Episodi 28 吟と歌

「じゃあ、気をつけていってらっしゃいね。ごめんなさいね、私が案内できなくて」

 風邪を引くといけないからとヘロとジゼルを着ぐるみのように膨らませて、ヘイニは申し訳なさそうに笑った。ヘロとジゼルはふかふかの兎の毛皮の襟巻きに顔を埋めながら目を見合わせた。ジゼルはずり落ちそうになった節し糸スラブヤーン織りの星空のような斑模様の帽子を被り直した。淡い月明かりのような髪の毛がふわりと跳ねた様子はまるで猫の毛のようで、ヘロは仄かに笑った。

「おお、そうだ、枇杷酒をちみっと飲んでいきなさい。なあに、酒は百薬の長というだろう。温まるよ」

 ダルディアが手招きをするような仕草で戸棚からするっと茶色の瓶を取り出して満面の笑みを見せた。ヘイニは顔をしかめた。

「おじさんったら! それは度が強すぎるでしょう! もう二つくらい低いのにしてください!」

「……なあーに……度が強い方が体も温まるだろう?」

「お医者様とは思えないわね!」

 ヘイニはぷんぷんと怒りながら戸棚から別の透明な緑色の硝子瓶を取り出した。中身の白く濁った液体をてきぱきと指先程の小さなハリューレコップに注ぐと、そこに暖炉の上で沸かしてあった薬缶のお湯を注ぎ足してアメルスプーンでかき混ぜる。手渡されたそれを、ヘロとジゼルは不思議そうに眺めた。

「米酒、お湯割り」

 ヘイニは少しだけ得意げに胸を張った。

「これも度は強い方なんだけど、度はある程度ないと温まらないし、おじさんが趣味で浸けたその枇杷酒よりはうんと度が低いからましだと思うわ。酔っぱらいすぎてもいけないからそのくらいね。はめは外しすぎないように……なんていうのは野暮ね。楽しんでらっしゃい!」

 ヘイニは花のようにふわりと笑った。

 ヘロとジゼルは顔を見合わせて米酒を口に含む。一気に咽せたジゼルを横目で流し見ながらヘロはこくりと喉を鳴らした。

 喉が焼けそうだ。けれど、大したことないなとヘロは思った。食道を駆け下りていく熱は、自分も何かに体を持っているのだと教えてくれる気がした。その何か、が、例えば、英雄達が星と呼ぶ所謂神様とかいうものなのだろうけれど。

 ――土人形だとしても大差ないよなあ。それとも、俺の感覚がおかしいのかな。

 目の端でジゼルをそっと捉える。ジゼルは眉根を寄せて努めて笑おうと努力していた。無理しなくていいぞ。俺もあんまり美味しくないと思った。

「あっはは。そうね、初めてじゃあそういう反応よね! おいしくないわよねえ」

 ヘイニは鳳仙花が弾けるように笑い出す。ダルディアがまるで内緒ごとを話す子供のようにきらきらとした目でヘロに目配せをする。

「この枇杷酒は甘くて旨いぞお?」

「おじさんったら!」

「じゃあもらおうかな」

「ヘロも悪乗りしないの!」

 ヘイニが怖い顔で顔をぐいと寄せてくる。ダルディアとヘロは肩をすくめてからからと笑った。ジゼルは小さなしゃっくりを漏らしていた。ジゼルの頬がほんのりと桜色に染まった気がして、ヘロはジゼルの顔を覗きこもうと身を屈めて――ふと、粉雪で飾られた窓の外に揺れる影を認める。

「あれ?」

「ん? どうかした?」

 ヘロの白い吐息をヘイニが拾う。けれどヘロは窓の外をもう一度見つめて、首を横に振った。

「誰かが覗いてた気がしたんだけど……気のせいだったみたいだ」

「えっ、そうなの? 急患かしら……どんな人?」

 ヘイニが玄関の扉を開ける。

「いや、多分気のせいだって……帽子被ってるみたいだったけど……顔は見えなかったし」

 ヘロもヘイニの後に続いた。

「あっ、それ、もしかして鼠色の鳥打帽ハンチング被った子じゃない? あの子時々窓から覗いてるんだけど、捕まえようとしてもいつの間にか逃げてるのよね……何か用事があるんだろうけど……ね、ほら」

