに――今夜はアンネがピオネを見てくれている――ちらりと視線を寄越した。するとシプソは通りの方を華奢な手で指差したのだった。アンゼルモはその指先を目で追って、びくりと肩を跳ねさせた。

 ――うわ、めっちゃ派手な人がめっちゃ睨んでる……こわいよー……。

 道を行きかう人々の波間で、立ち止まって自分達を見つめている少女と少年がいた。珍しいことだ。雪降る夜に楽器を奏で続ける【黒馬の民】を殊更目に留める人間なんて、この星には殆どいない。関わりたくないと敬遠するのが落ちなのに。アンゼルモ達が夜の演奏を始めた当初こそ、珍しい漆黒の髪と目を持った少年達を物珍しそうに見つめる者も多かったけれど、人々の興味が色褪せてくるにつれ、【黒馬の民】は夜の景色に溶け込んでいったのだった。それを今更見つめてくるなんて、ひょっとしたら旅人なのかもしれない。そう考えながらちらりと男の方を見て、アンゼルモはぎょっとした。あの派手な髪色と目つきの悪さには悲しいことに覚えがある。あれは、先刻ダルディア医師の診療所にいたあの二人なのだと気づいて、アンゼルモは身が縮むような心地がした。掠れたアンゼルモの声に、ミランダとビスクが不思議そうに顔を向けてくる。音感がいい子供達だ。こう言う時だけ、ちょっと疎ましい。

 ――な、なんで睨んでくるんだよ? 黒馬の民が気に入らないの? お、おいら達はトラッドさんにもらった正当な仕事をしてるだけだよ!

 視線がどうにも気になって、何度かアンゼルモは歌詞を間違えた。その度にシプソが、柔らかい髪を後ろに編み込んだ三つ編みを逆立てて――少なくともアンゼルモにはそう見えた――アンゼルモを睨んできた。人のこと言えんのか。それより、出してるおでこに雪積もってるよ、シプソ。

 そうしてちらちらと少年を横目で見ているうちに、ふとアンゼルモは少年の髪もまた斑色だということに気づいたのだった。桃色の髪と金髪の斑なんて、見たことも聞いたこともない。

 ――あいつも、おいらみたいなので斑になったのかな。

 そう思うと、名も知らない少年に、少しだけ親近感が湧いた。結局少年と少女は、十三時の鐘がなるまでずっと黒馬の民の演奏を、聞いていた。こんな雪の夜に、体を動かすことなく立ち止まって、寒かったんじゃないだろうか。去り際の少年の鼻の頭は真っ赤になっていて、目は潤んでいたような気がした。寒かったなら、途中で帰ったってよかったのに。足を止めて耳を傾けてくれただけで、おいら達は十分なんだ。空が白んできた頃、アンゼルモ達は演奏をやめた。蝸牛笛(ホルン)から唇を離して、ミランダは嬉しそうに笑った。

「今日は演奏、聞いてもらえたね! 嬉しい。少しは素敵だと思ってくれたかな?」

「さあ……わからないけど……」

 シプソは考え込むようにぽつりと零した。

「あの人達……特に男の子の方、泣いてたよ」

 シプソの言葉に、中提琴ヴィオラを袋に仕舞いながらミモザが首を傾げた。

「あれかなあ……おれ達が、初めてアンジーの歌声聞いた時さ、感動して泣いちまったじゃんか。それみたいな感じなんかなあ」

「この世界に、音楽を取り戻したい、だっけ? トラッドさんが言ってたことさ」

 ミモザの言葉にビスクが微かに笑った。

「正直、これが音楽だって気づかない人ばかりで諦めてたけど、やっぱり僕達みたいな子供も世界の何処かにはいるってことだよね。だったらこんな寒い中働いてるのも無駄じゃないってわけだ」

「あら、実はこのお仕事に不満をもってたの?」

 ビスクの戯けたような物言いに、ミランダがころころと鈴が鳴るように笑った。

「不満はないけど、寒すぎるよね」

「あはは、それを不満っていうんだよ、ビスクったら」

 仲間達が明るく笑う横で、アンゼルモは赤と青を滲ませていく朝焼けを見つめていた。

 ――そうか、歌を、聞いてくれてたのか。

 また、会えたらいいな、とアンゼルモは誰にも聞こえない程の小さな声で呟いて、ピオネとアンネの待つ宿へと急いだ。



     *



「それって、この辺りでは見かけない人だよね、赤い髪なんてこの星にはいないもの。この星の人の髪は白金色か金髪、それか亜麻色だよ。そんな鮮やかな色の人は、余所の星の人だと思うの」

 肩にかかる長さの亜麻色の髪を櫛で梳かしながら、ピオネは考え込むように言った。

「そうだよ、だから旅人かなって思うんだよ」

 アンゼルモは濡れた長い髪を乾布で拭きながら答えた。

「でもさ、今代の巡礼者が逃亡してから、連合星間の移動って制限されてるはずなんよ」

 アンゼルモの言葉にピオネは眉を潜めた。

「それって……」

「そう。でさ、トラッドさん、また誰かの弁護人になったらしいって噂たってるんよ。最近トラッドさん弁護の仕事は減らしてたって聞いてたのにさ。トラッドさん程の人が弁護しなきゃならないような罪人って、よっぽどなんじゃないかなっておいら思うんだよ。だとしたら、あいつらが、」

「【巡礼者】である可能性もあるってことね」

 ピオネは深く嘆息した。重たそうなお腹を抱えて、アンゼルモの長い髪を櫛で梳かそうとするのを、アンゼルモはやんわりと手で制した。ピオネと手から櫛を取って、ぶちぶちと髪が千切れるのも気にせず乱雑に髪を梳かすアンゼルモに、ピオネは眉根を寄せる。