 ヘイニは雪の絨毯に判子のように押された窓の側の足跡を指差した。ヘロの気持ちは一気に高揚した。

「ゆ、雪だ……」

「えっ、ちょっと、ヘロ」

「ジゼル! 雪だぞ! 馬鹿みたいに積もってるぞ! これ馬鹿じゃないの? すっげえ! 雪が積もってる! 地面に! 足跡つくくらい! 信じらんねえ!」

「……楽しそうね」

 はしゃいでジゼルの手を引くヘロを見つめて、ヘイニはくすりと笑う。ジゼルはヘロに引かれるままにおろおろと目を泳がせ、けれど路に降り積もった雪を見てわかりやすくぱあっと顔を輝かせた。

「すごい! 雪だるまが作れそう……」

「雪だるまを作りたいって言う子を久しぶりに見たわ……楽しそうでよかった」

 ヘイニは肩をすくめた。

「うわ、すげえぞジゼル! 踏んでも滑らない! 柔らかい! ほら! ほらほら!」

「えっ、あっ、お願い、ヘロ、ちょっと待って、あっ……うわあっ……すごい……すごい、すごいっ」

 雪の絨毯に足跡をつけてはしゃぐ二人の子供達。ダルディアとヘイニは顔を見合わせて微笑んだ。

「すっげえ……トゥーレがこれを見たらはしゃいだだろうなあ……」

「今のあなたもとてもはしゃいでるけどね。お友達?」

「うん」

 ヘイニの言葉に、ヘロはどこか寂しげに頷いた。

「最後の言葉があんなんで、あいつ怒ってんだろうなあ……」

 ヘロは小さく息を吐く。その白い綿を、ジゼルが不思議そうに見上げていた。頬が林檎のように熟れている。

「うわっ、何だあれ? 何?」

 落ち込んだかと思うと再び幼子のように顔を輝かせて頭上を見つめるヘロに、ヘイニは吹き出した。

「ああ、あれはね、研磨する前の宝石を使った光飾イルミネーション……この星の夜の灯りよ。魔法で昼間の太陽の光を宝石の中に凝縮して、夜に灯りを灯すように工夫してあるの。ここには他所の星にあるような月がないから……。これね、ノイデが考えて、広めたのよ」

「ノイデが?」

 ヘロはヘイニを見つめた。ヘイニはどこか誇らしげに頷いて、笑った。

 ヘロはもう一度、木々や路や花壇を彩るように華やかに据えられた宝石の光飾を眺めた。鼻がツンと疼いたけれど、ヘロはそれを芯から冷えるようなこの星の夜の寒さのせいだと思うことにした。サタンの心の優しさと弱さがヘロ自身の渇いた心に染み込んで、これ以上考えると泣きたくなってしまいそうだった。

「うう、外套を羽織らずに外に出るのは流石に寒いわ。じゃあ私達はもう中に引っ込むから、あなた達は気をつけてね。ちゃんと十三時には帰ってくるのよ? 鐘が鳴るから」

「はーい」

「はぁーい……」

 ヘロはとなりでふわふわと手を上げたジゼルをじっと見つめた。ジゼルは不思議そうに見つめ返してきた。にこにこと緩んだ笑顔で笑っている。

 ――まさか、ね。あれくらいで……。

 ジゼルはにこにこと幼子のように笑いながらふわふわと舞うように歩きだした。メルディが耳打ちするようにヘロの頬にぴと、と貼り付く。

『ヘロ……あの娘……』

「言うな。認めるな」

『うむ……』

 メルディは思案するように呟いた。

『目は離さないようにするのだぞ』

「わかってる」

 ヘロは頷いて、手綱を握るようにそっとジゼルの手をとった。

 相変わらずジゼルはにこにことヘロを見つめていた。楽しそうだな、と思ったら、ヘロにはそれ以上何も言えなくなってしまった。



     *



『ふむ。実に興味深い。実によくできているぞ。この光の飾りとやら、宝石の周りにぐるりと透明な陣を膜のように敷いているのだ。この膜がの、拡大鏡ルーペのように中央に太陽の光が集中するように複雑に組み立てられておる。そうして太陽光をあつめ、その熱を魔力に変換しておるのだ。この魔方陣そのものが光を灯すための魔法の術式であるから、正しく言うなればこの灯りは太陽の光そのもので輝いているわけではないの』

 メルディは光飾の周りを小鳥のように忙しなく舞いながら嬉々としてヘロに語った。

「へえ……そもそも魔術って自然にある熱量を魔方陣によって変換しているんだっけ。じゃあこの場合は太陽の光が、使ってる自然界の熱量、ってことだ。俺、魔術の専門的なことはあんまりわからねえけど、そう言えば光を灯す魔法って初歩的なやつだよな。俺はメルディを使ってそれをやるけど……魔術師はそれを陣を描くことで灯すんだもんな? この場合は太陽の光の熱量が魔法の発動源として魔方陣の直ぐ側に蓄えられているってわけか」

『その通り。これは実に簡単でかつ無駄のない構成だ。太陽の光であれば、日々の誤差はあれどほぼ永久的にかつ持続的に熱量として補充することができるの。そしてこの魔方陣の発動条件だが、実によく考えたものよ。ヘロ、あれに羽虫が群がっているのが見えるか?』

「ん、あー……まあ、あまり見ていて気持ちのいいものじゃないけど、夜の風物詩と言うか、まあこればっかりは仕方ないよな。虫って光の方に寄ってくるしな」

 ばさばさと舞いながら粉を振り落とす蛾の群れをヘロは苦笑いを浮かべながら見つめた。

『それだよ、ヘロ。虫が光に群がる性質を利用しているのだ。先刻、敷かれている魔方陣は薄い膜だと言ったな? これがなかなか、虫がぶつかる程の僅かな衝撃でも小さな割れ目をきたす程の薄さなのだ。そして魔方陣が削れていくことが、この魔方陣の発動条件、および持続条件となっておる。恐らくは日中の太陽光の収束で僅かに輝くようには出来ているのだよ。宝石だからこそ溜め込んだ太陽光を反射してまるで灯りのように瞬くのだ。それに群がる虫達が、膜を傷つけ、更なる光を発光させている、という訳だ』

「それって……まるで、ゴーシェがやっていたことと同じだ。やっていることは……少し違うかも、だけど」

 ヘロは感嘆しながら光飾を見上げた。

『そうだ。惑星マルスでの夜咲百合はこれよりもっと原始的であったと言えるが、発想の起点はほぼ同じと見てよい』

「でもさ、膜を削ることで魔法が発動してるなら、最終的には陣が消えてしまうんじゃねえの?」

 ヘロはごく素朴な疑問を零す。

『それがの?』

 メルディは待ってましたとばかりに声を弾ませた。

『この膜状の魔方陣、実は幾重にも重なっているのだ。ざっと見たところでは数百億枚の魔方陣の層を薄く重ねて一枚の膜にしておる。実に良く考えたものよ。故に少々削られても替えが効くし、これでは滅多なことでは膜が完全に消えてしまうことなどなかろうよ。実に、実に素晴らしい! この光飾自体、宝石そのものが輝いているわけではないが、陣の放つ光が色とりどりの宝石を煌めかせ、この星の夜を彩っているから美しさと言う点に置いても感服せざるを得ない。実によくできているよ。素晴らしい発明だ。さすがは英雄サタンの申し子だの! この発明の真の素晴らしさを理解している人間のなんと少ないことか! 実に惜しい!』

 メルディははしゃいだようにくるくると螺旋を描いて舞った。ヘロは肩をすくめた。

「申し子って……それ意味違くねえ?」

『何を言うか。英雄サタンの特性を優に継ぎ生まれて来たこの八つ星の宝と言う意味では正しいに決まっている』

 メルディは拗ねたように言った。

「宝、ねえ……ほんとにシクル達はそう言うこと思ってるの?」

『無論だ。我らは人間を許してなどいないがいつだって人間の幸せを願っているよ。英雄達も然り。我らは許してはいなくとも、恨んでなどいない……あれらが如何に哀れな羊であったか、我らが一番知っているよ』