「もう……ほんとにアンジーは雑なんだから。だからわたしがしたかったのに。そうやっていつも千切れるから、三つ編みだってぼさぼさなんでしょ」

「別に……少々千切れたっていいよ。どうせそのうち生えてくるんだし」

「ねえ、わたし、アンジーの髪って綺麗だし触り心地もいいし、好きなんだからね。あんまり邪険に扱わないでよ」

 アンゼルモは肩をすくめた。ピオネから好きだと言われると、未だにこそばゆいような気持ちになる。自分があまり好きではないこの斑色の髪を、好きだと言ってもらえるのは嬉しくて、どこか複雑だった。

「それで、話の続きは?」

 首を傾げるピオネに、アンゼルモはへら、と気が抜けたように笑った。

「あ……うん……おいらちょっとあの派手斑の男の目つきが苦手でさ……あいついつもダルディア診療所にいるからさ、それでおいらが玄関先をうろうろしてると、睨んでくるから怖くて怖くて……いつも逃げ帰ってしまってさ……ほんとおいらって甲斐性ないよな……」

「それは……玄関先をうろうろしてるのが明らかに怪しげだから警戒しちゃうんじゃないかなあ……それにしても派手斑って酷い渾名だね? じゃあアンジーはなんなの?」

「地味斑?」

「あはははっ」

 ピオネは涙を滲ませて笑った。あまりに体を揺らして笑うので、体に障りがないかとアンゼルモは内心心配になった。

「ああもう……アンジーのそういうとこ好きだよ」

 ピオネは涙を白い指で拭った。アンゼルモは恥ずかしさを押し隠すようにへら、と笑う。

「ね、アンジー。わたし今日は調子がいいんだ。だからもう一緒にご挨拶に行ってね、二人で頭を下げようよ」

 ずい、と身を乗り出して顔を近寄せるピオネの銀色の瞳に見惚れながら、アンゼルモはふわりと悲しげに笑った。

「うん、いつもより顔色はいいと思うよ。まだ、少し蒼いけど……」

「昼間は患者さんが多いだろうし、わたし達のは込み入った話だから、夕方行こう? それまではいつも通り人形劇しておいでよ」

 ふわりと花のように笑うピオネの言葉に、アンゼルモの頬はかっと色づいた。

「し、知ってたの……」

「知ってますともー。毎日毎日可愛い奥さんほっぽって昼間どこうろついてるのかしらって心配になるでしょー? でもその指人形、子供達のために、はめてるんだよね」

 ピオネはアンゼルモの両手をとって親指、人差し指と中指にはめられた色鮮やかな布の指人形を愛おしそうにそっと撫でた。

「おいら、歌しか歌えないしさ、子供ってどんな話が喜ぶのかわからなくて、街の子供達に色々教えてもらってるんだ。まあ、結構駄目出しされるんだけどな」

「気が早いなあ……」

 ピオネは笑った。

 アンゼルモはピオネの伏せられた亜麻色の睫毛を見つめながら、表情を翳らせた。

「ごめん……な。おいらのせいで、戸籍剥奪されて、まともに病院にも行けなくて、夜も一緒にいてやれなくて、花嫁衣裳、も、着せてやれなくて……」

「そんなのはいいって何回も言ってるのに」

 ピオネは苦笑した。

「産むって決めたのはわたしだよ?」

「でも、具合悪いだろ」

「そりゃあね。でも、そんな言うなら早くお医者様に診せてほしいなあ。まだかなあ」

「ごめん……おいらが、不甲斐なくて」

「ううん」

 ピオネはどこか悲しげに笑った。

「だって、アンジーはこの星で生まれ育ったわけじゃないんだもの。怖くても当然だよ。狡かったのは、わたし。アンジーに甘えてたんだよ。ほんとはね、病院に行けるなんて端から思ってなかったんだ。戸籍がないと、駄目だから。だからわたし、ただアンジーが側で見守ってくれてるだけでいいやって甘えてたの。でもアンジー、わたしの戸籍買い戻して、この子の籍も買うために働いてるんでしょ。知ってるよ。だって、もうアンジーの星籍は買えるくらいお金が溜まってるって、聞いたよ、みんなから」

 ピオネはお腹をそっと撫でた。

「だからね、アンジーにばかり嫌な思いさせるのは、もう駄目だと思うんだ。今までは立ち上がれないくらい具合悪かったけど、今日は調子がいいし、わたしも元気な子供が産みたいな。それに、わたしも、死にたくない、し」

 アンゼルモはびくりと肩を震わせた。

「ピオネは……自分が死ぬかもしれないって、ずっと思ってたのか……?」

「あんまり具合が悪くて、そういう時って考えが後ろ向きになっちゃうの。あとは……勘、みたいなものかな。でもね、わたしアンジーを一人にしたくないし、わたしもアンジーとずっと一緒にいたいんだ。だから、お医者さまに、かかりたい。狡くてもね、卑怯なやり方だとしても」

「うん」

 アンゼルモはピオネの肩に額を当てて俯いた。アンゼルモの髪を、ピオネは指で梳くように撫でた。

「日が暮れるまで、居ていい?」

「だめですー。子供達が待ってるんでしょ? アンネが言ってたよ? 『アンジーは何気に子供に好かれてる』って」

 ピオネは口を尖らせて言う。アンゼルモは、はは、と笑った。

「じゃあ、日暮れまで、安静にしててよ」

「うん」

 ピオネの髪を名残惜しく指で梳かして、アンゼルモは緩慢に立ち上がると長い斑色の髪を三つの細い三つ編みに分けた。ぼろぼろの木の扉にぶら下がる黒ずんだ銅の取手を握りしめて深く息を吐くと、アンゼルモは白んだ世界に飛び込んでいった。



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