 メルディは穏やかな声でそう言った。

「許さないと恨むことがどう違うんだよ?」

『ならばそなたは両親を恨んでいるのか? それとも許せないのか。あるいはもっと異なる感情か? 考えてもみよ』

 ヘロは俯いた。

「恨んでは……ないかな」

『はて、それはどうだろうか』

 メルディの歌うような言葉にヘロは睨むような眼差しを向ける。

「どういう意味だよ」

『そなたは恨んでいるのだ。父君と、母君をな』

「な……」

 言葉にならない。

「なんで、」

 ヘロはぎり、と歯を食いしばった。

『そなたは両親を許せないのではない。許しているのだ。それは仕方のないことだ、愛情だと、己に言い聞かせて彼らを許している。彼らを許すことがそなた自身の肯定であろう? けれどそなたは恨んでいるのだ。心に仄淡い恨みを抱えて、その仄かな毒に気怠さを覚えながら朦朧と歩いているのがそなたという人間だよ。だがヘロ、我はそれを悪いなどと否定はしていないよ。恨みは根深い感情の一つではあるが、感情であるからこそいつかは溶けていくものだ。そう、この降りしきる淡雪のようにな。そなたはもう自由なのだから』

 メルディは笑うような声を奏でた。ヘロは掌に落ちた雪の粒を見つめた。手袋の毛糸の繊維の上で、雪は震えているようにも見えた。

『そなたは故にこそジゼルと共にあれるのだ。悲観することはない』

「どういうことだよ?」

『愛するものを、愛したいと自分ではわかっているものをこそ恨んでしまう——そんな感情はありふれたようでその実は希有なのだ。それは愛し愛されたいからこその苦しみだ。そなたはウラノスと実に良く似ているよ。この八つ星で、そなたくらいのものだ……普通の暮らし、普通の生まれ、何一つ不自由のないこの世界での普通の幸せに生きながら、まるで凄惨な過去に揉まれたかのような心の傷を己で増やし続けるような狂った子供は、そなたくらいのものだよ。我はそれを可哀想だと思った。だからこそそなたを愛おしく思ったのだ。そなたならきっと、わかってくれるだろう、とな』

「狂ってるだなんて心外だ」

『言う程思ってもいまい?』

「ああ、そうだね。俺は狂ってるって言われても大して傷ついてないし、傷つかないとあなたが想定済みなことだってわかるよ。そう言う意味では俺は変なんだろう。でも、『狂ってる』はやっぱり心外だ。俺だって、悩んでるんだから……ジゼル、あんまり遠くにふらふら行くなってば」

 ヘロは吐き捨てるように息を吐いて、ジゼルの手を引き寄せる。ジゼルはふわふわと綿毛のように歩いていた。

「ねえ、ヘロ。あのお店可愛い」

「あ? ああ……ティーダカップがいっぱい置いてあるな」

 ヘロもジゼルが張り付く硝子の陳列窓の奥を覗き込んだ。ジゼルとヘロの白い息で硝子が曇ってしまう。その曇りに指で馬のような絵を描きながら、ヘロはジゼルを横目で見て嘆息した。

 ——なんでこいつこんなに酔ってるんだ? というかまだ醒めないのかよ……。

「あのね……わたし、ノイデのティーダカップを割っちゃって……」

 ジゼルはしょぼん、としょげたように俯いた。ヘロは眉根を寄せながら今朝のことを思い返す。思えばティーダカップのがしゃんと割れる音で自分も目が覚めたのだったが、あれを割ったのはジゼルと言うよりもノイデ本人のような気もする。

「なあ、それってお前のせいじゃ——」

「何の柄かはわからなかったんだけど、青色のお花の模様だった気がするの……同じもの、あるかなあ」

 桜色の頬の側で震える短い金色の睫毛に雪がそっと舞い降りる。ジゼルが瞬きをするごとに雪の粒は目尻に張り付いて、まるで小さな涙の痕にも見えた。それを見ていたらなんだかたまらなくなって、ヘロはむしゃくしゃしながらがりがりと頭を掻いた。

「あー……寄ってくか」

「うん」

 ジゼルはふわりと嬉しそうに笑って、ふわふわと踊るように深緑色のテロル(ペンキ)で塗られた木の扉を開ける。ちりん、と青銅の小さな鈴が音をたてた。ヘロはその鈴を、複雑な気持ちで見上げた。

 先刻から耳に残る不思議な違和感。

 それがなんなのかヘロには計り兼ねていた。薔薇の匂いがふわりと漂う店の中で、ジゼルが嬉しそうに雑貨を手に取って眺めている。値札なんて見慣れないものがつけられたそれを見つめながら、ヘロは耳を澄ませていた。この店の中では何も聞こえない。この店の中には音色がない。あるのは人のたてる音だけ。何かが擦れ合う音だけ。笑い声だけ。

「ねえ、ヘロ。これなんかどうかな?」

 ジゼルがぱたぱたと幼子のように駆け寄ってくる。足がもつれかけているのが見えて、ヘロはとっさにジゼルの肩を支えた。ジゼルは不思議そうに見上げてくる。ヘロは深く深く溜め息を吐いた。

「お前なあ……酔ってるんだから走らないでくれ……頼むから」

「酔ってる、って?」

 ジゼルは本当にわからないと言った様子で不思議そうに小首を傾げた。こめかみの辺りが疼いて、ヘロは指で押さえた。

「ねえ、これどうかなあ」

 にこにこと微笑みながらジゼルが掲げたそれは、小さな菫の絵が描かれたティーダ(カップ)だった。青紫の可憐な花が、俯くように首をくにゃりと歪めて密やかに咲いている。

「……紫じゃん。さっき、割ったのは青って言ったじゃん」

 自分で意図した以上に突き放すような言い方になって、ヘロは少し戸惑った。

「うん……でもこれがすごく可愛いなあって……私だったらこれが欲しいなあ」

「……お前の欲しいものじゃなくてノイデの欲しいものを選ぶんだろ……」

 ヘロは何度めになるかわからない溜め息をついた。ジゼルは色んな角度からティーダカップを見つめる。

「何、お前、菫好きなの?」

「うん! 可愛いし……それに、わたしの目の色とも似ているから、なんとなく」

 えへへ、とジゼルははにかむように笑う。その笑顔になんだか胸がかき乱されるような心地がして、息苦しさにヘロは目を反らした。

「なんだよ、それ……自分の眼の花とか……そんなのまるで——」

 そこまで言って、何が言いたかったのかヘロは自分でもよくわからなくなってしまった。前髪をぐしゃぐしゃと掻きながら握りしめていると、ジゼルは不思議そうにそれを見て、はっと思い出したかのようにのろのろと自分の服をあちこち弄った。ヘロは眉根を寄せてそれを見つめた。

「……何してんの」

「あの……ヘロにレルピンを返さなきゃと思って……返しそびれてて……」

「別に……今はかえってでこ出してんの寒いし、後でいいよ。で、どうするの? それ買うの?」

 刺々しい言い方になってしまった。

『器の小さい男だの』

「何が」

 謳うように言うメルディをヘロは苦々しい気持ちで見上げる。

『菫と言えば——』

 ふと、メルディが思い出したように呟いた。

「なんだよ」

 メルディはふわふわと漂ってヘロの掌の上にことりと落ちた。ジゼルも不思議そうにメルディを見つめる。

「どうしたの? メルディ」

 ジゼルは優しく目を細めた。

『惑星ウラノスには菫の花が沢山咲いている——と、聞いたことがある』

 ジゼルは目を丸くした。ヘロは息が詰まってしばらく何も言えなかった。何を言ったらいいのかわからなかった。ジゼルも同じだったようで、戸惑うようにその菫色の瞳が揺れていた。

『ウラノスの地図を探すのであれば、あの星は避けては通れまい。いつかは行くことになるだろうから、せめてそれだけでも楽しみにしていれば良い』

 メルディはどこか諭すような、優しい声でそう言った。ジゼルは睫毛を震わせ、胸元で小さくきゅっと手を握りしめると、ふわりと笑った。

「そうね。菫の花畑なんて、見たことがないから、楽しみ」

『どうした? ヘロ。先刻から何も言わないが』

 メルディの気遣うようなその声が、今はまるで自分を揶揄しているように聞こえて、ヘロは苛まれるように苛ついた。

 どうしてしまったのだろう。いつもの俺だったら、もっと——。

 ヘロは頭を振った。

「どうでもいいだろ、俺のことは。で? それにすんの? まあ別にいいんじゃない? でも他にも色々あるだろうからちゃんと見てから決めろよ」

「うん」

 ジゼルは素直に頷いて、陳列棚を覗き込む。胸元にしっかり抱えられた菫の花模様の簡単に割れてしまいそうな程に繊細なティーダカップを見ていたら、無性に苛々して、ヘロは扉の向こう側へ逃げるように避難した。この噎せ返るような薔薇の香りのせいだ。好きな香りだったはずなのに、今はこんなにも厭わしい。瞼の裏側で、ノイデの指から滑り落ちて粉々になったティーダカップが浮かんだ。いつかジゼルがそうなってしまいそうで、どうしようもない不安を覚えていた。どうしてこんなことを考えたのかわからない。あんな、割れてしまうもの、どうして選ぶのかわからない。

 ジゼルは一体どうしたんだろう。

 マルスの星で、ウラノスの話をしたときはあんなにも普通だったのに。今はまるで、まるで……。

 ジゼルと一緒にいながら、ジャクリーヌのことを思い出しては苛まれていた、俺みたいだった。

 当たり前のことじゃないか。だってジゼルは女神なんだから。ノイデが言っていたように、きっと女神はウラノスのことを憎からず想っていたんだろう。だとしたらあんな風に心を乱されたような、辛そうな瞳を揺らすのだって当たり前じゃないか。ノイデだって言ってたじゃないか、ジゼルの本当の想い人は——。

「って、」

 ヘロは震える手で無意識に左の頬の傷痕を撫でていた。

「なんで、俺、傷、ついて、」

 ヘロはぐしゃりと前髪を両の手で握りしめて俯いた。

「ううう、あああ、」

 低く小さな唸り声が漏れていく。苦しい。喉が痛い。苦しい。息が苦しい。

「なんで、なんなんだよ、俺。意味わかんねえよ。なんなんだよ。調子がいいんだよ。なんで、」

 堪えなきゃ。堪えなきゃ。

 これは、また、涙が出てくる熱だ。胃の奥から迫り上がってくるような、哀しみだ。どうしてこんなに哀しいだなんて、苦しいだなんて思っているのかわからない。考えようとすればする程、頭の芯ががんがんと内側から殴られているみたいに疼いた。

 どうしよう。どうしようどうしようどうしよう。

「何も、ない……」

 ヘロの左の目からぽとりと雫が零れる。やがてそれはまるで小雨のようにぽたぽたと零れて、足下の積雪を汚して溶かしてしまう。

 何もない。残っていない。命を放り捨てるみたいに、何もかも切り捨てて、突き放してしまって、もう自分には、何も縋っていいものが残っていない。守りたいと決めたジゼルだって、いつかはいなくなってしまう。きっとウラノスの地図なんか探したら、俺の手の届かないところへ行ってしまう。俺なんか捨てて、ウラノスのところへ行ってしまったらどうしよう。信じられない。こんな少しの間しか一緒にいなくて、どうやって信じられるって言うんだ。なんなんだよ。嬉しかったのかよ。好きだって思われてるんだって、舞い上がったのかよ。また繰り返すのかよ。そうやって、リナのことも傷つけてしまったのに。

 鼓膜を震わせる振動に、ヘロはぼんやりと視線をあげた。

 なんだろう。この震えをよく知っている。知っているのに、わからない。これは、何かの、音色?

 ヘロにはそれが何かわからなかった。詩と生活の音しか知らないのに、その振動が、心地よい波が、音楽だと言うことに気づけるはずがなかった。それでもヘロは、まるで光を求めてふらふらと汚い羽を震わす蛾のようにおぼつかない足取りで瞬く夜の街をふらふらと歩き出した。一歩踏み出すごとにそれは風の音という雑音を削ぎ落として、より鮮明にヘロの耳を撫ぜた。この音には覚えがある。ヘロがいつか吹いた鵞鳥笛オカリナの、ぶつ切りの音の鎖に似ていた。けれどもっと洗練された、まるで滲み溶け合う絵の具の色のような深みのある不思議な調べだ。それは詞をなぞる旋律メロディを彩って着飾らせる糸の織り、幾重にも重ねられた虹のようだった。やがてその中で一際目立つ美しい高音が言葉となってヘロの耳に染み渡った。

 歌だ。

 人々が宝石のように瞬く笑顔で歩き交わす交差路の真ん中で、黒い髪をもつ五人の少年少女が銘々に不思議な形の器を抱え、それを鳴らしていた。ヘロはそれがすべて楽器なのだと即座に理解した。それらが奏でる音が空気に絵の具のように薄く滲んで、夜の空気を飾っている。

 その子供達の真ん中で、一際目立つ容姿の——黒と白の房が交互に混ざり合ったような不思議な髪をもつ少年が、目を閉じて空からしんしんと降りしきる雪を仰ぎながら澄んだ声で歌っていた。けれどそれは、ヘロの良く知る【うた】とはかけ離れていた。それは詩を持たない。自然に融けて滲んでいくような、不思議なほどに滑らかな音の連なりだった。人々はその音色を気にも留めずに過ぎ去っていく。どうしてこんなに心を震わせるような音色に惹かれ立ち止まらないのか、ヘロには理解が出来なかった。

『【音楽】を知らない大衆が、それを【音楽】だと知り得るはずもないだろう』

 いつの間にか追いかけて来ていたメルディがぴとりとヘロの頬に貼り付いた。

「なんだ……いたの」

 ヘロはぼんやりと声を零しながらメルディを撫でる。

『いたの、ではないぞ。探した。本当に、探した』

 メルディの声は震えていた。

「ジゼル、は?」

 ヘロはぼんやりと呟きながら、背中に追いつく小さな雪を踏む音に耳を澄ませて目を閉じた。ジゼルがヘロの背中に額を押し当てて、嘔吐くように荒い呼吸を繰り返す。

「も……っ、こわい、よっ、どうしてっ……急、に……っ」

 ジゼルが縋るようにヘロの肩に手を触れた。

「びっくり、した、も、」

「ごめん」

「ごめん、じゃないよっ」

 ジゼルの荒い声に驚いて振り返ると、ジゼルはぼろぼろと涙をこぼして呻いていた。ジゼルの足下に小雨が降る。雪が少しだけ、融けた。

「ごめん……なんか、頭の中が、ぐちゃぐちゃで」

「そんなの、勝手にいなくなる理由になんかならない!」

 ジゼルは叫んだ。苦しむように顔を覆って肩を震わせる。

 すっかり白く冷えてしまったジゼルの頬をぼんやりと眺めながら、ヘロはそっとジゼルの頬に触れた。まだ、温かい。ジゼルは涙のたまった眼でヘロを見上げた。

 宝石みたいだ、とヘロは思った。

 菫色の宝石。夜空にたくさんの宝石が輝いているけれど、この色に比べたらどれも大したことないな、なんておかしなことを考えていた。

「ごめんな、せっかく気持ち良さそうだったのに」

「それは……わたしが酔っていたことを言っているの? もう、わたしお酒なんて飲まないっ」

 ジゼルは拗ねたように俯いた。

「怖かった……」

「なんで」

「わからない」

 ジゼルはまた一雫涙を零した。

「うん」

 ヘロは微かに笑った。

「俺もよく、わからないや」

 ヘロは睫毛にたまった雪の雫を手の甲で拭った。きめの粗い毛糸が瞼の皮膚を僅かに傷つける。冷えた空気が眼に染みた。

「これ、音楽なのね。民謡かな。綺麗な音色……」

 ジゼルはぐすんと鼻を小さく鳴らして顔を上げると、黒髪の少年達を見つめた。

「そっか……ジゼルは、わかるんだ」

 ヘロは笑った。哀しくて笑った。それが音楽だとすぐにわかったジゼルが、どうしようもなく哀しかった。置いていかれそうな自分が、酷く哀しかった。

「どうしたの?」

 ジゼルが顔を上げる。ヘロは首を振って笑った。

「ううん」

 あやすように。縋るように。手を伸ばして、ジゼルの頭を撫でた。

「これが、音楽なんだね」




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